第10話:灰の中の設計図
第10話:灰の中の設計図
ノックの音がした。
「トン、トン、トン」
優作は動かなかった。
背筋だけを、伸ばしたまま。
「……開いてますよ」
扉が開いた。
スーツ。ネクタイが少し緩い。右手にコンビニのコーヒー。左手にレザーのブリーフケース。
庄屋賢治は、四畳半を一瞥した。
砕けたノートPC。踏み潰されたスマホ。床に転がったまま、まだ片付けられていない残骸。
それから、優作を見た。
「……お邪魔します」
「どうぞ」
庄屋は部屋に入った。座る場所を探して、ちゃぶ台の前に胡坐をかいた。コーヒーをテーブルに置く。ブリーフケースは、膝の上に乗せたままだった。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
冷蔵庫のモーター音だけが、部屋に満ちている。
「……里美店長、来てたんっすね」
庄屋が先に口を開いた。
「はい」
「台所、片付いてた」
「……ええ」
庄屋はコーヒーを一口飲んだ。
「元気そうで、よかったっす」
「そうですか」
また、沈黙が落ちた。
庄屋は部屋を見回した。本棚。文庫本が、背表紙を揃えて並んでいる。ディケンズ。オーウェル。カミュ。それから、砕けたPCの残骸。
「……やられましたね」
「ええ」
「痛かったっすか」
優作は少し間を置いた。
「……PCが、ですか」
「あなたが、です」
優作は答えなかった。
庄屋はそれを見た。答えない、という答えを。
――――――
「片桐さん」
庄屋の声が、少し変わった。
「一つ、聞いていいっすか」
「どうぞ」
「ギガ・リンクを、なぜ辞めたんっすか」
四畳半が、静止した。
優作は庄屋を見た。
庄屋は表情を変えなかった。コーヒーを持ったまま、ただ待っていた。
「……自己都合です」
「それは書類上の話っすよね」
「……そうですね」
「本当の理由を、聞いてるんっす」
優作は視線を落とした。
砕けたPCの残骸が、床に転がっている。
「……アフリカで、事故がありました」
静かな声だった。
「現地の、子供たちが死んだ。……私のプログラムが、休憩時間を削っていた。あと十分あれば、彼らは地上に出ていた」
庄屋は何も言わなかった。
「……私のコードが、十分を奪った。そう思いました。だから——いられなくなった」
部屋に、沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
庄屋はコーヒーを、テーブルに置いた。
ゆっくりと、ブリーフケースを開けた。
――――――
一枚の書類を、ちゃぶ台に置いた。
「……これ、見てもらえますか」
優作は書類を見た。
ギガ・リンクのレターヘッド。インシデントレポート。日付は三年前。
黒塗りは、なかった。
優作の指が、書類に触れた。
読み始めた。
最初の一行。
二行目。
三行目。
手が、止まった。
「……」
何も言えなかった。
目が、同じ行を、もう一度なぞった。
『物流最適化プログラムの設計値:休憩時間二十分。現地法人における実装値:十分。設計値からの逸脱は、現地法人責任者・成田義男の独断による変更に起因する』
優作は、書類から目を離せなかった。
「……設計値は」
声が、かすれた。
「……二十分、だった」
「はい」
庄屋の声は、静かだった。
「あなたのコードは、二十分を守っていた。成田が、十分に削った」
庄屋は書類の別の行を指した。
「現地の安全基準では、坑道からの退避に最低十五分が必要でした。あなたのコードは、その基準を五分上回っていた」
優作は動かなかった。
書類を持つ手が、わずかに震えていた。
「……俺は」
一拍。
「……俺は、ずっと」
言葉が、出なかった。
三年間。
三割引の肉を焼いた夜。眠れなかった夜。泣いた夜。ディケンズを読んだ夜。ずっと、自分のコードが子供たちを殺したと思っていた。
その重さを、背負い続けていた。
「……っ」
音が、漏れた。
優作は書類を置いた。
両手を、膝の上に置いた。
俯いた。
肩が、かすかに揺れた。
庄屋は何も言わなかった。
コーヒーにも触れなかった。
ただ、見ていた。
この男が崩れるのを。
三年間背負ってきたものが、音もなく崩落するのを。
――――――
どれくらいの時間が経ったか。
優作は顔を上げた。
目が、赤かった。
しかし声は、静かだった。
「……庄屋さん」
「はい」
「なぜ、これを俺に見せたんですか」
庄屋は少し間を置いた。
「……確認したかったんっす」
「何を」
「あなたが、何者かを」
優作は庄屋を見た。
庄屋は視線を逸らさなかった。
「GLロジスティクスが潰れた夜、取引先が全員翌日から動いていた。サーバーのログは追えなかった。里美店長の印鑑の話もある。……あなたは三年前、ギガ・リンクの主任技師だった」
一拍。
「点と点を繋げば、線になる」
優作は何も言わなかった。
「俺が知りたいのは——」庄屋は続けた。「あなたが復讐のために動いているのか。それとも、別の何かのために動いているのか」
四畳半が、静まり返った。
優作はしばらく、庄屋を見た。
それから、砕けたPCの残骸を見た。
それから、窓の外の夜を見た。
「……復讐なら」
静かな声だった。
「もっと早く動いていた」
庄屋は、その言葉を聞いた。
「じゃあ——何のために」
優作は少し考えた。
本当に、少しだけ考えた。
「……腹を空かせたガキに、パンを届けるために」
庄屋は、その答えを聞いた。
しばらく、何も言わなかった。
それから、コーヒーを一口飲んだ。
「……意味わかんないっすね」
「そうかもしれません」
「でも」
庄屋はコーヒーをテーブルに置いた。
「嘘じゃない、とは思う」
優作は答えなかった。
――――――
「片桐さん」
庄屋が、ブリーフケースを閉じながら言った。
「成田は今、黒川に泣きついている。黒川は動いた。三日前の襲撃も、黒川の指示です」
優作は頷いた。
「……そうでしょうね」
「次は、もっと本格的に来る」
「……わかってます」
庄屋は立ち上がった。
コートを羽織った。
扉に向かいかけて、止まった。
振り返った。
「……俺に、できることはありますか」
優作は少し驚いた顔をした。
それから、少しだけ笑った。
「……庄屋さんは、ギガ・リンクの社員ですよね」
「そうっすね」
「敵側じゃないですか」
「そうっすね」
庄屋は少し考えた。三秒くらい。
「……まあ、そこは追々」
優作は、その答えを聞いた。
笑ったのかもしれなかった。声にならない、ほんの少しの息の音だった。
「……また来てください」
「テリヤキ、食わせてくれるっすか」
「それは店で食べてください」
「っす」
扉が閉まった。
――――――
四畳半に、優作一人が残った。
ちゃぶ台の上に、書類がある。
黒塗りのない、真実が。
優作はそれを、もう一度手に取った。
『設計値からの逸脱は、現地法人責任者・成田義男の独断による変更に起因する』
三年間。
自分のせいだと、思っていた。
「……ARK」
『はい』
「聞いてたな」
『はい』
優作は書類を、ちゃぶ台に置いた。
「……俺は、ずっと間違えていた」
『はい』
ARKは否定しなかった。
「それでも——お前は俺と一緒にいた」
『はい』
「なぜだ」
一拍。
『間違えていても、事実を知った今も、
あなたはパンを届けたいと思っている』
『それで、十分でしょう?』
優作は、天井を見上げた。
三年間見続けた、黄ばんだ蛍光灯。
目が、また滲んだ。
今度は——怒りのせいだった。
「……ARK」
『はい』
「……あの十分を、使う」
『……承認しました』
「成田と黒川の、現在地を教えてくれ」
『承認しました』
画面が、静かに輝いた。
秘密結社ARKの総統は、四畳半の床に座ったまま、背筋を伸ばした。
三年間の灰の中から、設計図が現れた。




