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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第96話 最初の一人に話を聞いたら、便利になったとも困ったとも一言では言えませんでした

 初めての聞き取りを予定している朝だからといって、王宮の一日が特別な始まり方をするわけではなかった。


 前夜から空を覆っていた薄い雲は日の出とともに少しずつ切れ始めていたが、秋の空気には冷たさが残っている。王宮の中庭では庭師たちが濡れた落ち葉を集め、正門側からは荷車が石畳を踏む低い音が断続的に届いていた。


 アマリリアが執務室へ入った時、ライルは既に一通の書類へ目を通していた。


「おはようございます」


「おはよう、アマリリア」


 顔を上げたライルの視線が、アマリリアの手元へ移る。


 正確には、彼女が持っている鞄へ。


「……何ですの?」


「帳面」


「朝の挨拶より先に確認するものではありません」


「挨拶はしたよ」


「そういう問題ではありません!」


 昨日の夜、アマリリアは共有帳面へ書いた。


 五日後の午後が空いていること。


 以前閉まっていた文具店へ行くのも、どこかでお茶をするのも楽しみであること。


 そして最後に、


『追伸。お茶には甘いものが欲しいです。』


 と。


 書いた時は少し楽しかった。


 今朝、ライルへ見せることを考えたら、少し恥ずかしくなった。


「持ってきてる?」


「持っております」


「読んでいい?」


「仕事の前に?」


「昨日、君は仕事の前に俺のを読んだよ」


「……」


 反論できない。


 アマリリアは鞄を机へ置き、共有帳面を取り出した。


「一頁だけですからね」


「分かってる」


「読み終わったら仕事です」


「はい」


 ライルが素直に受け取る。


 頁を開き、視線を下へ動かしていく。


 アマリリアは見ないようにした。


 見る必要はない。


 自分が書いた文章を相手が読んでいる顔を正面から観察する趣味などない。


 ないはずなのに、気になる。


 視界の端で、ライルの口元が少しずつ緩んでいくのが分かった。


「……」


「……」


「アマリリア」


「何でしょう」


「五日後、空いてたんだね」


「書いてあるでしょう」


「うん」


 声が明るい。


「文具店も楽しみ?」


「書いてあります」


「お茶も?」


「書いてあります!」


「甘いものも?」


「そこまで読み上げなくて結構です!」


 ライルが笑った。


「何食べたい?」


「まだ決めておりません」


「焼き菓子?」


「候補です」


「果物の菓子?」


「それも候補です」


「焼き林檎?」


「劇場の日と同じものにする必要はありませんでしょう」


「じゃあ違うの探そうか」


 その言い方があまりにも自然で、アマリリアは返事をする前に少しだけ間を置いた。


 次のデートがある。


 五日後。


 文具店へ行く。


 お茶をする。


 まだ店も菓子も決めていない。


 それなのに、不安ではない。


「……そうしましょう」


「うん」


 ライルは嬉しそうに帳面を閉じた。


 ちょうどその時、扉が開く。


「おはようございます」


 ディーンだった。


 その後ろにはゼインだけでなく、見慣れない若い男が一人立っている。


 二十代後半ほどだろう。


 濃い茶色の髪を短く整え、王宮の行政補佐官が使う控えめな灰色の上着を着ている。腕には薄い書類板を抱えていたが、部屋へ入る足取りにはわずかな硬さがあった。


 アマリリアはすぐに誰なのか察した。


「レオンさん?」


「はい」


 男が一礼する。


「レオン・ハースと申します。本日の聞き取りでは、ディーン様に同行し、記録を担当いたします」


「よろしくお願いいたします」


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 アマリリアが答えると、レオンはもう一度頭を下げた。


 その動きが少し深い。


 緊張している。


「そんなに固くならなくて大丈夫だよ」


 ライルが声をかける。


「は、はい。殿下」


 さらに固くなった。


 ライルが困った顔でアマリリアを見る。


「俺、失敗した?」


「少し」


「やっぱり?」


 ゼインが口元を押さえた。


「殿下から直接『固くならなくてよい』と言われれば、固くなる方もおられるかと」


「じゃあどうすればいいの」


「普段通りでよろしいのでは?」


「普段通り話したら王子なんだけど」


「それはどうにもなりません」


「ゼイン!」


 レオンの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。


 笑うほどではない。


 けれど、先ほどより呼吸が自然になっている。


 アマリリアはそれを見て、昨日まで考えていたことを思い出した。


 誰が聞くか。


 どんな立場の人間がいるか。


 それだけで、場の空気は変わる。


「レオンさん」


「はい」


「本日は、完璧な記録を作ろうとしなくて結構です」


 アマリリアが言うと、彼は少し驚いたように顔を上げた。


「はい」


「トーマさんが話したことと、ディーンが感じたことを混ぜないようにしてください。聞き取れなかったところは、無理に埋めなくて構いません」


「承知いたしました」


「それから、私たちが欲しそうな答えを探さなくてよいです」


「……はい」


 今度の返事には、先ほどとは違う間があった。


「殿下とお嬢様が何を知りたいのか、まったく意識するなという意味ではございませんよ」


 ディーンが横から補う。


「記録する内容を選ぶには目的が必要です。ただ、目的に合う言葉だけを残さない、ということです」


「分かりました」


 レオンは今度こそ、落ち着いた声で答えた。


 アマリリアは頷く。


 これ以上、出発前に注意事項を増やす必要はない。


「本日の急ぎは?」


 ライルが尋ねる。


 ディーンが通常書類を机へ置いた。


「午前中に二件ございます」


「では、そちらから」


「はい」


 聞き取りは午後。


 それまで王宮の時間を止めて待つ必要はなかった。


          ◇◇◇


 午前の二件は、どちらも大きな問題ではなかった。


 一件目は王都南側の街灯修繕。前回の点検で交換予定だった金具の納品が一日遅れたため、作業日を翌日へずらす確認だった。


 二件目は地方の小さな公営倉庫で、冬季に増える穀物搬入へ備えて臨時作業員を二名追加する申請。過去三年の同時期にも同程度の増員実績があり、費用も既存予算内に収まっている。


 どちらも必要なところだけ確認し、午前の早い時間に処理を終えた。


 その後も通常書類を進めたが、アマリリアは時折、時計へ目を向けそうになる自分に気づいた。


 まだ早い。


 ディーンたちが出発するのは昼食後だ。


 それでも気になる。


「アマリリア」


「何でしょう」


「今、三回目」


「何がです?」


「窓の方を見るふりして時計見たの」


「見ておりません」


「見てたよ」


「殿下こそ、先ほどから同じ書類の下半分を読んでおります」


「……」


「当たりですわね?」


「はい」


 二人とも気になっている。


 それが分かると、少し可笑しくなった。


「私たちが聞きに行くわけでもありませんのに」


「だから余計に気になるのかも」


「そうでしょうか」


「自分で行くなら、行けば何かできるでしょう。でも今日は待つだけだから」


 アマリリアはその言葉を聞き、机の上へ視線を戻した。


「任せるというのも、何もしないことではありませんものね」


「うん」


「任せると決めた後に、余計な指示を増やさないことも必要です」


「今からディーン呼んで、もう一個だけ注意を」


「駄目です」


「まだ最後まで言ってない!」


「顔で分かります」


「君も何か言いたそうだったでしょう」


「私は我慢しました」


「ずるい!」


「何がですの?」


 ゼインが書類を持って入ってきたところで、二人の声が少し大きくなる。


「何かございましたか」


「ございません」


「アマリリアが俺だけ止める」


「お嬢様も同じことを考えておられたので?」


「……少しだけ」


「やっぱり!」


 ライルが勝ち誇る。


 アマリリアは視線を逸らした。


「ですが、追加指示は出しません」


「俺も出さない」


「それでよろしいかと」


 ゼインは淡々と答えた。


「ディーン殿もレオン殿も、既に準備をしております。出発直前に注意事項が増えれば、かえって何を優先すべきか迷うでしょう」


「……はい」


「分かりました」


 二人とも素直に引き下がる。


 ゼインはその様子を見て、ほんの少しだけ笑った。


「お二人とも、待つことがお上手になりましたね」


「褒められております?」


「半分ほどは」


 今朝、自分がライルへ言った言葉を返された。


 アマリリアは眉を寄せたが、ゼインは既に別の書類を机へ置いている。


「残り半分は?」


 ライルが聞く。


「まだ時計を気にしておられますので」


「……」


「……」


 否定できなかった。


          ◇◇◇


 昼食後、ディーンとレオンが出発した。


 護衛は一名だけ。


 王宮の紋章を大きく掲げた馬車ではなく、行政実務で普段使われる簡素な小型馬車を使う。


 隠すためではない。


 必要以上に目立たないためだ。


「では、行ってまいります」


「お願いします」


 王宮の小さな出入口まで見送りに来たアマリリアは、それだけ言った。


 ライルも隣で頷く。


「よろしく」


「はい」


 ディーンが馬車へ乗り、続いてレオンも乗り込む。


 扉が閉まり、車輪が動き出した。


 アマリリアは見えなくなるまで見送ろうとして、途中でやめた。


「戻りましょう」


「うん」


 ライルも素直に踵を返す。


 午後の仕事がある。


 結果を待つためだけに窓際へ座っているわけにはいかなかった。


          ◇◇◇


 北東荷物預かり所は、王都中心部の華やかな商店街から外れた、倉庫と小規模な工房が多い区画にあった。


 石造りの大きな倉庫ほど立派ではない。二階建ての横長の建物で、一階正面には荷車が二台並んで入れる広さの屋根付き荷捌き場がある。


 午後の空気には、乾いた藁と馬、木箱、縄、土埃の匂いが混じっていた。


 荷台から木箱を下ろす音。


 番号を呼ぶ職員の声。


 車輪の軸が軋む音。


 預かり票へ筆を走らせる音。


 王宮の執務室とはまるで違う場所だった。


「思っていたより賑やかですね」


 馬車を降りたレオンが、小さな声で言う。


「今日は普通だそうです」


 ディーンは建物の入口を見ながら答えた。


「繁忙日には、これより荷車が増えると聞いています」


 二人が中へ入ると、預かり所の責任者がすぐに気づいた。


 昨日まで連絡を取り合っていた男で、名をグレンという。五十歳ほどで、腰に鍵束を下げ、袖を肘までまくっていた。


「お待ちしておりました」


「本日は場所をお借りします」


「いえ。トーマも少し前に着いてます。ただ、今ちょうど荷を下ろしてるところでして」


「急ぎません」


「そう言うと思ってました」


 グレンが少し笑う。


「本人にもそう伝えてあります。先に荷を片づけろ、と」


 その言葉に、ディーンは軽く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「休憩室は奥です。扉は本人が決めるって話でしたよね」


「はい」


「じゃあ、私は余計なことはしません」


 グレンはそれだけ言うと、すぐに荷捌き場へ戻っていった。


 王宮から人間が来たからといって、責任者が付きっきりになるわけではない。


 それもディーンにはありがたかった。


 レオンと二人、邪魔にならない壁際へ寄る。


 そこから荷捌き場が見えた。


「どの方でしょう」


「おそらく」


 ディーンの視線の先で、一人の男が荷車から細長い木箱を下ろしていた。


 四十代前半と聞いている。


 日に焼けた顔。


 濃い茶色の髪には、こめかみ付近だけ少し白いものが混じる。


 上着は丈夫そうだが何度も繕われており、手には厚い革手袋をしていた。


 荷車の横には栗毛の馬が一頭。


 男は職員と短く言葉を交わしながら、木箱を一つずつ確認している。


「三つで合ってるな?」


「三つ。こっちは明後日の北便」


「札は?」


「横」


「……ああ、これか」


 男――トーマが箱の横へ回り、貼られた札を見る。


「前より小さくなってないか?」


「同じだよ」


「俺の目が悪くなったのか」


「そっちだろ」


「嫌なこと言うなよ」


 近くにいた職員が笑った。


 トーマも笑い返す。


 特別な人物には見えない。


 日々、荷を運び、預け、受け取り、また別の場所へ向かう。


 その仕事の途中へ、今日は王宮が少しだけ時間を借りる。


「見すぎない方がよいですね」


 レオンが言った。


「はい」


 二人は視線を外した。


 観察しに来たわけではない。


          ◇◇◇


 トーマが休憩室へ来たのは、それから四半刻ほど後だった。


「待たせたか?」


 扉を開けて最初に出た言葉がそれだった。


「いいえ。こちらが早く来ております」


 ディーンは立ち上がる。


「ディーンと申します。こちらは記録を担当するレオンです」


「トーマ・レイン」


 トーマは二人を順に見る。


 王宮役人へ向けるには少し簡単な名乗り方だったが、ディーンは気にしなかった。


「座っていいか?」


「もちろんです」


「じゃあ、そうする」


 トーマは向かいの椅子へ腰を下ろした。


 休憩室は小さい。


 四人掛けの木机が一つと、壁際に長椅子。棚には湯を沸かすための道具と、欠けた取っ手の茶器が置かれている。


 扉は開いたままだった。


 トーマ自身がそうした。


「閉めなくてよろしいですか」


 ディーンが一度だけ確認する。


「いい。閉めた方が変な感じがする」


「分かりました」


 外からは荷車の音と、人の声が時折入ってくる。


 完全に静かではない。


 けれどトーマは、その方が落ち着くらしい。


「最初に、昨日までお伝えしたことを短く確認してもよろしいでしょうか」


「ああ」


「本日の話は任意です。途中でやめても構いません。答えたくないことは答えなくて結構です。荷の仕事が入った場合は、そちらを優先してください」


「分かってる」


「個別の荷主や取引先のお名前は、必要がない限り伺いません」


「それならいい」


 トーマの返事が少しだけ早くなる。


 やはり、そこは気にしていたのだろう。


「通常の仕事上の経験や意見を話したことで、王宮側があなたや取引先を不利益に扱う目的はありません。ただし、重大な違法行為や安全上の危険が話の中で判明した場合まで、何も扱わないと約束することはできません」


「昨日聞いた」


「はい」


「それでもいい。俺、そんな大層な話持ってないしな」


 トーマが笑う。


「荷物運んでるだけだ」


 ディーンは、その言葉にすぐ返さなかった。


 王宮側にとっては、その「荷物を運んでいるだけ」の人の話こそ、今まで資料に足りなかった。


 だが、それを大げさに言えば、今度はトーマへ余計な役割を背負わせる。


「では」


 ディーンは机の上へ手を置いた。


「始めてもよろしいですか」


「ああ」


「最近、運送のお仕事で、以前と変わったと感じることはありますか」


 トーマはすぐには答えなかった。


 レオンの筆も動かない。


 ディーンは待つ。


 昨日、アマリリアとライルが練習した時、十秒ほどの沈黙でも長く感じたという。


 実際に向かい合うと、その意味が分かった。


 五秒。


 十秒。


 外で木箱を置く音がする。


 トーマは腕を組み、机の端を見ている。


「以前って、いつくらいだ?」


 やがて聞き返された。


「そこも、トーマさんが『変わった』と思う範囲で構いません」


「それが一番困るな」


 トーマが苦笑した。


「去年と五年前じゃ全然違う」


「では」


 ディーンは一度考える。


 例を出さない。


 答えを狭めすぎない。


「どちらからでも構いません。トーマさんが話しやすいところからお願いします」


「そうか」


 また少し考える。


「じゃあ、三、四年前くらいかな」


 レオンの筆が動き始めた。


「前は、北の方まで自分で持ってく仕事がもう少しあった。箱二つとか三つでも、荷主に頼まれりゃ行ってたよ。帰り荷が見つからないと、まあ、損まではいかなくても面白くない仕事だったけど」


「今は?」


「北までなら、ここの共同便に乗せることが増えたな。俺はここまで持ってくる。あとは預ける」


「その変化を、どう感じていますか」


「楽」


 即答だった。


 レオンの筆が一瞬だけ止まり、また動く。


「馬も俺も北まで往復しなくていい。三日潰してたのが半日で済む時もある。帰り荷探さなくていいし、宿もいらない」


 トーマはそこで笑った。


「そりゃ使うよ。安いし」


 ディーンは頷きそうになり、わずかに動きを止めた。


「一方で、変わったことは他にもありますか」


「ある」


 今度も返事は早い。


「北まで行かなくなったから、北で仕事拾わなくなった」


 レオンの筆が再び止まった。


 ディーンも口を挟まない。


「前は荷を届けたら、その町で『帰るならこれ持ってけ』って言われることがあった。別の村まで一箱とか、王都へ戻す荷とか。そういうのは減ったな」


「それは、困っていますか」


 聞いてから、ディーンは自分の質問にわずかな引っかかりを覚えた。


 トーマも少し首を傾ける。


「困るってほどじゃない」


「失礼しました。今の聞き方は少し狭かったですね」


「別にいいよ」


 トーマは肩をすくめる。


「減った分、三日空くから別の近場仕事を入れられる。前より稼いでるかって聞かれると……分からんな」


「分からない?」


「ちゃんと計算したことない」


 トーマが笑う。


「王宮はそういうの全部帳面につけてるのかもしれんが、俺は毎回『これは共同便のせいで増えた仕事』『これは減った仕事』なんて分けてない」


「なるほど」


「馬の餌代も変わったし、去年は車輪を替えた。何と何を比べるんだ?」


 ディーンは返事をしなかった。


 それは王宮側も同じだった。


 仕事量。


 収入。


 走行日数。


 宿泊費。


 馬への負担。


 どの数字を選ぶかで見え方は変わる。


 だが、今ここでそれを説明する必要はない。


「では、収入が増えたか減ったかを、今ここで決めていただく必要はありません」


「助かる」


 トーマは笑った。


「減ったって言ったら補償の話になるのかと思った」


 ディーンの表情がわずかに変わる。


「そう思われましたか」


「ああ。王宮が運送人に話聞くっていうからな」


「その点は」


 ディーンは慎重に言葉を選ぶ。


「個別の収入減を補償するための聞き取りではありません」


「昨日の紙にもそんな感じで書いてあったな」


「はい」


「じゃあいい」


 トーマは机へ肘をつきかけ、途中でやめた。


「俺は共同便なくせとは思ってないぞ」


「はい」


「便利だから使ってるし」


「はい」


「でも、全部それでいいかって言われたら、違う」


 ディーンは何も言わない。


 トーマが自分から続ける。


「急ぎは乗らないことあるからな」


 レオンの筆先が、紙の上で静かに動く。


「どのような時でしょう」


「次の便まで待てない時」


「例えば?」


 今度は、トーマ自身の言葉から出た「急ぎ」への確認だった。


「この前だと、鍛冶屋の部品」


 トーマが答える。


「小さい歯車みたいなやつだった。何に使うかまでは知らん。夕方に頼まれて、次の共同便が翌々日だった」


「トーマさんが運んだ?」


「翌朝に」


「どこまで?」


「北東の村まで。半日ちょい」


 トーマはそこで、少し笑った。


「そういう時は昔と変わらん」


「共同便があることで、その依頼の受け方は変わりましたか」


「変わったな」


「どのように?」


「昔なら、まず俺に聞いたかもしれん。今は最初に共同便で間に合うか見る。駄目なら俺みたいなのを探す」


「それをどう感じていますか」


 また少し間が空いた。


「……楽な時もある」


 トーマは指先で机を一度だけ叩いた。


「毎日全部俺に来たら、受けられんからな。安くて急がない荷まで一台で走るのは、荷主も俺も得じゃない」


「はい」


「でも」


 外で誰かが大きな声で番号を呼ぶ。


 トーマは一瞬そちらへ顔を向け、すぐ戻した。


「急ぎだけ頼まれると、たまに困る」


「困る?」


「急ぎって、だいたい向こうも困ってる時だろ」


「はい」


「断りにくい」


 ディーンは、その言葉を待った。


「昔なら、普段の荷も頼んでくれてた相手だから、急ぎ一個くらい安くしてやるかってこともあった。でも普段の荷は共同便で、急ぎだけ『今日頼む』ってなると」


 トーマは口元を歪める。


「同じ値段でやれって言われても、こっちも困る」


「実際に、同じ値段を求められることがありますか」


「あるよ。共同便と比べられる」


「どの程度?」


「毎回じゃない」


 トーマの声が少し強くなった。


「そこ、間違えないでくれよ。みんなが言うわけじゃない」


 レオンの筆が止まる。


「承知しました」


 ディーンは答える。


「一部の依頼で、ということですね」


「ああ。分かってる人は『急ぎだから高くて当然』って言う。でも、たまに『箱一つなのに、なんで共同便よりこんなに高い』って言われる」


「その場合は?」


「断る時もある。説明して払ってもらう時もある。知ってる相手なら、別の運送人探すこともある」


「別の運送人を?」


「俺が行けない時な」


 トーマはそこで少し笑った。


「俺ら、別に全員競争相手ってわけじゃないぞ」


「といいますと?」


「今日は俺が南へ行くなら、北の仕事はあいつに回す。向こうが馬を休ませてるなら俺が持つ。昔からある」


「共同輸送が広がって、それは変わりましたか」


「少し」


 トーマは考える。


「仕事が減ったやつもいるし、共同便の集荷をやるようになったやつもいる。やめたやつもいる。でも歳でやめたのか、共同便でやめたのかなんて、本人に聞かなきゃ分からん」


 ディーンは一瞬、フォード商会の資料を思い出した。


 小規模な個人・家族運送人が四十一から二十九へ。


 廃業。


 移転。


 共同輸送参加。


 別商人との契約。


 追跡不能。


 資料と似ている。


 だが、今はそれを口にしなかった。


「トーマさんご自身は、今後も今の仕事を続ける予定ですか」


「馬が動くうちはな」


 答えた後、トーマは少し考えた。


「でも、今の馬が駄目になったら分からん」


「なぜです?」


「次の馬、高いから」


「共同輸送とは関係なく?」


「まったく関係ないとは言えん」


 トーマは眉を寄せた。


「昔より長距離を自分で走らんから、馬に金かけてまで続けるかって話はある。でも近場と急ぎはまだ仕事ある。じゃあ次の馬買えば元取れるかって言われると……知らん」


「それも、今は判断できない」


「ああ」


 トーマは笑った。


「分からんことばっかりだな」


「私たちもです」


 ディーンが自然に答えると、トーマは少し意外そうな顔をした。


「王宮でも?」


「はい」


「王宮なら数字あるんじゃないのか」


「数字はあります」


「なら分かるだろ」


「数字に入っていない方のお話を伺うために、今日は来ました」


 トーマはしばらくディーンを見る。


 それから、小さく鼻を鳴らすように笑った。


「変なことするな、王宮も」


「そうかもしれません」


「悪い意味じゃない」


「ありがとうございます」


 外からまた荷車の音がした。


 時間はまだ半刻に届いていない。


 しかし、トーマの視線が一度だけ入口へ向いた。


 ディーンはそれを見た。


「お時間、大丈夫でしょうか」


「ああ。まだ平気だ」


「では、もう少しだけ」


「いいよ」


 ディーンは手元の質問紙を見なかった。


 ここまでの話の中に、次に聞きたいことがあった。


「共同便で以前より楽になったことと、急ぎの依頼で変わったことをお話しいただきました」


「ああ」


「ほかに、以前と違うと感じることはありますか」


 トーマは腕を組む。


 少し考え、今度は先ほどより早く答えた。


「荷主が予定を決めるのが早くなった」


「予定を?」


「共同便の日が決まってるだろ。だから『木曜に出すなら水曜までにここへ持ってこい』ってなる」


「それは便利ですか」


 ディーンが聞く。


 トーマは笑った。


「また便利か困るか聞くのか」


 ディーンが一瞬止まった。


「……申し訳ありません」


「いや、別に怒ってない」


 トーマは手を振る。


「でも、どっちもあるぞ」


「ぜひ、そのままお願いします」


「予定決まってる方が楽な荷主もいる。俺も『いつ出るんだ』って何回も聞かれなくていい。でも、小さい店なんかで、荷が揃うのが遅れたら次の便になるだろ」


「はい」


「待てるなら待つ。待てないなら別で出す」


「その『別』に、トーマさんのような個別運送が入る?」


「入る時もある」


「入らない時も?」


「自分の荷車で持ってくやつもいるし、商人の馬車に載せてもらうやつもいる。諦めるやつもいるんじゃないか」


「実際にご存じですか」


「諦めたって話?」


「はい」


「……」


 トーマは少し考えた。


「一回だけ聞いたことある。でも俺が直接頼まれたわけじゃない」


「でしたら、無理に詳しく伺いません」


「そうか」


 ディーンはそこで止めた。


 フォード資料にあった七件の取り下げ。


 そこへ結びつけたくなる。


 だが、目の前の一例を、その七件のどれかだと決める理由はない。


「薬とか、壊れた道具とか」


 トーマが自分から続けた。


「待てない物はあるよ」


「はい」


「でも、そういうの全部を共同便で何とかしろってのも違うと思う」


「なぜでしょう」


「安くまとめて運ぶ便なんだろ?」


 トーマは当然のように言う。


「一箱だけ今すぐ北へ持ってけって言ったら、別の仕事になる」


 ディーンはその言葉を記憶に留める。


「では、問題は共同便に急ぎ荷を全部載せられないことではない?」


「俺はそう思う」


 トーマは答えた後、すぐに続けた。


「でも、他に運ぶやつがいなくなったら困るだろうな」


 休憩室の外で、人の笑い声が聞こえた。


 レオンは筆を走らせている。


 ディーンは急いで次を聞かなかった。


「今は、いる?」


「俺の周りにはいる」


「今後は?」


「知らん」


 トーマは肩をすくめた。


「若いやつ、あんまりやりたがらないしな」


「理由をご存じですか」


「馬も荷車も金かかる。朝早い。雨でも動く。荷主に文句言われる。共同便の仕事に入った方が決まった荷を決まったところへ持つだけで楽だって言うやつもいる」


「実際にそう移った方が?」


「知ってるだけで二人」


「お名前は不要です」


「言わんよ」


「はい」


 トーマが笑った。


 最初に示した境界を、ディーンが守る。


 それだけで、少し場の空気が柔らかくなったようにレオンには見えた。


          ◇◇◇


 聞き取りが始まってから、半刻にはまだ少し余裕があった。


 だが、ディーンは質問を増やさなかった。


「最後に、仕事の内容とは別のことを一つ伺ってもよろしいでしょうか」


「何だ?」


「今日の聞き取り方についてです」


「ああ」


「こうした方が話しやすい、あるいは変えた方がよいと思うことがあれば教えてください。特になければ、ないで構いません」


 トーマは、今日一番長く考えた。


 椅子の背へ少し体重を預け、開いた扉の向こうを見る。


 職員が荷札を確認している。


 誰かが馬へ水を飲ませている。


 いつもの預かり所の日常が続いている。


「……最初」


「はい」


「何が変わったかって聞かれただろ」


「はい」


「あれ、広すぎる」


 ディーンは頷かず、続きを待つ。


「何の話すりゃいいか分からんかった。共同便の話って先に聞いてたから、たぶんそれだろうとは思ったけど」


「はい」


「でも最初から『共同便で困ったか』って聞かれるよりはいい」


 トーマは腕を組んだまま続ける。


「困ってるって言わなきゃいけない感じするからな」


「では、最初の問いは広すぎるが、方向を決めすぎる問いも話しにくい?」


「そうだな」


「どう聞かれれば話しやすかったと思いますか」


「俺に聞くのか?」


「はい」


「知らんよ」


 トーマは笑った。


 レオンも思わず顔を上げる。


「俺、聞く仕事じゃないぞ」


「その通りですね」


 ディーンも笑った。


「では、分からないというご意見も、そのまま持ち帰ります」


「それでいい」


「ほかには?」


「そうだな……」


 トーマはレオンを見る。


「その兄ちゃん」


「はい」


 突然呼ばれ、レオンの背筋が伸びる。


「ずっと書いてるけど」


「はい」


「俺、変なこと言ったら全部残るのかと思った」


 レオンの筆が止まった。


「申し訳ありません」


「謝らなくていい」


 トーマが手を振る。


「でも最初に、何を書くかもうちょい言ってくれた方がよかったかもな」


 ディーンが静かに息を吸う。


 これは準備していたつもりだった。


 個別の荷主名は必要がなければ記録しない。


 本人の言葉と聞き手の解釈を分ける。


 しかし、「記録役が実際に何を書いているか」を本人へ十分説明していなかった。


「ご指摘ありがとうございます」


「俺の言ったこと全部、そのまま書いてるわけじゃないんだろ?」


 レオンが答える。


「はい。主な内容と、後で確認が必要な点を記録しています。今のところ、荷主や他の運送人のお名前は記録しておりません」


「見てもいいか?」


 レオンは一瞬だけディーンを見る。


 ディーンはすぐ答えた。


「もちろんです」


「いいのか」


「トーマさんご自身の聞き取り記録ですから」


 レオンが書類板を回す。


 トーマは身を乗り出し、文字を追った。


 すべてを正確に読めるか不安そうに見える箇所では、レオンが短く説明する。


「ここは『長距離を共同便へ預けることが増え、宿泊や帰り荷探しが減った』です」


「ああ」


「こちらは『急ぎ荷では個別運送への依頼が残るが、共同便運賃と比較される場合が一部ある』」


「一部って書いてあるな」


「はい」


「それならいい」


 トーマは少し安心したように背を戻した。


「俺、全部の荷主が安くしろって言ってるみたいに書かれたら嫌だった」


「そのようには記録しておりません」


「分かった」


 ディーンは、そのやり取りを見ながら考える。


 聞き取りの最後に記録を本人へ見せる。


 毎回そうすべきか。


 まだ分からない。


 読み書きの得意不得意。


 時間。


 記録量。


 その場での修正圧力。


 新しい問題も出る。


 だから今、制度にはしない。


「ほかに、聞き方で気になったことはありますか」


「今のところはないな」


「ありがとうございます」


「もう終わり?」


「はい。予定していた時間より少し早いですが、こちらから伺いたかったことは十分お話しいただきました」


 トーマが立ち上がる。


「じゃあ行っていいか」


「もちろんです」


「本当に半刻取らなかったな」


「半刻は最大の目安でしたので」


「王宮の話ってもっと長いのかと思ってた」


「私たちも、長くしないように気をつけています」


「それがいい」


 トーマは扉のところまで行き、そこで一度振り返った。


「なあ」


「はい」


「これで、何か変わるのか?」


 ディーンはすぐに答えなかった。


「今日のお話だけで、何かを変えることはありません」


「そうか」


「ですが、王宮の資料だけでは見えなかったことを知る材料にはなります」


「俺一人の話だぞ」


「はい」


「他のやつは違うこと言うかもしれん」


「そのつもりで伺っています」


 トーマは数秒、ディーンを見る。


「ならいい」


 それだけ言って、休憩室を出ていった。


 外ではすぐに職員の一人が声をかける。


「終わったか?」


「ああ。思ったより普通だった」


「王宮に連れてかれなかっただろ」


「服買わなくて済んだ」


 笑い声がする。


 そのままトーマは荷車の方へ戻っていった。


 ディーンとレオンは、すぐには立たなかった。


          ◇◇◇


「どうでした?」


 レオンが先に口を開いた。


「何がです?」


「私の記録です」


「今、トーマさんに見せた範囲は問題ないと思います」


「全部書こうとしすぎました」


 レオンは自分の記録を見る。


「途中から、追いつかなくなって」


「それでよいです」


「ですが、抜けたところが」


「抜けたこと自体を残しましょう」


「抜けたことを?」


「はい。聞き取れなかったのか、重要でないと判断して書かなかったのか。それは分けた方がよい」


 レオンが頷く。


「それと」


 ディーンは先ほどのやり取りを思い返す。


「最初に、記録役が何をどの程度書くかの説明が足りませんでした」


「はい」


「これは私の側の不足です」


「私も説明すべきでした」


「次に直せばよいでしょう」


 レオンが少し驚いたように見る。


「次もあるのですか」


「まだ決まっておりません」


「あ」


「今日の一人で終わるとも、次が必ずあるとも、私は決められません」


「そうでした」


 レオンは少し恥ずかしそうに笑った。


「戻りましょうか」


「はい」


 二人が休憩室を出る。


 グレンが荷捌き場の向こうから気づき、手を上げた。


「終わりましたか」


「はい。ありがとうございました」


「トーマ、機嫌悪くなってなかったでしょう」


「大丈夫そうでした」


「ならよかった」


 グレンはそれ以上聞かなかった。


 何を話したのか。


 共同輸送について何と言ったのか。


 王宮はどうするのか。


 責任者なら気になるはずだ。


 それでも聞かない。


「では、失礼します」


「また何かあれば」


 ディーンは一礼し、レオンとともに預かり所を出た。


 外の空気は来た時より少し冷えていた。


 荷車が一台、通りを曲がっていく。


 その荷台には大小の木箱が積まれている。


 どこへ向かう荷なのか、二人には分からない。


 今日聞いた一人の話も、それと同じだった。


 行き先を全部知ったわけではない。


 ただ、王宮の机からは見えなかった道が一つ、少しだけ見えた。


          ◇◇◇


 ディーンたちが王宮へ戻ったのは、夕刻が近づいた頃だった。


 アマリリアとライルはまだ執務室にいる。


 午後の通常業務を終え、最後の一通へ確認印を入れたところで、廊下から足音が近づいた。


 扉が開く。


 ディーンとレオン。


 二人とも朝より少し疲れて見える。


 ライルが立ち上がりかけた。


「お帰り」


「ただいま戻りました」


「どうだった?」


 聞いてから、ライルは一度止まった。


「あ、ごめん。先に座って」


「ありがとうございます」


 アマリリアも立ち上がらず、二人が席へ着くのを待った。


 聞きたい。


 すぐに。


 それでも、戻ったばかりの二人を立たせたまま報告させる必要はない。


「お茶を」


 アマリリアが侍女へ頼む。


 温かな茶が運ばれ、レオンが一口飲む。


 ようやく呼吸が落ち着いたところで、ディーンが口を開いた。


「まず、聞き取り自体は予定通り終了しております。トーマ氏は途中終了せず、仕事の呼び出しもありませんでした」


「はい」


「予定した最大半刻より少し短く終わっています」


「それで?」


 ライルの声に期待が混じる。


 ディーンは、すぐに中身へ入らなかった。


「先に申し上げます」


「何でしょう」


「一言ではまとめにくい内容でした」


 アマリリアとライルが、ほぼ同時に表情を変えた。


 困った顔ではない。


 むしろ、少し安心したような顔だった。


「それでよいです」


 アマリリアが言う。


「はい」


 ディーンは頷いた。


「トーマ氏は共同輸送を実際に利用しており、長距離を自分で往復する必要が減ったことを明確に『楽』と表現しました」


 ライルが黙って聞く。


「一方で、長距離配送先で帰り荷を拾う機会は減っています。急ぎ荷では個別運送への依頼が残り、共同輸送の安い運賃と比較される場合が一部あるとのことです」


「一部」


 アマリリアが確認する。


「はい。本人も、そこを全体化しないよう強く念押ししました」


「記録にも?」


「残しております」


「お願いします」


「さらに」


 ディーンは続ける。


「普段の安価な荷は共同便、急ぎだけ個別運送へ来ることで、急ぎ依頼を断りにくいと感じる場合があるそうです。ただし、それを理由に共同輸送をなくしてほしいとは考えていません」


「便利だから使ってる?」


 ライルが尋ねる。


「その通りです」


「でも、全部それでいいわけじゃない」


「本人はそのように表現しました」


 ライルは椅子へ深く座り直した。


「……本当に両方ある」


「はい」


「フォードの資料にあった話と似ているところもあるね」


 アマリリアはすぐに口を挟まなかった。


 確かに似ている。


 急ぎ荷。


 待つ。


 別の運送手段。


 個人運送人の仕事変化。


 しかし。


「似ているところがある、までですわね」


「うん」


「一人目で裏づけが取れた、とは言わない」


「言わない」


 ライルが頷く。


 ディーンも続ける。


「本人は、収入が増えたか減ったかについて『分からない』と答えました」


「分からない?」


「長距離が減った一方、空いた日へ近場仕事を入れられる。宿泊や馬の負担も減る。餌代や車輪交換など別の費用もあるため、本人自身が共同輸送だけを切り分けて計算していないとのことです」


「……そうでしょうね」


 アマリリアは静かに息を吐いた。


 王宮側なら数字を作りたくなる。


 共同輸送前後。


 売上。


 件数。


 走行距離。


 費用。


 けれど本人の日常は、そんなふうに一つの要因ごとに分かれていない。


「それから」


 ディーンが少しだけ声を変えた。


「興味深い話がありました」


「何?」


「急ぎ荷を共同輸送へすべて載せるべきとは思わない、と」


 ライルが目を細める。


「どういう意味?」


「安くまとめて運ぶ共同便と、一箱だけ今すぐ運ぶ仕事は別だ、と。そのうえで」


 ディーンはトーマの言葉をできるだけ崩さず伝える。


「『他に運ぶやつがいなくなったら困るだろうな』と」


 執務室が静かになった。


 アマリリアは机の上へ視線を落とす。


 これまで考えていた問い。


 共同輸送自体を、急ぎ荷へ対応させるべきか。


 あるいは。


 共同輸送とは別の手段が、必要な時に残っているかを見るべきなのか。


「一人の意見です」


 アマリリアが自分へ言い聞かせるように口にする。


「はい」


「でも」


 ライルが続ける。


「俺たちが考えてた『必要な輸送手段へ実際に届かなくなってないか』って問いには近い」


「ええ」


「共同便だけ見ても分からない」


「はい」


「個人運送人だけ見ても分からない」


「そうですわね」


 アマリリアは顔を上げる。


「両方があることで成り立っている場面があるのかもしれません」


「うん」


「ただし」


「まだ決めない」


 ライルが先に言った。


 アマリリアは少し笑う。


「その通りです」


「一人目だから」


「はい」


 ディーンはそこで、もう一枚の紙を出した。


「内容以外にも、聞き取り方法について一つ重要な点がございました」


「何でしょう」


「記録です」


 レオンがわずかに姿勢を正す。


「トーマ氏から、私がずっと書いていることで『変なことを言ったら全部残るのかと思った』と言われました」


 アマリリアの視線がレオンへ向く。


「事前説明が足りなかった?」


「はい」


 レオンは素直に認めた。


「個別の荷主名を不要に記録しないことは説明しておりましたが、私が会話の何を、どの程度書くのかまでは十分に伝えておりませんでした」


「その後は?」


「本人から記録を見たいと言われましたので、お見せしました」


 ライルが少し驚く。


「見せたんだ」


「はい」


「問題は?」


「ありませんでした。むしろ、『共同輸送の安さと比較されることが一部ある』の『一部』が記録されていることを本人が確認し、安心した様子でした」


 アマリリアはしばらく何も言わなかった。


「……記録を見る側からすれば」


 やがて口を開く。


「『一部』は小さな言葉です」


「うん」


「でも、話した本人には大きい」


 ライルが続ける。


「全部の荷主がそう言ってることにされたくないから」


「はい」


 レオンが答える。


「私も、実際に本人から言われるまで、その一語がそこまで重要だとは十分意識できておりませんでした」


「それを今日知れたなら」


 アマリリアは穏やかに言った。


「最初の聞き取りを一人から始めた意味はありましたね」


 レオンの表情が少し緩む。


「ありがとうございます」


「ただし」


「はい」


「次から必ず記録を本人へ全文確認させる、と今決めるつもりはありません」


「承知しております」


「そこも考えましょう」


 ライルが頷く。


「時間もかかるし、読み書きのこともあるし、見せられたら逆に『直さなきゃ』って思う人もいるかもしれない」


「そうですわね」


「でも、何を書いてるか最初に説明するのはできそう」


「はい」


「次があるなら」


 ライルが付け足した。


「そこからです」


 アマリリアが答える。


 まだ次の聞き取り相手は決めない。


 今日の内容を受け取ったばかりだ。


 今すぐミナやバルドへ声をかける必要はない。


「トーマさんは、聞き方について何と?」


「最初の『最近、運送の仕事で変わったことはありますか』は広すぎて何を話せばよいか迷った、と」


「やはり」


「一方で、『共同輸送で困ったことはありますか』と最初から聞かれるよりはよい、とも」


「……両方ですわね」


「はい」


「どう聞けばよかったかは?」


「本人に尋ねました」


「何と?」


「『俺、聞く仕事じゃないぞ。知らんよ』と」


 数秒の沈黙の後、ライルが吹き出した。


 アマリリアも耐えきれず笑う。


「それはそうですわ!」


「聞かれた側に質問作ってもらおうとしたんだ」


「結果的には」


 ディーンも少し笑っている。


「ただ、『広すぎる』『困ったかと決めて聞かれるよりはよい』という感想だけでも十分参考になりました」


「ええ」


 笑いが落ち着いた後、室内には少し柔らかな空気が残った。


 初めての聞き取り。


 何か大きな真実が判明したわけではない。


 共同輸送の善悪も決まっていない。


 王宮が明日から変える制度もない。


 それでも、机の上には昨日までなかった話がある。


「今日は」


 アマリリアが言う。


「ここまでにしましょう」


 ライルが顔を向ける。


「整理しない?」


「明日です」


「うん」


「ディーンとレオンさんも戻ったばかりです」


「そうだね」


「私たちも、今聞いたばかりです」


「分かった」


 ライルは素直に頷いた。


 ディーンが少し安心したように息を吐く。


「では、詳細記録は明日お持ちします」


「お願いします。ただし、今夜まとめ直さなくて結構です」


「既にある記録の整理だけにいたします」


「それも明日で構いません」


「……承知しました」


 レオンが驚いたようにアマリリアを見る。


「何です?」


「いえ」


「言ってくださいませ」


「本日中に清書するものだと思っておりました」


 アマリリアは一瞬、昔の自分ならそう言ったかもしれないと思った。


 忘れないうちに。


 熱があるうちに。


 今日のうちに。


 けれど。


「忘れそうなことだけ、短く印を残してください」


「はい」


「明日の朝で十分です」


「承知しました」


 レオンの返事が、今度は少し軽くなった。


          ◇◇◇


 ディーンとレオンが退室した後、執務室にはアマリリアとライル、ゼインだけが残った。


 外はもう夕方だった。


 窓から入る光は淡い橙色へ変わり、机の端に置かれた青いインク瓶が小さく光っている。


「どう思った?」


 ライルが尋ねる。


「何についてです?」


「今日の話」


「たくさんあります」


「俺も」


 アマリリアは椅子へ背を預けた。


 急ぎ荷。


 共同便。


 帰り荷。


 馬。


 若い運送人。


 普段の荷が共同便へ移り、急ぎだけ個別へ来ること。


 そして、「他に運ぶ者がいなくなったら困る」という一言。


「一番気になったのは」


 アマリリアはゆっくり言う。


「トーマさん自身が、便利になったか困ったかを一つに決めていなかったことです」


「うん」


「王宮側は、どうしても答えを一つにしたくなります」


「便利になった人、困った人」


「共同輸送で仕事が減った人、増えた人」


「でも本人は、長距離行かなくて楽になって、帰り荷は減って、近場を入れられて、急ぎが来る」


「収入が増えたかは分からない」


「馬を次も買うかも分からない」


 二人はそこで止まった。


「……分からないままでも、その人は仕事してるんだね」


 ライルの声は静かだった。


「ええ」


「王宮が数字にする前から」


「暮らしは続いておりますから」


 アマリリアは窓の外を見る。


 王宮の門を出ていく荷車が一台見えた。


 何を積んでいるのか分からない。


 誰が頼んだのかも。


 共同便へ向かうのか、個別配送なのかも分からない。


「次の人」


 ライルが言う。


「明日決める?」


「明日、今日の記録を見てから考えましょう」


「ミナさんかバルドさん?」


「その二人に限る必要もありません」


「そっか」


「ですが、候補ではあります」


「うん」


「一人目と違う仕事の形の方へ聞く意味はありそうです」


「でも『違う人を揃える』のが目的にならないようにする」


「その通りです」


 ライルが笑う。


「難しいね」


「ええ」


「でも」


 彼は少しだけ椅子をアマリリア側へ寄せた。


「前より、難しいって言うの嫌じゃなくなった」


「私もです」


「分からないこと増えてるのに?」


「以前より増えたのではなく」


 アマリリアは少し考える。


「以前は、分からないものを早く答えにしていただけかもしれません」


 ライルがしばらく黙る。


「それ、帳面に書く?」


「書きません」


「即答」


「今日は仕事の記録にしたくありません」


「じゃあ何書く?」


「毎日書かなくてもよいでしょう」


「そうだった」


 アマリリアはそこで、ふと思い出した。


「ただ」


「何?」


「五日後の件ですが」


 ライルの顔が一瞬で明るくなる。


「うん」


「正式に空けて構いません」


「本当!?」


「屋敷側も確認しました」


「じゃあデート確定?」


「はい」


「文具店とお茶?」


「それを基本に考えましょう」


「甘いもの」


「殿下」


「追伸に書いてあった」


「覚えていなくて結構です!」


「忘れないよ」


 ライルが笑う。


 ゼインが少し離れたところで最後の書類をまとめながら、肩を揺らした。


「ゼイン」


「はい」


「今、笑いました?」


「聞き取りの話から甘味へ移るのが、お嬢様方らしいと思っただけです」


「どういう意味ですの?」


「仕事だけで一日を終えなくなった、という意味でございます」


 アマリリアは言い返しかけ、やめた。


 それなら。


「……褒め言葉として受け取ります」


「そのつもりです」


 ゼインは穏やかに答えた。


          ◇◇◇


 王宮を出る頃には、すっかり日が傾いていた。


 空の西側には薄い赤が残り、東側からはもう夜の青が広がり始めている。正面玄関の灯りが一つずつ点き、馬車の金具がその光を受けて鈍く輝いていた。


 アマリリアとライルは並んで階段を下りる。


「今日は」


 ライルが言った。


「トーマさんの話、夢に出そう」


「そこまでです?」


「ずっと気になってたから」


「私も気にはなっております」


「でも今日は整理しない」


「はい」


「明日」


「はい」


「五日後はデート」


「それは明日整理する必要ありません」


「分かってる」


 二人の歩調はゆっくりだった。


 急ぐ理由はない。


「ねえ」


「何でしょう」


「俺、今日ちょっと安心した」


「何に?」


「トーマさんが共同便を便利って言ったこと」


 アマリリアは横を見る。


「なぜです?」


「共同便の悪いところ探しになってないって分かったから」


 少し考え、ライルは続ける。


「俺たち、急ぎ荷とか小さい運送人とか、困ってる方ばっかり気にしてたでしょう」


「ええ」


「だから、聞いた人が『便利だ』って言って、それも普通に受け取れたのが」


「安心した?」


「うん」


 アマリリアは少しだけ笑った。


「私もです」


「本当?」


「はい。ただし、便利だったから調査終了、とはなりません」


「もちろん」


「困った話が出たから共同輸送が悪い、ともなりません」


「うん」


「便利と不便が同じ人の中にあることも分かった」


「うん」


「それだけでも、今日聞いた意味はありました」


 玄関前まで来る。


 それぞれの馬車が待っている。


 アマリリアは自分の馬車へ向かう前に、ライルへ顔を向けた。


「殿下」


「何?」


「五日後」


「うん」


「甘いものは、一つに決めなくてもよいですよ」


「え?」


「二つ頼んで、半分ずつにしてもよいでしょう」


 劇場の幕間に、二つの菓子を分けた。


 あの時、ライルが言った。


 二人なら二つ選べる。


 そのことを思い出したのだ。


 ライルの顔に、ゆっくり笑みが広がる。


「それ、いい」


「でしょう?」


「三つは?」


「増やさないでください」


「二人なら三つも」


「食べきれません!」


「小さかったら?」


「当日見てからです!」


「はい」


 アマリリアも笑う。


 明日になれば、今日の聞き取りをもう一度見る。


 トーマ・レインという一人の運送人が話したことを、一人分の話として受け取る。


 次に誰へ聞くかも考える。


 第二共同倉庫も、通知試行も、王宮の通常業務も続いている。


 そして五日後には、二人で文具店へ行き、お茶をする。


 仕事の答えはまだ出ていない。


 次のデートで何を食べるかも決まっていない。


 けれど今日、アマリリアが持ち帰るものは「分からないこと」だけではなかった。


 便利になったことと、残しておきたいものは同時に存在できる。


 新しい仕組みが役に立つことと、それだけでは届かない場面があることも矛盾しない。


 そして、何度でも一緒に出かけたい相手と、二つの菓子を半分ずつ食べたいと思うことには、難しい整理など必要なかった。


「では、また明日」


「うん。また明日」


 アマリリアは馬車へ乗り込んだ。


 扉が閉じ、ゆっくりと王宮を離れていく。


 明日もまた、分からないことを考える一日になる。


 それでも今夜くらいは、五日後にどんな甘いものが二つ並ぶのかを想像してもよい気がしていた。

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