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第81話:水が通貨のディストピア「ギア・アルカディア」

「落ち着け、ここは天国じゃない。世界樹の上にある俺たちの露天風呂だ」


 アッシュが苦笑いを浮かべながら、湯気の立つ清潔なヒノキ染めの厚手バスタオルを、少女の華奢な肩へと優しくかけてやった。

 少女の細い体は、寒さだけでなく極度の疲労と脱水によって小刻みに震えていた。

 エレナが腰の薬草ポーチから、神聖水と世界樹の樹液で仕込んだ特製のエーテル軟膏を取り出し、少女の義肢と生身の皮膚の接合部へと丁寧に塗り込んでいく。

「じっとしていてくださいましね。今、熱と炎症を抑える軟膏を塗りますわ」

「あ……あぅ……っ」

 薬効成分が浸透するにつれ、赤黒く腫れ上がっていた生身の肉の炎症がみるみるうちに引き、異常な摩擦熱を持っていた真鍮の継手からシューッと清らかな水蒸気が立ち上った。

 スーッと激痛が消え去ったのか、少女は信じられないものを見るように自らの機械の腕を見つめ、ホッと長い息を吐き出して深々と頭を下げた。

 そして、エレナが差し出した竹筒の神聖水を、震える両手で受け取った。

「あ、あの……これ、飲んでも……いいんですか……? こんなに透き通ってて、光ってる……お水……。金貨……何万枚もするんじゃ……」

「お金なんていらないわ。ただの水よ。さあ、ゆっくり飲んで」

 少女はおずおずと竹筒に唇をつけ――次の瞬間、カッと瞳を見開いた。

「っ!? あ、甘い……!? 冷たくて、喉に染み渡って……身体の奥の火照りが、すーっと消えていく……! う、うそ……こんなお水が、この世にあるの……!?」

 ゴクゴク、ゴクゴクと喉を鳴らして一気に飲み干すと、少女の目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、バスタオルを濡らした。砂漠で干からびかけていた細胞の隅々にまで奇跡の水分が行き渡り、血の気の失せていた頬に桜色の温もりが戻っていく。


「ふぅ……生き返りました……! あ……申し遅れました! 私、コレットって言います! 異世界『ギア・アルカディア』の首都スチーム・シティで、フリーの蒸気技師をやってて……」

「コレット、お前のいた世界で、一体何が起きてるんだ? さっきのモールス信号の遭難警報と、この機械船の惨状は何だ?」


 アッシュが真剣な眼差しで問いかけると、コレットの琥珀色の瞳から一気に光が消え、深い絶望と悪夢を思い出したような恐怖の色が差し込んだ。


「私の世界……ギア・アルカディアは、もうすぐ完全に滅びます……! あと七十二時間で、すべてが吹き飛んで灰になるんです……!」

「七十二時間で滅びる……!? どういうことですの!?」


 エレナが驚愕の声をあげる。コレットは震える真鍮の指を生身の左手で固く握りしめ、自らの故郷を覆う残酷な現実を語り始めた。


「私たちの世界には、魔法なんてありません。神々の加護も、奇跡の力も存在しない世界です。その代わり、蒸気機関と歯車技術が極限まで発達した、機械文明の世界でした。父が若い頃までは、巨大な蒸気機関車が大陸を縦断し、真鍮の飛行船が青空を飛び交い、真鍮の街並みには美しい噴水が上がって、人々は豊かな生活を送っていたんです。でも……数百年前に起きた謎の地殻変動で、惑星全土の地下水脈が、まるで誰かに一滴残らず吸い取られたかのように、突然完全に干上がってしまったんです」

「地下水脈の完全消失……? 自然の地殻変動で、惑星規模の水脈が丸ごと消えるなんてあり得るのか?」


 ガンツが腕を組み、ドワーフの鉱山採掘と地質学の経験から唸るように疑問を投げかけた。

「ああ。地殻の歪みで水脈が途切れることはあっても、惑星中の水が丸ごと消え失せるなんて、自然現象じゃ到底説明がつかねぇな」

「分かりません……。でも、大地は瞬く間に赤茶けた砂漠に呑まれ、雲は消え、今や雨も一滴も降りません。街で手に入るのは、地底深くの廃鉱山から汲み上げた、重油と鉄錆がヘドロのように混ざったドロドロの【油泥水】だけ。それすら、コップ一杯で庶民の月収に匹敵する【金貨百枚】で取引されているんです」

「水が、コップ一杯で金貨百枚……!? そんなの、普通の人間が生きていけるわけがありませんわ!」


 エレナが口元を押さえて絶句した。

 かつて水飢饉に喘いでいた帝都のスラム街ですら、最貧困層であっても公共水路の濁り水ならタダ同然で飲めていた。水が通貨になり、貴金属以上の価値を持つ世界など、想像を絶する地獄である。


「ええ……。だから、人々は生き延びるために、自らの肉体を切り捨てていきました。水分を必要とする生身の腕や脚を切り落とし、真鍮や鉄の機械義肢へと置き換えていくんです。そうすれば、生きていくために体内に補給しなければならない水の量を、半分以下に減らせるから……。『生体縮小(ダウンサイジング)手術』って呼ばれています。私のこの右手と両足も、乾きで意識を失いかけた十歳の時、蒸気技師だったお父さんが、自分の食事と水を削って集めてくれたパーツで改造してくれたものなんです」


 コレットの細い肩が、悔しさと哀しみで小刻みに震えていた。

 自分の身体を削り、機械に変えてでも生き延びようとした人々。

 だが、その血を吐くような努力すら、欲望に狂った権力者によって踏みにじられていたのだ。


「そして……そのわずかな油泥水の全水利権を独占し、世界を牛耳っているのが、世界最大の軍事複合企業――【メガ・バロン重工】です!」


 コレットの瞳に、激しい怒りと恐怖の光が宿る。


「奴らは私設軍隊を雇って街中の給水塔を武力で封鎖し、電子ロックをかけて市民から法外な水代を巻き上げています。お金を払えない者は『機械奴隷』として鉱山へ送られ、死ぬまで重油まみれで働かされる……。そして、今……最も恐ろしい破滅が迫っています。首都スチーム・シティの全動力を支えている超巨大蒸気動力炉『ギガ・ボイラー』の冷却水が、あと【七十二時間】で完全に底をつくんです!」

「ギガ・ボイラーの冷却水が……底をつくだと!?」

「はい! ギガ・ボイラーは、都市の地下の超高熱マグマ脈から熱を吸い上げて動いています。その炉心を冷やす水が完全に干上がれば、炉心が臨界熱暴走を起こして……メガトン級の超巨大水蒸気爆発が起きます! 首都どころか、大陸の半分が木っ端微塵に吹き飛んで、何千万もの人間が一瞬で消滅するんです!」

「な……何ですってぇぇぇっ!?」


 エレナとガンツが同時に叫んだ。

 七十二時間。わずか三日後には、一つの世界が物理的に消滅するというのだ。


「メガ・バロン重工のCEOグレゴリーは、爆発が起きることを知りながら市民に隠し、自分たち役員だけが乗る超巨大次元脱出艇『メガ・アーク号』に、奪った金銀財宝を積み込んで逃げる準備を進めています! 市民たちは何も知らされず、ただ爆発の時を待つだけで……! 私は、お父さんが遺した古代の時空跳躍理論を頼りに、水がある世界を探して、この船で次元の穴に飛び込んだんです……! お願いです、助けてください! 私の街を、みんなを……救ってくださいぃぃっ!!」


 コレットは甲板に額を擦り付け、真鍮の拳を震わせて涙を流した。

 その必死の叫びを聞きながら、アッシュは静かに立ち上がり、腰の工具ベルトのバックルをカチリと締め直した。

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