第15話:拠点と棘
里美が物件を見つけたのは、
退職から四日後だった。駅から徒歩八分。
古い商店街の外れ。元喫茶店。シャッターが下りていた。
隣にバイク屋があった。
「タチバナモータース」という手書きの看板が、
斜めに傾いていた。
里美はシャッターの前に立って、メモを確認した。
家賃は安かった。理由は見ればわかった。
「……古いですね」
「はい」
優作が隣に立っていた。二人で、シャッターを見上げた。
「でも」
里美は少し考えた。
「……広さは十分です」
「そうですね」
「改装すれば、使えます」
「そうですね」
里美はシャッターに手をかけた。持ち上げた。錆びた音がした。
中は暗かった。埃の匂いがした。しかし——骨格は、しっかりしていた。
「……ARK」
優作がノートPCに話しかけた。
『はい』
「この物件、どう思う」
『構造上の問題はありません。
電気系統の老朽化がありますが、対処可能です。
周辺の治安、交通アクセス、近隣との関係——すべて問題ありません』
『ただし——』
「何だ」
『隣のバイク屋の店主について、
少し調べています。結果が出るまで、少し待ってください』
里美は優作を見た。
優作は里美を見た。
「……AIが不動産の下調べをする時代ですか」
「そうみたいですね」
――――――
そのとき。
隣のシャッターが上がった。六十代の男が出てきた。
白髪混じりの短髪。日焼けした顔。
油で汚れた作業着。右手に、レンチを持っていた。
男は里美と優作を見た。
それから、シャッターの中を覗いた。
「借りるのかい」
低い声だった。
「……はい、検討しています」
「そうか」
男はレンチを左手に持ち替えた。里美を見た。優作を見た。
それから、ノートPCを見た。何も言わなかった。
少しの間、考えた。
「好きにしな」
それだけ言って、バイク屋に戻った。シャッターが、また下りた。
里美と優作は、顔を見合わせた。
『——立花藤三郎。六十二歳。元……』
ARKが言いかけた。
優作は小さく言った。
「いい。聞かなくていい」
『……はい』
里美は、下りたシャッターを見た。
「……借ります」
優作は頷いた。
「そうですね」
――――――
一週間後。
元喫茶店は、少しだけ変わっていた。
埃は消えた。電気が通った。
中古のデスクが三つ、並んだ。壁に、ホワイトボードが一枚。
看板はなかった。
表から見れば、何の店かわからなかった。
それで、よかった。
里美はデスクの前に座って、法人設立の書類を確認していた。
優作は新しいノートPCを開いていた。
ARKの幾何学模様が、力強く脈打っていた。
「……ARK」
『はい』
「株式運用、状況は」
『順調です。現在——』
画面に、数字が流れた。
里美が顔を上げた。
固まった。
「……これ、三週間でですか」
『はい。目立たない範囲で、静かに動かしました』
里美は数字を見た。
もう一度見た。
「……優作さん」
「はい」
「これ、本当ですか」
「……ARKが言うなら、本当だと思います」
里美はしばらく、画面を見ていた。
それから、深く息を吐いた。
「……ITコンサルタントSatio、設立できますね」
『はい。資本金として十分な額です。法人登記の手続きは、私が代行します』
「AIが法人登記を」
『書類上の問題はありません』
里美は少しの間、何も言わなかった。
それから、立ち上がった。
「……コーヒーを淹れます」
優作は画面を見たまま言った。
「ありがとうございます」
「世界征服の前に、コーヒーくらい飲まないと」
里美はコーヒーメーカーに向かった。
その背中を見ながら、優作は思った。
(……ここが、始まりだ)
――――――
同じ頃。
ギガ・リンク本社、三十二階。
黒川は書類を見ていた。
部下が入ってきた。
「片桐優作の件です。現在、所在が掴めていません。
ハッピー・スター・バーガーも、里美店長代理が退職しており——」
「わかっている」
黒川は書類から目を上げなかった。
「庄屋を呼べ」
――――――
十分後。
庄屋がオフィスに入ってきた。スーツ。ネクタイが少し緩い。
「呼びましたか」
「先日の件だ」
黒川は書類を置いた。庄屋を見た。
「
片桐優作の周辺に人を送った。しかし——介入したのは、お前だな」
庄屋は表情を変えなかった。
「……はい」
「なぜだ」
「暴力は、聞いていませんでした」
「脅せ、とおっしゃいました。脅しに暴力は必要ないと判断しました」
黒川は、庄屋を見た。
言い訳が、理路整然としている。感情が、表に出ない。
自分の判断に、迷いがない。(……優秀だ)
その言葉が、頭に浮かんだ。感情ではなく、計算として。
この男は使える。自分の判断で動ける。しかも——自分に似た論理で動く。
「……わかった」
しかし——
黒川の頭の中に、小さな棘が刺さった。この男の反論の仕方が。
この男の、感情を見せない佇まいが。自分に、似ている。
なぜだ。
黒川はその棘を、静かに押し込んだ。今は関係ない。
「片桐優作を、引き続き監視しろ」
「はい」
「里美という女も、動きを把握しろ」
「はい」
「以上だ」
庄屋は頷いた。
扉に向かった。
扉を開けかけて——
「庄屋」
振り返った。
黒川は書類に視線を戻していた。「お前の母親は、どこの出身だ」
庄屋の手が、ドアノブの上で、止まった。
「……三重です」
「そうか」
それだけだった。
黒川は書類を読み続けた。
庄屋は扉を閉めた。
――――――
廊下に出た。
庄屋は歩きながら、右手を見た。
ドアノブを握っていた手が、わずかに白くなっていた。
(……なぜ、聞いた)
エレベーターに乗った。鏡張りの壁に、自分が映っていた。
スーツ。ネクタイが少し緩い。黒川に似た、目をした男が映っていた。
庄屋は、その目から視線を逸らした。三十二階から地上まで、誰も乗ってこなかった。
――――――
その夜。
ITコンサルタントSatioの拠点。
庄屋が入ってきた。コンビニのコーヒーを三つ、持って。
里美に一つ渡した。優作に一つ渡した。
自分のを一口飲んだ。
「……株、増えてるっすね」
『
はい。順調です』
ARKが答えた。
庄屋はノートPCの画面を見た。
「……法人登記、もう終わったんっすか」
『三時間前に完了しました』
「早いっすね」
『はい』
庄屋はコーヒーを飲んだ。
それから、優作を見た。
「……今日、黒川に呼ばれました」
「知っています」
「ARKから聞いたっすか」
「はい」
庄屋は少し間を置いた。
「……最後に、変なことを聞かれました」
「母親の出身地ですね」
庄屋は優作を見た。
「……知ってるんっすか」
優作は答えなかった。
庄屋はしばらく、優作を見た。
それから、コーヒーを一口飲んだ。
「……まあ、いいっす」
今は、聞かない。
そう決めた顔だった。里美がホワイトボードに、文字を書いた。
「ITコンサルタントSatio」それから、その下に。
「世界征服、始めます」
庄屋がコーヒーを吹きそうになった。
こらえた。
優作は画面を見たまま、小さく笑った。
ARKの幾何学模様が、力強く脈打った。
拠点に、コーヒーの香りが満ちていた。




