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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第97話 一人目の話を整理したら、二人目を急いで決めないことになりました

トーマ・レインへの聞き取りを終えた翌朝、王宮の執務室へ入ったアマリリアが最初に見つけたのは、昨日の記録ではなかった。


 ライルの机の端に、小さな紙が一枚置かれている。


 そこには、妙に丁寧な字で三つの言葉が並んでいた。


『焼き菓子』


『果物の菓子』


『当日見つけたもの』


 最後には括弧まで添えられている。


『二つまで』


「……殿下」


「おはよう、アマリリア」


「これは何ですの?」


 アマリリアが紙を摘まみ上げると、ライルは書類から顔を上げた。


「五日後の候補」


「見れば分かります」


「じゃあ何で聞いたの?」


「なぜ朝から作っているのかを聞いております!」


「昨日、二つならいいって言ったでしょう」


「二つ食べることと、四日前から候補表を作ることは別問題です!」


 ライルは納得していない顔をした。


「でも当日迷ったら?」


「迷えばよいではありませんか」


「店の前で?」


「はい」


「二人で?」


「はい」


「それ、楽しそう」


「でしょう?」


 答えてから、アマリリアは一瞬黙った。


 ライルも黙る。


 そして二人とも、机の上の紙を見る。


「……じゃあ、これいらない?」


「いりません」


「せっかく書いたのに」


「捨てる必要まではありません。ですが、これ以上増やしてはいけません」


「三つ目に『当日見つけたもの』って書いたから増えないよ」


「そういう問題ではありません!」


 朝の執務室にアマリリアの声が響いたところで、開いていた扉の向こうから小さな咳払いが聞こえた。


「失礼いたします」


 ディーンが立っていた。


 その隣にはレオンもいる。


 昨日のような緊張は残っているものの、今日はレオンの肩から少し力が抜けていた。腕に抱えているのは、昨日使っていた書類板ではなく、数枚に整理された紙である。


「……いつからいましたの?」


「『二つまで』のあたりからです」


「ほとんど最初ではありませんか!」


「入室の声をおかけする時機を失いまして」


「普通に入ってきてください!」


「承知いたしました」


 ディーンは何事もなかったように一礼する。


 レオンは視線を下げていた。


 肩が微妙に震えている。


「レオンさん」


「はい!」


「笑っております?」


「いいえ!」


「では、顔を上げてくださいませ」


「……申し訳ございません」


 顔を上げたレオンは、やはり少し笑っていた。


 アマリリアはため息をついたが、昨日より自然な表情を見せるようになったこと自体は悪くない。


「まあ、よいです。それが昨日の記録ですか?」


「はい」


 レオンの表情が仕事のものへ戻る。


「昨夜は忘れそうな点のみ短く追記し、本朝、聞き取り記録として整理いたしました」


「ありがとうございます」


 アマリリアは差し出された紙へ手を伸ばした。


 だが、受け取る前に一度止める。


「朝食は?」


「済ませております」


「ディーンも?」


「はい」


「では、読みましょう」


 昨日なら、帰ってきた直後にそのまま始めていたかもしれない。


 今朝なら急ぐ必要はない。


 だからこそ、急がず読むことができる。


 アマリリアが受け取り、ライルも椅子を寄せた。


 机の上には昨日の聞き取りが、数枚の紙として置かれた。


          ◇◇◇


 レオンが作った記録は、思っていたより短かった。


 聞き取り時間。


 場所。


 扉を開けたまま行ったこと。


 本人が途中終了を希望しなかったこと。


 仕事による中断がなかったこと。


 事前に伝えた内容と、聞き取り開始時に再確認した内容。


 そこから先は、トーマの発言内容と、聞き手側が後から確認すべき点が分けられている。


「全文ではありませんのね」


「はい」


 レオンが答える。


「昨日も申し上げた通り、すべてを書き取ることはできませんでした。また、全文に近づけようとすると、発言の一部だけが細かく残り、別の部分が粗くなると感じましたので、主な内容を整理しております」


「トーマさんが実際に使った言葉は?」


「意味が変わりそうなものは、できるだけそのまま残しました」


 アマリリアは紙へ視線を戻した。


『長距離を自ら往復する機会が減ったことについて「楽」と表現』


『共同便について「便利だから使っている」』


『ただし「全部それでいいかと言われたら違う」』


『急ぎ荷について「他に運ぶやつがいなくなったら困るだろうな」』


 その下には、昨日聞いた内容が簡潔にまとめられている。


 長距離の往復減少。


 宿泊や帰り荷探しの減少。


 配送先で拾っていた帰り荷の減少。


 空いた時間へ近距離仕事を入れる場合があること。


 共同便で間に合わない急ぎ荷が個別運送へ回る場合があること。


 その一部で、共同便との運賃比較を受けること。


 本人は収入が増えたか減ったかを判断していないこと。


 現在の馬を替える時期が来た場合、同じ仕事を続けるかは未定であること。


「ここ」


 ライルが一箇所を指す。


『共同便との運賃比較を受ける場合が一部ある』


「ちゃんと『一部』残したんだね」


「はい」


「昨日、トーマさん本人も確認したところです」


「これ、一語抜けるだけでかなり違う」


「ええ」


 アマリリアも頷く。


『共同便との運賃比較を受ける』


 と、


『共同便との運賃比較を受ける場合が一部ある』


 では、読んだ側が抱く印象が違う。


「ですが」


 アマリリアは別の箇所を見る。


「こちらは?」


『若年層には個人運送を選びにくい事情がある可能性』


「これはトーマさん自身の言葉ではありませんね」


「はい」


 レオンが答える。


「そのため、『聞き手側の確認候補』へ分けました」


「根拠は?」


「トーマ氏が、馬や荷車の費用、早朝・雨天の仕事、荷主対応などを挙げたうえで、共同便の仕事へ移る者がいると話したことです」


「本人が知っているのは?」


「本人が知る範囲では二名です」


「なら」


 ライルが紙を覗き込む。


「『若い人は個人運送をやりたがらない』って結論にはしない方がいいね」


「はい」


 ディーンが答えた。


「トーマ氏の周囲でそう話す人がおり、本人が知る二名は共同便側へ移った。それ以上は分かりません」


「ここも、聞くなら本人たちですわね」


「そうなります」


 アマリリアは紙の余白へ小さな印を付けた。


 ただし、それは「調べる」という印ではない。


 今は分からない。


 必要になれば、誰に聞けばよい可能性があるか。


 その程度だ。


「殿下」


「うん?」


「この印を見て、『次にこの二人を探そう』と言ってはいけませんよ」


「まだ何も言ってない!」


「顔に出ました」


「そんなに?」


「かなり」


 ライルは不満そうに自分の頬を触る。


「俺、王様になったら困らない?」


「何がです?」


「全部顔に出たら外交で」


「その時は練習してくださいませ」


「今から?」


「まだ時間はあります」


「アマリリアが相手してくれる?」


「なぜ私が外交相手役を?」


「君なら絶対騙されないから」


「それは褒めております?」


「すごく」


 ディーンが静かに視線を紙へ落とした。


 レオンも倣う。


 昨日より明らかに慣れている。


「……話を戻します」


 アマリリアが自分から言った。


「お願いします」


 ディーンの返答が妙に早かった。


          ◇◇◇


 記録を最後まで読んでも、昨日聞いた以上の「答え」が現れることはなかった。


 当然だった。


 記録は、昨日の聞き取りを別のものへ変えるための紙ではない。


 それでも、一晩置いて文章として読むと、会話の最中には気づかなかった並びが見えてくる。


「トーマさん、共同便を使う側でもあるんですわね」


 アマリリアは最初の頁へ戻った。


「そうですね」


 ディーンが答える。


「個人運送人であり、共同便へ荷を預ける利用者でもあります」


「私たち、最初に候補を考えた時」


 ライルも記録を見ながら言う。


「『共同輸送を使ってる人』『使ってない人』みたいに分けそうになったよね」


「ええ」


「トーマさん、その分け方に入らない」


「正確には、両方ですわね」


「自分で運ぶこともあるし、預けることもある」


「荷によって変える」


「急ぐかでも変わる」


「行き先でも変わるでしょう」


 アマリリアは指先で紙の端を押さえた。


 分類が役に立たないわけではない。


 整理するためには必要なこともある。


 しかし、分類した後で、その枠の中に人間を押し込め始めれば見えなくなるものがある。


「それと」


 ライルが次の頁を指した。


「ここも気になる」


『普段の荷は共同便へ移る一方、急ぎ荷のみ個別運送へ依頼される場合があり、依頼を断りにくいと感じることがある』


「うん」


「これ、フォードさんの資料にあった『急ぎだけ個別へ残る』と似てるけど」


「同じではありません」


「そう。資料は荷の動きだったけど、トーマさんは『断りにくい』って言った」


 アマリリアは頷いた。


 荷物の件数だけでは分からない。


 一件の依頼を受ける人間が、それをどう感じるか。


 長年の取引相手なら断りにくい。


 普段の荷が共同便へ移った後でも、関係そのものが消えるとは限らない。


「ただ、これもトーマさん一人の感じ方です」


「うん」


「個別運送人全員が急ぎ荷を負担に思っている、とはしない」


「しない」


「逆に、急ぎ荷が残っているから個別運送は大丈夫、ともしない」


「それもしない」


 ライルは少し考えてから、紙の余白を見た。


「じゃあ、何が分かったんだろう」


 誰もすぐには答えなかった。


 以前なら、その沈黙を埋めるために誰かが言葉を探したかもしれない。


 昨日の聞き取りで、沈黙を急いで埋めないことを実際に試したばかりだ。


 アマリリアは椅子へ背を預ける。


 ライルも待つ。


 ディーンとレオンも黙っている。


「……少なくとも」


 しばらくして、アマリリアが口を開いた。


「共同輸送が広がった後の仕事の変化を、『仕事が奪われた』『便利になった』の二つだけで見るのは難しいと分かりました」


「うん」


「トーマさん一人については、ですが」


「長距離は減った。近場を入れられる。帰り荷は減った。急ぎが来る。自分でも共同便を使う」


「そして、今のところ仕事は続けている」


「でも次の馬を買うかは分からない」


「はい」


 ライルが小さく息を吐く。


「一人なのに、項目いっぱいあるね」


「人ですもの」


 アマリリアが答える。


「表の一行ではありません」


 レオンがその言葉に顔を上げた。


 アマリリアは視線に気づいたが、それ以上は何も言わなかった。


 昨日、トーマは「荷物を運んでいるだけ」と言った。


 けれど、その「だけ」の中に、王宮の資料には入らない選択がいくつもあった。


          ◇◇◇


「それで」


 ディーンが一度、三人の顔を見た。


「二人目についてですが」


 ライルの姿勢がわずかに変わる。


 アマリリアも記録から顔を上げた。


「昨日の候補であれば、ミナ・オルド氏、バルド・ネイ氏がおります」


「はい」


「どちらかへ、今日連絡しますか?」


 問いかけられた瞬間、ライルは口を開きかけた。


 だが、言わなかった。


 アマリリアもすぐには答えない。


 二人の候補については既に知っている。


 ミナ・オルド。


 夫と小さな乾物店を営み、自店の仕入れ用荷車で近隣店舗の荷も運ぶことがある。専業運送人ではなく、共同輸送を利用しているかどうかは、あえて事前に調べていない。


 バルド・ネイ。


 農業を営みながら、農閑期には自分や近隣の村の荷を有償で運ぶ。こちらも共同輸送利用の有無は不明。


 トーマとは違う。


 だから聞く。


 その考え方は、一見すると自然だ。


「……昨日のトーマさんと違う人を選ぶなら」


 ライルが慎重に言う。


「ミナさんかバルドさんは、確かに違う」


「ええ」


「でも、それだけで選ぶのは」


「また、きれいな比較を作ろうとしておりますわね」


「うん」


 ライルが素直に認めた。


「専業の個人運送人の次は、店をやりながら運ぶ人。その次は農家をやりながら運ぶ人、って」


「三種類揃えること自体が目的になりかねません」


「はい」


 ディーンも頷く。


「では、何を理由に二人目を選ぶべきでしょう」


 また問いが残る。


 アマリリアはトーマの記録を最初から見直した。


 共同便。


 急ぎ。


 帰り荷。


 馬。


 運賃。


 荷主。


 若い運送人。


 そして、別の運送人との融通。


「私たちは」


 アマリリアはゆっくり言葉を選ぶ。


「何人に聞けば安心するのでしょう」


「え?」


 ライルが見る。


「一人では足りないと思っております」


「うん」


「では二人なら?」


「……足りないかもしれない」


「三人なら?」


「たぶん、三人でも違う話が出る」


「十人なら?」


「もっと出そう」


「百人なら?」


「それはもう大調査だね」


「そうです」


 アマリリアは記録を閉じた。


「人数を増やせば、いつか『十分』になると考えるのは危険です」


 ディーンが静かに頷く。


「最初から代表性を得るための調査ではありませんからね」


「はい。私たちは、フォードさんの資料だけでは見えなかったところを知りたいと思って、実際に働いている方へ話を聞くことにしました」


「一人目で、見えなかったものは出た」


 ライルが言う。


「ええ」


「じゃあ次は、その話が本当か確認する?」


 アマリリアは少し考える。


「『本当か』という言い方も難しいですわね」


「あ」


「トーマさんにとっては本当に起きていることでしょう」


「そっか」


「同じことが他の方にも起きているか、なら分かります」


「うん」


「ですが、それを確かめるためだけに、似た人を探して同じ話が出るまで聞くのも違います」


「欲しい答え探しになる」


「はい」


 ライルは両腕を机へ置き、少し前へ身を乗り出した。


「じゃあ、次の人に何を聞きたいかを先に決める?」


「それも一つですが」


 アマリリアはそこで止まった。


 質問を決めすぎれば、答えを誘導する。


 広すぎれば、トーマのように何を話せばよいか迷う。


「難しい」


「また言った」


「もう嫌じゃないからいいんだよ」


「便利な言葉にしてはいけませんよ」


「はい」


 ライルは笑った。


          ◇◇◇


 話が一度止まったところで、ゼインが別の書類を持って入ってきた。


「失礼いたします。第二共同倉庫より定期記録が届いております」


「今ですの?」


「今朝届いたものです。急ぎではございませんので、後ほどでも」


 アマリリアは机の上を見る。


 トーマの記録。


 二人目の候補。


 そこへ倉庫の定期記録。


 以前なら全部を同時に開いたかもしれない。


「急ぎでないなら、午後にします」


「承知いたしました」


 ゼインは別の書類台へ置く。


 ライルがそれを見送った。


「開かないんだ」


「何です、その顔は」


「いや、普通に」


「以前の私なら開いたと言いたいのでしょう?」


「……はい」


「殿下もでしょう」


「俺も開く」


「でしょう?」


 二人で顔を見合わせる。


 ディーンがわずかに笑った。


「では、午前中はトーマ氏の件だけにいたしますか」


「そうしましょう」


 アマリリアは答えた。


 すべてが繋がっているように見える時ほど、全部を一度に考えない。


 倉庫の記録は逃げない。


「そういえば」


 ライルがふと思い出したように言う。


「エドガーさんの意見はまだ?」


「通知試行についてでしょうか」


「うん」


「まだ届いておりません」


「催促は?」


「期限を設けておりませんので」


「しない」


「はい」


 ライルが自分で答えた。


 アマリリアは少し笑う。


「よくできました」


「子供扱いしてない?」


「しておりません」


「今の言い方は絶対してた」


「気のせいです」


 昨日も今日も、答えが届いていないものはある。


 それでも、王宮の仕事は進んでいる。


          ◇◇◇


 昼食前までに決まったことは、驚くほど少なかった。


 トーマの聞き取り記録は、そのまま一人分の記録として保管する。


 フォード商会の資料へ混ぜて、「資料の裏づけ」とは扱わない。


 本人の発言と、聞き手側が後から考えた確認候補を分けて残す。


 次回以降、聞き取りを行う場合には、記録係が何をどの程度書くのかを開始前にもう少し具体的に説明する。


 本人へ記録全文を見せることは、今の時点では一律の手順にしない。


 そして、二人目の聞き取り相手は――決めなかった。


「これだけ?」


 ライルが机の上の短いまとめを見る。


「これだけです」


「午前中ずっと話して?」


「はい」


「少なくない?」


「増やします?」


「いや」


 ライルはすぐ首を振った。


「必要ないならいい」


「私もそう思います」


 アマリリアは紙をディーンへ渡した。


「二人目については、今日連絡しません」


「承知しました」


「ただ」


 ライルが続ける。


「聞き取り自体をやめるってことでもないよね」


「はい」


 アマリリアも頷く。


「一人目を聞いた直後だからこそ、二人目を急いで決めない、です」


「明日決めるとも限らない?」


「限りません」


「三日後かもしれない」


「はい」


「五日後は?」


「デートです」


 あまりにも即答だった。


 室内が静かになる。


 ライルの顔が見る見る明るくなった。


「覚えてた」


「当然でしょう!」


「仕事の話してても覚えてた」


「私との予定を何だと思っておりますの!?」


「嬉しい」


「話を聞いてください!」


 ディーンが額へ手を当てた。


 レオンは今度こそ、堂々と笑っていた。


「……何ですの?」


「いえ」


「レオンさん」


「昨日より、王宮へ来るのが少し怖くなくなりました」


 思いがけない返答だった。


 アマリリアは一瞬、言葉を失う。


「そうですか」


「はい」


「でしたら、よかったです」


 それ以上は言わなかった。


 王宮の人間が、常に緊張させる側である必要はない。


 それもまた、昨日から知り始めたことの一つなのかもしれなかった。


          ◇◇◇


 昼食後、アマリリアとライルは第二共同倉庫から届いた定期記録を開いた。


 内容は大きな変化のないものだった。


 表示板の前は引き続き空けられている。


 前回、一度だけ荷量が多い日に通路際へ箱が寄ったため、現場責任者が仮置き位置をずらした。その後、同じ位置への滞留は確認されていない。


 新人・臨時作業員への二点の説明も続いている。


『迷った場合は置く前に止まる』


『自分だけで置き場所を決め直さず、周囲または責任者へ確認する』


 今回、新たに説明を受けた三名のうち、実際に判断に迷う場面があったのは一名。


 その一名は置く前に近くの経験者へ確認し、誤配置には至らなかった。


 残る二名には該当場面がなかった。


「前回と似てるね」


 ライルが言う。


「ええ」


「問題なし?」


「『問題なし』と言い切る必要もないでしょう」


「そっか」


「大きな問題は報告されていない。現場で決めた対応は続いている。それで十分です」


 記録の最後には、熟練作業員からの短い補足があった。


『確認すること自体が目的になり、何でも聞く者が出ないよう、まず札と置き場所を自分で見るよう伝えている』


 アマリリアはそこを二度読んだ。


「前回の方と同じ懸念ですわね」


「『分からなければ聞く』が、『考えずに聞く』にならないように」


「はい」


「現場でも調整してる」


「なら、王宮から追加することはありません」


 ライルは素直に記録を閉じた。


「返事は?」


「受領。現在の記録を継続してください、でよいでしょう」


「質問なし?」


「ありません」


「じゃあそれで」


 以前なら、もう一つ何か確認したくなったかもしれない。


 新人三人。


 一人は実践できた。


 二人は場面がなかった。


 では、二人が本当に理解しているか確認するか。


 別の場面を作るか。


 試験するか。


 しかし、そこまでしなくてもよい。


 倉庫は王宮の実験室ではない。


 実際の仕事をする場所だ。


「これも」


 ライルが記録を指先で軽く叩いた。


「続いてるんだね」


「何がです?」


「終わってないけど、動いてる」


 アマリリアはその言葉を考える。


「ええ」


「俺たちが毎回何か決めなくても」


「現場で必要なことは変わります」


「共同輸送もそうなのかな」


「どうでしょう」


「まだ分からない?」


「はい」


 ライルが笑う。


「今日、それ多いね」


「便利だから使っているのではありませんよ」


「本当?」


「本当です!」


 アマリリアも笑った。


          ◇◇◇


 午後の残りは、通常の執務に戻った。


 地方橋梁の冬前点検日程。


 公営診療所の薪備蓄。


 王都北門近くの排水溝修繕。


 どれも共同輸送とは関係がない。


 だからこそ、アマリリアには少し心地よかった。


 一つの問題を考え始めると、それだけが王国全体のように感じる時がある。


 けれど実際には、別の場所で別の人が別の仕事をしている。


 共同輸送について考えている間にも、橋は点検され、薪は積まれ、排水溝は掃除される。


 夕方近くになり、最後の書類を閉じた時、ライルが大きく伸びをした。


「終わった」


「お疲れ様でした」


「アマリリアも」


「ありがとうございます」


 机の上は朝より片づいている。


 トーマの聞き取り記録は、ディーンが持ち帰った。


 二人目の候補資料も同じだ。


 明日すぐに開くかどうかは、まだ決めていない。


「ねえ」


 ライルが椅子から立ち上がりながら言った。


「五日後まで、あと四日」


「数えなくても分かります」


「明日はあと三日」


「毎日言うつもりです?」


「駄目?」


「……毎日は少し」


「じゃあ二日に一回」


「交渉しないでください!」


 アマリリアも立ち上がる。


 その時、鞄の中にある共有帳面を思い出した。


 昨日は書かなかった。


 今日も、まだ何を書くか決めていない。


 毎日埋めるものではない。


 そう決めた。


 それでも今日は、少しだけ書きたい気持ちがある。


「帳面」


 ライルが言った。


「何です?」


「今、考えたでしょう」


「なぜ分かるのです?」


「顔」


「殿下にだけは言われたくありません!」


 ライルが笑う。


「今日は書く?」


「帰ってから考えます」


「分かった」


「殿下は?」


「君が持ってるから書けない」


「そうでした」


「だから明日貸して」


「私が書かなければ?」


「それでも貸して」


「何を書くつもりです?」


「秘密」


「共有帳面なのに?」


「書いたら読めるよ」


「そういう意味ではありません!」


 また笑い声が重なった。


          ◇◇◇


 その夜、ベスター家の自室へ戻ったアマリリアは、寝支度を整えてから共有帳面を開いた。


 青いインク。


 同じ紙。


 前回、自分が書いた頁には、五日後の予定と甘いものの追伸が残っている。


 その次の白紙を開いた。


 しばらく筆を持ったまま考える。


 トーマの話を書く必要はない。


 仕事の記録なら王宮にある。


 共同輸送についての結論も、まだない。


 なら、何を書くのか。


 アマリリアは少し笑い、筆先を紙へ下ろした。


『今日は、二人目の方を決めませんでした。』


 一行書いて、自分で首を傾げる。


 やはり仕事の記録のようだ。


 だが、そのまま続けた。


『以前の私なら、一人目のお話を聞いた翌日に、すぐ二人目、三人目と進めたかったと思います。早く多く知れば、早く正しい答えに着けると思っていたからです。』


 そこで筆を止める。


 少し考え、次の行を書く。


『今は、急がなくても忘れないものがあると分かりました。』


 そして。


『五日後の予定も同じです。まだお店も甘いものも決めておりませんが、予定そのものがなくなるわけではありません。』


 ここまで書いてから、アマリリアは吹き出した。


「……結局、そこへ戻りますのね」


 誰もいない部屋で呟く。


 だが、嫌ではなかった。


 もう一行。


『殿下が朝から甘いものの候補表を作っていたことは、少しだけ面白かったです。』


 書いた。


 読み返す。


「……」


 少し考える。


『少しだけ』に一本線を引いた。


 その横へ書き直す。


『かなり面白かったです。』


 これでよい。


 帳面を閉じようとして、アマリリアは手を止めた。


 余白がまだある。


 けれど、埋める必要はない。


 白いところは、次に書きたいことができた時のために残しておけばよい。


 トーマへの聞き取りも同じなのかもしれない。


 一人目の話を聞いたからといって、すぐ二人目で空白を埋めなくてもよい。


 空いている場所があることと、何も進んでいないことは同じではない。


 アマリリアは共有帳面を机の端へ置き、灯りを少し落とした。


 明日になれば、また王宮へ行く。


 必要ならトーマの記録をもう一度読む。


 二人目について考えるかもしれないし、考えないかもしれない。


 第二共同倉庫では、王宮が見ていない間にも作業が続いている。


 共同便も走っている。


 トーマもきっと、自分の荷車を走らせる。


 そして四日後ではなく、あと四日を過ごした先には、ライルと出かける午後がある。


 何もかもを今日決めなくても、明日はちゃんと続いている。


 そのことを、今のアマリリアは以前よりずっと自然に信じられるようになっていた。

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