第70話:冥王ハデス、胃痛を抱えて土下座来訪〜「頼む、余の胃と冥府を救ってくれ!」〜
汚職裁判官神ラダマンテュスが自らの肥溜めピットに頭から沈み、ステュクス川の船着き場が死者たちの歓喜と喝采に沸いていた、まさにその時であった。
冥府の地平線、漆黒の黒曜石で築かれた巨大城塞『ハデス宮殿』の大門が重々しい地鳴りとともに開き、紫色の濃密な霊気の霧を割って、一頭の巨大な黒毛の幻獣に跨った人物が姿を現した。
黒漆の長城を震わせる、圧倒的かつ荘厳なる神気の波。
夜の帳を織り上げたような漆黒のマントをはためかせ、白銀の長髪に黒水晶の王冠を戴いた、長身痩躯の冷徹なる貴公子。
――この深淵なる死者の国を統括する絶対神、冥王ハデスその人であった。
その放つ威圧感は、かつて天上界で相対した軍神バルドルや水利神ネプチューンすら凌駕する、星の底の底を統べる絶対強者のオーラ。
河原にいた数百万の死者たち、老船頭カロン、そして死神タナトスが一斉に息を呑み、恐怖と敬愛のあまり地面に平伏した。
「め、冥王様……! ラダマンテュス様を懲らしめたのは、川の詰まりを直すためで、決してアッシュ様に他意は――」
タナトスが真っ青な顔でアッシュを庇おうと前に進み出た。
だが――。
「……ぐ、う……っ!? ううううっ……!」
黒馬から優雅に降り立ったはずの冥王ハデスは、威厳に満ちた眉目秀麗な顔を突如として激痛に歪めると――右手で自らの胃袋のあたりをギリギリと強く押さえ、その場に膝をついてうずくまってしまったのだ。
「……え?」
タナトスがぽかんと目を丸くした。
よく見れば、ハデスの顔色は土気色を通り越して病的な青白さ。目の下には、数千年一睡もしていないかのような濃い隈が刻まれ、端正な唇は脱水と疲労でひび割れていた。
万年深刻な人手不足、毎日押し寄せる死者たちのクレーム処理、裏で不法投棄に手を染めていた官僚神の不正、そして何万年もの間、窓を開けるたびに部屋へと吹き込んできた三途の川のドブ臭さ……。
神話の開闢以来、一日も休むことなく過酷極まりないブラック労働の全責任を一人で背負わされ続けてきた冥界の絶対神は、極限のストレスと心労によって、重度の慢性胃潰瘍寸前の限界状態だったのである!
ハデスは額から冷や汗を滝のように流しながら、ふらつく足で立ち上がると、アッシュの前へと一歩一歩、すがるように進み出た。
そして――周囲の全死者、全神官、そしてエレナやガンツまでもが我が目を疑う光景が繰り広げられた。
バサァッ!
ハデスは自慢の漆黒のマントを払うと、惜しげもなく両膝を河原の小石と砂利に叩きつけ――アッシュの履く泥まみれの安全作業ブーツの直前で、深々と額を地面に擦り付けたのだ!
「め、冥王様が……下界の人間に土下座をぉぉぉっ!?」
河原全体に雷鳴のような衝撃が走った。
だが、ハデスは額を地面につけたまま、掠れた声で、魂の底から絞り出すように切々と訴えかけた。
「アッシュ殿……! 我が不甲斐ない部下たちの数々の無礼、そして全宇宙が垂れ流したゴミのツケを貴殿の現場へ押し付けてしまった愚行、平にお許し願いたい……! そして……頼む……頼むッ!」
ハデスはガバッと顔を上げ、涙ぐんだ瞳でアッシュの作業グローブを両手で固く握りしめた。
「余の胃を……そして、この凍てつき腐りかけた死者の国を……どうか救ってはくれまいか! 冥府の全水利権、全インフラの改修全権を貴殿に預ける! 冥界の全予算、全資材、余の持てる権限のすべてを差し出す! だから頼む……余を、この万年キリキリと焼け爛れる胃の激痛と、鼻の曲がる悪臭から解放してくれぇぇぇっ!!」
そこにあったのは、傲慢な神のプライドなどでは断じてなかった。
何万年も現場の最前線で激務に耐えかね、今にも折れそうになっていた一人の孤独な最高責任者の、真摯極まりない魂の叫びであった。
アッシュは思わず苦笑いを浮かべると、ハデスの冷え切った肩を、ポンと力強く叩いた。
「話のわかるトップは大歓迎だ。……よくここまで一人で投げ出さずに耐えてきたな、ハデス」
「アッシュ殿……っ!」
「安心しろ。詰まったドブはきれいに浚渫した。次は――冥界の奴ら全員、冷え切った身体と胃袋を、芯からポカポカに温めてやる番だ!」




