第62話:「三途の川がドブ川で死ぬ!」〜泣き叫ぶ美少女死神タナトス〜
「ひっぐ……えぐっ……! もう嫌ぁぁぁっ! こんなブラックな職場、やってられるわけないじゃないのよぉぉぉっ!!」
世界樹の根元の大理石テラスに突っ伏し、大鎌を投げ捨てて子供のように足をバタバタさせて号泣したのは――冥府の魂引導役を務める高位死神、タナトスであった。
本来であれば、冷酷無比に人間の寿命を刈り取り、死者の魂を冥府へと導く、神々すら恐れ慄く絶対の死の執行者。
しかし――現在のタナトスには、そんな神話の威厳など微塵も残っていなかった。
自慢の銀糸の髪はコールタールのような黒泥でガチガチに固まり、華奢な手足は擦り傷だらけ。何より、その黒いローブからは、目を開けていられないほどの猛烈なドブ川の腐敗臭が漂っていた。
「おいおい……大丈夫か? 怪我をしてるのか?」
アッシュが駆け寄り、耐薬手袋をはめた手でタナトスの背中を優しくさすってやる。
タナトスはおっかなびっくり顔を上げ、アッシュの作業着にしがみついて叫んだ。
「だ、誰でもいいから助けてぇぇぇっ! 冥界が……我が愛する冥府が、うんこ泥の底に沈んじゃうのよぉぉぉっ!!」
「落ち着け。何があったんだ? 配管工として話を聞こう」
「配管工……? わけがわからないけれど、聞いてちょうだい! 三途の川……あの神聖なる霊川『ステュクス』が、完全にドブ川になって大氾濫してるのよぉぉっ!!」
タナトスが涙と鼻水を垂らしながら語った冥界の惨状は、アッシュたちの想像を絶するものであった。
そもそも、この世界の霊的構造において、地上で死を迎えた人間の魂や、洗い流された思念の不純物は、自然の循環によって冥府のステュクス川へと流れ込み、そこでゆっくりと希釈・浄化されて輪廻転生の輪へと還る仕組みになっていた。
だが――数ヶ月前。
アッシュが地上全土と天上界のインフラを《真理の濾過》で徹底的に大掃除した結果、何が起きたか。
「地上の水があまりにも綺麗になりすぎたせいで……地上と天界の水脈に溜まっていた数億年分の『霊的沈殿物(魂のヘドロ)』が、逃げ場を失って……全部、一番下にある冥界のステュクス川へ一気に雪崩れ込んできたのよぉぉぉっ!!」
「な、何だって……!?」
エレナが息を呑んだ。
インフラの絶対法則――上流を綺麗にすれば、適切な最終処分場がない限り、老廃物は最下流の末端へと押し出される。
世界最下流の終末処理場であった冥府に、全宇宙のツケが一斉に回ってきたのだ!
「その結果……三途の川は水深十メートルまでドロドロのコールタール状に凝固して、船頭カロンの渡し舟が完全に座礁! 川を渡れない死者の魂が、川岸に何百万人も足止めされて大暴動を起こしているの! 川からは有毒な死毒ガスが噴き上がって、死神も獄卒も全員がゲロを吐いて倒れて……冥府の機能が完全に麻痺してるのよぉぉぉっ!!」
タナトスはアッシュの胸元に顔を埋めてワアワアと泣きじゃくった。
死者の魂を導くどころか、現場の死神自身が窒息死しかけて、天井の穴から逃げ出してきたのだ。
「職人の責任問題、だな……」
アッシュは重々しく呟くと、腰の水筒を取り出し、蓋を開けた。
ふわりと立ち上る、清冽な神聖水の甘やかな香り。
「ほら、泣くのをやめて、これを飲め」
「えっ……? な、何よこれ……水……?」
タナトスが恐る恐る口をつけ、ゴクリと一口喉に流し込んだ。
その瞬間――。
「…………っっっっっっっっっっっ!?!?!?」
美少女死神の紫の瞳が、限界まで見開かれた。
ジュワァァァァッ!と、体内にこびりついていた死毒ガスと疲労物質が、原子レベルで一瞬にして洗い清められていく!
全身の細胞が歓喜に震え、泥まみれだった銀髪がサラサラとした絹糸の輝きを取り戻した。
「な、何なのこれぇぇぇぇっ!? 甘い……! 身体の奥が……魂が洗われて、羽が生えたみたいに軽くなっていくわ……!!」
「最果ての神聖純水だ。……よし、事情はわかった」
アッシュはモンキーレンチを力強く握り直し、不敵に笑った。
「詰まったドブ川を放置して、のんびり温泉に入ってられるほど俺はお人好しじゃない。上流を掃除したなら、最下流の排水口まで全部責任を持って綺麗にするのが配管工の矜持だ。……エレナ、ガンツ! 三途の川の浚渫に行くぞ!」
「ええ、アッシュ! どこまでもついていくわ!」
「へっ! 地獄のドブ掃除たぁ、腕が鳴るぜぇっ!!」
元下水掃除人と仲間たちの、前代未聞の【冥界大水利レスキュー・オペレーション】が幕を開けたのであった。




