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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第98話 二人目を探す前に、聞き取りを続ける理由を決めることになりました

翌朝、王宮の執務室へ入ったライルは、挨拶を済ませるより先にアマリリアの鞄を見た。


 正確には、鞄の中に入っているはずの共有帳面を見ようとした。


 もちろん革張りの鞄は閉じているので、中身など見えるはずがない。それでも視線だけはあまりにも分かりやすく、アマリリアは自分の机へ向かう途中で足を止めた。


「殿下」


「おはよう、アマリリア」


「おはようございます」


「……」


「……」


「帳面」


「やはりそれですのね」


 アマリリアはため息をついた。


 昨日の夜、共有帳面へ書いた。


 二人目の聞き取り相手をすぐには決めなかったこと。


 以前の自分なら、早く答えを得るために二人目、三人目と急いでいたかもしれないこと。


 五日後のデートも、まだ細かく決めていなくても予定そのものがなくなるわけではないこと。


 そして最後に、ライルが朝から甘味の候補表を作っていたことが「かなり面白かった」と。


 今朝になって読み返した時、その最後の一文だけ消したくなった。


 だが、消さなかった。


「書いた?」


「書きました」


「読んでいい?」


「どうぞ」


 アマリリアが帳面を差し出すと、ライルはすぐに受け取った。


 頁を開く。


 最初の数行では穏やかに読んでいた。


 途中で少し真面目な顔になり、最後まで来たところで口元が緩んだ。


「かなり面白かったんだ」


「そこだけ声に出さないでください!」


「最初、『少しだけ』って書いた?」


 アマリリアの肩がぴくりと動く。


「……なぜ分かりましたの?」


「線引いてある」


「見ないでください!」


「帳面を読んでるんだから見るよ!」


「そこは見ても気づかないふりをするところです!」


「無理だよ。『少しだけ』消して『かなり』にしてるんだもん」


 ライルは楽しそうに笑った。


 アマリリアは帳面を取り返そうと手を伸ばしたが、ライルが胸元へ引き寄せる。


「まだ最後まで読んでない」


「読んだでしょう!」


「余白まで」


「余白は読むものではありません!」


「何か書いてあるかもしれない」


「ありません!」


 朝から何をしているのだろう。


 そう思いながらも、アマリリア自身も笑いそうになっている。


 ライルはようやく帳面を閉じた。


「俺が持ってていい?」


「昨日、貸してと言っておりましたものね」


「うん」


「どうぞ」


「ありがとう」


 ライルは大事そうに自分の鞄へしまった。


「何を書くつもりです?」


「秘密」


「まだ言いますの?」


「書いたら読めるよ」


「それも昨日聞きました!」


 そこで扉の向こうから、遠慮がちな咳払いが聞こえた。


 アマリリアの動きが止まる。


 ライルも扉を見る。


「……ディーン?」


「はい」


「今日はどこから聞いてた?」


「『かなり面白かったんだ』の少し前からです」


「またほとんど最初ではありませんか!」


「入室のお声はかけたのですが」


「嘘です!」


「二度ほど」


「……聞こえませんでした」


「存じております」


 ディーンが入ってくる。


 今日はレオンはいない。


 その代わり、数通の通常書類と薄い封筒を持っていた。


「本日の急ぎは三件ございます。それと、エドガー・セイルより意見書が届いております」


 アマリリアの表情が変わった。


「通知試行について?」


「はい」


 ライルもすぐに仕事の顔へ戻る。


「いつ届いたの?」


「今朝です。本人からは『期限を設けないと言われたので、本当に急がず考えた』との伝言もございます」


 アマリリアは封筒を見る。


 待っていたものだ。


 しかし。


「急ぎ三件からにしましょう」


 ディーンがわずかに眉を上げた。


「よろしいのですか?」


「意見書は逃げません」


「俺もそれでいい」


 ライルも頷く。


「急ぎを先に」


「承知いたしました」


 ディーンは三通の書類を先に机へ置いた。


 封筒はその横。


 以前なら、届いた瞬間に開いていたかもしれない。


 けれど、待てるものは待てる。


 アマリリアはもう、それを我慢とは感じなかった。


          ◇◇◇


 一件目は、王都西側の公営浴場だった。


 湯を送る管の一部から小さな漏れが見つかり、今日の午後から片側の浴室を閉じて修繕したいという申請である。


 全館を閉じる必要はない。


 もう片側を時間帯で男女交代にし、近隣の別浴場も通常営業している。


「修繕は?」


「半日から一日を見込んでおります」


 ディーンが答える。


「予備部品は?」


「ございます」


「では今日やってしまった方がいいね」


 ライルが言う。


「小さい漏れのうちに」


「私も賛成です」


 アマリリアは確認印を入れた。


 二件目は、王都東部の小学校で冬用薪の納入が一日遅れるという報告だった。


 現在の備蓄は六日分。


 納入元の荷車が車軸交換中で、明日には再開予定。


 別の業者へ切り替える必要はない。


 三件目は、北側の小橋で欄干の一部が緩んだため、修繕まで荷車の通行を片側ずつにするというもの。


 歩行者は別側を通れる。


 現場係が既に仮の柵を設置済み。


 修繕は翌朝。


「これも現場対応で足りていますわね」


「はい」


「王宮から追加なし」


「承知しました」


 三件を終えるまで、思ったより時間はかからなかった。


 ライルが机の横に置かれた薄い封筒を見る。


「今なら?」


「ええ」


 アマリリアも頷いた。


 ディーンが封筒を渡す。


 エドガー・セイル。


 王宮内部文書局で十五年以上働いている。


 通知試行について、急ぎではなく、自分の経験から気づいたことがあれば意見をほしいと頼んでいた人物だ。


 期限は設けなかった。


 催促もしなかった。


 そして今日、自分のタイミングで返事が来た。


「読みます?」


 ライルが聞く。


「一緒に」


「うん」


 二人は机の中央へ紙を置いた。


          ◇◇◇


 エドガーの意見書は、予想より短かった。


 最初の一文には、こう書かれていた。


『二件の試行記録を読みましたが、どちらを良い例、悪い例と呼ぶべきかは、私には判断できませんでした。』


「……最初からそれですのね」


 アマリリアが呟く。


「俺、ちょっと好きかも」


「何がです?」


「分からないって最初に書いてるところ」


「殿下も最近お好きですものね」


「便利に使ってないよ?」


「まだ何も言っておりません」


 続きを読む。


 エドガーは、一件目の公営倉庫における書式変更について、補助員や運送人など新しく関わる人への伝達が必要になる点は理解できると書いていた。


 一方、旧書式の回収確認を増やしたことで、現場の確認作業が増えたことも事実である。


『通知が届いたことを確かめる仕組みを増やすほど、確認する仕事も増えます。確認が増えること自体を悪いとは思いませんが、確認することを確認する仕事が生まれ始めたら、一度止まって考えた方がよいと思います。』


 ライルがそこで止まった。


「確認することを確認する仕事」


「耳が痛いですわね」


「俺たち、やりそう」


「殿下だけの話ではありません」


「アマリリアも?」


「私もです」


 二人とも否定しなかった。


 エドガーは続けて、冬季夜間門の通知について触れている。


 その現場では新しい受け手が増えたわけではない。


 長年の役割分担が暗黙の了解として存在し、年に一度の通知でそれを明文化することには意味があるかもしれない。


 ただし、毎年同じ文書を出し続ければ、読む側が「去年と同じ」と判断し、変化があっても見落とす可能性がある。


『文書を残すことは、忘れないために役立ちます。しかし、文書があることで「知っているはず」と考えやすくなることもあります。』


 アマリリアはそこで手を止めた。


「これは」


「前に出た話と似てる?」


「ええ。届いたことと理解したことは同じではない」


「文書があることと、使われてることも同じじゃない」


「はい」


 さらに読む。


『私が長く文書局にいて最も気になるのは、通知を書く側が、受け取る側を一人の人間のように想像しやすいことです。』


「一人の人間?」


 ライルが首を傾げる。


 その先に説明があった。


『「現場へ通知する」と書けば、現場という一人の相手へ一通の文書が届くように感じます。しかし実際には、責任者、常勤者、臨時の者、途中から加わる者、文字を読むのが得意な者、口頭説明の方が分かりやすい者などがいます。通知を作る側は、そこまで全員を想像できません。だからといって、全員分の通知を作ることも現実的ではありません。』


 アマリリアは無意識に、昨日読んだトーマの記録を思い出した。


 王宮側が「個人運送人」と一つの言葉でまとめようとした人々。


 だが、実際には専業もいれば、農業と兼業する者も、店の仕入れついでに運ぶ者もいる。


「似ていますわね」


「うん」


 ライルも同じことを考えたらしい。


「通知の『現場』も、運送の『小さい運送人』も」


「中心から見ると、一つの名前にしてしまいやすい」


「でも中は同じじゃない」


「はい」


 エドガーの意見書の最後には、提案というより注意書きに近い文章があった。


『今回の試行を制度にするかどうかは、私には判断できません。ただ、通知がうまく届かなかった時、すぐに新しい確認欄や署名欄を増やすのではなく、どこで止まったのかを先に見るという考え方は、続けてもよいと思います。』


『そして、通知を作る人間にも、分からないことがあると認めておく方がよいと思います。』


 そこで終わっていた。


 新制度案はない。


 書式案もない。


 何項目を確認すべきかという一覧もない。


「エドガーさんらしい?」


 ライルがディーンを見る。


「はい」


「文書局の人なのに、文書を増やせって言わないんだ」


「長く文書を扱っているからこそ、増やすことの負担も知っているのでしょう」


「なるほど」


 アマリリアはもう一度、最後の二行を読んだ。


「これで通知試行を制度化する理由にはなりません」


「うん」


「やめる理由にもならない」


「うん」


「では」


 ライルが考える。


「今は?」


「今は、二件の試行とエドガーさんの意見を残しておけばよいのでは?」


「三件目やらない?」


「必要な場面が出たら考えます」


「探さない?」


「探しません」


 アマリリアははっきり答えた。


「通知試行のための現場を探し始めたら、本末転倒です」


「うん」


「通知に問題が起きた時、今回の記録を思い出せばよいでしょう」


「それなら、終わりじゃないけど」


「一区切りです」


 ライルが小さく笑った。


「最近、それ増えたね」


「何がです?」


「終わりじゃないけど、今はここまで」


 アマリリアも少し笑った。


「悪いことではないでしょう?」


「ううん。前より好き」


          ◇◇◇


 昼食前、ディーンが一通の小さな連絡票を持ってきた。


「北東荷物預かり所より、昨日の件について連絡がございます」


「トーマさん?」


 ライルがすぐに聞く。


「本人からではありません。責任者のグレン氏からです」


「何か問題が?」


「いいえ」


 ディーンが紙を見る。


「昨日の聞き取り後、トーマ氏は通常通り荷を受け取り、予定通り仕事へ戻ったとのことです。また、今朝も通常通り預かり所へ来たそうです」


 アマリリアは眉を寄せる。


「なぜ、それを?」


「グレン氏自身も、王宮の聞き取りがトーマ氏の仕事へ何か影響しないか少し気にしていたようです」


「ああ」


 ライルが納得する。


「周りから変に見られなかったか」


「はい。現時点では、特に大きな反応はなかったとのことです。ただ」


「ただ?」


「職員の一人からトーマ氏へ、『何を聞かれたんだ』という質問はあったそうです」


 アマリリアの表情が少し変わる。


「トーマさんは?」


「『運送の話。別に怒られたわけじゃない』と答えたとのことです。それ以上は話さず、相手も深く聞かなかったそうです」


「それだけ?」


「はい」


「なら」


 ライルがアマリリアを見る。


「今のところは何もしない?」


「そうしましょう」


 アマリリアは頷いた。


「こちらから説明を広げれば、かえって『何かあった』ように見えるかもしれません」


「うん」


「ただし」


 アマリリアは少し考える。


「昨日、聞き取り場所を王宮にしなかったことには意味がありましたね」


「服のことだけじゃなくて?」


「はい。もし王宮へ呼んでいれば、半日近く仕事から離れたかもしれません」


「行き帰りもある」


「服も気にする」


「周りももっと『王宮に呼ばれた』って思うかも」


「ええ」


 ディーンが一言付け加える。


「昨日の形にも負担がなかったわけではありません。王宮の者が二名、預かり所へ行ったこと自体は周囲から見えています」


「ゼロにはならない」


「はい」


「じゃあ」


 ライルは少し考える。


「『王宮に呼ばなかったから負担なし』って記録しない方がいいね」


「その通りです」


 アマリリアは答えた。


「場所を変えれば、負担の形が変わるだけかもしれません」


 王宮へ来てもらえば、移動と服装と時間の負担。


 現場へ行けば、同僚や取引相手の視線。


 完全に何も影響を与えずに話を聞くことはできない。


「聞くこと自体が」


 ライルがぽつりと言う。


「何かすることなんだね」


「ええ」


「だから、聞けば聞くほどいいわけじゃない」


「はい」


 アマリリアはその言葉を聞いて、昨日決めなかった二人目のことを思い出した。


 ミナ。


 バルド。


 二人とも、まだ何も知らない。


 王宮が声をかければ、その瞬間から二人の一日に何かが増える。


 説明を読む時間。


 断るか考える時間。


 受けるなら、話す時間。


 周囲の視線。


「……二人目」


 アマリリアが言った。


「はい」


 ディーンが応じる。


「今日も連絡しないでください」


「承知しました」


 ライルは驚かなかった。


「理由、少し分かった気がする」


「私もです」


          ◇◇◇


 昼食は、昨日より暖かくなった中庭で取ることになった。


 秋の陽射しは弱いが、風は穏やかだった。


 王宮の厨房から運ばれたのは、鶏肉と根菜を挟んだパン、小さな器に入った温かな豆のスープ、それに林檎だった。


 アマリリアとライルは向かい合うのではなく、同じ方向を向くように長椅子へ座った。


 少し離れたところに護衛がいる。


 ゼインとディーンは別の席だ。


「あと三日」


 パンを一口食べた後、ライルが言った。


 アマリリアはゆっくり顔を向ける。


「昨日、毎日は少し、と申し上げましたよね?」


「だから今日は言わないつもりだったんだけど」


「言いました」


「中庭来たら思い出した」


「なぜです?」


「前にここで昼食食べた時、何回もデートすればいいって話したから」


 アマリリアは返そうとした言葉を止めた。


 確かにそうだった。


 次を一度きりの特別な約束として抱え込まなくてよい。


 何度でも出かければよい。


 そう話した場所だ。


「……それなら、今回は許します」


「やった」


「ですが、明日は言わないでください」


「分かった」


「本当に?」


「たぶん」


「殿下」


「分かったって!」


 アマリリアは笑いながら林檎を一切れ取った。


「文具店」


 ライルが今度は別の話をする。


「はい」


「何見る?」


「行ってから決めます」


「帳面はもう買ったし」


「ええ」


「インクもある」


「はい」


「じゃあ、買うものなくても行っていいんだよね」


 アマリリアは一瞬、問いの意味を考えた。


「もちろんです」


「よかった」


「何か買わなければ入ってはいけない店ではないでしょう」


「そうじゃなくて」


 ライルは少し照れたように笑う。


「あの日、閉まってたから見てみたいって言っただけだったでしょう」


「ええ」


「その後に帳面買ったから、もう行く理由なくなったって言われるかと思って」


「言いません」


 アマリリアは即答した。


「買う必要があるから行くのではありません」


「うん」


「二人で見たいと思ったから行くのです」


「……うん」


 ライルの返事が、少し嬉しそうに変わった。


「それに」


 アマリリアは続ける。


「何か気に入るものがあれば買えばよいでしょう」


「何もなかったら?」


「お茶をします」


「甘いもの二つ?」


「そこはまだ確定しておりません!」


「三つ?」


「増やさないでください!」


 中庭に笑い声が響く。


 仕事の話をしていない時間。


 それを以前なら、空白と感じたかもしれない。


 今は違う。


 昼食を食べながら三日後のことを話している。


 それだけで、きちんと自分の時間だった。


          ◇◇◇


 午後、アマリリアとライルは昨日のトーマの記録をもう一度だけ机へ出した。


 今度は内容を細かく読み返すためではない。


「聞き取りを続ける理由」


 ライルが紙の上部へそう書いた。


「これを決める?」


「はい」


「二人目を決める前に?」


「その方がよいと思います」


 アマリリアは隣へ座った。


 ディーンも向かい側にいる。


 ゼインは少し離れた机で別の書類を整理しているが、必要なら会話へ加われる距離だ。


「最初は」


 ライルが言う。


「フォードさんの資料にいない人の話を聞きたかった」


「ええ」


「実際に一人聞いた」


「はい」


「じゃあ、それで目的達成?」


 アマリリアはすぐには答えない。


「一部は」


「一部?」


「資料だけでは見えなかった話を聞く、という目的なら達成しております」


「うん」


「ですが、一人の話だけで、王都や周辺地域の運送がどうなっているかは分かりません」


「それは最初から分かってた」


「はい」


「だから二人目?」


「そこで自動的に二人目へ進むのは違うと思います」


 ライルは筆を置いた。


「じゃあ、何がまだ知りたい?」


 アマリリアはトーマの記録を見る。


 何がまだ知りたいのか。


 知りたいことなら、いくらでもある。


 別の個人運送人はどうなのか。


 兼業者は。


 荷主は。


 共同便を使わない者は。


 急ぎ荷を諦めた人は。


 若い運送人は。


 地方は。


 馬を持たない人は。


 だが、「知りたい」は無限に増える。


「知りたいことではなく」


 アマリリアが言う。


「知らなければ、何かを判断できないことを考えた方がよいのでは?」


 ライルの目が少し大きくなる。


「知りたいと、必要?」


「はい」


「違うね」


「ええ」


 ディーンも頷く。


「調べられることをすべて調べるのではなく、判断に必要なことを調べる、ということですね」


「はい」


「じゃあ」


 ライルはもう一度筆を持つ。


「今、何を判断しようとしてる?」


 また沈黙が落ちた。


 アマリリアは、その問いを自分の中で繰り返す。


 共同輸送を続けるか。


 違う。


 それをやめるという話ではない。


 共同輸送を拡大するか。


 今ここで決める話ではない。


 個人運送人を保護するか。


 それも違う。


 民間の一つ一つの仕事を、王宮が保証するわけではない。


「必要な時に」


 アマリリアが口を開いた。


「必要な運送手段へ届かなくなっている場所や人が、王宮として看過できないほど生まれているか」


 ライルがゆっくり頷く。


「それ」


「以前から考えていた問いです」


「うん」


「でも、トーマさんの話で少し形が変わった気がします」


「どう?」


「共同便で全部を賄えるか、ではない」


「他の手段が残ってるか」


「はい」


「でも『残ってる』だけでも足りない?」


「そうでしょうね」


 アマリリアは考える。


「存在していても、高すぎて使えない。遠すぎる。頼める人を知らない。必要な時に空いていない。そういうこともあり得ます」


「逆に、共同便で間に合わなくても、自分の荷車で運べる人もいる」


「はい」


「トーマさんみたいな人を知ってる人もいる」


「ええ」


「じゃあ、見るのは」


 ライルは紙へゆっくり書く。


『共同輸送以外の手段があるか』


 少し考え、線を引いた。


「違う?」


「少し狭いです」


「だよね」


 書き直す。


『必要な時に、現実に使える運送手段へ届いているか』


 アマリリアはそれを読んだ。


「こちらの方が近いです」


「共同便でもいい」


「はい」


「個人運送でもいい」


「自家用荷車でも、商人の特別便でも、その人にとって現実に使えるなら」


「うん」


「ただし」


 アマリリアは続ける。


「一件使えなかったから、すぐ制度問題とはしない」


「荷物を諦める理由もいろいろあるから」


「はい」


 フォードの記録にあった七件の取り下げ。


 一件は後から別の場所で同等品を買っている。


 一件は代替手段を確保。


 一件は発送延期。


 二件は詳細不明。


 すべてを同じ「困った人」にはできない。


「これを知るためなら」


 ライルが紙を見る。


「次に誰へ聞く?」


 アマリリアは答えようとして、止まった。


 そして笑った。


「またそこへ戻りましたわね」


「本当だ」


「ですが、先ほどまでとは少し違います」


「うん」


 今度は、「トーマと違う種類の人」を探すのではない。


 何を判断するために話を聞くのか。


 その理由から考えられる。


「運ぶ側だけでは」


 ライルが先に気づいた。


「分からないことある?」


「あります」


「必要な時に運送手段へ届いたかって、頼む側の話でもある」


「はい」


 ディーンも口を開く。


「そうなると、ミナ氏は候補として別の意味を持ちます」


「乾物店」


「はい。自店の仕入れを行う側であり、時には他店の荷を運ぶ側でもあります」


「トーマさんと違うから、じゃない」


 ライルが言う。


「頼む側と運ぶ側、両方になる人だから?」


「その可能性があります」


 アマリリアはすぐには決めなかった。


「ですが、ミナさんが実際に共同輸送や急ぎ荷で何か経験しているかは分かりません」


「調べてないから」


「はい」


「それでいいんだよね」


「ええ」


「何か困った経験がある人を選ぶんじゃない」


「そうです」


 ライルは嬉しそうに紙を見る。


「じゃあ、ミナさん?」


「候補としては、一歩前へ出ました」


「今日連絡する?」


 アマリリアは時計を見る。


 まだ午後の中頃。


 連絡しようと思えばできる。


 だが。


「今日である必要は?」


 ライルが止まった。


「……ない」


「では、明日、連絡方法を考えましょう」


「うん」


「店を営んでいる方です。営業時間中に王宮から人を送れば、それ自体が負担になります」


「まず普通の連絡経路があるか確認?」


「はい」


 ディーンが頷いた。


「市場管理所または商店組合を通じた通常連絡が可能か、明朝までに確認いたします。ただし、そこで本人の評判や共同輸送利用歴などは調べません」


「お願いします」


 ようやく、二人目へ一歩進んだ。


 それでも、まだ声はかけていない。


 アマリリアには、その速度がちょうどよく感じられた。


          ◇◇◇


 夕刻。


 その日の仕事を終えた頃には、窓の外が薄い紫色へ変わっていた。


 ライルは机を片づけた後、自分の鞄から共有帳面を取り出した。


「書くのです?」


「うん」


「今?」


「駄目?」


「構いませんけれど」


「見ないでね」


「ここで書いておいて?」


「向こう向いてて」


「子供ですの?」


「秘密って言ったでしょう」


 アマリリアは呆れながら、窓の方へ椅子を回した。


「終わったら言ってくださいませ」


「はい」


 背後から、紙を擦る音がする。


 筆先が止まり、また動く。


 思っていたより長い。


「まだですの?」


「まだ」


「何を書いておりますの?」


「秘密」


「その言葉、便利に使っておりません?」


「アマリリアの『分からない』よりは使ってない」


「殿下?」


「ごめんなさい」


 また筆が動く。


 やがて帳面を閉じる音がした。


「できた」


 アマリリアが振り返る。


「読んでよいのです?」


「うん」


 帳面を受け取る。


 ライルの字がある。


『昨日、アマリリアが「急がなくても忘れないものがある」と書いていた。俺もそう思う。』


『仕事は、急がないといけないものと、急がなくてもなくならないものが少しずつ分かるようになってきた。まだ間違えると思う。』


 そこで一度、文章が切れている。


 次の段落。


『五日後の予定は、急がなくてもなくならないけど、楽しみだから何度も考えてしまう。これは仕事とは違うので、たぶん考えすぎてもいいと思う。』


 アマリリアの口元が緩んだ。


「都合のよい理屈ですわね」


「駄目?」


「駄目とは申しません」


 最後の一行を見る。


『追伸。甘いものは二つまでにします。当日、小さかった場合は交渉します。』


「交渉しません!」


「まだ当日じゃないよ!」


「予告しているではありませんか!」


「小さかったら三つ食べられるかもしれない!」


「文具店より甘味の方を楽しみにしておりません!?」


「両方!」


 ライルが笑う。


 アマリリアも、結局笑った。


「では」


 帳面を閉じながら言う。


「当日、本当に小さければ考えます」


「本当?」


「考えるだけです」


「やった!」


「許可ではありません!」


 今日も、王国の問題は全部解決していない。


 通知試行は、制度にせず一区切りとした。


 共同輸送についても、まだ一人にしか話を聞いていない。


 二人目の候補は少し見えてきたが、まだ連絡すらしていない。


 第二共同倉庫も、現場での試行を続けている。


 終わっていないものばかりだった。


 けれど、何も進んでいないわけではない。


 どこまで考えれば今は十分なのか。


 次へ進むなら、何のために進むのか。


 少しずつ、それを選べるようになっている。


「帰りましょうか」


 アマリリアが言う。


「うん」


「明日はミナさんへの連絡方法を確認」


「はい」


「ただし、急ぎません」


「はい」


「そしてデートまで」


 ライルが一瞬だけ迷う。


 アマリリアが目を細めた。


「言わない約束でしたわね?」


「……あと二日」


「殿下!」


「明日は言わない!」


「今日も言わないでください!」


 笑いながら執務室を出る。


 二人の足音が、夕方の廊下に並んで響いた。


 急がなければならないことは、明日もきっとある。


 急がなくてもよいことも、きっとある。


 その違いをすべて間違えずに選べるほど、二人はまだ完成していない。


 けれど、最初から完成している必要などないのだと、今なら思える。


 答えを急がないことも。


 必要なら次へ進むことも。


 仕事を途中で置いて帰ることも。


 そして、二日後の午後を二人のために空けておくことも。


 どれも同じように、自分たちで選んでよいことだった。

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