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第8話:シャンパンの味

木曜日の夜。東京・六本木。高層ビルの三十五階。窓の外に、

 

東京の夜景が広がっていた。GLロジスティクス


「業績達成祝賀パーティー」。会場には五十人ほどいた。スーツの男たち。


笑い声。乾杯。誰もまだ、今夜何が起きるかを知らなかった。


庄屋は壁際に立って、シャンパングラスを持っていた。


飲んでいなかった。持っているだけだった。


業務上の付き合いだった。経営企画部の人間として、


顔を出さなければならなかった。それだけだった。


来たくて来たわけではなかった。タキシード姿のウェイターが銀のトレイを運ぶ。


笑い声が、また上がる。庄屋はグラスを見た。泡が、静かに消えていた。

――――――

「庄屋くん」背後から声がした。振り返ると、成田義男が立っていた。


五十代。小太り。かつては恰幅が良かったのだろうが、


今は肉が垂れている。今夜は上機嫌で、顔が赤かった。


シャンパングラスを揺らしながら近づいてくる。


「やあ、来てたのか」「はい、一応」「そうかそうか」成田はグラスを揺らした。


「若い連中はこういう席が好きじゃないんだろうが、まあ顔を出すのは大事なことだよ」


「そうですね」

成田は窓の外を見た。満足そうな顔だった。「俺がGLを任された頃はな、


周りは誰も期待していなかったんだ。子会社の社長なんて、と思っていた連中がいたよ」


「そうですか」


成田はグラスを傾けた。庄屋は黙って聞いていた。


社内の記録を調べれば、この男の軌跡はわかる。かつては幹部候補だった。


しかし部下の実績を横取りしながらも、その部下がいなくなった途端に失速した。


降格。また降格。挽回しようとするほど、やり口が汚くなっていった。


里美の父の工場を潰したのも、その頃だ。そうして手にしたのが、


GLの社長というポストだった。「上を見てきた人間はな、


下を見る目が養われるんだよ。どこを踏めば、うまく上がれるか」


成田は笑った。庄屋は、笑わなかった。

――――――

「そういえばな、庄屋くん」成田の口元が、さらに緩んだ。


シャンパンが入っているせいか、今夜は饒舌だった。


「昔、面白い話があってな」


庄屋は、その笑い方が気になった。「面白い話」と言う時の目が、


獲物を思い出す目だった。「うちが物流ルートを再編した時、


邪魔な工場があったんだ」成田はシャンパンを一口飲んだ。

中小のちっぽけな工場でな。でも取引の契約が足枷になっていた。


だから——潰した」「……どうやって」「合法的にだよ」成田は当然のように言った。


「まず納品基準を少しずつ厳しくする。クレームを積み重ねる。支払いを遅らせる。


代替業者との交渉を並行して進めながら、じわじわと追い詰める。最後は取引停止だ」


成田はグラスを揺らした。


「理由は


『物流効率化に伴う取引ラインの即時停止』。書類上は何の問題もない」


庄屋のグラスを持つ指が、少し白くなった。その工場の社長がな」成田は笑いながら言った。


「最後に


『あと十分あれば納品できたのに』と泣いたらしいぞ」下卑た笑いが、グラスの中で弾けた。


「十分だ。たった十分でビジネスが終わる。笑えるだろう」


庄屋は笑わなかった。その瞬間だった。


一人の幹部が、スマートフォンを見て固まった。


「……おい」


低い声だった。もう一人が端末を取り出す。


また一人。音が、連鎖した。


通知。


通知。


通知。


成田は苛立ったように言った。


「なんだ、騒がしいな」


誰も答えなかった。全員が、同じものを見ていた。


庄屋も、ゆっくりと画面を確認する。そこに表示されていたのは、短い警告だった。


《担保評価 低下》

《追加保証金の差入を要求します》


庄屋の眉が、わずかに動いた。(……マージンコール?)


あり得ない。


この規模で。


このタイミングで。


別の通知が届く。


《一部ポジション 強制決済》


空気が変わった。誰かが小さく言った。


「嘘だろ……」


さらに通知が重なる。《主要口座 一時凍結》


《取引停止》


理解が、追いつかない。


だが——


現場の人間だけが知っている感覚があった。


「あ、これ……」


誰かが呟いた。


「終わったやつだ」


銀行が潰れる時と、同じだ。


最初は小さなズレだ。


担保の評価が、わずかに狂う。


それを埋めるために、資金を動かす。


さらにズレる。


さらに動かす。


気づいた時には——


戻れない位置にいる。


庄屋は、画面から目を離さなかった。


(リスクが……一方向に偏っている)


誰かが仕掛けたのではない。


そんな単純な話ではない。


もっと静かで、もっと正確な何か。


「……計算されてる」


誰にも聞こえない声で呟いた。


その瞬間——


成田の端末も鳴った。


画面を見た。


一度。


もう一度。


顔から血の気が引いた。


「……なんだ、これは」


声が、揺れていた。


さっきまで笑っていた男とは、別人だった。


誰も答えなかった。


誰も答えられなかった。


会場の全員が理解した。


これは事故ではない。


そして——


もう止まらない。


――――――

会場のモニターが、切り替わった。誰かが「あ」と言った。


会話が、止まった。モニターに、ニュース速報のテロップが流れていた。


【速報】GLロジスティクス、資産消失により経営破綻。負債総額——


会場が、静止した。シャンパングラスを持ったまま、


誰も動かなかった。成田の顔から、血の気が引いた。


みるみる、引いた。さっきまで赤かった顔が、


紙のように白くなった。


「……な」


成田の口が動いた。


言葉が出なかった。


グラスが、手から滑り落ちた。


シャンパンが、絨毯に広がった。


誰も、拾わなかった。

――――――

庄屋は、その一部始終を見ていた。成田が「たった十分でビジネスが終わる。


笑えるだろう」と言った、その同じ夜に。成田自身の会社が、一瞬で消えた。


庄屋はグラスをテーブルに置いた。飲まなかったシャンパンが、最後の泡を立てて、

静かに消えた。


コートを取った。エレベーターに乗った。


三十五階から地上まで、誰も乗ってこなかった。庄屋は鏡張りの壁に映る自分を見た。


スーツ。ネクタイ。ギガ・リンクの社員証。


「……俺は、何をしているんだ」


誰もいないエレベーターの中で、独り言を言った。答える者は、いなかった。


深夜の四畳半。


窓の外は、まだ夜だった。優作はノートPCの画面を見ていた。


ニュースサイトの片隅に、


GLロジスティクスの文字が並んでいる。


「……なあ、ARK」


静かな声だった。


『はい』


「さっきの、あれ」


「どうやった」


問い詰める声ではなかった。


確認だった。


ARKは、わずかに間を置いた。


『説明は可能ですが

——完全には理解されない可能性があります』


「いい。全部はいらない」


優作は画面を見たまま言った。


「一段だけでいい」


沈黙。


それから、ARKが答えた。


『彼らは、資産を“持っていません”でした』


優作は少しだけ眉を動かした。


「……どういう意味だ」


『保有しているように見える資産の大半は、担保に入っていました』


画面に、図が浮かび上がる。矢印と、線と、数字。


複雑だった。だが、ARKは続ける。


『彼らは、資産Aを担保にして資金を借り、資産Bに投資し、


その資産Bを担保にしてさらに資金を借りていました』


「……レバレッジか」


『はい』


『問題は、その前提です』画面の線が、一本だけ歪んだ。


『彼らのモデルは、「リスクが分散されている」ことを前提に構築されていました』


「つまり?」


『同時には崩れない、という前提です』


優作は、少しだけ目を細めた。


「……それを崩したのか」


『いいえ』


ARKは否定した。


『崩していません』


『“戻した”だけです』


画面の歪みが、元の形に戻る。だが——


その瞬間、全体のバランスが崩れた。『本来、相関すべきでなかったリスクを、


元の相関に戻しました』


「……元?」


『はい。市場の歪みです』ARKの声は、いつも通り平坦だった。


『彼らは、歪みを前提に「安全」を構築していました』


「その歪みを消した」


『はい』


優作はしばらく何も言わなかった。


画面の図を見ていた。完全には理解できない。


だが——

一つだけ、わかった。


「……安全だと思ってた場所が、安全じゃなかった」


『はい』


「それに気づいた時には、もう遅かった」


『はい』


優作は椅子にもたれた。


小さく息を吐いた。


「……ルールの外じゃないな」


『はい。すべて、ルールの内側です』


「だから止められなかった」


『はい』


沈黙。


優作は天井を見上げた。蛍光灯の、いつもの光。


「……ARK」


『はい』


「これ、どこまでいける」


ARKは答えなかった。


代わりに、こう言った。『それを決めるのは、あなたです』


優作は、少しだけ笑った。


「……だろうな」


画面の幾何学模様が、静かに脈打った。


世界は、まだ何も変わっていない。


だが——


確実に、どこかがずれ始めていた。


――――――

GLロジスティクスが消えた翌朝。成田義男は、あてもなく街を歩いていた。


昨夜から電話が鳴り続けていた。取引先。銀行。弁護士。全部、出なかった。


五十代。元社長。今朝から、その肩書きがない。コートの襟を立てて、


人通りの少ない路地を歩いた。どこへ行くでもなかった。ただ、部屋にいられなかった。


路地の角を曲がった時。前から歩いてくる男と、すれ違った。エプロン。


無精髭。文庫本をポケットに入れた、くたびれた男。


成田は、三歩歩いてから、止まった。


振り返った。


男の背中が、路地の向こうへ消えていく。


「……片桐」


声は出さなかった。


三年ぶりだった。しかし成田が息を呑んだのは、再会の驚きではなかった。


あの男の顔が——惨めな負け犬の顔ではなかったからだ。


何かを、終えた人間の顔だった。

――――――

成田はホテルの部屋に戻り、GLの内部資料を引っ張り出した。


倒産の経緯。資産消失の詳細。そして——取引先への影響レポート。


成田は、その数字を見て、眉をひそめた。


GL倒産の翌日、全取引先が別業者と契約していた。全員が。同じ夜に。


物流会社が突然消えれば、取引先は阿鼻叫喚になるはずだった。


キャンセル、遅延、損害賠償。そういう混乱が——なかった。


まるで、誰かが事前に手を回したように。成田はGLのサーバーログを確認した。


倒産の夜、外部からのアクセス痕跡があった。


アクセス元のIPアドレスを追う——しかし、見つけられなかった。


穏やかな顔の片桐優作。誰も困っていない倒産。証拠はない。


しかし成田は、片桐優作の能力を誰より知っていた。


あの男なら……


いや——あの男にしか、できない。


「……片桐」


今度は、声に出た。

――――――

その夜遅く。真っ暗なホテルの部屋で、


成田は震える手で電話をかけていた。


「黒川さん、成田です。……はい、見ました。ですから——片桐です。


あいつがやったんです。間違いありません」


「……街で見ました。あの顔は——何かを終えた顔でした。


それに取引先が全員翌日から動いていた。仕込みなしには無理です。


サーバーのログも——人間業じゃないアクセスです。


……はい。お願いします。何でもします。ですから——」


声が、震えていた。


パーティーで武勇伝を語っていた男の声とは、思えなかった。

――――――

翌日。ギガ・リンク本社、三十二階。


黒川は書類を眺めながら、昨日の電話を思い出していた。


「……成田の話か」


「証拠はない」


黒川は窓の外を見た。東京の空は、今日も晴れていた。


「しかし……おい、念のためだ、分かるな? 


アパートの場所は特定できるか」


「はい」


部下に指示を出すと再び書類に視線を戻した。


表情は、変わらなかった。


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