下っ端
二段とばしで階段を駆け上がった。普段はみんなエレベーターを使うけれど、今はそれを待ってもいられない。俺の所属する部署がある階は13階だけど、なんとか走れない距離ではないから、せめてもの誠意を見せるためにも走らなければいけない。普段はみんな使わない階段は非常階段という名前がついているものだから、それだけ簡素で薄暗い。おまけに人通りも少ない。足音が響き渡って、反響する。忙しなく動かす足に合わせて、自分の足音が吸い込まれるように天井に上っていく先から新しく生まれて、幾重にも重なって耳に届く。あと、聞こえるのは自分のしんどい荒い息だけ。
踊り場で方向転換したら、また見上げる先に手すりと階段。を階の数かける二回繰り返さなければいけなくて、回数表示を見るたびに、うんざりしてぞっとする。足はだるくて、段々持ち上がらなくなる。ちょっと、休憩しようかな? 踊り場の度にそれを考えて、部の人の顔を思い浮かべて結局足を動かし続ける。腕時計をちらりと見る。初給料で買った時計は自分にとってはは結構かなり良いもので、大事にしている。時間は出社予定時間を既に1時間近く遅れている。
階数表示を指折り数えていたのがようやく最後の13半になって、階段を抜ける重い鉄のドアを開ける。そこは見慣れた、清潔感のあるオフィスの部屋が並ぶ廊下。速度を落とさず俺は南側の真ん中のドアに突進する。騒々しくドアを開いて、室内に人がまばらにしかいないのを確認する。あら。ばっちり正面の課長と目が会っちゃった。
課長は珍しくスーツを着てネクタイまで締めて、まるで俺を叱るのに相応しい格好。まさかその為にこんな格好していたワケじゃないだろうから、今日は何か、お偉い人と打ち合わせる予定でもあったのだろうけれど。
「カスガ、ちょっとこっちにおいで」
ってにこりと笑って手招きされて、俺は膝に手を突いて、体を折り曲げてはあはあと大袈裟な程に呼吸を整えていたのだけれど、その声に固まる。ちらりと横目で見たら、がらんとしたフロアに済まして座っていたオペレーターのユキさんが、ちらりとだけこっちを見た。助けてくれる気はゼロ。
「はい」
返事をして、観念して課長席に進み出る。まだ若い、柔和な印象の課長だけれど、俺はこの人は結構恐い人だと思う。正直、苦手で、あまり話したくない。デキル人、らしいけど仕事のやり方も結構キレイじゃないし、意外に細かいし、どんなに人が頑張って作った資料でも、一瞬でシュレッダー行きだ、何てこともよくある。でも、女の子には結構甘いから、女性には人気あるんだよなー。
「今日、カスガは朝一で出動の予定が入っていた筈だけど?」
「はい。申し訳ありません、寝坊しました」
「ミサキさんから聞いたよ」
そうそう。寝坊したって起きた瞬間に気づいて、急いでとりあえずフロアに電話をかけた。出たのはいつも朝早くから来ているミサキ主任だった。遅刻を伝えると「またぁ!?」と非難交じりに言われて返す言葉がなかったのだけど。
っていうか、聞いているならこんな嫌味な言い方をしてこなくてもいいのに……というのは胸の中にしまっておく。勿論。
「朝一の出動もミサキさんが代わりにやっておいてくれると言っていたよ。たまたま彼女が非番の時間だったのが幸いだったね」
それは、本当にありがたい。ミサキ主任は厳しい人で、特に仕事に対する怠慢なんかはとても許してくれなそうな人なんだけど、あれで意外に面倒見が良くて優しい。素直に尊敬できる、と言える人だ。実力もきちんとある人、と俺の中では認識している。
「僕はね、カスガ。今日の仕事は君の経験になるだろうと思って、敢えて入れたんだ。僕は意外に君に期待をかけてるんだよ。君はやる気はあまりないし、いまいち仕事をどういったものか分かってないし、覚えも良くないし、その上楽天的だし、準備は怠るし、よく物事を考えないし、すぐにうっかりするし、注意力散漫だし、全然信頼に足らないけれど……」
そこまで言うか。
「だからこそ、この仕事に向いてるかもしれないと思うんだ。要するに、能天気で馬鹿な奴がね、向いてるような気がするんだよ。だから、期待をかけてるんだ」
「はあ」
色々言いたい事はあったのだけど、怒られてる手前、何もいえない。
「だから、今日の遅刻にはすごく失望したよ。ミサキさんにも迷惑かけるし。……でもまあ、分かったら席に戻りなさい」
「はい」
イロイロ飲み込んで、大人しく席に戻ろうとしたら、あ、それからと声が背中から追ってくる。
「さっきの僕の言葉、もちろん誉め言葉ではないからね?」
にっこりと笑って。そんなことも俺が理解していないような言い方をして。嫌味なヒトだ。
「はあ」
と返事を曖昧に返して、自席に着く。ついた途端、隣の席のユキさんの声。
表情はパソコンの画面に固定されたまま動かさないで、こちらを見ないで。
「カスガ君、今日のお昼、久緒のウナギ」
「え? なんでですか? ご馳走ですね。なんかのお祝いですか?」
「違う。ミサキ主任からの伝言。君のおごりであたしの分とミサキ主任の分。特上」
「げげっ」
あそこのうなぎ、どんだけ高いかって話だよ!? 社長とか、時々食いに行ってる店じゃないか! しかも特上!?
青ざめた俺にユキさんはしれっとした表情のまま、視線だけちらりとこちら。
「あたしはミサキさんの心の広さに君が感謝すべきだと思うけどね。うなぎ特上だけで、遅刻3回目、チャラにしてくれようって言うんだから。そういうペナルティ負わないで、いつまでも周囲の刺さるような視線浴び続けるよりは全然良いと思うけどね」
でも、刺さるような視線は現に今も課長席の辺りから浴びてるわけで。
「ミサキさんはさっぱりした人だからね。ホントに、ウナギでチャラにしてくれる気だよ。咎めもしないだろうし」
言外に誰かさんと違って、と言っているような気がする。二人共に冷たくされるよりは、庇ってくれそうなミサキさんは味方にしとけ、って助言にも聞こえた。大人しく奢らされる方が、得策だよ、って。
「え、ホントにミサキ主任、ユキさんの分もって言ったんですか?」
「ちょっと、ミサキさんが誰かさんの代わりに出ちゃったから、あたしがミサキさんの代わりに資料まとめの仕事やってあげたんですけど」
「……ありがとうございます。すいません」
俺はため息をついて、今月の生活費について考えを巡らすのだった。




