第14話:「一滴たりともやる水はない」〜完全拒絶と、帝国全土への手遅れ宣告〜
「わふん」
コハクは咆哮を止めると、スッと身体を縮め、いつもの大型犬ほどのサイズに戻ってアッシュの足元へと擦り寄ってきた。
アッシュがその頭を撫でてやると、「くぅ〜ん」と喉を鳴らして甘える。
そのギャップに、失禁したまま這いつくばっている百人の騎士団は、さらに深い恐怖に震え上がっていた。
「……さて」
アッシュは泥まみれで額を擦り付けているレオンとバルトロメオの前へと、静かに歩み寄った。
足元の泥濘には、二人が漏らした尿と汗と、帝都から持参した高価な香水の混ざり合った異様な液体が広がっている。
「ア、アッシュ殿……! アッシュ様ぁぁぁっ!」
バルトロメオが泥土を貪るように這いずり、アッシュの作業ブーツに縋り付こうとした。
「わ、悪かった! 私たちが愚かでした! あなたを無能などと呼んだ無礼を、どうかお許しください! 皇帝陛下からも『全権をアッシュ殿に譲り、公爵の位と数億ゴルドの報酬を用意する』との勅命を預かっております! だから……だから頼みます、帝都へ戻って水を……水を元に戻してくださいぃぃぃっ!」
「僕からも頼む……!」
勇者レオンも、涙と鼻水を垂れ流しながら額を地面に打ち付けた。
「僕が悪かった! 調子に乗っていたんだ! 頼むから助けてくれ! 帝都はもう終わりなんだ! 毎日泥水を飲んで腹を壊し、誰も風呂に入れず、街中がウンコまみれで狂いそうなんだ! 英雄の僕があんな汚水まみれの街で死ぬなんて耐えられない! 頼む、綺麗な水を……一口でいいから水を恵んでくれえええっ!」
かつてアッシュを「薄汚いドブネズミ」と嘲笑い、手柄を奪い、寒風吹きすさぶ地上へと追い出した男たちの無惨な成れの果て。
アッシュはその醜態を、何の感情も浮かばない冷徹な目で見下ろしていた。
「断る」
静かな、だが荒野の風よりも冷たい一言だった。
「ひ……え……?」
「聞き取れなかったか? 断ると言ったんだ」
アッシュは腕を組み、二人を見据えた。
「十年間、俺は地下百五十メートルの暗闇で、一度も休まず帝都の汚泥を濾過し続けた。お前たちが優雅にパーティーを開き、香水を振り撒いて美味い酒を飲んでいる間、俺は命を削って水を守っていたんだ。……それを、お前たちは何と言った?」
アッシュの低い声が、騎士たちの背筋を凍りつかせる。
「『魔法も使えぬ無能はクビだ』『私物は全部持って消えろ』……そう言ったのは貴様らだ。俺はその言葉通り、俺の私物である『浄化の大栓』を回収し、ここに自分の居場所を作った。それのどこに、お前たちに頭を下げて戻る理由がある?」
「そ、それは……! しかし帝都には百万人もの民が――!」
「その民を道連れにして滅びの引き金を引いたのは、他ならぬ貴様らの強欲と無能さだろうが」
アッシュの冷徹な一喝に、バルトロメオは言葉を失った。
「俺の力は、俺を信じてくれた仲間と、この街の未来のためにしか使わない。……お前たち帝国に恵んでやる水は、一滴たりとも存在しない」
「そ、そんな……! そんな殺生な……!」
「アッシュ様! 戻らねば、私たちは皇帝陛下に処刑されてしまうのです!!」
「知ったことか。自業自得だ」
アッシュは踵を返すと、背後のドワーフたちへ合図を送った。
「ガンツ、この薄汚い侵入者どもをオアシスの敷地から叩き出せ。二度と敷居を跨ぐなとな」
「おうよ、任せときな旦那!」
ガンツをはじめとする屈強なドワーフたちが、オリハルコン製の巨大な槌を担いで威圧的に踏み出してきた。
「さあさあ、ドブ臭い敗走兵ども! 旦那の気が変わってフェンリル様の餌になりてえ奴から前に出な! さっさと帝都へ帰って、大好きな泥水でも啜ってろい!!」
「ヒィィィィィッ! 逃げろ、逃げろおおおおっ!」
レオンとバルトロメオは、失禁で重くなったズボンを引きずりながら、壊れかけの馬車へと転がり込んだ。
百名の騎士団も、武器を投げ捨て、馬の尻を叩いて蜘蛛の子を散らすように帝都の方角へと逃げ去っていった。
立ち込める土煙の向こうへ消えていくその背中を、アッシュは見送る価値すらないとばかりに、一度も振り返らなかった。




