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第64話:三途の川の船頭カロン、座礁してオールを投げ出す〜ヘドロで進まぬ渡し舟〜

「やってられるかぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! こんな仕事、六文銭ぽっちでやってられるわけがあるかぁぁぁっ!!」


 霊川ステュクス――古来より死者の魂が来世へと旅立つために渡る『三途の川』の船着き場に、老船頭のブチギレた絶叫が木霊した。

 ボロボロの灰色の頭巾を被り、長い白髭をヘドロとタールまみれにした渡し守カロンが、樹齢三千年の黒トリネコ材から削り出した自慢の大型オールを、ドスンと河原の泥土に叩きつけたのだ。

 オールからは鈍い亀裂の音が響き、粘りつく黒い糸がボタボタと垂れ落ちていた。


 その目の前に浮かぶ――いや、完全に沈みかけているのは、数百人の死者の魂を一度に対岸へと運ぶはずの冥府公式の大型渡し舟であった。

 かつては滔々と流れる神聖な霊気を浴びて、水面を滑るように軽やかに航行していたはずの木造船が、今や深さ三メートルを超えるドロドロのコールタール状スラッジの中に、船底から喫水線の上までガッツリと呑み込まれ、ビクとも動かない。

 船体を取り囲む黒い泥濘からは、ボコッ、ボコッと腐敗した有毒ガスが泡となって破裂し、鼻腔を針で突き刺すような猛烈な悪臭を撒き散らしている。


「おい、カロンの爺さん! 早く舟を出してくれよ!」「いつまで待たせる気だ!」「足元からドブ臭いガスが上がってきて、魂の輪郭が溶けちまうぞ!」「息ができない! 死んでるのに窒息しそうだ!」「おい冥府の役人はどこ行った! 暴動を起こすぞ!」


 河原を埋め尽くしているのは、見渡す限り地平線の彼方まで長蛇の列を作った、数百万に及ぶ死者の青白い霊魂たちであった。

 生前の未練や病の苦痛から解放され、安らかに川を渡って来世への審判を受けるはずの魂たち。

 だが、渡し舟が完全に座礁して運行停止となったことで、彼らはこの吹き溜まりの河原に何日も、何週間も足止めを喰らっていた。

 足元から立ち上る有毒ヘドロの霊毒に長時間晒され続けた霊魂たちは、次第にその透明な輪郭を黒く濁らせ、怨念に狂った【悪霊】へと変質しそうな一触即発のパニック状態に陥っていたのだ。


「うるせえ! 文句があるなら冥王様に言えってんだ!」


 カロンは泥まみれになった麻布の服の裾を雑に絞り、唾を吐き捨てるように喚き散らした。


「見てみろ、この川の有様をよぉ! 水じゃねえ、ただの煮詰まったタールじゃねえか! オールを川底に突き刺したらな、粘土質の底土に吸い付かれて抜けなくなって、腕の骨が折れそうになるんだよ! 舟の底にもフジツボみてえに毒泥がビッシリへばりついて、総重量が十倍になってやがる! どんな怪力無双の漕ぎ手でも、こんなコールタールの海原を進めるわけがねえ! 冥界の役所は『所定の運航ダイヤを守れ』だの『六文銭の運賃以外は受け取るな』だの机上の空論ばかり抜かしやがって……! もう知らん! ワシは今日限りで無期限ストライキじゃ!!」


 老船頭は河原の黒曜石にドカッと腰を下ろすと、懐から取り出した煙管(キセル)を咥え、完全にサボタージュを決め込んで背を向けた。

 死者たちの怒号と悲鳴がさらに高まり、暴動の炎が燃え上がろうとした――まさにその時であった。


 ザッ、ザッ、ザッ……。


 周囲の重苦しい空気を切り裂くように、硬質で機能的な足音が響いてきた。

 それは、泥濘に足を取られる霊魂たちの頼りない足音とは根本的に異なる、特殊耐酸鋼板が仕込まれた分厚い【職人安全ブーツ】が、大地をしっかりと踏みしめる音であった。


「……なるほどな。話には聞いていたが、現場で見ると想像以上に酷い有様だ。流体力学的に見れば、流動性が完全に死滅している」


 死者たちの人混みを割って現れたのは、頑丈な作業服に身を包み、防毒機能付きの特製レザーマスクを装着した青年――アッシュであった。

 肩にはオリハルコン製の長いサンプリング柄杓を担ぎ、腰の工具ベルトには各種レンチや測定ゲージが整然と吊るされている。

 アッシュのすぐ後ろには、魔導記録板を手にして周囲の霊圧を計測するヒロインのエレナ、巨大なチタン製レンチを担いだドワーフの棟梁ガンツ、そして白銀の天狼コハクをはじめとする四大神獣たちが堂々と従っていた。

 生気を放つ生きた人間の登場に、河原の死者たちがザワッと息を呑んで道をあける。


「な、なんじゃお前さんらは……? 生きた人間が、なんでこんな地獄の吹き溜まりにおるんじゃ?」


 カロンが煙管を咥えたまま目を白黒させた。

 アッシュは老船頭の問いには答えず、川岸へと歩み寄ると、膝を突いてサンプリング柄杓をドロドロの黒泥へと差し入れた。

 ズブリ……と重たい手応えとともに柄杓を引き上げる。

 すくい上げられた黒い泥は、まるで溶かしたアスファルトのように糸を引き、強烈な刺激臭を放っていた。


「アッシュ、測定データが出たわ!」


 エレナが魔導記録板を覗き込みながら、青ざめた顔で報告する。


「動粘度係数は通常の水の十万倍以上……! さらに、高濃度の重金属霊イオンと、分解されなかった思念エーテルが複雑に重合して、超高分子のゲル状ポリマーを形成しているわ。これでは流速がゼロになるのも当然よ。底面摩擦抵抗が無限大に近づいているもの!」

「ああ。エレナの分析通りだ」


 アッシュは柄杓の黒泥の上にそっと左手をかざした。

 カチリ、と頭の中で固有スキルの回路が接続される。


「――《真理の濾過・物性スキャン》」


 サファイアブルーの魔法陣が泥の表面を撫でるように光を放ち、ヘドロの内部構造が瞬時にアッシュの網膜へ立体投射された。


「……天界と地上で溜まっていた数億年分の因果の沈殿物が、世界樹の根の貫通によって最下層のここに一気に雪崩れ込んできたんだ。本来なら自然に流れるはずの川底に、未精製の霊的コールタールが何十メートルも堆積して、三途の川全体の血栓になってる。……これじゃあ、どんなに熟練した船頭が命を削って漕いだところで、一ミリも進むわけがない」

「お、お前さん……! 一目見ただけで、この泥の正体と構造を看破したというのか……!?」


 カロンが煙管を取り落とし、震える指でアッシュを指差した。

 数千年間、三途の川の船頭を務めてきたカロンでさえ、「得体の知れない祟り」としか認識できていなかった現象を、この青年は冷徹な工学の論理で完全に解体してみせたのだ。


「原因が分かれば、対処は簡単だ」


 アッシュは柄杓に残った黒泥に掌をかざし、シュルルル……と一瞬でサラサラの白い純白砂へと濾過して川岸へ捨てた。

 その神業のような手並みに、周囲の死者たちから「おおっ……!?」「泥が一瞬で綺麗な砂になった……!?」と驚嘆のどよめきが走る。


 アッシュは泥だらけの老船頭の肩を、ポンと力強く叩いた。


「おい、カロンの爺さん。煙管でもふかして、そこでゆっくり休んでな。……俺がこの川に溜まったヘドロを全部浚渫して、お前の舟が飛ぶように水面を滑る、透き通ったクリスタルの清流に戻してやるよ」

「な、何じゃとぉぉぉっ!? この何十キロも続く三途の川のヘドロを、全部掃除するじゃと……!? そんな神話の神々でも不可能な土木工事、人間一人にできるわけが――」


 カロンが叫びかけた、その時であった。


 ――ズズズズズズズズズズッ……!!

 ――グオオオオオオオオオオオオオッ!!


 冥府の薄暗い大気をビリビリと震わせる、巨大な地鳴りと、天を裂くような禍々しい獣の咆哮が重なり合って轟いた。

 川の上流、切り立つ黒曜石の断崖絶壁の向こうから、猛烈な黒煙と紫色の火花が噴き上がり、大地そのものが波打つように揺れ始めたのだ!

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