第79話:三界の蛇口から響く、謎のモールス信号
――ザアァァァァァ……。
心地よい神聖温湯の注ぎ込む音が、世界樹ユグドラシル・アクアの地上五千メートル――天界の雲海と地上の大陸、そして深淵の冥府のすべてを一望できる特等席に設えられた【三界展望大空中庭園露天風呂】に、静かに、そして豊かに響き渡っていた。
見上げれば、宝石を散りばめたような群青の夜空に、サファイアとアメジストの光を帯びた神聖オーロラが優美なカーテンのように揺らめいている。天界の神殿群が放つ黄金の神気が、大気中の微細な水蒸気と乱反射し、まるで満天の星々が湯船のすぐ頭上で瞬いているかのような錯覚を抱かせる。
見下ろせば、黄金色の雲海を柔らかく透かして、穏やかに夜の明かりが灯る帝都や、世界最強の温泉都市国家アクア・ヘヴンの壮大な街並み。かつては汚水とヘドロの恐怖に怯えていた何千万もの人々が、今ではアッシュの引いた上下水道の恩恵を受け、清潔な湯と水に満たされた幸福な夜を過ごしているのだ。
そして世界樹の主幹の中心に穿たれたクリスタルの大窓を覗き込めば、透き通るクリスタルの清流を取り戻したステュクス川が、死者の魂たちを乗せた渡し舟を優しく対岸へと運ぶ幻想的な光景が広がっていた。万年人手不足とドブ臭さに頭を抱えていた冥王ハデスも、今頃は胃痛から解放され、宮殿の露天風呂で白目を剥いて熟睡しているに違いない。
天・地・冥の全三界のインフラを一本に統合し、全宇宙の蛇口を掌握した男、アッシュ・ウォーカーは、古代ヒノキの丸太の縁に頭を預け、白目を剥いて極上のため息を吐き出していた。
「ふあああぁぁぁぁぁぁぁ……っ!! たまらん……! 今日も今日とて、全身の毛穴という毛穴から魂が溶け出して昇天していきそうだ……」
湯加減は、冷えと疲労を芯から解凍する完璧なる摂氏四十二・八度。
天界の超高純度マナ純水、地上の世界樹神聖炭酸温泉、そして冥界深層のマグマ脈からシェル&チューブ式熱交換器を通じて抽出された濃厚硫黄ミネラルが、アッシュの固有スキル《真理の濾過》によって完璧な黄金比で混ざり合った琥珀色の極上湯。
浸かっているだけで、皮膚の表面にビッシリと超微細な炭酸バブルが吸着し、プチプチと心地よい微細振動を立てながら毛細血管を押し広げ、全身の血流を爆発的に促進していく。
手足を伸ばせば、ふわりと身体が浮き上がるような極上の浮力。硫黄のほのかな芳香と、ヒノキの清々しいアロマが鼻腔をくすぐり、脳の髄まで凝り固まった緊張を完全に融解させていく。
かつて帝都の薄暗く冷え切った地下水路で、悪臭とヘドロにまみれながら、冷たいドブ泥に長靴を浸して働いていた頃のことを思えば、今のこの環境は夢のまた夢、神話の楽園そのものであった。
(あの頃は……一日中汚水に浸かって、足の指先は凍傷寸前、手は油と錆でひび割れて、誰からも感謝されることなく『無能なドブ掃除』と罵られていたっけな……)
湯気に霞む満天の星空を見上げながら、アッシュは自らの頑丈な掌を見つめた。
どれほど罵られようと、配管を磨き、バルブを締め、水を綺麗にすることだけを信じて生き抜いてきた。その職人の誇りと技術が、今や三界の神々と人間と死者たちを救い、この上ない安らぎの湯となって自らを包み込んでくれている。
どれほど莫大な富を手にしようと、神々から崇められようと、アッシュにとっての最高の報酬は、この湯の温もりと、美味い飯と、仲間たちの笑顔が何よりの誇りだった。
「くふぅ〜ん……」
「わふぅ〜♪」
「ふにゃ〜♪」
アッシュの膝の上では、白銀の天狼コハクと、三頭黒ポメラニアンのクロが仲良く重なり合い、完全に脱力した湯豆腐のように平たくなって浮かんでいた。
体長三十センチのクロの三つの頭――右のやんちゃ顔、左のおっとり顔、中央の甘えん坊顔が、それぞれアッシュの太ももや腹に小さな顎を預け、短い漆黒の尻尾を湯の中でパタパタとスクリューのように回転させている。
中央の頭がアッシュの指先をペロペロと甘噛みし、右の頭が気持ちよさそうに目を細めて寝息を立て、左の頭が湯船に浮かぶヒノキの桶を不思議そうにつついている。
コハクが「僕の特等席だぞ」と言わんばかりにアッシュの胸元へ大きな白い鼻先をうずめると、クロの中央の頭がコハクの耳をペロッと舐め、コハクも毒気を抜かれて「ふひゅ〜」と長い鼻息を漏らして身を委ねる。
湯船の縁では、緋色の不死鳥ルビーが翼をパシャパシャと洗って優雅に羽繕いをし、浴槽の底からはミニ海竜サファイアがアッシュの足の指先をツンツンと甘噛みして遊び、紫電鹿ライカは立ち上る湯気の中で優美な紫水晶の角をパチパチと放電させて目を細めている。
全三界を守護する神話の神獣たちが、全員揃って完全無防備なモフモフ生物と化して湯に浸かっているのだ。
「アッシュ、湯上がりの特製フルーツポンチが冷えましたわよ!」
露天風呂のウッドデッキから、上気した桜色の頬をほころばせたエレナが顔を出した。
湯浴み着を纏い、濡れた亜麻色の豊かな髪を無造作に白いタオルで束ねた彼女の手には、氷水でキンキンに冷やされた特大のカットガラスボウルが抱えられている。
中には、天界の黄金リンゴ、地上のルビー苺、そして冥界の月光メロンが、シュワシュワと心地よい泡を立てる神聖水サイダーの中にたっぷりと浮かんでいた。
フルーツの甘酸っぱい芳香と、ミントの清涼感が湯煙の中にふわりと広がり、見ているだけで喉が鳴る。
「お、気が利くなエレナ。風呂上がりの冷たい炭酸フルーツは世界を救う――」
アッシュが湯船から腕を伸ばし、ガラスの器を受け取ろうとした――その時だった。
カチッ、カチッ、カチッ……。
キィィィィィィィィン……ッ!!
露天風呂の給水壁に埋め込まれていた、オリハルコン製の【超次元スマート・バルブ】から、これまでに一度も聞いたことのない高周波の異音が鳴り響いた。
バルブの中央に配されたミスリル製の圧力ゲージが、小刻みにピクピクと跳ね踊り、赤と青の指示針が狂ったように激しく揺れている。
「……ん? 水圧の脈動か?」
アッシュの職人の目が、瞬時に鋭く細められた。
全三界の配管網は、アッシュの手によって完璧なアキュムレータ(脈動緩衝器)とバイパス弁が組み込まれている。天界の気まぐれな神々が一斉に蛇口を開こうが、地上の全都市で風呂に入ろうが、冥界で死者たちが洗濯をしようが、水圧がブレるなど物理的にあり得ない設計なのだ。
もし配管内で異常な圧力波が発生しているとすれば、それはどこかの幹線配管が物理的に破断したか、あるいは外部から途方もない質量による干渉を受けたことを意味する。
「ガンツ、中央制御盤の数値はどうなってる!?」
「旦那、おかしなことになってるぜ!」
併設されたヒノキサウナ小屋から、腰巻き一枚で飛び出してきたドワーフの棟梁ガンツが、愛用の携帯用魔導オシロスコープを叩きながら叫んだ。
額に玉の汗を浮かべた頑固親父の表情には、これまでにない真剣な困惑が張り付いている。
「天界、地上、冥界の三系統の圧力は平常値ど真ん中、ブレは〇・〇一パーセント以下だ! 流量センサーにも一切の漏洩反応はねえ! だが……この配管の振動、管の内部からじゃねえぞ! 配管の外側――【空間の歪みの向こう側】から、直接金属を叩くような衝撃波が伝わってきてやがる!」
「空間の歪みの向こうだと……?」
アッシュは湯船から上がり、濡れた身体に大判のバスタオルを巻き付けると、異音を立てるスマート・バルブへと足早に歩み寄った。
左手を配管の真鍮継手へとそっと押し当てる。
「――《真理の濾過・微振動解析》」
サファイアブルーの魔法陣が配管の表面を走り、金属内部を伝わる微細な音波が、アッシュの脳内へ立体的な波形として展開された。
アッシュの鼓膜に、硬い金属工具でパイプの壁を鋭く打ち鳴らすような、極めて規則正しい打撃音が飛び込んでくる。
――ト、ト、ト。
――ツーーーー、ツーーーー、ツーーーー。
――ト、ト、ト。
「……モールス信号だ。それも、太古の帝国工兵隊が崩落事故で地下水路に生き埋めになった時、配管をスパナで叩いて救助を呼ぶ【非常遭難打鐘信号(SOSコード)】だぞ」
アッシュが呟いた瞬間、エレナがハッと息を呑み、ボウルを抱えた手を震わせた。
「遭難信号……!? 天界でも地上でも冥界でもない、別のどこか……異次元の世界から響いているというのですか!?」
「ああ。信号のリズムを復号すると……『水が……尽きる……。炉心が……臨界爆発……する……。誰か……水を……恵んで……』」
途切れ途切れに響く、息も絶え絶えの悲痛な工兵暗号。
何者かが、死の淵で最後の力を振り絞り、配管の壁を叩いて全宇宙へ助けを求めている。
その直後――露天風呂の上空、紫色のオーロラが揺らめく空間そのものが、まるで巨大なガラス板に鉄球を叩きつけたかのような、凄まじい破壊音を立てて裂け始めたのだ!
バリンッッッッッ!!!!




