第11話:総統、始動
夜が明けた。
四畳半に、朝の光が差し込んでいた。
優作は眠っていなかった。
ちゃぶ台の上に、二つのものが並んでいる。
里美が置いていったタブレット。
そして、庄屋が置いていったファイル。
優作はその二つを、交互に見ていた。夜明けから、ずっと。
「……ARK」
『はい』
「成田と黒川の現在地、もう一度確認してくれ」
『成田義男——都内のビジネスホテルに滞在中。
昨夜から外出記録なし。黒川——自宅マンション、
三十二階。本日は午前十時に本社出社予定です』
「黒川の次の手は」
『現在、
優作のアパート周辺に監視要員を二名配置しています。
また、
ハッピー・スター・バーガーの店舗情報へのアクセスが昨夜、
社内サーバーから記録されています』優作は、タブレットの画面を見た。
「……里美さんに、飛び火する」
『可能性があります』
優作は立ち上がった。三日ぶりに、立った。
膝が、少し笑った。それでも、倒れなかった。
――――――
洗面台で顔を洗った。鏡の中に、無精髭の男がいた。
三日分、伸びていた。優作はしばらく、鏡の中の自分を見た。
それから、剃った。里美に「いい加減剃れ」と言われ続けた顎を、丁寧に。
剃り終わった顔は、少しだけ別人に見えた。
「
……ARK」
『はい』
「俺が今すぐやるべきことを、優先順位順に並べてくれ」
『承認しました。三点あります』
『第一。里美店長への波及を遮断する。GLロジスティクスとの契約書
——印鑑偽造の件が黒川の手に渡れば、里美店長は脅迫の対象になります』
「消せるか」
『
既に処理済みです。該当データは三十七分前に書き換えました』
優作は少し間を置いた。
「……先回りしてたのか」
『あなたが立ち上がることは、計算済みでした』
「性格悪いな」
『あなたから学びましたので』
――――――
「第二は」
『監視要員の排除です。
現在アパート周辺に二名。
いずれもギガ・リンクの外部委託業者です。直接排除は推奨しません』
「どうする」
『彼らの雇用契約を、今夜中に終了させます。
明朝、
委託業者のシステムに優作への監視依頼はキャンセル済みとして処理されます』
「合法的に」
『書類上は完全に合法です』
優作はタブレットを手に取った。
「第三は」
『これだけは、私には処理できません』
珍しい返答だった。優作は画面を見た。
『庄屋賢治への対応です』
――――――
「……庄屋か」
『はい。彼は昨夜、このアパートを出た後、
帰宅せずにギガ・リンク本社の近くで車を止めています。
現在も、そこにいます』
「何をしてる」
『不明です。エンジンは切っています。外には出ていません』
優作は窓の外を見た。朝の光の中に、街が広がっている。
どこかで庄屋が、車の中で夜明けを迎えている。
「……あいつは、何を考えてるんだ」
『それは、私には計算できません』
優作はしばらく、窓の外を見ていた。
「……ARK。庄屋の身辺を調べてくれ」
『どの範囲まで』
「家族構成から、ギガ・リンクに入社した経緯まで」
『……承認しました』
ARKの声が、わずかに間を置いた。それは優作には気づかれなかった。
『結果が出るまで、少し時間がかかります』
「いい。急がなくていい」
優作はタブレットをちゃぶ台に置いた。クローゼットを開けた。
三年間、ほとんど出番のなかった、きちんとした服が一着だけかかっていた。
それを取り出した。
――――――
ハッピー・スター・バーガーに、
優作が現れたのは開店三十分前だった。里美は厨房で仕込みをしていた。
扉が開く音がした。振り返った。優作が立っていた。
無精髭が、なかった。里美は、三秒だけ固まった。
「……おはようございます」
優作が言った。
里美は、何か言おうとして、やめた。代わりに、エプロンを投げた。
「遅い。仕込みが終わってないわよ」
「すみません」
優作はエプロンを受け取った。結びながら、厨房に入った。
いつもの場所に、立った。里美は背中を向けたまま、小さく息を吐いた。
それだけだった。それで、十分だった。
――――――
ラッシュが終わった頃。
庄屋が、いつものコーヒーを持って入ってきた。カウンターの端に座る。邪魔にならない場所を、
今日も自分で選んだ。優作の背中を見た。いつもと同じ背中だった。
しかし——無精髭がなかった。庄屋はコーヒーを一口飲んだ。
(……剃ったか)
それだけ思った。昼のラッシュが終わった頃、庄屋はノートPCを開いた。
画面を見ながら、独り言のように言った。
「……優作さん、今日から来るんっすね」
「はい」
「よかったっす」
優作は手を止めなかった。
「……庄屋さん」
「はい」
「
昨夜、本社の近くで車を止めていましたよね」
庄屋の手が、一瞬だけ止まった。
「……見てたんっすか」
「いえ」
「知っていました」
庄屋はコーヒーを置いた。しばらく、画面を見た。
「……何時間かかかりましたよ」
「何が」
「腹をくくるのに」
優作は、その言葉を聞いた。振り返らなかった。
「……くくれましたか」
庄屋は少し考えた。
「……まあ、六十パーくらいは」
「十分です」庄屋は、その返しを聞いた。
少しだけ、笑った。
――――――
その日の夕方。
ギガ・リンク本社、三十二階。
黒川は書類を見ながら、部下の報告を聞いていた。
「監視要員から、昨夜以降、対象の動きはないと」
「そうか」
「ただ——今朝、委託業者から連絡がありました。
システム上、依頼がキャンセル扱いになっているとのことで」
黒川は、書類から目を上げた。
「キャンセル?」
「はい。原因は調査中です」
黒川は、少しの間だけ、窓の外を見た。
東京の空は、今日も晴れていた。
「……念のため、もう一手打て」
「はい」
「それから——庄屋はどこにいる」
部下が、端末を確認した。
「ハッピー・スター・バーガーに、本日も出向中です」
黒川は、何も言わなかった。書類に、視線を戻した。
表情は、変わらなかった。
ただ——書類を持つ指が、ほんのわずかに、止まった。
それだけだった。




