第16話:白旗を掲げた皇帝陛下、泥土に額を擦り付ける〜帝国の無条件降伏〜
勇者レオンとバルトロメオ伯爵が、自ら漏らした尿と泥にまみれて敗走した翌日。
荒野の地平線に立ち上った砂煙は、昨日とはまるで異なる異様な空気を帯びていた。
乾ききった赤茶色の大地を踏みしめ、こちらへと近づいてくる一団。
彼らが掲げていたのは、大帝国アルカディアの金色の双頭鷲の軍旗では断じてなかった。
棒の先に括り付けられた、薄汚れた純白の亜麻布――国際条約において『一切の抵抗意志なき無条件降伏』を意味する、巨大な白旗であった。
「……あれは、帝国の近衛兵たちですわね。ですが、甲冑を一枚も身につけていませんわ」
アッシュの隣で双眼鏡を覗き込んでいたエレナが、信じられないものを見るように目を丸くした。
先導する騎士たちは全員、身を守る鉄の鎧をかなぐり捨て、質素な白い麻のチュニック一枚を身にまとっていた。腰の剣帯も外され、両手は頭の後ろで固く組まれている。
その顔色は土気色で、唇は極度の脱水症状により痛々しくひび割れ、足をもつれさせながら一歩進むごとに肩で荒い息を吐いていた。
そして――その武装解除された騎士たちの中央で、一本の粗末な樫の木の杖に縋り付くようにして歩いていたのは、白髪を乱した一人の老躯であった。
「ぜぇ……はぁ……っ! アッシュ殿の……オアシスは……まだか……!」
「陛下! どうか馬車にお乗りください! これ以上歩かれれば、心臓が持ちません!」
「馬鹿者が……っ! 余が招いた亡国の危機ぞ! 我が足で歩き、我が身を泥に沈めて詫びぬ限り……帝国の未来など、万に一つもあるものか……!」
かすれた声で近衛兵を一喝したのは、大帝国アルカディアの絶対君主――皇帝アレクサンダー三世その人であった。
かつて大陸全土にその名を轟かせた覇王の面影は、もはやどこにもない。
五日間にわたる帝都の断水。蛇口から吹き出す猛毒ヘドロの混ざった泥水を口にしたことで激しい下痢と高熱に襲われ、豪奢な衣装は泥と汗と吐瀉物の染みでドス黒く汚れていた。
皇帝の足元からは、ツンとした刺激臭と饐えた体臭が漂っている。帝都の百万人と同じく、彼もまた一滴の水で身体を洗うことすら叶わぬまま、死に物狂いで荒野を歩き通してきたのだ。
「グルルルルルルルルッ……」
オアシスの境界線に差し掛かった瞬間、大気を切り裂くような重低音が響き渡った。
アッシュの足元から歩み出たコハクが、神獣の金色の双眸で皇帝一行を射抜いたのだ。
その威圧は、わずか子犬サイズの幼体であるにもかかわらず、天変地異の予兆のように重く冷たい。
「ヒッ……!?」「ひ、神話の天狼……!」
近衛兵たちが一斉に悲鳴を上げ、膝の力を失って地面へと崩れ落ちた。
歴戦の精鋭騎士たちですら、神獣が放つ圧倒的な捕食者の覇気の前に、指先一本動かすことすら許されない。
しかし――皇帝アレクサンダー三世だけは、折れそうな膝を両手で必死に抑え込みながら、よろめく足取りで前へと進み出た。
そして、作業着姿で静かに腕を組むアッシュの眼前、わずか一歩の距離に辿り着いた瞬間。
ドサァッ……!!
皇帝は杖を投げ捨て、両膝から赤土の泥濘の中へと崩れ落ちた。
それだけではない。
帝国千年の歴史の中で、ただ一度として誰の前にも垂れたことのない黄金の冠を頭から引き剥がし、泥の上に投げ打つと――。
ゴツンッッッ!!!!
鈍く、重い破裂音が荒野の静寂を打ち破った。
皇帝は額を、アッシュが履いている泥まみれの安全ブーツの爪先へ、骨が軋むほどの力で叩きつけたのだ。
「……陛下!?」
近衛兵たちが息を呑み、涙を流して平伏する。
額からタラリと鮮血を流しながら、皇帝は泥土に顔を埋めたまま、張り裂けんばかりの声で叫んだ。
「アッシュ・ウォーカー殿……! 我が帝国が誇る至宝たる貴殿に対し、我が愚臣バルトロメオ、そしてレオンが働いた数々の非礼、暴言、そして理不尽極まりない追放処分……! 万死に値する、言語道断の大罪にございます……!!」
「…………」
「上に立つ余が、貴殿の類まれなる功績を見抜けず、ただの雑用係として地下牢に十年間も縛り付け、あまつさえ使い捨てにしたこと……すべては、この老いぼれの不明と怠慢の致すところ! いかなる罵倒も、いかなる処罰も、甘んじて受け入れましょうぞ……!!」
泥を噛み締めながら、皇帝は嗚咽を漏らした。
「帝都は……帝都アルカディアは、もはや地獄の底にあります! 百万の民が喉の渇きに狂い、赤子は干からびた乳房を求めて泣き叫び、貴族も平民も汚泥水を啜って腹を壊し、街全体が死臭に包まれております! バルトロメオは全財産没収の上、帝都最深部の汚水牢へ叩き込み、レオンは勇者の称号を永久剥奪して国外追放といたしました! 頼む……! どうか、どうかこの老いぼれの首を差し出しますゆえ……我が民に、一滴の水を分けてはくださらぬかぁぁぁっ!!」
周囲を取り囲んでいたドワーフたちや猫人族の開拓民たちも、息を呑んでその光景を見守っていた。
かつて世界を支配すると豪語した大帝国の皇帝が、身ぐるみ剥がされ、たった一人の元清掃員の青年の足元で、涙と鼻水を流して命乞いをしているのだ。
アッシュは、足元で震える老人の頭頂部を、静かな、だが深海の底のように澄み切った眼差しで見つめていた。
「顔を上げてください、陛下」
「……アッシュ殿……」
「貴方の首など、もらっても何の役にも立ちません。俺は復讐や殺戮のために、この最果てで土を掘り返しているわけではない」
アッシュは淡々と言い放った。
「ただし――勘違いしないでいただきたい。情けや同情で、タダで恵んでやる水は一滴もありません。十年間、無償の献身と職人の誇りだけで尽くした結果が、あの地下牢からの追放だった。俺は二度と、そんな都合のいいボランティアに命を削る気はありません」
「も、もちろんでございます……!」
皇帝は顔を泥だらけにしながら、縋るように頷いた。
「いかなる対価も支払おう! 帝国の国庫を空にせよと言うなら今すぐ全財産を差し出す! 我が直轄領を割譲せよと言うなら即座に証書を書こう! だから……どうか、我が国に水を……!」
「国庫も領地も要りません」
アッシュはポケットから、あらかじめ羊皮紙に記しておいた『協定書』を取り出した。
「俺が求めるのは、貴方たちの政治的支配からの【完全な脱却】と、対等なる【商業取引】です」
アッシュの冷徹な声が、荒野の風に乗って静かに響き渡った。




