第48話:女神宮、断水阿鼻叫喚!〜美の女神アフロディア、泥泡まみれで発狂す〜
天上界・オリンポス神殿の最深層。
普段であれば、優美なハープの調べと芳純な白檀の香油の香りが漂い、神々の栄華を讃える楽園そのものであるはずの『女神宮』。
しかし――現在、その絢爛豪華なる大理石の回廊は、地獄の底から響くような金切り声と阿鼻叫喚の嵐に包まれていた。
「ギャァァァァァァァッ! 出ない! わたくしの純金ジャグジーバスから、一滴のお湯も出ないではありませんのぉぉぉっ!!」
幅十メートルを超える一枚岩の白大理石をくり抜いた、最高峰の女神専用浴槽の前で、黄金の絹タオルを床に叩きつけたのは――天界随一の美貌を誇る愛と美の最高女神、アフロディアであった。
波打つ豊かな黄金の髪に、真珠の光沢を帯びた滑らかな白磁の肢体。全宇宙の神々や人間を骨抜きにしてきた絶世の美女神である。
しかし――現在のアフロディアの表情は、般若のように凄まじく歪み、美しい瞳には狂気の血走りが宿っていた。
天界の基幹水脈が閉塞を起こし、全面断水が始まってからすでに丸二日。
普段であれば、一日に最低五回は神聖湯に浸かり、バラのエキスを肌に染み込ませていた美の女神にとって、風呂に入れないなどというのは、神格を剥奪される以上の耐え難い拷問であった。
「見てごらんなさい、この肌を……! 普段なら触れただけでシルクのように滑るわたくしの白い頬が……乾燥で、乾燥でカサカサと粉を吹き始めておりますのよぉぉぉっ!!」
「アフロディア様、落ち着いてくださいませ! わたくしたちも……わたくしたちも今朝から洗顔すら叶っておりませんの!」
涙目で駆け込んできたのは、銀の弓を背負った清楚なる月の狩猟女神アルテミスであった。
しかし、その自慢の銀糸の髪は、汗と皮脂でペタリと額に張り付き、健康的な小麦色の肌はテカテカと脂ぎっている。
「狩りでかいた汗を洗い流すこともできず、神衣の下が蒸れて耐えられません! それに……何より恐ろしいのは……神界のトイレです! 水洗魔導トイレの水が一切流れなくなり、各宮殿の個室が……かつてない酸鼻を極める光景になっておりますわ!!」
「ヒィィィィッ!? 天界のトイレが逆流寸前!? 嘘とおっしゃって、アルテミス!!」
女神宮のあちこちから、百人を超える美しい女神や妖精たちの絶叫と号泣が響き渡る。
神々といえども、この世界において物理肉体を持つ以上、汗もかけば皮脂も浮き、老廃物も排出する。
水が止まるということは、何万年もかけて築き上げてきた「神としての神聖な尊厳」が、音を立てて崩壊することを意味していた。
女神たちは香水を全身に浴びるように振りかけて誤魔化そうとするが、洗い流せない汗と混ざり合い、かつて芳醇だった神殿内には、どこか饐えたような酸っぱい異臭が充満し始めていたのだ。
そこへ――ドロドロの黒褐色の泡を頭から被った水利神ネプチューンが、黄金の三叉槍を杖代わりにしながら、ヨロヨロと大広間に転がり込んできた。
「アフロディア様……! お許しを……! 我が水利神殿の蛇口を力任せに開放したところ、配管の底に溜まっていた数万年分の泥とヘドロが爆発的に逆流し……このざまでございます……!」
「きゃあああああっ!? 汚い! ドブ臭い! 近寄らないで、ネプチューン!!」
アフロディアが悲鳴を上げて飛び退く。
ネプチューンは泥を滴らせながら、憎悪に満ちた声で叫んだ。
「すべては……すべては下界の泥すすりの人間どもの仕業です! あのアッシュとかいう下水掃除人が、世界樹などという不気味な巨木を天界にねじ込み、勝手に水を綺麗にしすぎたせいで、我が天界の誇る古代フィルターが破壊されたのです! あの下等生物どもめ、至高の神々をこのような屈辱に陥れるとは……!」
「下界の……人間ですって……!?」
アフロディアの瞳に、怒りと焦燥の炎が燃え上がった。
「その者が……綺麗な水を作り出した張本人なのですわね!? ネプチューン、軍神バルドルを呼びなさい! 神界の全軍を率いて、その下水掃除人を即刻捕縛させるのです! そして……わたくしの前に引きずり出し、この乾燥した肌を潤す熱々のお湯を、今すぐ出させなさい!!」
「ははっ! すでにバルドルには出撃を命じております! 神々の怒りの鉄槌、思い知らせてやりましょうぞ!」
神界のプライドに凝り固まった神々は、自分たちのインフラの怠慢を顧みることなく、地上で汗を流す配管工へと矛先を向けたのであった。




