第46話:世界樹、雲を突き抜けて天界の扉を開く〜枝の先に見える黄金の神殿〜
世界樹ユグドラシル・アクアが星の深層に溜まり続けた太古の毒素を浄化し、地上全土に真の生命の息吹が満ち溢れてから三ヶ月。
温泉都市国家アクア・ヘヴンの中央に聳え立つ神聖巨木は、その後もアッシュが丹念に注ぎ込む最高純度の神聖水と肥沃な地脈エネルギーを吸い上げ、驚異的な生命力で天空へ、さらにその先の未知なる高みへと主幹を伸ばし続けていた。
その幹の太さは直径数百メートル。
青白いサファイアの燐光を放つ樹皮は、世界樹自身が結晶化させた超純度オリハルコンを凌ぐ強度を誇る。
らせん状に天へと伸びる巨大な大枝には、ドワーフの棟梁ガンツ率いる精鋭鍛冶師団と、ガルド帝国の工兵隊が昼夜を問わず心血を注いで敷設した、耐圧オリハルコン製の巨大送水パイプラインが整然と巡らされていた。
「……ふむ。樹液の浸透圧は極めて良好。第八天空バイパスブロックの静水圧は三・五メガパスカルでピタリと安定。管内流速も毎秒二・二メートルで、偏流や過剰なキャビテーションの兆候は微塵もないな」
地上二千メートル――すでに下界の大陸を覆う綿菓子のような雲海を遥か足元に見下ろす、世界樹の大枝に設けられた点検テラス。
アッシュ・ウォーカーは、真鍮製の精密圧力計と使い込まれたモンキーレンチを手に、配管のフランジボルトの締め付けトルクを一本一本、熟練の指先で確かめていた。
腰に巻いた頑丈な安全帯は、ガンツが特別に誂えたミスリルワイヤー入りの特注品。
足元には、油と金属粉で黒光りする鋼鉄芯入りの安全ブーツ。
いまや大陸中の皇帝や元首たちから「世界の水神」「奇跡の救世主」と崇め奉られているアッシュであったが、その立ち居振る舞いは帝都の地下水路でドブ掃除をしていたあの頃と何一つ変わらない。
毎朝の配管打音検査、継手の油漏れ・水漏れチェック、そして流体力学に基づいたバルブ開度の微調整――それこそが、何十万、何百万もの命を支えるインフラ技術者の神聖な義務であると、誰よりも骨身にしみて知っているからだ。
「アッシュ、朝の巡回お疲れ様。冷たいハーブティーを淹れてきたわよ」
鈴を転がすような澄んだ声とともに、枝の広場の休憩スペースから歩み寄ってきたのは、エレナ・フォレストであった。
淡い亜麻色の髪を風になびかせ、機能的なエプロンドレスに身を包んだ彼女の手には、結露したガラスの水筒と、二つの陶器のマグカップが握られている。
かつて帝都を追われ、失意の底にいた没落令嬢は、いまやアクア・ヘヴンの内政と醸造・薬事部門を統括する最高責任者であり、何よりアッシュの隣で最も深く心を預け合うかけがえのないパートナーであった。
「ありがとう、エレナ。……うん、美味い。神聖水で抽出したペパーミントとレモングラスか。この標高だと気圧が低くて喉が乾燥しやすいから、本当に助かるよ」
「ふふ、アッシュったら、喉の渇きすら気圧のせいにしちゃうんだから。でも、喜んでくれてよかったわ。ほら、今日は朝露で冷やした【完熟ベリーのタルト】も焼いてきたのよ」
エレナが差し出したバスケットの中には、神聖土壌で実った大粒のブルーベリーとラズベリーがたっぷりと敷き詰められた、黄金色の焼きたてタルトが湯気を立てていた。
サクサクとしたバター香るタルト生地と、甘酸っぱい果汁、そして上品なカスタードクリームの香りが、澄み切った高空の空気にふわりと溶けていく。
「わふん!」
「ピピィ〜♪」
「キュルルン!」
その甘い匂いに真っ先に反応したのは、テラスの木陰で丸くなっていた三大神獣たちであった。
白銀の天狼コハクが、大きな尻尾をパタパタと振って駆け寄り、アッシュの足元にフカフカの顎を乗せて上目遣いでアピールする。
そのコハクの頭の上には、手のひらサイズのインコ姿に擬態した真紅の不死鳥ルビーが器用に留まり、愛らしく首を傾げている。
さらに、枝の窪みに溜まった神聖水の池からは、体長三十センチほどのミニ海竜サファイアが「きゅるん」と顔を出し、前足をパタパタさせておねだりをしてきた。
「はは、お前たちも甘いものには目がないな。ほら、コハクには砂糖抜きの果肉だけ、ルビーとサファイアにも分けてやるから、順番に並べよ」
アッシュがタルトの果実を小皿に取り分けると、神獣たちは嬉しそうに喉を鳴らして平らげていった。
かつて世界を滅ぼしかけた神話の守護者たちが、アッシュの前では完全に甘えん坊の愛玩動物と化している。
そのあまりに平和で尊い光景に、エレナも柔らかく目を細めていた。
「おいおい! アッシュの旦那、エレナの嬢ちゃん! のんびり茶をしばいてる場合じゃねえぞ! ちょっと上を見てみやがれ!」
ドタドタと足音を響かせ、作業用リフトから慌てふためいて飛び出してきたのは、ドワーフの鍛冶棟梁ガンツであった。
太い腕に煤をつけ、手入れの行き届いた顎ヒゲを激しく震わせながら、ガンツは分厚い指で天を指差した。
「世界樹の最頂部――標高一万メートル、雲の上の現場でとんでもねえモンが引っかかっちまったんだよ!」
「とんでもないもの……? ガンツ、新しく伸ばした枝に何か異常でもあったのか?」
「異常どころの騒ぎじゃねえ! いいから、親方ゴンドラに乗ってくれ! 見りゃあ一発で腰を抜かすぜ!」
ガンツのただならぬ様子に、アッシュとエレナは顔を見合わせ、すぐさま昇降用の超高速魔導ゴンドラへと乗り込んだ。
コハクがゴンドラの床に伏せ、ルビーとサファイアがアッシュの肩に寄り添う。
ガタゴトと滑車が唸りを上げ、ゴンドラは世界樹の主幹に沿って垂直に急上昇していった。
標高三千メートル……五千メートル……七千メートル。
大気は次第に薄くなり、下界の景色は完全に真っ白な雲海の下へと消え去った。
そして――世界樹が雲の天井を突き破り、標高一万メートルの成層圏へと頭を覗かせた、その瞬間。
「……っ!? これは……!」
エレナが息を呑み、思わずアッシュの腕を強く握りしめた。
アッシュもまた、工具箱を握る手に思わず力が入る。
そこには――雲の上を敷き詰めるように広がる白銀の雲海の大地と、その彼方にどこまでも立ち並ぶ、純白の大理石と眩い黄金で彩られた壮麗極まりない巨視的な宮殿群が浮かんでいたのだ。
燦然と輝く天の陽光。
重力を無視して浮かぶ巨大な神殿の柱廊。
神話や太古の伝承の中でのみ語り継がれてきた神々の領域――【天上界】の威容であった。
「マジだろ……。世界樹のてっぺんの枝が、天界の敷居にガッツリぶっ刺さっちまってやがる……!」
ガンツが乾いた喉を鳴らしながら呟く。
その言葉通り、勢いよく成長した世界樹の巨大な主枝は、天上界の巨大な黄金の正門『アムリタの門』の真下を突き破り、天界の広大な敷地へとツタのように根を張り巡らせていたのだ。
地上と天界を隔てていた絶対の境界線が、世界樹という一本の巨大なインフラの柱によって、物理的に完全に直結してしまった瞬間であった。
「神々の世界、か……。だが、どんな場所だろうと、管を通すなら話は同じだ」
アッシュは驚きを収めると、プロの技術者の目つきに戻って主枝の先端を見据えた。
「枝の先端から水が漏れ出して、天界の足場を腐らせたら大変だ。早急にあそこに減圧弁と逆流防止弁を取り付けて、系統を分離――」
アッシュが作業手順を頭の中で組み立てようとした、まさにその時であった。
――ズズズズズズズズズズッ!!
――ゴオオオオオオオオオオオッ!!
黄金の神門の向こう側から、天界全体を揺るがすような不気味な地鳴りと、耳を劈くような激しい金属摩擦音が響き渡ってきた。
さらに、それに続いて天空から降り注いできたのは、神々の威厳ある福音などでは断じてなかった。
『ギャァァァァァァァッ!? 出ない! 水が一滴も出ないぞぉぉぉっ!!』
『至高の神聖噴水が……神々の万年滝が、茶褐色のヘドロを吹いて止まったのじゃがぁぁぁっ!?』
『お、お風呂が……! わらわの神聖美肌バスが、ドブ川のような臭いに染まってしまいますわぁぁぁっ!!』
天から降ってきたのは、かつて帝都アルカディアが崩壊した日と寸分違わぬ――完全なる『断水とヘドロ逆流パニックの阿鼻叫喚』であった。




