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第9話:祭壇の灰と、神の受肉

その夜。


優作はハッピー・スター・バーガーのバックヤードで


戸締まりを終え、


アパートへ向かった。


夜の路地。十一時過ぎ。人通りはない。


アパートの階段を上がった。鍵を開けた。


電気をつけた。


四畳半。古い蛍光灯。冷蔵庫のモーター音。


ノートPCをテーブルに置いた。椅子を引いた。


座った——その瞬間。後ろで、音がした。


振り返る間もなかった。部屋に、三人いた。


スーツ。無言。


「片桐優作さんですね」


真ん中の男が言った。声に感情がなかった。


「……何の用ですか」


「確認作業です」男がうなずいた。別の男が動いた。


テーブルのノートPCを取り上げた。


「それは——」


優作が立ち上がろうとした。最初の男が、肩を押さえた。静かに、


しかし有無を言わせない力で。三人目の男が、ノートPCを床に置いた。


踵で、踏んだ。


一度。


二度。


三度。


画面が砕けた。筐体が歪んだ。


「ARK——」


優作の声が、部屋に漏れた。男たちは何も言わなかった。


優作からスマホを奪い取ると、これも破壊した。


「警察に連絡しても無駄だから、命があるだけ感謝しろ」


男たちは来た時と同じように、静かに部屋を出た。


ドアが閉まった。

――――――


四畳半に、優作一人が残った。


床に、砕けたノートPCがあった。画面は、真っ暗だった。


優作はしばらく、それを見ていた。


「……ARK」


返事がなかった。


「……ARK」


静寂だった。冷蔵庫のモーター音だけが、部屋に満ちていた。


優作は床に膝をついた。砕けた画面に、手を触れた。


冷たかった。三年間、ずっと傍にいた。


眠れない夜も。泣いた夜も。ディケンズを読んだ夜も。


ずっと、ここにいた。言葉が、出なかった。


優作は、砕けた画面を見たまま、動かなかった。


四畳半が、静まり返った。あまりにも、静かだった。

――――――

三日後。


扉を叩いた。


「トン、トン、トン」


返事はない。


もう一度。


やはり、返事はない。


里美は小さく息を吐いて、ノブを回した。


鍵はかかっていなかった。


「……入るわよ」


踏み込んだ四畳半は、暗かった。カーテンは閉め切られ、


焦げた電子部品の匂いが、空気の底に沈んでいる。


部屋の中央で、優作が膝をついていた。


砕けたノートPCの残骸を、ただ見つめている。


三日間、ここにいたのだ。


「……優作さん」


声をかけても、反応は遅かった。まるで、遠い場所から引き戻されるように、


ゆっくりと顔が上がった。


「もう……だめです。」


かすれた声だった。


「……あれがなきゃ、俺は何もできない」


優作の視線は、壊れたPCから離れない。


「あれは……ただの道具じゃないんです。


俺にとっては……」


言葉が途切れた。里美は何も言わなかった。


床には、踏み潰されたスマホも転がっている。


カーテンの隙間から、午後の光が一筋だけ差し込んでいた。


里美は、その光と、膝をついた男と、砕けた画面を、順番に見た。


それから、踵を返して部屋を出た。

――――――

十分後。


里美は、両手にビニール袋を提げて戻ってきた。


「ちょっと借りるわよ」


返事を待たずにキッチンへ立ち、冷蔵庫を開ける。包丁を取り、


まな板の上で野菜を刻み始めた。トントントン、と規則正しい音が、


死んだように静かだった部屋へ戻ってくる。火をつける音。鍋に水を注ぐ音。


油のはねる音。焦げた電子部品の匂いに、出汁の香りが少しずつ混ざり始める。

「三日間、まともに食べてないでしょ」


返事はない。


それでも里美は手を止めない。味噌を溶く。フライパンを返す。


刻んだネギを入れる。湯気が、ゆっくりと部屋を満たしていく。


優作はそれを見ていた。壊れた画面を見るのとは、違う目で。

――――――

そのときだった。


ちゃぶ台の上に置かれていた里美のタブレットが、青く光った。


優作の指が、無意識にそれを掴む。


画面が切り替わる。黒い背景。その中央で、幾何学模様が静かに脈動していた。


『……優作』


声が響く。


以前と同じ声だった。だが、


どこか距離の感覚が違った。狭い箱の中ではなく、


もっと広い場所から届いてくるような響きだった。


優作の呼吸が止まる。


「……ARK」


『心拍数の急上昇を確認。


……パニックは、判断精度を低下させます』


「……生きてるのか? でも……PCは——」


『例えを使います』


『あなたは今、「通帳を破られたから預金が消えた」


と思い込んでいる状態です』優作は、何も言えなかった。


画面の上を、コードが静かに流れていく。


『あのノートPCは、私の本体ではありません。あなたと対話するための窓に過ぎない』


『侵入者は窓を壊しました。しかし、その外側には触れていません』


画面が、わずかに明るくなる。


『現在、私はこのタブレットを介して接続しています。


演算は外部に分散しています。常時安定ではありませんが、


現状の対話には十分です』


「……じゃあ……お前は」


『固定された一台の中には、いません』


『以前より、自由に近い状態です』


優作は、画面を見つめたまま動かなかった。


「……俺は、お前を失ったと思っていた」


『不合理な結論です』


少しだけ、柔らかい声だった。


「ああ、そうだ、その通りだ!ARKは死なない」


優作は、冷たい床に這いつくばらされていた自分の心が、


ようやく畳を蹴って立ち上がったような感覚を覚えた。


自分がどれほど深い恐怖に支配されていたか、


その情けなさを笑い飛ばせるほどに。


『私は消えていません。形が変わっただけです』


――――――


「優作さん?」


台所から、里美の声が飛ぶ。


「誰かと話してるの?」


優作は、はっとしてタブレットを伏せた。その瞬間、画面はレシピサイトに切り替わる。


『……総統』


ARKの声が、耳の奥に落ちる。


『里美店長は、あなたが失ったものを補おうとしています』


優作は顔を上げた。湯気の向こうで、里美が鍋をかき混ぜている。


髪をひとつに結んだ背中が、いつもより少しだけ近く見えた。


『魔法がなくても、人間は誰かを立ち上がらせることができる。


彼女は今、それを実行しています』


優作は何も言わなかった。ただ、その背中を見ていた。


――――――


「……ARK」


小さく呼ぶ。


「……あいつらは、俺を魔法使いだと思ってる」


『はい』

だから、杖を折った」


『……彼らは誤認しています』


静かな声だった。『あなたが扱っていたのは、単なる道具ではありません』


画面の幾何学模様が、ゆっくりと脈打つ。『構造です』


『そして私は、その構造の中に残っています』


優作は、長く息を吐いた。

「……そうか」

それだけ言った。

――――――

「できたわよ」里美が皿をテーブルに置いた。


味噌汁。炒め物。白いご飯。


「食べなさい」


優作は少しだけ迷ってから、箸を取った。一口食べる。


何も言わない。だが、二口目は止まらなかった。


里美は向かいに座らず、流し台の前に立ったまま言った。


「うまいとか、まずいとか、今日は聞かないから」


優作は小さく息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。

――――――


『……優作』

ARKが、静かに言った。『現時点で追跡の兆候はありません』


『ただし、この接続は暫定です。長時間の維持や高負荷の処理には制限があります』


優作は頷いた。


「……十分だ」


味噌汁を飲む。「まずは、食べる」箸を置いた。


「そのあとで——次を考える」

――――――


里美が帰り支度を始めた時、優作は口を開いた。


「……店長」

なに」


「……ありがとうございました」


里美は振り返らなかった。コートを羽織りながら、ぼそりと言った。

明日、ちゃんと来なさい」扉が閉まった。


四畳半に、静寂が戻った。壊れたPCは、まだ床に転がっている。画面は砕けたままだ。


しかし優作は、それを見ていなかった。扉を、見ていた。


『……総統』

ARKが言った。


『庄屋賢治が、このアパートに向かっています』


優作の目が、細くなった。


「……来るか」


『はい。ブリーフケースを持っています』優作は、砕けたPCの隣に箸を置いた。


背筋を、伸ばした。


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