第17話:【有料水利サブスクリプション】の契約〜蛇口の元栓を握る男〜
「商業取引、でございますか……?」
額の血を拭うことも忘れ、皇帝アレクサンダー三世が呆然と呟いた。
アッシュは羊皮紙を広げ、指先で三つの条項を指し示した。
「条項は三つ。第一に、この最果ての地『死の荒野』における我がオアシス都市『アクア・リゾート』の永久独立領有権の承認。帝国はいかなる法律、徴税権、軍事指揮権の適用も永久に放棄し、我が街を主権国家として承認すること」
「しょ、承諾いたします! 不可侵条約を即座に締結し、帝国の全公文書に刻みましょう!」
「第二に、十年間の不当労働および名誉毀損に対する賠償金として、最高純度のオリハルコン原石百トン、ならびに帝立図書館が秘蔵する古代水利・土木魔導文献の完全無条件開示」
「安いものにございます! 帝立図書館の鍵を丸ごと進呈いたしましょう!」
「そして第三に――これが最も重要です」
アッシュは懐から、青白い燐光を放つ手のひらサイズの金属ブロックを取り出した。
オリハルコンを極限まで削り出し、表面にびっしりと精密な魔導回路を刻み込んだパーツ――ドワーフの棟梁ガンツと共同開発した『魔導スマート・バルブ』である。
「帝都へ供給する水は、すべて【従量課金制】とします」
「じゅ、従量課金……?」
「そうです」
アッシュは淡々とその恐るべきシステムを解説した。
「帝都へ続く古代配管の起点に、このスマート・バルブを設置します。このバルブは、俺の《真理の濾過》を通った神聖水がパイプを流れる量を、一ミリリットル単位で自動計測する。料金は、生活用水一リットルにつき銅貨一枚。貴族街や皇宮へ送る高純度神聖水は、一リットルにつき銀貨五枚」
アッシュの言葉を聞いた瞬間、皇帝の背後に控えていた帝国財務官の顔が、恐怖で引きつった。
百万人都市が一日で消費する水量は、煮炊き、洗濯、風呂、下水洗浄を含めれば数千万リットルに達する。
つまり、市民が蛇口を捻るたびに、毎分毎秒、数万枚の硬貨がアッシュの懐へ自動的に吸い上げられていく計算になるのだ。
「さらに」と、アッシュは冷ややかに微笑んだ。
「支払いは毎月末日、金貨による一括決済。もし支払いが一日でも遅れた場合、あるいは我が街に対して帝国が敵対的な工作を仕掛けたと判断された瞬間――このバルブは、遠隔操作で【完全閉鎖】されます」
「ひ……っ!?」
「蛇口の元栓を握っているのは、俺です。貴方たちがどれほど軍備を整えようと、どれほど強大な魔法使いを雇おうと、俺が指先一つ鳴らせば、帝都は数時間で再びヘドロの海へと沈没する。……この条件で、契約を結びますか?」
それは、実質的にアルカディア帝国の首根っこを、アッシュが永久に掴み続けるという絶対支配の宣告であった。
かつての皇帝であれば、平民の不敬に激怒して首を刎ねていたであろう。
しかし――アレクサンダー三世の瞳には、躊躇の色など一片も残っていなかった。
「……結ぶ。喜んで、我が全霊をかけて結ばせていただく!」
皇帝は懐から短剣を抜き放つと、迷わず自らの親指を裂いた。
そして、滴る鮮血を羊皮紙の協定書の末尾へ、力強く押し付けたのだ。
「これにて、神聖なる水利条約は成立した! 全軍、アッシュ殿に最大の敬礼を捧げよ! これよりアッシュ殿は、我が帝国の命運を握る唯一無二の至高の盟友であらせられる!!」
「「「ハッッッ!!!」」」
近衛兵たちが一斉に抜刀し、剣の柄を胸に叩きつけて最敬礼の姿勢をとった。
泥の上に平伏する騎士たちを見届け、アッシュは工房の奥へ向けて声を張り上げた。
「ガンツ! 古代バイパスのメインバルブを開放しろ!」
「おうよ旦那! 待ちくたびれたぜ! 水利パイプライン、直結完了だぁぁぁっ!!」
ガンツが巨大なオリハルコン製スパナを振り下ろした。
ガチンッ! と重厚な金属音が響き、アッシュのオアシスと、帝都へ続く地底大配管が完全に連結される。
「――《真理の濾過・大陸水脈接続》!!」
カアァァァァァッ!!
アッシュの足元から、サファイアブルーの魔力光が地中深くまで突き刺さった。
地底の巨大配管を満たしていたヘドロが一瞬で分子崩壊を起こし、純白の蒸気となって排気塔から吹き抜けていく。
そして、透き通る奇跡の神聖水が、光の帯となって地底パイプを時速数百キロの猛スピードで駆け抜けていった!
――数分後。帝都アルカディア全域。
中央広場の巨大な噴水の前に、数万人の市民が群がっていた。
誰もが絶望の淵で、渇きに目を血走らせている。
その時――。
キュッ……。
水利庁の職員が、震える手でメインゲートのハンドルを回した。
次の瞬間。
ドォォォォォォォォォンッ!!!!
地底を揺るがす轟音と共に、中央広場の巨大噴水から、天高くへと青白い水柱が噴き上がった!
それは、あの忌まわしい黒いヘドロではなかった。
太陽の光を浴びて七色の虹を架ける、水晶のように澄み渡った清流!
飛沫を浴びただけで、道端で行き倒れていた病人の肌に赤みが戻り、喉を潤した市民の口から歓喜の絶叫が爆発した。
「み、水だああああああっ!!」「綺麗な水が出たぞおおおっ!!」「飲める! 甘い! 病気が治ったぞおおおっ!!」
百万の市民が路上で抱き合って涙を流し、神聖水を浴びて踊り狂う。
貴族街でも、蛇口から溢れ出る清流に貴族たちが歓喜の声を上げていた。
だが――。
帝都中のすべての蛇口の根元には、ガンツの刻印が入った真鍮製の魔導メーターが据え付けられていた。
【カチリ……カチリ……カチリ……!】
【チャリン、チャリン、チャリン、チャリン……!】
帝都で水が使われるたびに。
最果てのオアシスにあるアッシュの大金庫へ、莫大な金貨が自動転送されていく。
理不尽に追放された下水清掃員は、今や大帝国の国家予算を軽々と凌駕する富と、百万人の生命線を完全に手中に収めたのであった。




