第9話:帝都から逃げてきた天才醸造家の没落令嬢〜神聖水で作る奇跡のエール(酒)〜
翌朝。
澄み切った朝日を浴びながら、アッシュは新居の建築に着手していた。
温泉のすぐ隣、見晴らしの良い高台。
荒野に転がっている巨岩を《真理の濾過》で脆い不純物を除去し、強固な大理石ブロックへと再構築して積み上げていく。
職人肌のアッシュにとって、自分の手で理想の家を作り上げる作業は楽しくて仕方がない。
「わふっ! ぐるるる……!」
不意に、泉の警戒をしていたコハクが低く唸り声を上げ、荒野の西の街道を睨みつけた。
その白銀の毛が逆立ち、敵意を剥き出しにしている。
「コハク、どうした?」
アッシュが視線を向けると、遠くの岩煙の向こうから、ガラガラと激しい車輪の軋み音が聞こえてきた。
一台の幌馬車が、猛烈なスピードで荒野を暴走している。
そしてその背後には――体長三メートルを超える巨大な赤黒い魔獣【サンド・ワーム】の群れが、土煙を巻き上げながら地中から迫っていた。
「きゃあああああっ! 誰か、誰か助けてぇぇぇっ!!」
御者台から響く悲鳴。
次の瞬間、ワームの体当たりを受けた馬車の車輪がバキィンと砕け散り、幌馬車は横転して砂煙の中へと投げ出された。
「チッ、魔獣か!」
アッシュが駆け出そうとした瞬間――隣にいたコハクが、風のように弾け飛んだ。
「ウォォォォォォンッ!!」
まだ幼体のはずのコハクから放たれたのは、空間そのものを震わせる神獣の真の咆哮であった。
ビリビリと大気が裂け、不可視の衝撃波がサンド・ワームの群れを直撃する。
突進していた巨獣たちが、まるで目に見えない巨人の拳で叩き潰されたかのように、一瞬で岩盤へと叩きつけられ絶命した。
「……すさまじい威力だな、コハク」
「わふん!」
得意げに胸を張るコハクの頭を撫でながら、アッシュは横転した馬車へと駆け寄った。
積荷の木樽が散乱し、中から芳醇な麦とホップの香りが漂っている。
壊れた木組みの隙間から這い出してきたのは、煤と砂にまみれた一人の若い女性だった。
「うぅ……頭が痛い……。お父様、私の研究が……」
腰まで届く鮮やかなエメラルドグリーンの波打つ髪。
知的な銀縁眼鏡をかけ、仕立ての良い職人ローブをまとった、息を呑むような美貌の令嬢であった。
しかしその額からは血が流れ、全身は打撲と脱水症状で今にも意識を失いそうになっている。
「おい、しっかりしろ! 怪我をしているのか!?」
「あ……な……た……は……? 水……を……帝都の……水が……」
女性はそこまで呟くと、力尽きてアッシュの胸元へと倒れ込んできた。
「重度の脱水と魔力中毒か。……よし、泉へ運ぶぞ」
アッシュは女性を抱き上げ、新設した温泉のほとりへと急いだ。
木製のカップにたっぷりと汲みたての【神聖水】を注ぎ、女性の唇へと少しずつ流し込んでやる。
「ん……ごくん……っ……!?」
神聖水が一滴、喉を通った瞬間。
女性の身体がピクンと跳ね起きた。
額の擦り傷がみるみるうちに塞がり、青白かった頬に薔薇のような赤みが戻っていく。
パチリと開かれた琥珀色の瞳が、驚愕に見開かれた。
「な……な、何ですか、この水は……!? 舌の上に広がる極限の純度、雑味ゼロのミネラルバランス、そして細胞を活性化させる濃密な生命エーテル……! こんな奇跡の水、王宮の秘薬庫ですら見たことがありませんわ!!」
「あ、あの……大丈夫か? 急に起き上がって」
「大丈夫どころではありません! 身体の底から力がみなぎって止まりませんわ!」
女性はガバッと立ち上がると、アッシュの両手をギュッと握りしめて顔を極限まで近づけてきた。
「自己紹介が遅れました! 私はエレナ・フォレスト! 帝都で代々宮廷御用達の酒造ギルドを営んでいたフォレスト伯爵家の長女にして、醸造魔導師です!」
「エレナ……さん? なぜそんな高貴な人が、こんな死の荒野に?」
「帝都の水が完全に死んだからですわ!」
エレナは怒りを露わにして眼鏡をクイッと押し上げた。
「三日前から、帝都中の蛇口からヘドロしか出なくなりました! 水利庁に抗議しても『水魔法でなんとかしろ』と門前払い! 水が腐れば、命である酒もポーションもすべて腐敗します! バルトロメオの無能どもの下で誇りを汚されるくらいならと、最高の水源を求めて家宝の酵母樽を積んで帝都を脱出してきたのです!」
エレナは再び、キラキラと輝くアッシュの泉へと視線を向けた。
その瞳は、まさに世紀の大発見をした学者の熱狂に燃え盛っていた。
「確信しました……! この水があれば、神々すら酔いしれる世界最高の酒【神聖エール】も、死者すら蘇生させる超特級ポーションも思いのままです! お願いです職人様! 私をここに置いてください! あなたの水で、世界をひっくり返す奇跡の酒を造らせてくださいまし!!」
最果ての荒野に、頼もしすぎる最高のパートナーが転がり込んできた瞬間であった。




