2 白狼
氷竜が棲むといわれる氷牙山への道はなく、白銀に覆われた広大な針葉樹林の中を、サクラは歩いていく。
フレイヤの姿が見えなくなると精霊たちは姿を現し、フィーネがサクラの目の前を飛びながら尋ねた。
『サクラ、本当に氷竜のところへ行くつもりなの?』
「うん、そうよ」
『無茶じゃ。氷牙山へ辿り着く前に、獣の餌食になってしまうぞ』
サクラの前を後ずさりしながら、ホルムが心配げに忠告した。
「きっと大丈夫よ。獣だって話し合えば、わかってくれるわ」
そうは言うものの、サクラに確信があるわけではない。
これまで精霊の言葉は理解できたが、他の種族にもその能力が通用する保証はないからだ。
『サクラは、わかっとらん。狼や熊などの獣にとって、お主はただの獲物に過ぎないのじゃ。ワシら精霊のように仲良くはなれないし、話が通じる相手でもないのじゃぞ』
ホルムは両手を広げてサクラの前に立ち塞がった。
「やってみなければ、わからないでしょ。だけど……だけどもし、わたしが死んだら、お母さんと妹の力になって欲しいの。お願いね」
『ワシはサクラを、孫のように思っておる。死なせたくないのじゃ』
『アタシだってサクラを、親友だと思っているのよ。お願いだから、考え直して』
「二人とも、ありがとう。わたしもホルム爺とフィーネのことが大好きよ。でも家族を守るには、こうするしかないの。わかって」
歩を進めるサクラを、精霊たちが服を引っ張って止めようとするが、そのまま引きずられてしまう。
ホルムはひとつため息をつくと、観念したように言った。
『ワシらもついていくぞ。フィーネ、周囲に獣がおらんか警戒してくれ』
『うん。わかったわ、ホルムジイ』
風の精霊であるフィーネは、風の流れで周囲の気配を察知することができる。
「二人とも、ありがとう。本当はすごく心細かったの。嬉しいわ」
ホルムはサクラの前を歩いて先導し、フィーネは上空から周囲をうかがう。
氷牙山に近づくにつれ、雪は深くなり気温も下がって、じわじわとサクラの体力を削っていく。
喘ぎながら懸命に歩を進めるサクラを見かねて、ホルムが声をかけた。
『サクラ、少々休むとしよう』
「でも……暗くなる前に……氷牙山に……着かないと……」
サクラは息を切らせながら返した。
『腹が減っておるのだろ。あそこに山ブドウが実っておるから、まずは腹ごしらえじゃ』
「本当だ……ちょうどお腹が空いてたの……ありがとうね」
『さっきからサクラの腹の虫が、うるさくてかなわん。その音で獣に気づかれてしまうかもしれぬからな』
「え~っ……そんなに大きな音してないでしょ?」
『上空まで鳴り響いてたわよ。まるで竜のいびきみたいだったわ』
舞い降りてきたフィーネが、クスクスと笑いながらからかった。
『フィーネ。すまぬがサクラの歩きやすいように、雪を吹き飛ばして道を作ってくれぬか』
『任せて、ホルムジイ』
フィーネが道を作っている間、サクラは腹ごしらえをした。
山ブドウを頬張りながら、サクラは母と妹にも食べさせてあげたいと思った。
「ホルム爺。氷牙山まで、あとどれくらい?」
『そうじゃのう。まだ、五分の一くらいじゃ』
「うそ~っ! まだ、そんなにあるの? 暗くなる前に着けるかな」
『フィーネが道を作っておる。何とかなるじゃろう』
そう話していると、フィーネがフラフラしながら舞い戻って来た。
『ご苦労じゃったな、フィーネ』
『……途中までしか出来なかったわ。疲れたから、ちょっと休むわね』
「ありがとう、フィーネ。ゆっくり休んでちょうだい」
空中に溶け込むようにフィーネの姿が消え失せた。
「ねぇ、ホルム爺。本当に氷竜はいるの?」
『うむ、人間を丸呑みにするほど巨大な竜で、最強の生物と言っても過言ではないじゃろう。集落に戻るなら、今のうちじゃぞ』
ホルムは怖がらせて引き返させようとしたが、サクラの決意は固かった。
サクラがしゃがみ込んで寒さに耐えていると、ホルムがそっと抱きついた。
彼は霊力で熱を発して、凍えるサクラを温めようとしたのである。
サクラは、慈愛に満ちた表情の小さな老人を膝の上に乗せ、抱き締めながらしみじみと呟いた。
「ホルム爺……温かい」
やがて身も心も温まったサクラは、ホルムをそっと地面へ降ろした。
「ありがとう、ホルム爺。もう十分に温まったから、そろそろ行きましょう」
『そうじゃな。フィーネは、どうじゃ?』
『うん、アタシも大丈夫よ』
フィーネは、空中で大きく伸びをしながら姿を現した後、いきなり叫び声を上げた。
『大変! 獣に囲まれているわ!!』
フィーネが休んでいた間、周囲の警戒がおろそかになり、獣の接近に気づくのが遅れたのだ。
木々の間から多くの銀狼が姿を現し、その中に一匹だけ雪に溶け込むような純白の狼がいた。
その白狼は、ひときわ大きく威風堂々として、圧倒的な威圧感を放っている。
『これは困ったのう。数が多すぎて、逃げられそうにないぞ。どうしたらいいものやら』
ホルムが顎ひげを弄りながら困り果てていると、フィーネが不安げに尋ねた。
『サクラ、獣だって話し合えば何とかなるのよね?』
「えっとね、人外と会話するには、まず相手の言葉を聴いて理解する必要があるの。だけど、まだ狼の声は聴いたことがなくて――」
『つまり、まだ狼とは話せないってこと? もし相手が喋らなければお手上げじゃない。そもそも狼に言葉がなかったらどうするのよ?』
フィーネは額に手を当て、呆れたように問うた。
その間にも、じわりじわりと距離を詰めてきた銀狼たちが、一斉にサクラたち目掛けて襲い掛かる。
『大地よ、隆起して壁となれ』
ホルムが呪文を唱えると、雪の下から岩が突き出して、三人を囲む障壁となった。
四方八方から飛び掛かった銀狼たちは、岩に激突して『ギャンッ!!』という悲鳴を上げ跳ね返された。
初めて目の当たりにしたホルムの能力に、サクラは目を輝かせた。
「凄いわ! この岩、ホルム爺が出したの?」
『感心しとる場合じゃないぞ。いつまでもここに籠っておるわけにはいかんのじゃからな』
「わたしなら大丈夫。さっき山ブドウをたくさん食べたから、二、三日なら平気よ」
籠城する気満々のサクラに、ホルムは呆れて返す言葉もなかった。
『痛たたっ! 何なんだ、あの岩は?』
『クソっ! 牙が折れちまったぜ』
『あの人間がやったのか?』
などと、銀狼たちの困惑した声がサクラの耳に届いた。
「狼たちの言葉が理解できたわ! ホルム爺、この岩だけ沈めて通れるようにしてちょうだい」
ホルムが岩壁の一部を地中に戻すと、サクラはその隙間からすっと外へ踏み出し、白狼に通る声で話しかけた。
「白狼さん、あなたが群れの長ね。わたしの話を聞いてくれる?」
『おい、聞いたか。人間が俺たちの言葉を喋ったぞ』
『一体どういうことだ? あの人間、ただ者じゃないな』
『本当に人間なのか?』
『もしかして神獣が化けているのでは?』
銀狼たちがざわめき始めると、白狼が『静まれ!』と一喝した。
その凄まじい咆哮に、銀狼たちは一瞬にして水を打ったように静まり返る。
『貴様は何者だ? ただの人間ではないな』
「わたしはサクラよ。これから氷牙山の氷竜に、会いに行くところなの。だから通してちょうだい。でないと氷竜が黙っていないわよ」
白狼は、鋭い眼光でサクラをじろりと見据えた。
『これまでも幾度か森の奥まで入り込んできた人間がいたが、貴様のように氷牙山を目指していたのだな。そいつらはすべてワレらの餌食となったが、何も起こらなかったぞ』
「あなたの言う通り、わたしはただ者じゃないの。氷竜を呼び寄せることもできるんだから」
根が素直なサクラは嘘が顔に出てしまい、それを見逃さなかった白狼は、疑いの眼差しで睨みつけた。
「フィーネ、わたしが囁いた声を、白狼の耳元だけに届けて」
『うん、わかったわ』
人語でフィーネに指示した後、サクラは狼の言葉で囁いた。
「この声は、あなたにしか聞こえてないわ。わたしは声を自在に操れるの。氷竜に声を届けることも容易いことよ。どう、これで信じてもらえる?」
白狼にはサクラの声が、はっきりと聞こえた。しかし、白狼が周りの銀狼に確認しても、聞こえたものはいなかったのである。
白狼はしばし黙考した後、ゆっくりとサクラに歩み寄り、背を向けて腰を下ろした。
『貴様の言葉を信じるとしよう。背中に乗れ。氷牙山まで送り届けてやる』
「えっ? いいの?」
『ワレらの伝承に「氷竜が現れし時、大地は凍り付き、全てが息絶える」とある。山へ辿り着くまでに、多くの獣に襲われるだろう。氷竜を呼び寄せられて、ワレらが巻き添えを食らうことだけは避けねばならぬ』
成人男性よりも大きく、屈強な男数人がかりでも敵わないような猛獣でさえ、氷竜に怯えていることをサクラは悟った。
彼女は白狼との会話を精霊たちに説明した。
「――せっかくだから、白狼さんの好意に甘えて乗せてもらいましょう」
『ちょっとサクラったら、どこまでお人好しなのよ! 白狼はサクラを殺そうとした奴なんだからね』
『そうじゃぞ。素直なのはサクラの良いところじゃが、そう簡単に信じてはならん』
「わたしは白狼さんを信じられると思うの。だって、無防備な背中を向けるのは、犬がお腹を見せるのと一緒でしょ」
『それとは違うと思うわ』
『うむ。ワシも違うと思うぞ』
サクラの持論をフィーネとホルムが間髪を容れずに否定した。
「白狼さんは賢いから、氷竜を敵に回すような真似はしないわ。だって、わたしを食べても狼が氷竜に滅ぼされたら、割に合わないもん。それに白狼さんの言う通り、この先多くの獣に襲われるかもしれないでしょ。わたしたちだけでうまく切り抜けられる保証はないもの」
サクラが懸命に説得すると、ホルムは諦めたように深いため息を漏らした。
『仕方ないのう。このまま籠城を続けるわけにもいかぬしな』
不本意ではあったが、ホルムは白狼の背中に乗ることを承諾した。




