第2話:引き抜かれた大栓と、十年ぶりの青空〜最果ての荒野を目指して〜
キィィィ……ギギギギッ。
何重もの錆びついた鉄扉を押し開けると、冷え切った外気がアッシュの頬を撫でた。
眩い白光が視界を埋め尽くし、思わず腕で目を覆う。
十年間、地下百五十メートルの薄暗い魔導ランプの光だけで生きてきたアッシュにとって、本物の太陽の光は暴力的なまでに眩しかった。
「……これが、太陽か」
目を細めながら見上げた空は、雲ひとつない鮮やかなセルリアンブルーに染まっていた。
肺いっぱいに吸い込んだ空気は、地下の重金属と硫黄の混ざった饐えた臭いとはまるで違う。草木の匂いと、土の乾いた香りが鼻腔をくすぐる。
場所は、帝都の外郭を取り囲む巨大な防壁のすぐ外側。旧時代の非常用排水ゲートの出口であった。
足元を見下ろせば、帝都の城壁の上には金色の鷲を象った豪奢な帝国旗が何百本もはためいている。
その足元で、自分のような人間がただ一人、誰にも知られずに死臭漂う地下牢で命を削り続けていたのだ。
「……もう、俺の仕事じゃないな」
アッシュは背負った古びた背嚢のベルトを締め直した。
中には、着替えが二着と、祖父の形見である研ぎ澄まされたサバイバルナイフ、水筒、そして先ほど引き抜いてきた『浄化の大栓』。
身軽なものだった。十年間の労働の対価として手元に残った貯金は、わずかな銅貨と銀貨の入った革袋ひとつ。それすらも、伯爵が「退職金などあるか」と渋ったため、毎月のわずかな基本給から爪に火を灯すようにして貯めたものだ。
「さて、どこへ行くか……」
アッシュは懐から、ボロボロになった大陸全土の古地図を取り出した。
帝国の中央部は、貴族たちの利権と腐敗にまみれている。どこへ行こうと、帝国水利庁の手が伸びている場所では息が詰まるだけだ。
アッシュの指先が、地図の最東端――広大な黒褐色の斜線で塗りつぶされた領域で止まった。
『死の荒野』。
かつて古代の大戦によって大地が呪われ、水脈はことごとく枯渇、あるいは猛毒の魔素で汚染されて草木一本生えぬ不毛の地となった最果ての未開領域。
帝国も領有を放棄し、凶暴な魔獣や追放者しか立ち入らないとされる絶望の地だ。
だが、アッシュの唇には自然と笑みがこぼれていた。
「人がいない。干渉してくる貴族もいない。……最高じゃないか」
水がないのなら、作ればいい。
土が呪われているのなら、濾過すればいい。
彼の手にある《真理の濾過》は、ただ下水を綺麗にするためだけのスキルではない。物質の理を解体し、真の純度へと昇華させる力なのだ。
アッシュは帝都に背を向け、東へ続く荒れ果てた街道へと迷わず一歩を踏み出した。
――その頃。
アッシュが去った帝都地下百五十メートルの『グレート・リザーバー』では、すでに破滅のカウントダウンが静かに、だが確実に始まっていた。
ゴボッ……ゴボゴボッ!
ジュウウウウウウウッ!!
アッシュが引き抜いた大栓の穴から、堰を切ったように逆流してきたのは、帝都が建国以来千年にわたって地下水脈に垂れ流し続けてきた『原初魔毒汚泥』であった。
これまでアッシュの大栓によって完全に封じ込められ、分子レベルで無害化され続けていた汚泥が、圧力の逃げ場を失って爆発的に膨張を始めている。
水槽を満たしていた澄んだ清流は、わずか一時間で泥水へと濁り、二時間が経過する頃にはドス黒い紫色の泡を噴き上げる猛毒のスープへと変貌していた。
そして、その汚毒の波は、帝都全土へ網の目のように張り巡らされた巨大魔導上水道パイプラインへと、凄まじい勢いで吸い込まれていったのである。
ギチギチギチ……と、耐圧弁が異様な軋み声を上げる。
パイプの内壁にこびりついたヘドロが、まるで意思を持つ蛇のように、帝都の上流――皇宮、貴族街、大聖堂、商業区のすべての蛇口へと向かって、逆流の濁流を押し広げていた。
だが、地上の人間たちはまだ何も知らない。
自分たちが今まさに、千年間で最も凄惨な『目覚まし』を迎えようとしていることなど、夢にも思っていなかったのである。




