第80話:次元の裂け目から落ちてきた真鍮の歯車船
ゴオオオオオオオオオオオオッッッ!!
空間の裂け目――次元の断裂面から噴き出してきたのは、焦げ付いた重油の耐え難い刺激臭と、肌をチリチリと焦がすような猛烈な熱風、そして真っ黒な煤煙の塊であった。
露天風呂を満たしていた爽やかなヒノキと硫黄の香りが、一瞬にして工場地帯の火災現場のような悪臭に塗りつぶされる。
あまりの熱気と異臭に、平和を満喫していた五大神獣たちが一斉に臨戦態勢へと跳ね起きた。
コハクが瞬時に立ち上がってアッシュの前に立ちはだかり、クロの三つの頭が「グルルルルッ!」と牙を剥いて威嚇し、ルビーが火花を散らして上空へと舞い上がり、ライカが紫電を角に帯びて身構える。サファイアは水流を纏ってエレナの周囲を取り囲んだ。
「な、何が落ちてくるんですの……!?」
エレナがフルーツボウルを庇いながら後退る。
その空間の亀裂から、凄まじい重金属の軋み音とともに転がり落ちてきたのは――。
ドガァァァァァァァァンッッッ!!!!
世界樹の大枝、露天風呂のすぐ脇に広がる平坦なウッドデッキテラスに、激しい火花と黒煙を撒き散らしながら激突・滑走したそれは、全長十五メートルほどの奇妙な船であった。
木造ではない。
全身が黒ずんだ真鍮と、無数のリベットで補強された厚い鋼鉄装甲板で覆われ、船尾には巨大な歯車機構と蒸気ピストン、そして赤熱して今にも破裂しそうな極太の煙突が突き出している。
「こいつは……蒸気機関船!? だが、見たこともねえ構造だぞ! 魔法の刻印が一切ねえ……純粋な機械仕掛けと蒸気の力だけで、時空の壁を突き破って落ちてきやがったのか!?」
ガンツが目を剥き、愛用の巨大レンチを構えて叫んだ。
船体からはシューシューと超高圧の蒸気が継ぎ目から漏れ出し、外壁の真鍮プレートは高熱で飴のように歪み、装甲の隙間からは粘りつく真っ黒なオイルのタールがボタボタと垂れ落ちている。
ボイラーの内圧計は危険域を遥かに振り切り、このまま放置すれば数秒後には大爆発を起こすのは明白であった。
「ガンツ、消火と減圧だ! サファイア、ボイラーに冷却水を吹きかけろ!」
「キュオオッ!」
サファイアが瞬時に宙を舞い、露天風呂の神聖水を巻き上げて竜巻のような冷気の水流を形成。赤熱した煙突とボイラー外壁へ向けて、一気にシャワーのように浴びせかけた!
ジュワァァァァァァッ!と激しい白煙が立ち上り、爆発寸前だった船体の温度が急速に低下していく。
アッシュは作業着を羽織り、工具ベルトを腰に巻くと、歪んで開かなくなっていた真鍮のメインハッチへと駆け寄った。
バールをハッチの隙間に深くねじ込み、渾身の力でテコの原理をかける。
ギギギッ……バキンッ!
「おい、乗員! 無事か!?」
ハッチを蹴り開けた瞬間、船内から漂ってきたのは、むせ返るようなアルコールの燃料臭と、摩擦熱で焦げ付いた肉の匂い、そして絶望的なまでの「乾き」の気配であった。
煙が立ち込める操縦席の床に、バタリと倒れ伏していたのは――一人の小柄な少女であった。
「……う、水……み……ず……を……」
頭には煤まみれの革製ゴーグル。
油で真っ黒になったボロボロの作業用つなぎを着た、十代半ばほどの華奢な少女。
だが――アッシュの視線は、彼女の身体の異様さを捉えて凍りついた。
少女の右腕と両足は、生身の肉体ではなかった。
無数の微細な真鍮の歯車、油圧シリンダー、そして細い銅パイプによって複雑に構成された、精巧極まりない【機械の義肢】であったのだ。
義肢の関節部からは潤滑油が完全に切れ、キーキーと耳障りな金属摩擦音を立てて焼き付き、皮膚との接合部は赤黒く腫れ上がって激しい炎症を起こしていた。
「ひどい……! 重度の脱水症状だけではありませんわ! 生体組織と機械の接合部が、熱と摩擦で壊疽を起こしかけています!」
駆けつけたエレナが悲鳴のような声を上げた。
少女の唇は泥土のようにひび割れ、舌は白く干からび、呼吸は今にも途切れそうなほど浅い。
指先は痙攣し、手には小さな真鍮のハンマーが握りしめられていた。彼女は、力尽きる最後の瞬間まで、船の配管をこのハンマーで叩き、モールス信号を送り続けていたのだ。
「アッシュ、神聖水よ! 早く!」
「ああ。……ちょっと口を開けるぞ、我慢しろ」
アッシュは腰の水筒を取り出すと、少女の頭をそっと抱き起こし、人肌に温めた神聖純水を一滴、その乾ききった唇へと垂らした。
――トス……。
その瞬間、少女の身体がビクンッと大きく跳ねた。
神聖水が喉を通った瞬間、失われていた生体細胞の水分が一気に満たされ、枯れ果てていた生命のエーテルが全身を駆け巡ったのだ。
「ゴホッ! ゲホッ、ゲホッ……! あ……あぁ……っ!?」
少女が激しく咳き込みながら、カッと大きく目を見開いた。
その大きな琥珀色の瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ出す。
「み、水……!? 甘い……冷たくて、喉が痛くない……! 泥の味がしない……重油の臭いもしない……本物の……本物の水……!?」
「焦るな、ゆっくり飲め。いくらでもあるから」
アッシュが優しく背中をさすりながら、水筒を傾けてやる。
少女は震える真鍮の義手と生身の左手で水筒にしがみつき、ゴクゴク、ゴクゴクと喉を鳴らして貪るように水を飲み干した。
乾ききった大地が雨を吸い込むように、少女の青白かった頬にみるみるうちに健康的な赤みが差し、荒れていた呼吸が穏やかに整っていく。
「ふあぁぁぁぁ……っ!! いきかえ、った……」
少女はその場にペタリと座り込み、自らの胸元を押さえて呆然と呟いた。
そして、周囲を見回した瞬間――五大神獣たちの姿、そして目の前に広がる巨大な露天風呂の透き通った湯面を見て、顎が外れんばかりに絶叫したのだ。
「な、な、何ここぉぉぉぉぉっ!? 水!? こんなに大量の水が、湯気を立てて溢れてるぅぅぅっ!? 天国!? 私、死んで天国の機械神宮に来ちゃったのぉぉぉっ!?」




