第61話:天界の蛇口のその先で〜世界樹の根が冥府の蓋をぶち抜いた件〜
地上都市国家アクア・ヘヴンから、標高一万メートルの成層圏に浮かぶ天上界へと至る【天空超高圧パイプライン】が開通してから、およそ一ヶ月。
天界の全神殿に設置されたオリハルコン製スマート・バルブは極めて順調に稼働し、地上と天上界は、神話史上かつてない大繁栄と至福の温泉スローライフを謳歌していた。
地上の蛇口を捻れば、神聖ミネラルを含んだ甘露の軟水が流れ、帝都や各国の農作物は空前絶後の大豊作。
天界の蛇口を捻れば、肌をツヤツヤに潤す極上炭酸温泉が掛け流され、神々は毎日のように湯に浸かって歓喜し、アッシュの魔導大金庫には毎秒毎分、神力コインがチャリンチャリンと滝のように降り注ぎ続けていた。
だが――現場の最高責任者である元下水掃除人アッシュ・ウォーカーの目は、この平和の裏に潜む、わずかな流体挙動の乱れと地殻の違和感を決して見逃していなかった。
「……おいガンツ、中央監視盤の第一地底バイパス系統、差圧計の針を見てみろ」
「ああん? ……んんっ!? なんだこりゃあ、旦那! マイナス五十キロパスカル……負圧が発生してやがるぞ!?」
世界樹ユグドラシル・アクアの基部に設置された中央管理司令室。
ミスリル製の計装コンソールを前に、アッシュとガンツが油の染みた図面を広げながら眉を寄せていた。
天上界へ向けて毎秒数百トンの水を押し上げているはずの主幹パイプライン。その一番下、地底深くへと根を張る世界樹の最深根ブロックにおいて、水がどこか未知の深淵へと吸い込まれ、異常な圧力低下を引き起こしていたのだ。
「吸い込まれているだけじゃないわ、アッシュ。地質データを見て」
魔導分析器の水晶板を覗き込んでいたエレナが、亜麻色の髪を耳にかけながら、真剣な眼差しで告げた。
「地上と天界の水脈がアッシュの《真理の濾過》で完璧に浄化されたことで、世界樹の細胞活性と樹液浸透圧(根圧)が、理論値の三倍以上に跳ね上がっているの。その強烈な生命力によって、主根が地殻の断層を押し広げながら地底深くへと猛烈に潜航しているわ。そして――地底五千メートルの最深底から、あり得ないほどの超高濃度重金属イオンと、死霊魔力の反応が逆探知されているのよ。これ……かつて帝都の地下水路に溜まっていた魔毒スラッジの、数万倍も濃縮された毒素よ……!」
「根圧による古代岩盤の脆性破壊……そして、未知の深淵からの毒気逆流か」
アッシュが工学的分析を下した、その瞬間――。
ズズズズズズズズズズッ!!と、大地そのものが骨を軋ませるような、不気味な超重低音の地鳴りが司令室を揺るがした。
「わふっ!?」
「ピピィッ!」
「キュルルン!」
「ピュルッ!」
足元で丸くなっていた白銀狼コハク、肩の上の不死鳥ルビー、水槽の海竜サファイア、そして紫電鹿ライカが、揃って耳や角をピンと立てて飛び起きた。
コハクが床の継ぎ目に鼻先を近づけ、クンクンと匂いを嗅いだ瞬間――。
「くぅぅ〜ん……っ!」
あの神話の天狼が、両前足で自分の鼻をギュッと強く押さえ、涙目になってアッシュの作業着の後ろへと慌てて逃げ込んできたのだ。
さらに、部屋の換気ダクトから、微かに吹き込んできたその空気。
「オエッ……! ゲホッ、ゲホッ! な、なんだこの耐え難いドブ臭さはぁぁぁっ!?」
歴戦のドワーフであるガンツが、喉を掻きむしって床に膝をついた。
それは――腐った卵と、数億年熟成された汚泥と、怨霊の怨嗟を煮詰めて天日干しにしたような、嗅いだだけで肺胞が焼け爛れ、魂が腐敗しそうな凶悪極まりない【冥界死毒ガス】の臭いであった。
「いかん……! 最深部の根で、何かが起きてる! エレナ、ガンツ、防護マスクと酸素タンクを装着しろ! 現場へ急行するぞ!」
アッシュは工具箱を引っ掴み、コハクたち四大神獣を引き連れて、地下五千メートルへと直通する垂直高速リフトへと飛び込んだ。
ゴオオオオオオオオオッ!!
リフトは秒速五十メートルで暗黒の地底へと垂直落下していく。
頑丈な花崗岩層を突き抜け、赤熱するマグマ層の脇を耐熱シールドですり抜け、世界樹の巨大な主根が大地を抱き締める最深底区画へ。
そして――地下五千メートルの点検テラスに到着したアッシュたちの目に飛び込んできたのは、信じがたい光景であった。
「な……なんだ、あの巨大な穴は……!?」
世界樹ユグドラシル・アクアの太さ数十メートルにも及ぶ主根。
その先端が、地底の頑丈な古代黒曜石の岩盤をメリメリと粉砕し、まるで世界の底に穿たれた巨大な排水口のように、直径五十メートルを超える底なしの大穴を開けていたのだ。
穴の向こう側は、完全なる暗黒。
しかし、その暗闇の奥からは、紫色の不気味な霊光がオーロラのように揺らめき、ゴーゴーと激しい泥流の地鳴りと、何千何万もの怨霊の呻き声が響き渡っている。
神話の世界でのみ語られる、生者が決して足を踏み入れてはならない死者の国――【深淵の冥府】の天蓋を、世界樹の根が真上からブチ抜いてしまっていたのだ!
「マジかよ……。天界の次は、地獄の天井に風穴を開けちまったってのか……!?」
ガンツが防毒マスク越しに乾いた叫びを上げる。
だが、事態はそれどころではなかった。
そのぽっかりと空いた大穴の縁から――ガサリ、と何かが泥を撒き散らしながら這い上がってきたのだ。
「う……うぅぅ……誰か……誰でもいいから助けてぇぇぇ……っ!!」
這い出てきたのは、ボロボロに引き裂かれた漆黒のローブを纏った、小柄な人影であった。
手には、身の丈の二倍はある巨大な死神の大鎌『ソウル・リーパー』を握りしめているが、その刃は刃こぼれだらけで、ドス黒いヘドロがベットリとこびりついている。
ローブのフードが脱げ落ちると、現れたのは――泥と涙で顔をぐしゃぐしゃにした、透き通るような白銀の髪を持つ、可憐な美少女の顔であった。




