1 極寒の国
白銀に覆われた広大な針葉樹林の一角に、ヴォルガ村という小さな集落がある。
小雪が舞い降りる凍てつく寒さの中、サクラは母に抱きしめられていた。
「それじゃ、行ってくるわね。お母さん」
まだあどけなさが残る十歳の少女は、氷竜の生贄になるため、母に笑顔で別れを告げたのだった。
◇◆◇◆◇
その日の朝、食卓でフレイヤと二人の娘、サクラとカエデが口にしているのは、僅かばかりの具が入ったスープだけだった。
スグリ家は四人家族だが、父親のジンが行商に出たまま消息不明となっている。
そのため一家は食べる物にも事欠くほど困窮していた。
カエデはスープをあっという間に平らげると、空の器を母親に差し出しておねだりした。
「もっと、もっと!」
「ごめんね、カエデちゃん。もう食べるものがないの。あとで村長さんに食料を分けてもらうから、今は我慢してちょうだい」
病弱な母親は、時折咳き込みながら、三歳の娘をなだめた。
「わたしのをあげるから泣かないで、カエデ」
サクラは残っている自分の食事を妹に差し出した。
「サクラ、あなただってお腹が空いているでしょ?」
「わたしは大丈夫よ、お母さん」
そう言ったそばから、ぐぅと盛大にお腹の虫が鳴り、サクラは照れくさそうに苦笑いしながら席を立った。
「森で何か食べられる物を探してくるわ」
「お願いね、サクラ。だけど、奥まで行っては駄目よ。獣に襲われてしまうから」
「うん、わかったわ。お母さん」
サクラは母を安心させるため元気に頷くと、使い古した木のスコップを持って家を出た。
自然の食材を探すのが得意なサクラは、これまでも野草や果実、根菜などを採取して食の足しにしてきたのだ。
鬱蒼とした森へ入り、周囲に誰もいないのを確認すると、サクラはそっと呼びかけた。
「フィーネ、ホルム爺、いる?」
『いるわよ、サクラ』
鈴を転がすような声と共に、サクラの眼前に現れたのは、風の精霊フィーネである。
サクラの手のひらほどの大きさで、可愛らしい顔立ちの女の子。
背中に生えた半透明の羽根をパタパタと羽ばたかせ、宙を舞っている。
『ワシもおるぞ』
サクラの足元から穏やかな声がして、地の精霊ホルムが姿を現した。
白い口ひげと顎ひげを蓄えた白髪の老人だが、サクラの顔ほどの大きさしかない。
とんがり帽子を被り、ずんぐりとした二頭身の姿は、まるで絵本に出てくる小人のような愛くるしさがある。
本来、精霊は風や地などの属性ごとに言語が異なる。その上、めったに姿を現さないので、お互いの存在に気づくことすらなかった。
だが、人間以外の言葉を理解できるサクラと友達になり、初めてお互いの存在を知ったのである。
サクラを介して会話を重ねるうちに仲良くなった二人の精霊は、彼女から人間の言葉を教わり、今ではすっかり流暢に人語を話せるようになっていた。
「森で食材を探すの、手伝ってちょうだい」
『うむ。ちょっと待っておれ』
『まかせて、サクラ』
ホルムが地中へ溶け込むように姿を消すと、フィーネは森の奥へと飛んでいった。
フロストハイム王国は大陸の北に位置する寒冷な国家である。
その中でも、ヴォルガ村は極寒の地として知られている。
深い雪が降り積もった森で食材を探し出すのは、精霊の手助けがなければ十歳の少女には至難の業だ。
しばらくしてホルムが地面から顔を出し、フィーネも羽音を響かせて戻ってきた。
『この近辺は、もう採りつくしてしまったようじゃぞ』
『木の実も見当たらないわね』
「それなら森の奥はどう?」
『ダメよ、サクラ! 森の奥まで行っては駄目だって、お母さんに言われたでしょ』
「フィーネ、また盗み聞きしたのね」
『違うもん! たまたま聞こえただけだもん。だってアタシは遠くの音も聞こえるんだから、仕方ないでしょ』
サクラが頬を膨らませて問うと、フィーネは口を尖らせて反論した。
『サクラよ、フィーネの言う通りじゃぞ。奥に行けば狼や熊などの危険な獣に、襲われるかもしれないからのう』
「だって、もう家には食べる物がないんだもの。カエデもお腹を空かせているわ」
精霊たちは困惑したように顔を見合わせ、ひとつ頷いた。
『ならば、ワシらが採ってくる。サクラはここで待っておれ』
そう言い残して、二人の精霊は深い森の奥へと消えていった。
◇◆◇◆◇
森の奥で地中を探していたホルムが、やがて地上に姿を現し、上空を舞うフィーネを呼び寄せた。
『フィーネよ、この下にあったぞ。積もった雪を除けてくれ』
『まかせて、ホルムジイ』
フィーネが鋭いつむじ風を巻き起こし積もった雪を吹き飛ばすと、ホルムは地中の根菜を地上へと押し上げた。
『これ一つあれば、十分じゃろ。フィーネ、ちっとばかり大きいが、運べるか?』
『うん、問題ないわ』
フィーネは巧みに風を操り根菜を宙に浮かせると、サクラのもとへゆっくりと運んでいった。
サクラは自分の顔ほどもある根菜を両手で抱えるように受け取った。
「こんなに大きな根菜、運ぶの大変だったでしょ」
『ふふん、これくらい大したことないわ』
サクラが労うと、フィーネは誇らしげに小さな胸を張った。
「ホルム爺も、掘り出すの大変だったでしょ。二人とも、本当にありがとうね」
サクラの嬉しそうな表情に、ホルムは満足げに目を細めた。
◇◆◇◆◇
サクラは姿を消した精霊たちと談笑しながら、帰路についた。
その途中、村長宅の玄関先で話をする母と村長の姿に気づいた。
食べ物を分けてもらうため、フレイヤは村長宅を訪れていたのだ。
遠目からでも、フレイヤが両手で顔を覆い、泣き出したのが見えた。
「フィーネ、お願い。お母さんの声を届けて」
『なによ! さっきは盗み聞きしたって、アタシを責めたくせに』
「お願いよ、フィーネ」
『……仕方ないわね』
ため息をつきながらも、フィーネは風を操り、二人の会話をサクラの耳元へ運んだ。
「――儂らも生活が苦しいから、あまり支援は出来ない。何度も酷なことを言うようだが、カエデを氷竜の生贄にして、食い扶持を減らした方がいい」
「そんなこと絶対にできません!」
「だがこのままでは、一家は飢え死にするぞ」
「私が……私が働いて、何とかします」
「どこも生活が苦しいから、村には働き口などない。出稼ぎをするにしても、その病弱な体じゃ雇ってはもらえないぞ。すぐに体を壊してしまうだろうからな」
「そんな……」
諭すような村長の声と、母のすすり泣く声がサクラの耳に届いた。
(氷竜? 生贄って?)
サクラはえも言われぬ不安に駆られ、華奢な身体をガタガタと震わせた。
僅かばかりの食料を分けてもらったフレイヤは、何度も頭を下げて感謝すると、村長宅を後にした。
サクラは無我夢中で母を追いかけ、息を切らせながら呼び止めた。
「待って! お母さん!」
フレイヤは慌てて涙を拭うと、作り笑顔で振り返った。
「サクラ。村長さんから食料を分けてもらえたわ。あら、大きな根菜が採れたのね。凄いじゃない」
「お母さん、氷竜ってなに? 生贄ってどういうこと? カエデをどうするつもりなの?」
「サクラ……すべて聞かれてしまったのね」
悲しげな表情を浮かべたフレイヤは、遠くにそびえ立つ雪山に視線を移した。
「あの氷牙山の麓に大きな洞穴があるらしいの。そこに氷竜が棲んでいると言い伝えられているわ。でもそれは嘘よ。だって竜を見たという話しは、数百年も前のことだもの」
フレイヤはサクラに視線を戻すと、黒い瞳をじっと見つめた。
「村では古来より、この異常な寒さは氷竜の仕業だと信じられてきたわ。それによる農作物の被害を抑えるため、幼い子や年寄りが生贄として山へ捧げられてきたの。でもそれは、食糧難に陥った村人が口減らしをするための、酷い口実にすぎないのよ」
村に深く根付いた悪しき慣習を、彼女は絞り出すような声で娘に語った。
「でも安心して。私は大切な娘を手放すつもりはないわ」
フレイヤは優しい母親の眼差しでサクラに微笑んだ。
しかし、サクラは覚悟を宿した瞳で、フレイヤを真っすぐに見つめ返した。
「お母さん、わたしが生贄になるわ」
「何を言っているの!? あなたも、私にとってかけがえのない大切な娘なのよ」
「でも、このままだと、わたしたち飢え死にしちゃうんでしょ」
「……」
十歳の娘に、目を背けてきた現実を突きつけられ、フレイヤは言葉を失った。
「心配しないで、お母さん。わたしが人外と会話できるのは本当よ。だから氷竜に会って、もう寒くしないようにお願いしてくるわ。寒さが和らげば、農作物が作れるようになるでしょ。そうすれば村のみんなも苦しまずに済むもの」
種族が違えば言葉が通じないのがこの世の理である。風の精霊が囁いても、他の種族には風音にしか聞こえないのだ。
ゆえにサクラが四歳の頃、人外の言葉が理解できると訴えたが、誰も真に受けなかった。
「それはね、サクラが幸せになれるよう、特別に神様が与えてくれた秘密の力なんだ。誰かに喋ると不幸になってしまうから、内緒にするんだよ。いいね」
唯一父だけは娘を信じたが、誰かに異能が悪用されることを案じ、口外しないよう諭したのである。
――サクラは父との約束を守り、それ以来ずっと異能のことを隠し通したのだった。
このままだと一家が飢え死にすることは明らか。
それでもフレイヤには、娘を見捨てることなんてできなかった。
特に幼いカエデが、凍てつく寒さの森で置き去りにされ、生きたまま獣の餌食になる姿を想像しただけで、怖ろしくてたまらなかったのだ。
だが、サクラが志願したことで、フレイヤは苦渋の決断をした。
利発な彼女なら、きっと一人でも生きていけると、自分に言い聞かせたのである。
「ごめんなさい……サクラ。不甲斐ない母を許して――」
サクラをぎゅっと抱きしめたフレイヤは、涙ながらにひたすら謝った。
しばらくその温もりに浸っていたサクラは、やがてそっと体を離し、根菜とスコップを母に預けた。
「それじゃ、行ってくるわね。お母さん」
努めて明るく振る舞い、サクラは氷牙山を目指して歩き出す。
まるで、いつもの食材探しに行くような足取りで。




