第99話 二人目へ声をかける前に、デートの前日が来ました
翌朝、アマリリアが王宮の執務室へ入ると、ライルは何も言わなかった。
「おはようございます」
「おはよう、アマリリア」
「……」
「……」
いつも通りの挨拶。
ライルは机の上の書類へ視線を戻す。
アマリリアも自分の席へ向かい、鞄を置いた。
今日の急ぎは何件あるのか。
ミナ・オルドへ連絡するなら、どの経路を使うのか。
昨日届いたエドガーの意見書は一区切りとして保管される。
第二共同倉庫からも追加の急ぎはない。
頭の中で今日の仕事を並べていると、妙なことに気づいた。
静かだ。
「殿下」
「何?」
「何も言いませんの?」
「おはようって言ったよ」
「そうではなく」
「仕事?」
「それでもなく」
ライルが顔を上げる。
数秒、二人で見つめ合った。
「……何?」
「いえ」
アマリリアは自分の椅子へ座った。
何を期待しているのだろう。
昨日、ライルはデートまであと二日だと言った。
今日になれば、当然――。
「アマリリア」
「何でしょう」
「今、俺が『あと一日』って言うの待ってた?」
「待っておりません!」
即答した。
ライルの顔に笑みが広がる。
「絶対待ってた」
「待っておりません!」
「じゃあ何で『何も言わないの』って聞いたの?」
「殿下が朝から妙に静かでしたので!」
「言わないって約束したから我慢してたんだよ」
「でしたら最後まで我慢してくださいませ!」
「でもアマリリアが聞いたから」
「私のせいにしないでください!」
ライルは楽しそうに笑った。
アマリリアは顔を背けたが、頬が少し熱い。
明日。
五日後と話していた午後が、とうとう明日になった。
以前閉まっていて入れなかった文具店。
その後のお茶。
甘いものは二つまで。
ただし小さかった場合はライルが交渉するらしい。
そこまで思い出したところで、アマリリアは首を振った。
「仕事をします」
「はい」
「今日はミナさんへの連絡方法を確認するのでしょう?」
「うん」
「それからです」
「分かった」
ライルも書類へ視線を戻す。
だが、口元にはまだ笑みが残っていた。
「殿下」
「何?」
「笑わないでください」
「無理」
「なぜですの?」
「明日だから」
「……仕事をしてください!」
朝から先が思いやられた。
◇◇◇
ディーンが持ってきた通常案件は二件だった。
一件目は、王都南東部の公営市場で使われている荷 weighing――荷重計の点検についてだった。
前日の終業時、同じ穀物袋を二度量ったところ、わずかに異なる数値が出た。
市場側はすぐに使用を停止。
隣の区画にある予備の荷重計へ切り替え、今朝から専門の職人が確認に入っている。
問題の荷重計で昨日計量された取引についても、差異が大きくなかったことから直ちに全件再計量とはせず、記録上の不自然なものがないかだけ確認しているという。
「交換が必要なら?」
ライルが尋ねる。
「予備部品はございます。ただ、原因が部品摩耗か設置面のずれか、まだ確定しておりません」
ディーンが答える。
「では、職人さんの確認待ちですわね」
「はい」
「市場を止める必要は?」
「予備機で対応できております」
「なら追加なし」
ライルも頷いた。
二件目は地方診療所の冬季往診用馬車について。
予定していた一台の車輪に亀裂が見つかり、交換まで三日。
その間は同じ地区の行政用馬車を緊急時のみ借りられるよう、既に地方側で調整済みだった。
「普段の往診は?」
「もう一台で対応可能です。ただし同時に二件の緊急往診が発生した場合に備えて、行政用馬車を確保したとのことです」
「それなら十分だと思う」
ライルが言う。
「私もです」
アマリリアも確認した。
どちらも現場で既に対応が始まっている。
王宮が何かを足す必要はない。
二件を終えると、ディーンが別の薄い紙を取り出した。
「昨日ご指示いただいた、ミナ・オルド氏への通常連絡経路について確認いたしました」
アマリリアとライルの意識が切り替わる。
「お願いします」
「はい。ミナ氏の店は東市場の小売商組合へ加入しております。王宮から組合へ通常の連絡票を送り、組合から本人へ封書を渡すことが可能です」
「本人の評判などは?」
「聞いておりません」
「共同輸送の利用歴は?」
「確認しておりません」
「店の営業時間は?」
「これは組合の一般登録にございます。朝から夕刻まで。ただし、夫婦で交代して仕入れへ出ることがあるため、本人が常時店頭にいるわけではないとのことです」
「それなら」
ライルが考える。
「店へ直接人を送るより、封書の方がいい?」
「少なくとも、王宮の人間が営業中の店頭へ突然現れるよりは負担が少ない可能性があります」
ディーンが答える。
「ただし、王宮名義の封書そのものが心理的負担になる可能性はございます」
「そこは消せませんわね」
アマリリアが言う。
「はい」
「組合の人から口頭で『王宮が話を聞きたいそうだ』だけ伝えるのは?」
ライルが尋ねる。
「伝え方によって意味が変わる恐れがあります」
「そっか」
「『何か調査されている』『協力した方がよい』と受け取られる可能性もあります」
アマリリアは机の上へ指を置いた。
「なら、短い封書にしましょう」
「内容は?」
「まず、何のために話を聞きたいのか」
「共同輸送の賛否を聞くものじゃない」
「はい」
「受けても断っても不利益なし」
「理由を言わずに断ってよい」
「日時と場所は、こちらで決めない」
「本人が希望すれば、質問内容を事前に見せる」
ライルとアマリリアが交互に言う。
ディーンは記録しながら、途中で顔を上げた。
「謝礼についてはいかがいたしますか」
アマリリアの動きが止まる。
「トーマさんの時は?」
「半刻未満で、本人の通常の仕事場所にこちらが伺いました。金銭的な謝礼は出しておりません」
「はい」
「ミナ氏の場合、仮に店を離れる必要があるなら、事情が異なる可能性があります」
ライルが少し考える。
「時間を借りるんだから、払った方がいい?」
「それも一つですが」
アマリリアはすぐには賛成しなかった。
「謝礼があることで、断りにくくなることもありません?」
「ございます」
「高すぎれば?」
「参加を誘う力が強くなります」
「低すぎれば?」
「時間を軽く扱っているように感じられる可能性もあります」
「難しいね」
ライルが呟く。
「はい」
アマリリアは昨日までの話を思い返した。
聞くこと自体が、相手の時間へ何かを加える。
なら、時間を借りることへの扱いを考える必要はある。
しかし、金を払えばすべて解決するわけではない。
「まず」
アマリリアが言う。
「ミナさんに声をかける段階では、こちらから店を離れることを前提にしない方がよいのでは?」
「店で聞く?」
「それも本人が望むなら。ただ、店頭で他のお客様がいる中では話しにくいでしょう」
「休憩時間?」
「それもこちらが決めることではありません」
「じゃあ」
ライルが考える。
「受けてもいいと思ったら、本人から『どこなら話しやすいか』『どの時間なら仕事に影響が少ないか』を教えてもらう」
「はい」
「その条件で、時間を大きく取らせるなら謝礼を考える?」
「そうしましょう」
ディーンが頷いた。
「では、最初の封書には、日時・場所・所要時間について本人の希望を優先する旨を記載します。また、営業や仕入れに支障が出る場合は断って構わない、と」
「お願いします」
アマリリアが答える。
「今日、送りますか?」
ディーンの問いに、アマリリアはライルを見る。
ライルもこちらを見た。
昨日は、今日になってから連絡方法を考えると決めた。
方法は決まった。
目的も昨日整理した。
なら、ここでまた理由もなく待つ必要はない。
「送ってよいと思う」
ライルが言う。
「私もです」
アマリリアは頷いた。
「お願いします」
「承知しました」
ディーンが紙をまとめる。
ようやく二人目へ声をかける。
だが、返事を急がせない。
断られるかもしれない。
受けてもらえても、日程は先になるかもしれない。
それでよい。
「返答期限は?」
ディーンが確認する。
「……」
ライルとアマリリアが同時に黙った。
「必要?」
ライルが尋ねる。
「組合側としては、いつまで封書を預かるべきかの目安はあった方がよいかと」
「では」
アマリリアは考える。
「本人へ返答を急がせる期限ではなく、封書を渡せなかった場合だけ、一週間後に組合からこちらへ知らせてもらうのは?」
「可能です」
「本人が受け取った後は?」
「返事がなくても催促しない」
ライルが言う。
「それでよろしいですか?」
「はい」
「分かりました」
ディーンは一礼した。
連絡票は今日、東市場の小売商組合へ送られる。
そこから先は、ミナが選ぶ。
◇◇◇
「……送ったね」
ディーンが退室した後、ライルが言った。
「送りましたわね」
「昨日は送らなかった」
「はい」
「今日は送った」
「はい」
「急いでないけど、止まってもない」
アマリリアは少し笑った。
「それでよいのでは?」
「うん」
ライルは机の上の残りの書類を見る。
「返事、いつ来るかな」
「分かりません」
「明日かも」
「明日は考えません」
「なんで?」
「デートです」
アマリリアが当然のように答える。
ライルが固まった。
次の瞬間、ものすごく嬉しそうな顔になる。
「アマリリアから言った」
「何をです?」
「明日はデートって」
「事実でしょう!」
「うん!」
「その顔をやめてください!」
「無理!」
アマリリアは顔を背けた。
自分でも、あまりにも自然に口から出たことへ驚いている。
明日はデート。
仕事の空き時間に会うのではない。
たまたま二人とも暇だから出かけるのでもない。
先に空けた。
二人で出かけるために。
「もし明日、ミナさんから返事が来たら?」
ライルが聞く。
「翌日に読みます」
「急ぎで受けたいって書いてあったら?」
「聞き取りですわよ?」
「そうだった」
「急ぎの命令ではありません」
「じゃあ翌日」
「はい」
ライルは満足そうに頷いた。
「ちゃんと空けるんだね」
「空けると決めましたから」
「うん」
「ただし、本当の緊急事態なら別です」
「もちろん」
「王都で火事が起きても『デートなので明日』とは申しません」
「それは困る」
「でしょう?」
「でも、普通の書類なら?」
「翌日です」
「ミナさんの返事も?」
「翌日です」
「倉庫の定期記録も?」
「翌日です」
「フォードさんが追加資料百枚送ってきても?」
「翌日どころか、数日かけます!」
ライルが声を上げて笑った。
アマリリアも笑う。
仕事をしないと決めるために、ここまで確認しなければならない自分たちもどうかと思う。
それでも、以前よりはずっとよい。
◇◇◇
昼食後、アマリリアのもとへ一通の手紙が届いた。
ベスター家からである。
「何かございましたか?」
ライルが尋ねる。
「屋敷からです」
「急ぎ?」
「印はありません」
封を開く。
中には父ハロルドからの短い連絡が入っていた。
明日の午後について、屋敷側の予定変更はなし。
馬車の用意も可能。
夜の家族夕食も通常通り。
そして最後に、父らしくない一文がある。
『殿下と出かけるなら、仕事の書類を持って帰ってくるな。』
アマリリアは数秒、その文章を見つめた。
「……」
「どうしたの?」
「父からです」
「うん」
「読みます?」
「いいの?」
「どうぞ」
手紙を渡す。
ライルは最初から読み、最後の一文で笑った。
「ハロルドさん、分かってるね」
「何がですの?」
「アマリリアのこと」
「殿下に言われたくありません」
「俺も同じこと言われそう」
「殿下の場合、王宮から持ち帰りそうですものね」
「君もでしょう」
「……」
「……」
二人で黙る。
「明日、持っていかない」
ライルが先に言った。
「私もです」
「共有帳面は?」
「それは仕事ではありません」
「じゃあ持ってく?」
アマリリアは少し考えた。
共有帳面。
二人で買った青いインク。
仕事の記録ではなく、二人の時間を残すために使い始めたもの。
「持っていってもよいですが」
「うん」
「書くことを目的にはしません」
「分かった」
「何か書きたくなれば、帰ってからでも」
「うん」
「それから、文具店で新しい帳面を買う必要もありません」
「まだ何も言ってないよ!」
「顔です」
「そんなに?」
「かなり」
ライルが笑った。
「でも見るだけならいいでしょう?」
「もちろんです」
「ペンも?」
「見ます」
「インクも?」
「見ます」
「紙も?」
「見ます」
「封蝋も?」
「殿下」
「はい」
「店に入ってからにしてください」
「はい」
まるで遠足前の子供のようだ。
そう思ったが、口にはしなかった。
自分も楽しみなのだから。
◇◇◇
午後の通常業務を進めていると、ゼインが東市場方面から戻ってきた。
「お嬢様」
「何でしょう」
「先ほど、ディーン殿から頼まれた封書を小売商組合へ届けてまいりました」
「もう?」
「通常便が出るところでしたので、同行する使者へ預けました」
「組合側は?」
「通常の王宮連絡として受領しております。ミナ・オルド殿の店へは、本日夕方か明朝に組合員が立ち寄る予定とのことです」
「分かりました」
「それ以上は?」
ライルが尋ねる。
「聞いておりません」
「うん」
「また、組合側から『何の調査か』との確認がありましたので、封書に記載された以上の説明はしておりません」
アマリリアが頷く。
「それで結構です」
「承知いたしました」
ゼインはそれだけ報告すると、自分の仕事へ戻ろうとする。
「ゼイン」
「はい」
「明日ですが」
「お二人の外出ですね」
「……なぜ先に言いますの?」
「この数日、何度も耳にしておりますので」
ライルが笑いを堪えている。
「護衛については?」
アマリリアは気を取り直して尋ねた。
「通常の外出時と同じく、目立たない距離で二名を予定しております。私も同行いたしますが、店内へは必要がない限り入りません」
「ありがとうございます」
「馬車は?」
「ベスター家のものを使う予定です」
「王宮から俺が乗っても?」
「問題ございません。殿下側の護衛とも調整済みです」
「待ち合わせは?」
「明日の昼食後、王宮西側の小門でいかがでしょう」
アマリリアはライルを見る。
「私は構いません」
「俺も」
「では、そのように」
ゼインが淡々と記録する。
「文具店の営業確認もしております」
アマリリアが目を瞬いた。
「そこまで?」
「前回閉まっておりましたので」
「……確かに」
「明日は通常営業予定です。ただし、店主都合による臨時休業までは保証できません」
「それは当然です」
ライルが少し不安そうな顔になる。
「閉まってたら?」
「別の場所へ行けばよいでしょう」
アマリリアは即答した。
「また次に行けばよいのです」
ライルは一瞬黙った。
それから、ゆっくり笑った。
「そっか」
「何です?」
「前だったら、せっかく予定したのにって思ったかも」
「今も残念には思うでしょう」
「うん」
「ですが、それで終わりではありません」
「次がある」
「はい」
「じゃあ閉まってても大丈夫」
「できれば開いていてほしいですけれどね」
「それはそう」
二人で笑う。
ゼインが書類板を閉じた。
「では、明日の準備は以上でございます」
「少なくありません?」
ライルが聞く。
「外出するだけですので」
「そうだけど」
「王族の公式視察ではございません」
「うん」
「婚約者同士が文具店へ行き、お茶をするだけです」
あまりにも簡潔に言われ、ライルが少し照れた。
アマリリアも同じだった。
「……そうですわね」
「はい」
「それで十分です」
◇◇◇
夕刻。
最後の書類を処理し終えたところで、ライルが時計を見た。
アマリリアもつられて見る。
いつもより少し早い。
「まだ仕事できるね」
ライルが言った。
「できますね」
「……」
「……」
机の上には、明日でも構わない書類が数通残っている。
手を伸ばせば、一通くらいは終えられる。
もう一通も。
さらにもう一通も。
そうしているうちに、いつもの退勤時刻になる。
「帰る?」
ライルが尋ねた。
アマリリアは残った書類を見る。
期限は明後日以降。
急ぎではない。
担当部署で必要な確認も済んでいる。
明日の午後は外出するが、午前中は通常通り執務をする。
なら。
「帰りましょう」
「うん」
ライルが嬉しそうに立ち上がる。
アマリリアも書類をまとめ、明日午前に確認するものと、明後日以降でよいものを分けた。
仕事を残した。
意図的に。
それでも胸の奥に焦りはなかった。
「アマリリア」
「何でしょう」
「今日、仕事残ってるよ」
「見れば分かります」
「大丈夫?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「殿下こそ」
「俺も大丈夫」
ライルの机にも書類が残っている。
二人とも、それを鞄へ入れなかった。
「ハロルドさんとの約束」
「父は殿下へ命令しておりませんでしょう」
「でも俺も守る」
「では、守ってくださいませ」
「はい」
執務室を出る。
廊下には夕方の光が長く伸びている。
窓の外では、王宮の使用人たちが一日の仕事を終える準備を始めていた。
「明日」
ライルが言う。
アマリリアは横目で見る。
「今度は何です?」
「楽しみだね」
日数ではなかった。
だからアマリリアも、素直に答えた。
「はい。私も楽しみです」
ライルの歩みが一瞬だけ止まりそうになった。
「何ですの?」
「いや」
「言ってください」
「最近、普通に言ってくれるようになったなって」
「何を?」
「楽しみって」
アマリリアは少しだけ視線を前へ戻した。
「楽しみですから」
「うん」
「それ以外に理由が必要です?」
「いらない」
ライルの声が柔らかくなる。
「俺も楽しみ」
二人はそのまま歩いた。
◇◇◇
ベスター家へ戻ったアマリリアは、夕食前に自室へ入り、明日の服を確認した。
大げさな礼装ではない。
以前の市場や劇場へ出かけた時と同じように、街を歩いても浮きすぎないもの。
淡い灰青色のドレスに、濃い青の上着。
飾りは控えめ。
手首へ何を着けるか考えたところで、視線が小箱へ向いた。
開く。
中には、以前ライルから贈られた木製の腕飾りがある。
市場で二人で選んだもの。
葉と小さな花を模した素朴な細工。
劇場の日にも大切に身につけた。
アマリリアはそれを指先でそっと持ち上げた。
「……これでよいですわね」
誰へ聞かせるでもなく呟く。
明日は、新しいものを買うためだけに出かけるのではない。
以前行けなかった店を見る。
気になるものがあれば手に取る。
何も買わなくてもよい。
その後、お茶をする。
甘いものを選ぶ。
二つか。
場合によっては三つか。
「三つは多いですわ」
思わず笑った。
共有帳面は今、ライルが持っている。
だから今夜は書かない。
書けないからではなく、書く必要もない。
明日のことは、明日二人で過ごせばよい。
◇◇◇
同じ頃。
王宮の私室へ戻ったライルも、自分の机の上へ仕事の書類を一枚も置かなかった。
代わりに、鞄から共有帳面を取り出す。
開けば、アマリリアの字と自分の字が交互に並んでいる。
仕事のこと。
デートのこと。
分からないこと。
楽しみなこと。
どれも同じ帳面の中にある。
ライルは新しい頁を開いた。
筆を取る。
少し考えてから書いた。
『明日はデートです。』
一行。
読み返す。
「……これだけでいいかな」
もう少し書こうとして、やめた。
仕事なら説明が足りない。
記録なら、日時や場所も必要だ。
だが、これは仕事ではない。
明日になれば、アマリリアと会う。
文具店へ行く。
お茶をする。
その後のことは、まだ決めていない。
それでよい。
ライルは一度帳面を閉じかけ、もう一度開いた。
先ほどの一行の下へ、小さく追記する。
『追伸。甘いものが小さかった場合の交渉は、まだ諦めていません。』
「よし」
満足して帳面を閉じた。
◇◇◇
その日の夜、東市場の小さな乾物店では、閉店間際に商店組合の男が一通の封書を届けていた。
「ミナさん、王宮から」
「……王宮?」
店先で豆袋の口を縛っていた女が、思わず手を止める。
三十代後半。
髪を後ろでまとめ、袖を肘までまくっている。
ミナ・オルドは封書を受け取ったものの、すぐには開かなかった。
「私、何かしました?」
「知らんよ。俺は渡してくれって頼まれただけだ」
「怖いんだけど」
「断ってもいい話らしいぞ」
「王宮から来た手紙で『断っていい』って書いてある方が怖くない?」
「俺に言われてもな」
組合の男が苦笑する。
ミナは封筒を裏返した。
正式な王宮の印。
だが、召喚状のような大げさなものではない。
「今日読まなきゃ駄目?」
「期限はないって」
「本当に?」
「返事の催促もしないって聞いてる」
「……変なの」
「俺もそう思った」
組合の男はそれ以上説明せず、店を出ていった。
ミナはしばらく封書を手にしたまま立っていた。
奥から夫が顔を出す。
「どうした?」
「王宮から手紙」
「何したんだ?」
「あなたまでそれ言うの?」
ミナは呆れたように笑った。
そして、まだ封を切らないまま、店の帳場へ置く。
「先に閉めるわ」
「読まないのか?」
「逃げないでしょ、手紙は」
そう言って、残っていた乾物袋を棚へ戻し始めた。
王宮ではアマリリアとライルが、返事を急がせないと決めた。
東市場ではミナが、自分の仕事を先に終えると決めた。
明日になれば、彼女は封を開くかもしれない。
返事をするかもしれないし、しないかもしれない。
そして王宮では、その返事を待つ二人が、明日の午後だけは待つことさえいったん置いて街へ出る。
答えを急がなくてもよい仕事がある。
返事を急がなくてもよい手紙がある。
細かく決めきらなくてもよい予定がある。
それでも時間は止まらない。
それぞれの場所で、それぞれの人が自分の一日を終え、次の日を迎える。
そしてアマリリアとライルにとって、その次の日は。
仕事の続きだけではなく、二人で楽しみにしていたデートの日でもあった。




