第67話:【真空サイフォン浚渫作戦】開始!〜三途の川のヘドロを一気呵成に吸い尽くせ〜
クロ(三頭ポメラニアン姿のケルベロス)が仲間へ加わり、船着き場の安全が完全に確保されたところで、アッシュのインフラ工学の真骨頂が火を噴く時がやってきた。
霊川ステュクス――幅数百メートル、全長数十キロにわたって堆積する、数億トンに及ぶ魂の高分子ヘドロ。
これをスコップやバケツ、あるいは個人の魔導魔法などでチマチマとすくい取っていたのでは、何百年、何千年あっても終わるはずがない。
「アッシュ、冥界と地上の流体モデル、解析完了したわよ!」
エレナが魔導スクリーンを展開し、冥府の深淵と地上の高度・気圧断面図をパッと立体投射した。
青く光る測定データを見つめながら、アッシュの唇に不敵な笑みが浮かぶ。
「よし。工学の基本にして究極の力技――【三界高低差・真空サイフォン浚渫オペレーション】を敢行する!」
「へいよ旦那! ドワーフ工兵隊の魂を込めた、大口径オリハルコン製サイフォン吸引幹線、組み立て完了だぜ!」
ガンツが愛用のハンマーで誇らしげに叩いたのは、直径三メートル、潜水艦の耐圧装甲板を三層に重ね合わせたような超巨大吸引パイプであった。
アッシュの立案した作戦は、まさに流体力学の極致にして、世界の構造そのものを利用した前代未聞の土木作戦であった。
地上の世界樹根元(標高ゼロメートル)の大気圧は一気圧。
対して、地底一万メートルの冥界深淵に充満する高密度死霊気圧は、実に【約三気圧】に達している。
この地上と冥府の『二気圧の圧倒的な気圧差(約二十トン/平方メートルの差圧)』に加え、天界までそびえ立つ世界樹ユグドラシル・アクアが持つ驚異的な樹液蒸散力(負圧バキューム)を直結させることで、世界樹そのものを【全宇宙最大の超巨大真空掃除機】へと仕立て上げるのだ!
「だがアッシュ、この超高圧でヘドロを一気に吸い上げたら、管内で急激な圧力降下が起きてキャビテーション(空洞現象)が発生するんじゃないか? 衝撃波でパイプが内側から粉々に砕けちまうぞ」
ガンツが懸念を口にする。流速が上がりすぎると流体内に無数の真空の泡が生じ、それが崩壊する際の衝撃波で金属が破壊される――高圧配管における最も恐ろしい物理現象だ。
「その対策も完璧だ」
アッシュはパイプの接続部を指差した。
「吸引ノズルの内側に、多孔質チタン製の整流コーンと、神聖純水を微細噴霧するアキュムレータ(脈動緩衝器)を組み込んである。ヘドロが管内に入った瞬間に《真理の濾過》の微振動パルスで高分子結合を寸断し、流動性を劇的に引き上げながら吸い上げる。これならキャビテーションは一ミリも起きない」
「ひゃあ……! 相変わらず旦那の設計は、神様でも裸足で逃げ出す精密さだぜ!」
「クロ、サファイア! お前たちの出番だ。パイプの先端を、川底の最深部の沈殿ピットへ沈めてくれ!」
「「「わふんっっ!」」」
クロの三つの頭が同時に元気いっぱいに吠えた。
サファイアが水流の渦を纏って巨管を押し込み、クロが頑丈な漆黒の爪で川底のヘドロの層へノズルをガッチリと固定する。
「全系統の気密弁閉鎖確認。……地上循環バイパス、接続よし!」
アッシュは中央制御盤の前に立ち、巨大なオリハルコン製マスターバルブに両手をかけた。
「――真空サイフォン浚渫ライン、一斉急開放!!!!」
ガコンッッッ!!
アッシュが渾身の力でレバーを引き倒した。
ズズズズズズズズズズッ……!!
ドゴオオオオオオオオオオオオオッッッ!!!!
冥府の空間そのものがビリビリと共振した。
三気圧の冥界大気が、絶対真空となったオリハルコンパイプの中へと猛烈な力で押し寄せる!
その瞬間、川底に沈殿していた数万年分の漆黒のコールタールが、猛烈な大轟音とともに、巨大な黒竜のような竜巻となってパイプの中へと吸い込まれ始めたのだ!
ズバババババババババッ!!
ジュオオオオオオオオオオオオッ!!
「な……なんじゃこりゃあぁぁぁっ!?」
煙管を取り落とした老船頭カロンが、顎が外れんばかりに目を見開いて絶叫した。
幅数百メートルの川底を覆い尽くしていたドロドロの黒泥の層が、まるで剥ぎ取られる絨毯のように、目に見える猛烈なスピードで吸い上げられていく!
吸い上げられたヘドロは、パイプ内を音速近い速度で駆け抜け、世界樹の内部に設置されたアッシュの《真理の濾過》多段グリッドを通過。
そこで瞬時に分子分解され、無害な星屑結晶となって、地上と天界の土壌改良材へと安全に還元されていくのだ。
そして――作業開始から、わずか二時間後。
――サラサラサラサラ……。
川面を覆っていたドブ臭いガスと有毒な湯気が完全に晴れ渡った。
冥府の暗黒の頭上に揺らめく紫とエメラルドのオーロラが、川面に鏡のように美しく映し出される。
かつてのコールタールのドブ川は跡形もなく消え去り、そこにあったのは――川底に敷き詰められた純白の霊石が宝石のように輝く、底の底まで透き通った【クリスタル・クリアの神聖霊川】であった!
「す、滑る……! 舟が……舟が羽が生えたように滑るぞぉぉぉっ!!」
カロンが恐る恐るオールを握り、川面へと差し入れた。
力を込めるまでもなく、木造の渡し舟は水面を滑空するようにスイスイと対岸へ向けて走り出した。オールに泥の重みは微塵もない。水滴がキラキラと光の粒になって弾けている。
『渡れる! 川が渡れるぞぉぉぉっ!!』
『臭くない! 息ができる! 魂が軽くなっていく……!』
『アッシュ様万歳! 神聖配管工様万歳だぁぁっ!!』
河原に待たされていた数百万の死者たちから、地鳴りのような大歓声と涙の拍手が巻き起こった。
何万年も停滞していた冥府の輪廻転生サイクルが、下界の配管工の知恵と技術によって、奇跡の超高速再稼働を果たした瞬間であった。




