プロローグの続き
レインは無言のまま手を伸ばし、床に落ちた革紙を拾い上げた。
そこに記されていたのは、インクによる文字ではなかった。刃物で直接刻み込まれたような、歪で、怨念めいた不気味な彫り傷だ。しかもその文字体系は、古代語でも、魔族の使う暗号でもない。
——しかし、レインには読めた。
なぜだか分からない。ただ、その刻印を目にした瞬間、直接脳の裏側に意味が流れ込んできたのだ。
『次の魔王は、王都にいる』
「……ッ!?」
レインの息が詰まる。
琥珀色の瞳が大きく見開かれ、手にしていた革紙が微かに震えた。
「言葉が出ないかしら?」
エルシアは満足そうに口元を僅かに歪めた。
「可笑しいわよね。王国の歴史書によれば、初代魔王は『血嗣』という災害に分かつことで力を失い、討伐され続けているはず。それなのに、血嗣を討伐したはずの勇者が、最期に残した言葉が『次の魔王は王都にいる』だなんて」
「……レオンは、狂っていた。血嗣との戦いの中で、精神を苛まれ……」
「言い訳としては完璧ね。王国が民に説明する時にも、きっとそう言うでしょう」
エルシアはレインの言葉を冷酷に遮った。
「でも、貴方は知っているはずよ、レイン。彼が狂ってなんていなかったことを。彼が正気だったからこそ……貴方は彼の望み通り、その首を刎ねたんでしょう?」
「……!」
レインの手が強く握りしめられ、革紙にシワが寄る。
そうだ。
あの日、血嗣の討伐を果たした直後の最果ての廃墟で。返り血に塗れた勇者レオンは、正気そのものの静かな瞳でレインを見つめ、こう乞うたのだ。
『俺を殺してくれ、レイン。俺が……俺でなくなってしまう前に』
『頼む。首を斬れ。俺の心臓を突け。生き証人として、お前だけは生き残れ』
レインはその懇願に応じた。
近衛騎士としての忠誠でもなく、親友としての情でもなく——ただ、そうしなければ「世界が壊れる」という本能的な恐怖に突き動かされて、剣を振るった。
裁判でレインは何も弁明しなかった。
「自分が勇者を殺した」という事実だけを認め、死刑判決を受け入れた。それが、死に際のレオンと交わした無言の約束だと信じていたからだ。
しかし、この遺書は何だ。
「次の魔王は、王都にいる」とはどういう意味だ。
「貴方が殺した勇者は、最後の最後に何を見たのかしらね」
エルシアは鉄格子越しに顔を近づけ、囁くように言った。
「『魔王の血嗣』が何なのか。なぜ勇者は討伐のたびに必ず死ぬのか。そして……なぜ血嗣を倒した瞬間の記憶は、同行していた騎士の頭から綺麗に消え去っているのか」
「……記憶?」
レインはハッと息をのんだ。
そうだ。レインには「レオンに殺してくれと頼まれ、首を刎ねた」瞬間の記憶はある。だが、その直前——レオンがどのようにして『魔王の血嗣』を討ち取ったのか、その最後の攻防の記憶だけが、すっぽりと抜け落ちているのだ。
ずっと、血嗣の発する強大な魔力による精神の汚染だと思っていた。
だが——違っていたとしたら?
「神が定めた奇跡。勇者という栄光の制度。……ふふ、笑わせるわ」
エルシアの紅い瞳に、暗い影が宿る。
「あれは神が作ったルールじゃない。何者かが意図的に作り上げた、巨大な『偽り』よ。そして、その嘘を守るために、用済みになった勇者たちはこの塔で処分されてきた」
「……お前は、何者だ」
レインは重い足枷を鳴らしながら立ち上がり、鉄格子越しに少女を睨みつけた。
「なぜそんなことを知っている。なぜレオンの遺書を持っている。……目的は何だ」
「目的?」
エルシアは少しだけ首をかしげ、まるで幼子のように純粋な、けれど底知れず冷たい瞳でレインを見返した。
「私はただ、確めたいだけ。——魔王を倒したはずの人間たちが、どうしてこの世界を壊そうとするのか。そして、貴方が何のために生かされているのかを」
「生かされている……?」
「そうよ。貴方は明日、処刑される予定だった…けれどそんなことはさせないわ。レオンはあなたを生かした。その理由を知るまでは」
エルシアは鍵の束を鉄格子の鍵穴に差し込み、カチリと重い音を立てて扉を開き放った。
「『次の魔王は、王都にいる』って。……さあ、どうするの、『勇者殺し』の騎士様?」
開け放たれた鉄格子の前で、少女は優雅に手を差し伸べた。
「ここで綺麗に処刑されて、世界の都合の良い汚れ仕事の罪人として死ぬ? それとも……自分が殺した勇者の遺言を確かめるために、私と一緒にこの偽りの世界を壊しに行く?」
レインは、足元に落ちた革紙を握りしめた。 この少女はいったい何を知っているのだろうか。勇者とは何なのだろうか。
指先に伝わる不気味な刻印の感触。そして、記憶の欠片。
自分は、なぜレオンを殺したのか。
レオンは、死に際に何を見たのか。
琥珀色の瞳に、失われていた鋭い剣士の光が戻る。
「……俺は、英雄を殺した」
レインは低く言い放ち、少女の手を取ることなく、己の足で独房の一歩外へと踏み出した。
「だから、英雄たちの残した『嘘』の続きを……暴く権利がある」
王都の夜空を、血のような赤黒い暗雲が覆い始めていた。
世界の構造を揺るがす、長く残酷な真相追及の逃避行が、いま始まろうとしていた。




