1 スラムの子
国境を越えた先にあるイグナリア帝国の宿場町は、アルセリア王国とはまるで別世界だった。
街はレンガや石造りの建物が立ち並び、草木などの緑はほとんど見られない。
行き交う人々は、照りつける日差しから肌を守るため、頭には布やフードを被り、ハーレムパンツを穿いたような露出の少ない服装が目立った。
アルセリア王国に比べれば殺風景ではあるが、初めて目にする異国の眺めは、サクラの心を躍らせるものだった。
豪華な馬車が通りかかるたび、店先からは威勢のいい呼び込みの声が飛ぶ。
「お嬢ちゃん、そんな格好してたら暑さでぶっ倒れちまうぞ。ウチにいい服があるから寄っていきな」
そこは、露出の多い物から少ない物まで、暑さ対策の服を取り揃えた店だった。
クライオスの冷気により、サクラたちはこれまで快適な旅を続けてこられた。しかし、彼が人外であることを隠すため、人前ではその力を使えない。
この先さらに暑くなることを考慮し、サクラは露出を抑えつつ風通しの良い服を購入した。
「お嬢ちゃん、飲み水はいらんかい? この先、ますます水の値段が高くなるよ。今のうちに買っていきな」
店先に大きな水がめをいくつも並べた、水売りの店主がサクラに声を掛けた。
サクラはセドリック近衛騎士団長からこの国の情報――飲み水が貴重品でタダでは手に入らないことや、物価が高いことなど――を教わっていた。
そのため資金に余裕がないサクラは、必要なものをあらかじめアルセリア王国で揃えてきている。
大量の飲み水をクライオスの亜空間に蓄えてきたので、サクラは店主に軽く会釈して、そのまま店を通り過ぎた。
(クライオスは冷やした水も出せるから、店で売られている生ぬるい水より、ずっと美味しいはずよね)
この国で店を構えて水を売れば、大儲けできるかもしれないと彼女は思った。
サクラたちはその町にある飯屋で夕食を済ませ、近くの宿屋に泊まった。
翌日、一行は宿主から聞いた最寄りの商業都市『バルカン』を目指して出発した。
その数日後、バルカンの手前にある宿場町『サジュラ』に辿り着いたサクラは、道端に一人の子供が倒れているのを目にした。
サクラより小柄な彼は、ボロボロの服を身にまとい、ひどく痩せ細って微動だにしない。
道行く人々は、汚物でも見るかのように顔をしかめ、倒れた少年を避けて通り過ぎていく。
「フィーネ、あの子がまだ生きているか確かめてちょうだい」
『わかったわ』
フィーネは姿を消したまま少年の元へ行くと、生死を確認して戻ってきた。
『まだ辛うじて息をしてたわよ』
サクラは御者台から飛び降りて少年に駆け寄ろうとした。
すると近くを通りかかった男性が、乱暴にサクラの腕を掴み、鋭い口調で引き止めた。
「よせ、近づくんじゃない! あの赤い斑点は、スラムで流行っている伝染病だ! 感染すれば助からないぞ!」
「伝染病? でも、わたしなら大丈夫よ。よく効くお薬を持っているの」
「勘違いするな! お前が感染源になって、町中に病が広がると困るからだ!」
そこまで考えが及ばなかったサクラは、ひとまず馬車へと引き返し、対策を講じることにした。
「セレーネ、精霊水で病が感染しないように防ぐことはできるの?」
『もちろんよ。ワタクシの精霊水にかかれば、どんな病原体だってイチコロなんだから』
セレーネはふふんと鼻を鳴らし、得意げに胸を張った。
人の往来が途絶えた隙に、クライオスは少年を抱えて素早く馬車へと運び込んだ。
すかさずサクラは、ひと気のない街の外まで馬車を走らせた。
馬車を停め、車内へと駆け込んだサクラは、少年の乾いた唇に少しずつ精霊水を注ぎ込んだ。
すると、今にも消え入りそうだった少年の息遣いが、ゆっくりと力を取り戻していく。
同時にセレーネは、馬車内外の空気に含まれる水分を精霊水へと変え、病原体を根絶した。
サクラの依頼を受け、クライオスとホルムが精霊水で濡らした布で少年の全身を丁寧に拭うと、汚れと共に赤い斑点も次第に消えていった。
少年のボロボロで汚れきった服は処分し、サクラは購入しておいた自分の服を彼に着せた。
命の危機は脱したとはいえ、少年をまともな寝床で休ませてあげたい――そう思ったサクラは、日が暮れるのを待ち、人目を避けるように町外れの小さな宿屋へ向かった。
サクラたちが建物に入ると同時に、「いらっしゃい」とカウンターから女主人が声をかけた。
少年はクライオスに背負われ、頭に巻かれたスカーフで目元以外は隠されている。
「おばさん、三人で泊まりたいんだけど、部屋は空いてますか?」
「ああ、あるよ。三人なら一泊銅貨十五枚、身分証がなけりゃ二十一枚いただくけど、いいかい?」
「はい。これ、兄のカードです」
サクラはクライオスの行商人用ギルドカードを提示し、銅貨十五枚を支払った。
すると女主人は、ぐったりとした様子の子供が気になり、じっと見つめながら問うた。
「その子は、どうしたんだい?」
「長旅で疲れて寝ちゃったの」
「兄妹だけで行商をしているのかい? 両親は?」
「お父さんは行商の旅に出たきり戻ってこなくて。だから、お父さんを探しながら行商をしているの」
「その歳でたいしたもんだね。だけど、念のためあの子の顔を確認させておくれ。伝染病だったら泊めるわけにはいかないからね」
「え、ええ。いいわよ。病弱だからやつれているけど、赤い斑点はないから安心して」
サクラは怪しまれぬよう平静を装いながら、少年のスカーフをわずかに下げ、目から口元までを露わにした。
「確かに、肌は綺麗だから伝染病じゃなさそうだね……でも……その子、スラムの子じゃないかい?」
「えっ! あの、それは……」
「間違いない。数日前、スラムから流れ着いた子じゃないか!」
「嘘をついて、ごめんなさい。だけど、もう病気は治っているし、体も綺麗にしたから感染しないわ。お願い、信じておばさん……」
隈なく少年を観察していた女主人の表情がふっと緩んだ。
「……どうやら本当のようだね。わたしゃ、この子が気になって、毎日こっそりと様子を見に行っていたんだよ。今朝なんて全身が赤い斑点だらけで、息も絶え絶えだった。それなのに、斑点は消えているし、呼吸もしっかりしているじゃないか」
「それじゃ、泊めてくれるの?」
「もちろんだよ。病が治って感染もしないのなら、文句はないさ。だけど、スラムの子を泊めたことがみんなに知られたら、わたしゃらはこの街を追い出されちまう。だから絶対に他言無用だよ。女手一つで三人の子供を育てているんだ。それだけは御免だからね」
「わかったわ、おばさん。絶対、誰にも言わないって誓うわ」
「約束だよ。それにしても、どうしてあんな状態から、ここまで回復できたんだい?」
女主人は、信じられないといった面持ちで少年を眺めながら尋ねた。
「詳しくは言えないんだけど、とてもよく効く『秘薬』があるの」
その薬をスラムの感染者にも使って欲しいと、女主人は喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。そんなに凄い薬なら、きっと想像もつかないほど高価で貴重なものに違いないと考えたのだ。
案内された部屋で、クライオスは少年をそっとベッドに寝かせた。
サクラが布団を掛けてやると、少年が意識を取り戻し薄く目を開けた。
「おねぇ……ちゃん……は?」
「わたしはサクラよ。もう病気は治ったから安心してね。あなたの名前は?」
「僕……アッシュ……おねぇちゃんが……助けてくれたの? ……ありがとう」
「何かして欲しいことはある?」
「……お腹……すいた」
「わかったわ。ちょっと待ってね」
アッシュから見えない所で、サクラはクライオスに亜空間からサンドイッチとお皿を取り出してもらいテーブルに置いた。
しかし、衰弱しきったアッシュにはそれを食べられるだけの力はない。
サクラが困り果てていると、ドアを叩く音と共に女主人の声がした。
「入ってもいいかい?」
「どうぞ」
女主人は三人の子供を連れて部屋へと入ってきた。
「その子は普通の食事だと喉を通らないと思って、スープを作ってきたんだ。それと、まだ自己紹介してなかったから、ついでに家族も紹介しようと思ってね」
「おばさん、ありがとう! サンドイッチしかなくて、困っていたの。本当に嬉しいわ」
「サンドイッチ? この辺じゃ、見たことも聞いたこともないね」
「アルセリア王国の食べ物なんです」
女主人は物珍しそうにサンドイッチを一瞥すると、そのすぐ横に温かなスープの器を置いた。
「それじゃ、改めて自己紹介するけど、わたしゃサラーマだよ。夫は他界しているので、わたしゃが宿主ってわけさ。そしてこの子が長女のシャラ、十六歳。長男のカシムは十二歳で、末娘のルルは八歳だよ」
「わたしはサクラ、十歳です。兄はクライオスで、彼はアッシュです」
それぞれが挨拶している間、末っ子のルルだけはサンドイッチに釘付けで、サクラのことなど全く目に入っていなかった。
「ルルちゃん。サンドイッチ、食べてみる?」
「うん! 食べたい!」
差し出された一切れを頬張ったルルは、大きく目を見開いて、「おいしーっ!」と感嘆の声を上げた。
隣ではカシムが口を半開きにして、それを羨ましそうに凝視している。
「よろしかったら、みなさんもどうぞ」
サクラが皿を差し出すと、ルルがあまりにも美味しそうに食べていたので、一家は迷わず手を伸ばした。
シャラは野菜サンドを口にした瞬間、しっとりもちもちの食感に衝撃を受け、思わず声を弾ませた。
「なによ、このパン! すごく柔らかくて、とても美味しいわ!! それに野菜がシャキシャキして瑞々しい!」
この国では、保存性を高めるために水分を極限まで減らした、粉と水、そして塩だけの硬いパンが主流だ。
それに対して、『ル・パレ・ロワイヤル』の料理人が作ったパンは、バターや牛乳、砂糖などがふんだんに使われた逸品である。
また、サンドイッチの具材に使われている最高級の野菜も、クライオスの『亜空間』により鮮度と食感が保たれている。
黄金色に輝く卵サンドを口にしたサラーマは、あまりの口溶けと風味の良さに、うっとりと頬に手を当てて目を閉じた。
「なんて滑らかなんだい。それに、卵の濃厚なコクがたまらないね。アルセリア王国じゃ、こんなに美味いものが食べられるのかい。羨ましいねぇ……そうだ、サクラちゃん。このサンドイッチの作り方を教えてくれないかい? 実は、大きな宿屋に客を取られてしまい生活が苦しいんだ。これを朝食に出せば、繁盛間違いなしだよ」
サラーマはサクラの手を両手でぎゅっと握り締め、縋るような眼差しで懇願した。
「ごめんなさい。作り方は分からないんです。このサンドイッチは、最高級宿の料理人が作ったものだから……」
「それじゃあ、作り方を教わってもウチじゃ提供できないね。簡単には手に入らないような、高級食材を使っているに違いないもの」
サクラの手料理なら教えてもらおうとしたが、最高級料理人によるものだと知り、サラーマは肩を落として諦めた。
「おっと。スープが冷めちゃうね」
そう言ってサラーマはベッドに腰を下ろすと、アッシュのやせ細った体を、壊れ物を扱うように優しく抱き起こした。
サクラは木のスプーンでスープを掬い、アッシュの口元へ運んだ。
スラム育ちの彼は、初めて味わうまともな食事の美味しさに、気づけば涙を零していた。
「ごめんね、アッシュ。熱かった?」
「ううん……こんなに美味しいもの……食べたの……初めてだから……」
「あんた、ウチのスープなんかで泣いてたら、サクラちゃんのサンドイッチを食べたときには号泣しちゃうわよ」
「ああ、きっと三日は泣き止まないぜ」
シャラとカシムが茶化すように笑うと、サラーマがすぐさま言い返した。
「ちょっと、お前たち。わたしゃが丹精込めて作ったスープを、なんかとは何だい! まあ、サクラちゃんのサンドイッチが飛び切り美味いのは否定しないけどね。アッシュも、サンドイッチが食べられるように、早く元気になるんだよ」
サラーマの温かくて大きな身体に包まれながら、アッシュは幸せを噛みしめるように、スープを味わったのだった。




