第1話:『お前のようなドブ掃除はクビだ』〜地下水路最深部に置き去りにされた浄化栓〜
ゴボリ、ゴボリ、ドロリ。
足元で不気味に泡立つのは、人口百万人を擁する大帝国・アルカディア帝都の全域から昼夜を問わず流し込まれてくる超高濃度汚染排水――通称『魔毒汚泥』だ。
帝都地下百五十メートル。太陽の光はおろか、地上の喧騒すら一切届かない最深層区画に鎮座する中央配水管理施設『グレート・リザーバー』。
そこは、帝国中の生活廃水、工房から垂れ流される重金属混じりの廃液、そして軍事施設や貴族街から排出される高濃度の魔力残滓がすべて集結する、文字通りの巨大な毒溜まりであった。
並の人間であれば、足を踏み入れた瞬間に揮発した魔毒ガスによって肺胞を焼かれ、数分と生きていられない死の空間。
壁面を覆う頑丈な耐魔石すらジリジリと酸に蝕まれ、紫黒色の有毒な湯気が濃密に立ち込めている。
「……ふう。今日も今日とて、すさまじい流入量だな」
アッシュ・ウォーカーは、汗と機械油で黒ずんだ額を分厚い革手袋の甲で拭うと、肩を回して軽く骨を鳴らした。
年齢は二十代半ば。無造作に伸びた漆黒の髪を後ろで無造作に革紐で束ね、幾重にも補修パッチが縫い付けられた灰色の作業着に身を包んでいる。
足元には頑丈な鋼鉄芯の入った安全ブーツ。その出で立ちは、どう贔屓目に見ても、帝国の最底辺で日銭を稼ぐ汚らしいドブ掃除雑用係にしか見えない。
しかし、彼が巨大な汚水貯蔵槽の前に立ち、ドロドロと煮えたぎる紫黒色のヘドロの海へ向けて素手をかざした瞬間――地下空間の理が、音もなく書き換わった。
「――《真理の濾過》」
微かな呟きとともに、アッシュの掌から淡いサファイアブルーの幾何学模様が幾重にも展開された。
キィィィィン……と、澄み渡るクリスタルの共鳴音のような極めて澄んだ高周波が、濁流の轟音を切り裂いて響き渡る。
その瞬間、触れた汚泥の分子結合が、原子レベル・概念レベルで解きほぐされていく。
強酸を撒き散らしていた重金属イオンは結合手を断ち切られて無害な鉱物結晶の粉末へと凝固し、沈殿する。腐敗臭を放っていた生活排水は瞬時に有機分解され、大気中の無害な炭酸ガスと窒素へ。そして、世界を蝕む怨嗟に満ちた魔力残滓は、アッシュの魔力フィルターを通ることで波長を整えられ、清涼な自然界のエーテルへと還元されていった。
ドロドロと泡立ち、壁面を溶かさんばかりだった数万トンの猛毒ヘドロが、わずか十数秒の間に、底まで透き通るクリスタルクリアな清流へと姿を変えていく。
「よし。今日の最終バッチ、三万トンの濾過完了。配管バイパスの目詰まりも解消したから、これで明日までは帝都全土の水圧も保たれるはずだ」
アッシュは安堵の息を吐き、腰に下げた水筒から冷水を一口喉に流し込んだ。
この地獄のような作業を、彼は帝都の地下で丸十年、一日たりとも欠かさず一人きりでこなしてきた。
誰に感謝されるわけでもない。地上で優雅に暮らす貴族たちが、蛇口を捻れば当たり前のように出てくる澄んだ水が、誰の犠牲の上に成り立っているかを知るはずもない。
それでも、自分がこの手を止めれば、帝都の百万人全員が汚水と病魔に呑まれて死に絶えることを知っていたからこそ、アッシュは職人の誇りだけでこの地下牢のような現場を守り続けてきたのだ。
だが――その静寂は、無作法極まりない足音と嘲笑によって破られた。
ガシャン! バァァァン!
分厚い防護気密扉が乱暴に蹴破られ、耳障りな金属音が響き渡る。
「オエッ……! ゲホッ、ゲホッ! なんだこの耐え難いドブ臭さは! 息を吸っただけで喉が腐りそうだぞ!」
「まったく、これだから最下層のドブネズミの仕事場は虫唾が走るのだ。おい、そこに突っ立っている無能! 貴様だ、アッシュ!」
現れたのは、この薄暗い地下にはあまりにも不釣り合いな、豪奢な衣装をまとった二人の男だった。
一人は、全身を純金と銀の装飾が施された白亜の甲冑で包み、キツい香水の匂いをプンプンと振り撒いている金髪の美男子――帝国が誇る筆頭勇者、レオン・ヴァルハイト。
もう一人は、丸々と太った豚のような体型に最高級のビロード外套を羽織り、香水をたっぷり染み込ませた絹のハンカチで鼻を固く押さえた男――中央水利環境庁の長官、バルトロメオ伯爵である。
「……伯爵閣下に、勇者レオン殿。こんな最深部に何かご用ですか? ここは換気魔法を回していても、高濃度の魔毒残滓が滞留しています。貴族の方々が素手で触れれば皮膚がただれますよ」
アッシュが静かに忠告すると、レオンは侮蔑に顔を歪め、腰の聖剣の鞘でアッシュの肩を小突いた。
「黙れ、薄汚い雑用係が! 英雄たるこの僕が、貴様ごときドブ掃除に指図される筋合いはない! 触るな、泥が移る!」
「単刀直入に用件を言い渡してやる、アッシュ!」
バルトロメオ伯爵が豚のような細い目を吊り上げ、唾を飛ばしながら一枚の羊皮紙をアッシュの足元へ投げ捨てた。
「貴様は今日限りでクビだ! 帝国水利庁からの即時追放処分である! 直ちに作業着を脱ぎ、私物をまとめてここから立ち去れ!」
「……クビ、ですか?」
アッシュは足元に落ちた羊皮紙を見つめ、眉を動かさずに問い返した。
「聞き間違いではありませんよね。私がここを去れば、帝都全土の水脈はどうなるのですか? 上流から流れてくる魔毒水の処理は、私の《真理の濾過》でなければ中和できませんが」
「ハッ! 笑わせるな、ホラ吹きが!」
レオンが嘲笑を爆発させ、甲冑の籠手で腹を抱えて笑った。
「たかが魔法適性ゼロの『無能』が、何を大層な口を利いているんだ? 貴様が十年間ここでやってきたことなど、ただの泥さらいと配管のゴミ掃除だろうが! 水が綺麗になっているのは、我が帝国が誇る最高峰の魔導装置《古代水利環》が勝手に機能しているからに決まっている!」
「その通りだ!」とバルトロメオ伯爵が胸を張る。
「我が一族の優秀な魔術師たちが調べたところ、この大水槽の底には勝手に水を浄化する古代の魔力機構が埋め込まれていることが判明したのだ! つまり、貴様のようなドブ臭い平民を雇い続ける金など、最初から一ペニーたりとも払う必要はなかったのだよ!」
「……古代の魔力機構、ですか」
アッシュは水槽の最深部、澄み切った水底に静かに沈んでいる青白い六角柱の金属パーツに視線を落とした。
あれは古代遺物などではない。
アッシュが自らの《真理の濾過》を二十四時間自動展開させるために、十年の歳月をかけてオリハルコンを削り出し、自作した魔導増幅ユニット――通称『浄化の大栓』だ。
あの大栓にアッシュの魔力が満ちているからこそ、帝都全域の配管に「真理の濾過」が常時行き届いている。
それを、この無能な役人たちは「自分たちの帝国の古代遺物が勝手に動いている」と思い込んでいたらしい。
「伯爵閣下。あれは古代の装置などではありません。私の私物であり、私が魔力を込め続けなければ、帝都中の水は数時間で――」
「ええい、言い訳は見苦しいぞ、ドブネズミ!」
レオンが乱暴に遮り、聖剣の切っ先をアッシュの胸元へ突きつけた。
「貴様の身勝手な手柄の横取りには吐き気がする! 大体な、宮廷から支給される莫大な水利予算を、貴様のような平民一人の給料に割くのは国家の損失なのだ! その予算は今後、僕たち勇者パーティの新しい神話級装備の新調と、帝都の噴水広場をバラの香水で満たす美化計画に充てられることが決定した!」
「すでに貴様の解雇通知は皇帝陛下の決済も得ているのだ」と伯爵が下卑た笑みを浮かべる。「今すぐ立ち去らぬなら、軍務違反および不法占拠の罪で地下牢に叩き込むぞ! それとも、この場で勇者様に首を刎ねられたいか?」
アッシュは二人をじっと見つめた。
傲慢に歪んだレオンの整った顔。
私利私欲と貪欲さで脂ぎったバルトロメオ伯爵の二重顎。
ここにはもう、守るべき誇りも、対話の余地も一切残されていない。
「……分かりました」
アッシュは静かに頷き、作業着の袖をまくった。
「解雇通告、謹んでお受けいたします。帝国水利庁の職員としての職務は、これをもって終了とさせていただきます」
「フン、物分かりだけはいいようだな! さっさと失せろ!」
「ただし、最後に一つだけ確認させてください。契約に基づき、私の私物はすべて持ち帰って構いませんね?」
「私物だと? そんなボロ布や泥まみれのスコップなど、全部持って消えろ! 二度とその汚いツラを見せるな!」
吐き捨てるように言い放ち、レオンと伯爵は「臭くて敵わん」と鼻を押さえながら、踵を返してエレベーターへと去っていった。
重厚な鉄扉が閉まり、再び地下に静寂が戻る。
「……全部持って消えろ、か」
アッシュは小さく苦笑を漏らすと、水槽の縁へと歩み寄った。
そして、水底に深く突き刺さっていた青白い六角柱――自作の『浄化の大栓』へと右手を伸ばす。
「――《回収》」
ガキンッ! と重々しい金属音が響き、十年間にわたって帝都の全水脈を浄化し続けていたオリハルコンの芯棒が、アッシュの手元へと引き抜かれた。
大栓を布に包み、使い古した背嚢へとしまい込む。
その瞬間。
大栓が抜かれた水槽の底の排水孔から、ドロリとした紫黒色の汚泥が、不気味な泡を噴き上げながら逆流し始めた。
ボコッ……ボコボコボコッ!
「……十年、無休で働いたんだ。退職金代わりとしては安すぎるくらいだな。……まあ、明日から帝都中の蛇口から何が噴き出そうと、俺の知ったことじゃないが」
背後で、グツグツと沸騰する紫黒色の汚泥が、何千本もの上水パイプの奥へと雪崩れ込んでいく重低音を聞き流しながら。
アッシュは振り返ることなく、一度も使ったことのない非常階段へと足を向けた。
地上へ向かう階段の先には、彼が十年間見ることのなかった、広大な青空が待っているはずだった。
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