プロローグ
雨は、王都の誇る巨塔『天柱の檻』を冷ややかに打ち叩いていた。
天を突くように聳え立つその黒瑪瑙の塔は、表向きは神の加護を象徴する聖地とされている。しかしその実態は、歴史の表舞台から消されるべき存在——すなわち、大役を終えた「勇者」たちが最後に行き着く、棺のような場所だった。
地下最深部、五重に施された結界陣のただ中に存在する独房。
湿り気を含んだ石壁に囲まれた薄闇の中で、レイン・アシュクロフトはただ静かに己の掌を見つめていた。
かつては王国の近衛騎士団において、最年少で隊長格に上り詰めた剣士。
そして今や、世界を救った最後の英雄をその手で殺害した、最悪の国賊『勇者殺し』。
「……また、雨か」
掠れた声が、狭い独房に小さく響く。
爪の中にこびりついた乾いた血の跡は、いくら洗っても落ちることはなかった。それは彼が介錯した、生涯の主であり、同時に唯一の友でもあった男の血だった。
この世界には、逃れられない悲惨な巡りが存在する。
千年前に世界を滅亡寸前まで追い詰めた『初代魔王』。それが最初の勇者によって討伐されて以来、真の魔王は姿を消した。だが、世界に平和が訪れたわけではない。
魔王が遺した強大な負の遺産——その怨念と魔力が世界各地で凝縮し、定期的に出現する顕現体。
人々はそれを『魔王の血嗣』と呼んだ。
血嗣が現れれば、ひとつの都市など容易く一夜で灰燼に帰す。そしてその苛烈な災厄が芽吹くたび、天の神は下界の人間の中から「たった一人の勇者」を選び出し、神託を下す。
選ばれた勇者は、血嗣を討伐するために命を燃やし、戦う。
——そして、血嗣を倒した勇者は、必ず死ぬ。
生き残った勇者は、歴史上ただの一人も存在しない。
病死、毒殺、事故、あるいは錯乱による自害。記録される死因は毎回異なるものの、彼らは必ず王国の管理するこの塔の中で、非業の死を遂げていた。
「——ずいぶんとおとなしいのね。『勇者殺し』の凄腕騎士様も、死刑執行の朝を前にしては足が竦むかしら?」
静寂を破って降ってきたのは、冷たい鈴の音を思わせる少女の声だった。
レインはゆっくりと顔を上げた。
視線の先、頑丈な鉄格子の向こう側の暗がり。厳重な警戒が敷かれているはずの最深部層に、一人の少女が不自然なほど静かに立っていた。
雪のように白い髪。血のように深い紅の瞳。
重厚なゴシック調の黒いドレスを纏ったその姿は、おぞましい地下牢の風景の中で、そこだけが切り取られた絵画のように浮いていた。
「……何者だ」
レインは腰を上げることもせず、低い声で問いかけた。
「監視の兵はどうした。ここは、人間が気まぐれで忍び込めるような場所ではないはずだが」
「監視? ああ、あの哀れな甲冑たちなら、少し止まっててもらったわ」
少女はまるで「庭の草をむしってきた」とでも言いたげな軽い調子で言った。彼女の華奢な指先には、鈍い銀色に輝く古い鍵の束が握られている。
「挨拶が遅れたわね、レイン・アシュクロフト。私の名前はエルシア。——貴方が命を奪った、あの『勇者』の知り合いよ」
「……あいつの?」
レインの眉根がピクリと跳ねた。
彼が討伐に同行し、そして最期にその首を刎ねた勇者・レオン。彼は貧しい村の出身で、天の神託によって突如として血嗣討伐の宿命を背負わされた男だった。彼の人間関係は、近衛騎士として護衛についていたレインが誰よりも把握していたはずだった。
こんな浮世離れした少女の存在など、レオンの口から一度たりとも聞いたことはない。
「嘘を言うな。レオンにこんな知り合いはいなかった」
「そうね。彼にとっても、私は『知ってはならない存在』だったもの。彼が死ぬその瞬間まで、直接口をきいたことすらないわ」
エルシアは鉄格子に細い指を掛け、隙間からじっとレインの顔を見つめた。その瞳には、恐怖も、英雄を殺した男への憎悪も存在しなかった。ただ、観察者のような無機質な好奇心が揺らでいる。
「でも、彼は私に預けたのよ。自分が死んだあと、もしも『自分を正しく殺せた人間』が現れたら、これを渡してほしいってね」
彼女は懐から、一通の羊皮紙を取り出した。
それは王国の公文書で用いられるような上質なものではなく、何かの皮膚を鞣して作ったかのような、不気味な黒ずんだ革紙だった。
エルシアはそれを、鉄格子の隙間から無造作にレインの足元へと投げ入れた。
「……これは何だ」
「彼の遺書。あるいは——この世界の仕組みに対する、哀れな負け犬の告発状かしらね」




