第65話:地獄の番犬ケルベロス襲来!〜狂乱の三頭巨獣と有毒スラッジ〜
ドズドズドズドズドズッッッ!!
一歩ごとに冥界の岩盤を粉々に踏み砕く、猛烈な地響き。
川の上流から突進してくる漆黒の巨影を目にした瞬間、船着き場を埋め尽くしていた数百万の死者たちの顔が、一斉に恐怖で引きつった。
『ヒィィィィィッ!? 出たぁぁぁっ! 正門の番獣、ケルベロス様だぁぁっ!!』
『逃げろ! 今のケルベロス様は正気じゃない! 近づいた魂を無差別に噛み砕いて貪り食ってしまうぞぉぉっ!!』
『助けてくれぇぇぇっ! 死んでるのにまた殺されるぅぅっ!!』
河原は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
死者たちが蜘蛛の子を散らすように四方八方へと逃げ惑う中、立ち込める黒煙を突き破って、その伝説の巨獣が姿を現した。
――冥府の正門を守護する絶対防壁にして、冥界最強の神獣【地獄の巨犬ケルベロス】。
体長は優に二十メートルを超え、まるで小型の城郭がそのまま歩行しているかのような威容。
鋼鉄のワイヤーを幾重にも編み込んだかのような、太く硬い漆黒の剛毛に覆われた体躯。
丸太のように太い四肢には、巨大な岩塊すら粘土のように握り潰す鋭利な黒爪がギラギラと光っている。
そして――太い筋肉の塊である首の先には、凶暴極まりない【三つの巨大な犬の頭】が生え揃っていた。
だが――本来であれば冥府の厳格な秩序を守護するはずの高貴なる神獣は、今や完全なる狂乱と耐え難い激痛の坩堝に呑み込まれていた。
右の頭は虚空に向かって血走った眼を見開き、狂ったように自らの牙を打ち鳴らして泡を吹いている。
左の頭は喉を掻きむしるように前足の爪で自らの首筋を引っ掻き、赤黒い血を流していた。
そして中央の頭は、ドス黒いコールタール状のヘドロ混じりの涎を口端からボタボタと滝のように垂れ流しながら、天に向かって悲痛な絶叫を轟かせていたのだ。
「グルアアアアッ!」「ギャオオオッ!」「ヴォオオオオッ!!」
三つの頭が互いに意思疎通を失い、痛みに狂うあまり、お互いの耳や首筋へと獰猛に噛みつき合っている。
神話の巨獣が自らを傷つけ、血を流しながらのたうち回るその凄惨な光景に、エレナが魔導分析器を掲げながら悲痛な叫びを上げた。
「アッシュ、生体スキャンの結果が出たわ! ケルベロスの第一胃から第四胃にかけて……ステュクス川の毒ヘドロが、三千トン以上も凝固してパンパンに詰まっているのよ!」
「三千トンだと……!?」
アッシュが眉を跳ね上げた。
「ええ! ケルベロスは本来、ステュクス川の霊水を飲むことで冥府の魔力を摂取し、循環させる生体構造なの! でも、川が猛毒のタールスラッジに汚染されたせいで……渇きに耐えかねて毒泥を大量に飲み込んでしまったのよ! その結果、胃袋の中でヘドロが急速に硬化して、巨大な血栓ならぬ『胃石塊』になってしまっているわ! ケルベロス自身の体内熱源――地獄の業火がヘドロを加熱して、猛毒の硫黄ガスと重金属蒸気が脳神経に逆流しているの! 自家中毒による激痛で、もう意識が狂い死にそうになっているんだわ!!」
「……冗談じゃねえぞ」
アッシュの瞳に、激しい義憤の炎が灯った。
「上流の人間や神々が何億年も垂れ流してきたツケを……一番真面目に持ち場で門番をしていた犬が、全部一人で飲み込んで苦しんでたってわけか。ふざけた話だ!」
「グルオオオオオオオオッッッ!!」
その時、狂乱の極みに達したケルベロスの三つの頭が、揃ってアッシュたちの姿を視界に捉えた。
苦痛に苛まれる魔獣にとって、視界に入るすべての動くものは「自分を苦しめる外敵」でしかない。
ガバッッッ!!
三つの巨大な顎が同時に最大角まで開き、喉の奥深くで圧縮された黒紫色の地獄の業火が、禍々しい渦を巻き始めた。
冥界の超高熱マグマと有毒スラッジが融合した、触れるものすべてを分子レベルで消滅させる【滅びの黒炎ブレス】。
それが、一直線にアッシュたちめがけて解き放たれた!
ゴオオオオオオオオオオオオッッッ!!
「アッシュ殿、危ねえっ! 退避しろぉぉっ!」
ガンツが叫び、巨大レンチを構えた瞬間――アッシュの足元から、頼もしすぎる仲間たちが電光石火の連携で飛び出した!
「グルルルル……ワオオオオオオオオッッッ!!」
先陣を切ったのは、白銀の天狼コハクであった。
愛らしい子犬の姿から、一瞬にして体長十五メートルの神話級巨獣へと完全解放!
前足を力強く冥界の岩盤に叩きつけると、大地の引力場を極限まで歪曲させた【超重力偏向防壁】を展開した!
ズドォォォォンッ!!
迫り来る黒炎ブレスの奔流が、コハクの不可視の重力壁に激突し、直角に上方へとねじ曲げられて冥府の暗黒の天蓋を焦がす!
ピギャアアアアッ!
上空へと舞い上がった不死鳥ルビーが、紅蓮の翼を大きく羽ばたかせた。
天界の聖なる火炎がシャワーのように降り注ぎ、空中に充満していた有毒ガスを瞬時に酸化分解・中和していく!
キュイイイイイッ!
アッシュの腰のポシェットから飛び出した海竜サファイアが、空間の水分を一気に集束させ、幾重もの巨大な氷結水流の帯を生成。
暴れるケルベロスの四肢へと巻き付き、マイナス百五十度の絶対冷却で足元をガッチリと氷結させて縫い止めた!
ビシッ、バチチチチチッ!!
そして――紫電鹿ライカが、優美な紫水晶の枝角から、精密に制御された生体微弱パルス電流を放出した。
神経系を麻痺させる電撃がケルベロスの首筋を走り、狂乱して互いを噛み合っていた三つの首の筋肉の痙攣を、ピタリと鎮静化させたのだ!
「四大神獣の完全拘束……! 全身の運動機能、五秒間停止したわ! 今よ、アッシュ!」
エレナの鋭い叫び声が響く。
アッシュはすでに動いていた。
オリハルコン製の大型高圧洗浄ノズルと、極太の耐圧フレキシブルホースを両肩に担ぎ、身動きの取れなくなったケルベロスの巨躯へ向かって、一直線に駆け出した!




