第93話:砂漠の街に降り注ぐ、奇跡のダイヤモンド・レイン
悪徳CEOグレゴリーが自らの廃重油ピットへと頭からダイブし、メガ・バロン重工の独裁支配が完全に崩壊した、その直後であった。
都市の中央構造物を貫くギガ・ボイラーの巨大排気塔群から、信じられないほどの量の真っ白で清らかな蒸気が、天空高くへと吹き上がり始めたのだ。
シュオオオオオオオオオオオオオッッッ……!!
それは、これまで数百年間にわたって市民たちの肺を蝕み、街の空を真っ黒に染め上げていた重油の有毒煤煙などでは断じてなかった。
地底三万二千メートルの超臨界純水が、炉心の超高熱と熱交換されて生まれた、混じり気のない【超純度神聖水蒸気】。
白く巨大な入道雲が、赤茶けた砂漠の空をみるみるうちに覆い尽くしていく。
どんよりと垂れ込めていた重油のスモッグが、清らかな蒸気の巨大な対流圧力によって東の地平線へと吹き払われ、何百年ぶりとなる真っ青な青空と、眩い太陽の光がスチーム・シティの鉄板の屋根を黄金色に照らし出した。
真鍮の巨大歯車が、太陽の光を浴びてキラキラと白銀に輝き、都市全体が生まれ変わったように神々しい光を放つ。
風の匂いが、劇的に変わった。
鼻腔を突き刺すようだったタールと酸化鉄の焦げ臭さが消え失せ、しっとりとした清涼な潤いが、砂漠の大気を満たしていく。
ポツ……ポツ、ポツ……。
サーーーーーーーーーーーーーーッッッ……!!
一筋の涼やかな風が路地裏を吹き抜けたかと思うと、天から降り注いできたのは――砂漠世界ギア・アルカディアが始まって以来、誰一人として見たことのなかった【本物の清らかな大雨】であった!
トタンや鉄板の屋根を叩く、小気味よいパラパラとした心地よい雨音。
大気中に充満していた酸化鉄の粉塵が一瞬にして洗い流され、雨上がりの土と新緑の匂い――ペトリコールが、街いっぱいに広がっていく。
「あ……あぁ……っ!?」
機械の義手を空へと伸ばした市民の一人が、手のひらに落ちた冷たい水滴を見つめて震えた。
泥の混じっていない、油の浮いていない、太陽の光を受けてダイヤモンドの粒のようにキラキラと輝く純白の雨。
雨粒が顔に触れた瞬間、埃と汗にまみれていた皮膚が優しく潤され、機械の関節部に溜まっていた赤錆と砂利が、サラサラと音を立てて洗い流されていく。
全身の真鍮製パーツが、まるで歌うように心地よい金属音を奏で始めた。
『雨だ……! 雨が降ってきたぁぁぁっ!』
『水だ! 天から本物の水が降ってくるぞぉぉぉっ!!』
『飲める! 口を開けろ! 甘い……! こんなに甘くて冷たくて美味い水が、この世にあったのかぁぁっ!!』
スチーム・シティの全域で、何百万人もの市民たちが歓喜の涙を流して抱き合っていた。
子供たちが水たまりをバシャバシャと跳ね回り、老人たちが天を仰いで両手を広げて涙を流す。
ある白髪の老技師は、幼い孫を肩車しながら、震える手で雨を受け止めていた。
「見ろ……坊主、これが雨だ。天から降る、混じり気のない本物の水だぞ……! じいちゃんも、生まれて初めて見た……!」
「じいちゃん、冷たい! 甘いよ、お水が甘いよ!」
幼い孫が満面の笑みで空を仰ぎ、口を開けて雨粒を捕まえている。
かつて公共給水柱の前で兵士に蹴り飛ばされていた初老の父親と幼い娘も、雨の中に飛び出し、手を取り合って笑い合っていた。
「お父さん、胸が苦しくないの! トクトクって、綺麗に動いてる!」
「ああ……ああ……! 神様、ありがとうございます……!」
娘の胸の蒸気ピストンは、清純な雨水を浴びて軽快なリズムを刻み、父親は娘を抱きしめて地面に膝をつき、嗚咽を漏らしていた。
さらに奇跡は都市の外へと広がっていった。
乾ききってひび割れていた赤茶けた砂漠の大地が、潤いを取り戻してぐんぐんと恵みの雨を吸い込み、砂の中に眠っていた数百年分の古代植物の種が、一斉に緑の芽を吹き出していく!
地平線の彼方まで広がっていた赤茶色の砂漠が、わずか数時間のうちに、エメラルドグリーンの若草と、鮮やかな紅や黄色の砂漠花が一面に咲き乱れる大草原へと変貌していったのだ。
澄んだ風が草原を渡り、どこからともなく色鮮やかな鳥や蝶が舞い戻ってくる。
たった一人の配管工が通した一本のパイプが、滅びかけていた世界そのものを蘇生させたのだ。
「お父さん……見てる……? 雨が……街に雨が降ってるよ……! 砂漠がお花畑になったよ……!」
コレットは雨の中に立ち尽くし、亡き父が遺してくれた真鍮のハンマーを胸に抱きしめて号泣していた。
父が命を賭して求め続けた夢。街のみんなに、蛇口から綺麗な水を飲ませてやりたいという願い。
それが今、目の前で現実となり、空から降り注いでいるのだ。
アッシュはそんな彼女の頭をポンと優しく叩き、穏やかに微笑んだ。
「お前の打ったモールス信号が、この雨を呼んだんだ。胸を張れよ、コレット」
「アッシュさん……っ! う……うわぁぁぁんっ!」
コレットはアッシュの作業着の胸元に飛び込み、子供のように声を上げて泣いた。
その肩を抱くアッシュの横で、天狼コハクが空に向かって高らかに遠吠えを上げ、シロガネが嬉しそうに九本の尻尾を雨に濡らしてエメラルド色に光らせていた。
不死鳥ルビーが空を舞い、海竜サファイアが水たまりから虹の橋を架け、ケルベロス・クロの三つの頭が「「「わふんっ! わふんっ!」」」と尻尾を振って雨のしずくを弾き飛ばしていた。




