第95話 聞き取りの前日なのに、先に決まったのは次のデートの日でした
翌朝、アマリリアが王宮の執務室へ入って最初に確認したのは、ライルの机だった。
書類が四枚。筆記具。水差し。昨日のうちに処理しきれなかった地方報告が一冊。そして、いつも使っている小さな予定表が一つ置かれている。
大きな日程表はない。
アマリリアはそれを確認してから、静かに息を吐いた。
「おはよう、アマリリア」
「おはようございます」
先に来ていたライルが顔を上げる。
朝の光が窓から斜めに入り、机の端と彼の肩を明るく照らしていた。昨日まで残っていた雨雲はすっかり消え、窓の外には薄い青空が広がっている。
「今、俺の机見たでしょう」
「見ました」
「何を確認したの?」
「大きな日程表を持ってきていないかです」
「持ってきてないよ!」
「結構です」
「信用されてない……」
「昨日、ご自分で持ってこようと思っていたと白状した方を、翌朝から全面的に信用しろと?」
「やめたって言ったでしょう」
「ですから、確認して終わりました」
「それ、信用してることになる?」
「半分ほどは」
「半分」
ライルは不満そうに呟いたが、本気で落ち込んではいない。
むしろ少し楽しんでいる。
アマリリアは侍女へ上着を預け、自分の席へ向かった。
共有帳面は今日は彼女の鞄の中にある。
昨夜は結局、何も書かなかった。
書きたいことがなかったわけではない。
次のデートへ誘われた。
場所も日付も決まっていないのに、嬉しかった。
けれど、そのまま書けば一昨日と似た内容になりそうで、筆を取ったところでやめた。
書かなければならない帳面ではない。
毎日埋める必要もない。
それも、二人で買った帳面を使い始めてから少しずつ分かってきたことだった。
「今日は書かなかった?」
ライルが聞く。
「なぜ分かりますの?」
「持ってきた時、鞄から出さなかったから」
「……よく見ておりますね」
「君のことだから」
「そういう言葉を朝から自然に使わないでくださいませ」
「褒められたのか怒られたのか分からない」
「両方です」
「そっか」
ライルは笑った。
そこへ、いつものようにディーンとゼインが入ってくる。
「おはようございます」
「おはようございます」
挨拶を交わした後、ディーンが机へ数枚の書類を置いた。
「本日の急ぎは二件ございます。それと、明日の聞き取りについて、北東荷物預かり所から追加連絡が一件です」
アマリリアの視線が、反射的に最後の言葉へ引かれる。
ライルも同じだった。
しかし彼は、すぐに最初の書類へ手を伸ばした。
「先に急ぎから」
「はい」
アマリリアも頷く。
明日のことは気になる。
けれど、今日先に見る必要のあるものがある。
それを後回しにしてまで急ぐ理由はなかった。
◇◇◇
一件目は、王都西側の共同井戸で使われている揚水機構の修理費追加申請だった。
当初は摩耗した歯車二枚の交換だけで済む予定だったが、分解後に軸の一部にも亀裂が見つかったらしい。井戸そのものは使用停止中で、近隣二か所の共同井戸と給水車で代替している。
「修理を広げない選択肢は?」
ライルが尋ねる。
「一時補修であれば可能ですが、次回の大規模点検まで持つ保証はできないとのことです」
ディーンが答える。
「追加費用は?」
「当初見積もりの二割弱です」
アマリリアは添付された職人側の所見を読む。
亀裂の位置。
摩耗の程度。
一時補修を選んだ場合に必要となる再点検時期。
必要な情報は揃っていた。
「今直した方がよいと思います」
「俺も」
ライルが頷く。
「代替の給水がいつまで続けられるかは?」
「二週間程度であれば、現行体制で大きな問題はないとの報告です。今回の修理追加を認めれば、七日から九日ほどで復旧予定です」
「なら承認で」
「はい」
二件目は、地方の冬季診療所へ送る薬草乾燥品の保管場所変更だった。
倉庫の屋根補修が予定より早く始まるため、一時的に隣接する公営倉庫へ移したいという申請である。湿度管理、鍵の管理者、出庫記録の引き継ぎまで確認されており、こちらも大きな問題はなかった。
「終わりましたね」
アマリリアが最後の紙を置く。
「うん」
ライルの視線が、ディーンの手元へ向く。
分かりやすい。
「では」
ディーンも気づいたらしく、口元を少し緩めた。
「明日の件へ移りましょう」
「お願いします」
二人の声が重なった。
ゼインが小さく笑う。
「何ですの?」
「いえ。お二人とも、気になっておられたのだと思いまして」
「気にはなります」
アマリリアは否定しなかった。
「俺も」
ライルも素直に認める。
ディーンが一枚の紙を開いた。
「トーマ・レイン氏から、昨日の返答へ追加がございました」
「本人から?」
「はい。預かり所の職員を通じてです」
昨日の時点で、トーマは聞き取りへの協力を了承している。
場所は北東荷物預かり所かその近辺。
明日の午後、荷を預け終えた後なら半刻ほど時間を取れる。ただし荷の到着が遅れれば時間をずらしたい。
そこまでは決まっていた。
「追加というのは?」
「『何を聞かれるのか、先に少しだけ知りたい』とのことです」
アマリリアは一瞬黙った。
ライルが先に反応する。
「当然か」
「ええ」
「俺でも気になる」
「私もです」
王宮から、仕事について話を聞かせてほしいと言われる。
任意だと説明されても、何を聞かれるのか分からなければ不安は残る。
「質問票を全部渡す?」
ライルが尋ねる。
「それは……」
アマリリアは考える。
先に質問を見せれば、答えを準備してくる可能性がある。
だが、準備された答えだから価値がなくなるとも限らない。
そもそも、相手を不意打ちして「自然な反応」を取るための調査ではない。
「何も知らせずに来ていただく必要はありませんわね」
「うん」
「ただ、細かな質問を全部先に渡す必要もないと思います」
「何を伝える?」
昨日までの目的を思い返す。
共同輸送が良いか悪いかを聞くのではない。
最近の仕事の変化。
荷の運び方。
依頼の受け方。
待つことが増えたか。
急ぎの小口荷をどうしているか。
資料には見えない部分を知りたい。
「『最近の運送仕事で変わったことや、荷を運ぶ時に以前と違うと感じることについて伺いたい』くらいでしょうか」
「共同輸送って言葉は入れない?」
「最初からそこへ寄せたくはありません」
「でも、向こうは何の話か分からなくない?」
「運送仕事について、までは伝わります」
ライルが少し考える。
「王宮が共同輸送を調べてるって、どこかで知ってる可能性もある?」
「ありますわね」
「だったら、隠してるみたいにならない?」
アマリリアの指が止まった。
「……それもそうですわね」
共同輸送という言葉を出さないのは、誘導を避けるため。
しかし、王宮側が共同輸送関連の資料を見ていることを伏せる必要はない。
何を知りたいのか曖昧にしすぎれば、逆に相手が不安になる。
「では」
アマリリアは言葉を選ぶ。
「『共同輸送が広がった前後を含め、最近の運送仕事で変わったことについて伺いたい。ただし、共同輸送への賛否を聞くものではない』」
「それ、いいかも」
「どうでしょう、ディーン」
「私も、その程度は事前にお伝えした方がよいと思います」
「質問そのものは?」
「本人から求められれば、隠す理由はございません」
アマリリアは頷いた。
「そうですわね」
「全部見せてもいい?」
ライルが確認する。
「はい。ただし」
「答えを用意してこられても、それはそれ?」
「ええ」
アマリリアは少し笑う。
「私たちは試験で正解を当てていただくわけではありませんもの」
「そっか」
「考えてきたことがあるなら、それもその方の話です」
「うん」
ディーンが紙へ書き留める。
「では、概要を本日中に預かり所へ返します。質問内容を事前に知りたい場合は見せても構わない、と」
「お願いします」
話はそこで終わるかと思った。
しかしディーンは紙を裏返した。
「もう一点ございます」
「まだ?」
「こちらは預かり所の責任者からです」
アマリリアは姿勢を正す。
「何でしょう」
「明日の聞き取りを休憩室で行う場合、職員が『王宮の人間がトーマ氏だけに何を聞いているのか』と気にする可能性があるとのことです」
「……ああ」
ライルが声を漏らした。
「そうなりますわね」
アマリリアもすぐ理解した。
一人だけ呼ばれる。
王宮の役人が来る。
扉を閉めるかもしれない。
職場のような場所では、それだけで目立つ。
「トーマさんが何か問題を起こしたと思われる?」
「可能性はございます」
ディーンが答える。
「責任者自身は聞き取りの目的を知っておりますが、全職員へ詳細を伝える必要があるか迷っているとのことです」
「全員に説明する?」
ライルが言いかける。
「待ってくださいませ」
アマリリアは止めた。
「説明を広げると、それはそれで大げさになります」
「うん」
「『王宮が運送人の話を聞きに来る』と全員へ知らせたら」
「他の人も気にする」
「自分も呼ばれるのか、と」
「あるいは、トーマさんが王宮に何か告げ口したと思う人もいるかもしれない」
「それは避けたいですわね」
少し沈黙が落ちる。
窓の外から、荷車が遠くを通る音が聞こえた。
王宮の執務室で考えていると、聞き取りは「質問して答えてもらう」だけに見える。
しかし実際の場所には、周囲の人間がいる。
職場で一人だけ呼ばれれば、そこに意味を見いだす者もいる。
「場所を変える?」
ライルが尋ねた。
「近くの食堂とか?」
「それも目立つかもしれません」
「じゃあ外?」
「天候次第ですし、落ち着いて話せません」
「難しいな」
「ええ」
アマリリアは昨日のトーマの希望を思い出す。
王宮へ行くための服を持っていない。
預かり所か、その近くがよい。
ならば、こちらの都合だけで離れた場所へ動かすのは違う。
「トーマさん本人に聞いていただけます?」
「場所を?」
「はい。預かり所内で王宮の人間と話すと周囲に知られる可能性がある。それでも休憩室がよいか、近くの別の場所を希望するか」
「本人が気にしないなら?」
「そこでよいと思います」
ライルも頷く。
「周りが気にするかもしれないってことも、本人が一番分かるかもしれない」
「そうですわね」
「じゃあ、こっちで隠そうとしすぎない」
「はい」
ディーンがそのまま記録する。
「聞き取りを一つするだけでも」
ライルが椅子へ背を預けた。
「質問以外のことがいっぱい出てくるね」
「場所、時間、周囲の目、服装」
「断れるかどうか」
「事前に何を聞かれるか」
「記録」
「聞き方」
二人で順に挙げていき、途中でアマリリアが止まった。
「……殿下」
「何?」
「また数え始めそうになっております」
「まだ指折ってないよ!」
「今、目で数えておりました!」
「それも駄目!?」
「駄目ではありませんけれど、まとめなくて結構です!」
ディーンが笑う。
「明日、実際に伺えば、さらに出てくるかもしれません」
「でしょうね」
アマリリアは紙を見た。
「それでよいと思います」
「うん」
ライルも同じ紙を見る。
「最初から全部分かってたら、聞く必要ないし」
その言葉に、アマリリアは少しだけ目を細めた。
「よいことを言いましたね」
「でしょう?」
「得意げにならなければ、もっとよかったです」
「すぐ下げる!」
「上げたままにすると調子に乗りますので」
「ひどい!」
明日の聞き取りは、まだ始まっていない。
それでも、既に一つ分かったことがある。
話を聞くという行為そのものにも、相手の暮らしや仕事がついている。
そのことを忘れずにいられるなら、今日の準備は無駄ではなかった。
◇◇◇
午前の残りは、通常書類を進めた。
共同輸送の資料は開かなかった。
明日の聞き取り前だからといって、もう一度フォード商会の数字を頭へ詰め込む必要はないと判断したからだ。
むしろ、今読み返せば「この数字について聞きたい」という意識が強くなる。
トーマの話を、資料の空欄を埋める答えとしてだけ聞きたくはなかった。
昼前。
ディーンが別室へ書類を届けに出たところで、ライルが小さな予定表を開いた。
アマリリアは気づいた。
気づいたが、何も言わない。
ライルが予定表を見る。
アマリリアを見る。
また予定表へ戻る。
「……何ですの?」
結局、こちらから聞いてしまった。
「いや」
「その『いや』は何もない時の言い方ではありません」
「次の休み」
「やはり!」
「大きい日程表は持ってきてないよ!」
「小さいものは置いてあるではありませんか!」
「これはいつもあるやつ!」
「それは知っております!」
「じゃあ約束破ってない!」
確かに破ってはいない。
昨日アマリリアが禁止したのは、朝一番に大きな日程表を持って待つことだ。
普段使っている予定表まで隠せとは言っていない。
「……屁理屈ですわ」
「でも、見ちゃ駄目とは言われてない」
「殿下」
「見るだけ」
「顔が誘いたそうです」
「誘ったのは昨日!」
「では、日程を決めたそうです!」
「それはそう」
あまりに素直に認めるので、アマリリアは怒る気を失った。
「いつですの?」
「聞いていいの?」
「もう開いているのでしょう!」
「次に二人とも午後まで空けられそうなのは五日後」
「五日後……」
アマリリアは自分の予定を思い返す。
午前にベスター家側の確認が一件。
午後は今のところ予定なし。
翌日も早朝からの予定はない。
「私も空いていると思います」
「本当?」
「ただし、屋敷へ戻って確認はします」
「うん」
「王宮側も、今から新しい予定が入る可能性はあります」
「それはそうだね」
「緊急の用件が出れば変更もあり得ます」
「分かってる」
「それでも?」
ライルは予定表を閉じた。
「空けておきたい」
その言い方が、アマリリアには少し意外だった。
「決定ではなく?」
「うん。五日後を候補にして、他の急ぎじゃない予定を後からそこへ入れないようにしたい」
「……」
「駄目?」
以前のアマリリアなら、逆だったかもしれない。
まず仕事の予定を入れる。
空いたところに私的な予定を置く。
結果として空かなければ、また今度。
けれどセレーネに言われた。
自分の暮らしの予定を、仕事が全部終わった後の余白へ置かなくてもよい。
劇場へ行った日にも、それを実際にやった。
仕事は残っていた。
それでも出かけた。
翌日に戻れば、仕事はきちんと続けられた。
「駄目ではありません」
「じゃあ」
「候補として、空けておきましょう」
ライルの表情が明るくなる。
「本当に?」
「はい」
「五日後」
「まだ確定ではありません」
「分かってる」
「屋敷へ戻って確認します」
「うん」
「それから、場所はまだ決めません」
「はい」
返事が妙に素直だ。
「……何ですの、その顔」
「嬉しいだけ」
「そうですか」
「君も?」
「何がです?」
「嬉しい?」
アマリリアは一瞬、答えを焦らそうかと思った。
しかし、やめる。
「嬉しいです」
ライルの笑みが深くなった。
それを見て、自分も少し頬が緩む。
「五日後が楽しみです」
「俺も」
「ですから」
「うん?」
「その日に何をするか、今から一刻使って決めるのは禁止です」
「まだ何も言ってない!」
「念のためです!」
そこへ扉が開いた。
書類を届け終えたディーンが戻ってくる。
二人を見て、机の上の小さな予定表を見る。
「……何か決まりましたか」
「五日後」
ライルが即答した。
「殿下!」
「何をするかは決めてないよ!」
「そういう問題では!」
ディーンが一度瞬きをし、それから理解したらしい。
「次のお出かけですか」
「はい」
「まだ候補です!」
「承知しました」
「王宮側では、五日後の午後に現在固定予定はございません」
ディーンがさらりと付け加える。
ライルが目を輝かせる。
「ほら!」
「ディーン!」
「確認事項かと思いまして」
「確かに確認事項ですけれど!」
「では、仮に私的予定ありとして扱いましょうか」
アマリリアは返事をする前に、一度考えた。
仮にでも予定を入れれば、その時間は「空き」ではなくなる。
急ぎでない仕事を後から入れずに済む。
それこそ、先ほどライルが言ったことだ。
「……お願いします」
「承知しました」
ディーンは淡々と手元の予定紙へ書き込んだ。
ライルがこちらを見ている。
嬉しそうだ。
「何ですの?」
「いや」
「言いたいことがある顔です」
「君から『お願いします』って言ったなって」
「必要だからです!」
「うん」
「何です、その返事は!」
「嬉しい」
「もう!」
アマリリアは書類へ視線を戻した。
だが、しばらく口元の緩みは戻らなかった。
◇◇◇
昼食後、北東荷物預かり所から二度目の返事が届いた。
今日はやけに早い。
「トーマ氏は、聞き取り内容の概要を確認したそうです」
ディーンが紙を読む。
「質問を事前に全部見る必要はないとのことです」
「本人がそう言ったなら、それで」
アマリリアが答える。
「場所については?」
「休憩室で構わない。普段から荷主や運送人と職員が話すこともあるため、自分だけ呼び出されたようには見えないだろう、と」
「本人は周囲の目をあまり気にしていない?」
「そのようです。ただし、『王宮の人が来るなら職員は気づくだろうが、それは仕方ない』とも」
ライルが苦笑する。
「隠せないよね」
「ディーンが行けば、少なくとも殿下よりは目立ちません」
「それは分かってる」
「私よりも」
「それも」
「少し残念そうですわね」
「ちょっとだけ」
「行きたかったのです?」
「話は直接聞いてみたいよ」
ライルは正直に答えた。
「でも、俺が行ったせいで話しにくくなるなら意味ないし」
「はい」
「今回はディーンに任せる」
「私もです」
アマリリアも同じ気持ちだった。
聞きたい。
自分の耳で。
トーマがどんな表情で、どんな間を置き、どんな言葉を使うのか。
それを見たい。
しかし、「自分が知りたい」と「自分が行くべき」は別だ。
「もう一点」
ディーンが続ける。
「トーマ氏から、『話した内容で自分の仕事先に迷惑がかかるようなことはないか』と質問がありました」
室内が静かになる。
アマリリアはすぐには答えなかった。
「迷惑」
ライルが小さく繰り返す。
「荷主とか?」
「具体的には書かれておりません」
「……先に確認しておいてよかったですわね」
アマリリアは息を吐いた。
こちらは、聞いた話をそのまま公表するつもりなどなかった。
個別の商売先の名前も、必要がなければ記録しないと昨日決めた。
だが、それを本人は知らない。
「説明しましょう」
「はい」
「個別の荷主名や取引先名は、必要がなければ記録しない。話の内容を理由に、本人や取引先へ不利益な扱いをする目的ではない」
アマリリアはそこで言葉を止めた。
「……『不利益は絶対にありません』とは言わない方がよいですわね」
「どうして?」
「もし話の中で、重大な違法行為や安全上の危険が判明したら?」
「あ」
「それまで何も見なかったことにはできません」
「そっか」
「ですから、通常の仕事上の意見や経験を話したことで不利益な扱いをすることはない、と」
「でも、危険なこととか法律に関わることが出たら別」
「はい」
ディーンが頷く。
「その説明であれば、こちらも約束できる範囲が明確です」
「難しいね」
ライルが眉を寄せた。
「安心して話してほしいけど、何でも秘密にするって約束もできない」
「ええ」
「先に言った方がいい?」
「私はそう思います」
「言ったら話してくれなくなるかも」
「それでもです」
アマリリアは迷わなかった。
「後から『実はこれは報告します』となる方が問題です」
「うん」
「話さないと選ぶ材料も、先に渡すべきです」
ライルはゆっくり頷いた。
「それで断られたら?」
「理由は聞かない」
「……そうだった」
「気にはなりますけれど」
「うん」
二人で少し笑う。
昨日の昼食で話したばかりだ。
知りたいと思うことと、知る権利があることは違う。
「では、その説明を返します」
ディーンが紙をまとめる。
「それでも協力いただけるか、改めて本人に選んでもらいます」
「お願いします」
明日の聞き取りが、本当に行われるかどうか。
ここへ来て、もう一度未定になった。
けれどアマリリアは、不思議と焦らなかった。
断られたら困る。
聞きたい。
それでも、安心させるために約束できないことまで約束するよりよい。
◇◇◇
返事が戻ったのは、夕刻だった。
窓の外では日が傾き、机の上の紙へ長い影が伸びている。
その頃には今日の通常業務もほぼ終わり、残っていたのは翌日に回して問題のない書類ばかりだった。
ディーンが受け取った紙を見て、少しだけ表情を緩める。
「トーマ氏からです」
ライルとアマリリアが同時に顔を上げる。
「どうでした?」
「説明を確認したうえで、予定通り協力するとのことです」
アマリリアの肩から、わずかに力が抜けた。
「そうですか」
「よかった」
ライルも息を吐く。
「なお」
ディーンが続ける。
「本人から一言ございます」
「何と?」
「『悪いことをしたわけではないので、聞かれて困ることはたぶんない。ただ、荷主の名前を全部言えと言われたら帰る』とのことです」
一瞬の沈黙。
その後、ライルが笑った。
「はっきりしてる」
「ええ」
アマリリアも笑う。
「帰っていただいて構いません、と伝えてください」
「本当に?」
「当然です。必要のない名前を聞くつもりはありませんけれど」
「もしディーンがうっかり聞いたら?」
「聞きません」
ディーンが即答した。
「そこは信用しております」
「ありがとうございます」
「それから」
アマリリアは少し考える。
「今の一言は、明日の記録の最初に残しておいてください」
「本人の希望として?」
「はい。話したくない範囲を本人が先に示したこと自体、大事です」
ライルも頷く。
「質問する側が『これは答えなくていい』って決めるだけじゃなくて」
「本人が『ここは話さない』と決めてもよい」
「うん」
ディーンが記録する。
これで、明日の聞き取りは予定通り行われる。
しかし、アマリリアの胸にあるのは「準備完了」という達成感とは少し違った。
むしろ、準備してもなお分からないことの方が多い。
どんな話になるのか。
どれくらい話してくれるのか。
質問が伝わるのか。
ディーンがどこで迷うのか。
記録役のレオンが何を残すのか。
トーマ自身が、終わった後に「話してよかった」と思うのか、それとも「面倒だった」と思うのか。
「ディーン」
「はい」
「明日、最後に一つだけ聞いていただけます?」
「何でしょう」
「今日の聞き方で、答えにくかったことや嫌だったことがあったか」
ライルがこちらを見る。
「内容じゃなくて、聞かれ方の感想?」
「はい」
「いいかも」
「ただし」
アマリリアはすぐ続ける。
「『役に立ちましたか』とは聞かないでください」
「本人に役立つための聞き取りじゃないから?」
「それもありますし、『役に立った』と答えさせるような響きがあります」
「じゃあ、答えにくかったことがあったか。嫌だったことがあったか」
「それだけでも、悪い点を探させるかもしれませんわね」
「……また難しくなった」
ライルが額へ手を当てる。
「『聞かれ方について、変えた方がいいと思ったことはありますか』?」
「それなら」
「でも何もなかったら?」
「『特にない』でよいでしょう」
「うん」
ディーンが口を開く。
「『今日の聞き取り方について、こうした方が話しやすいと思うことがあれば教えてください。特になければ、ないで構いません』ではいかがでしょう」
アマリリアとライルが同時に彼を見る。
「それですわ」
「うん。それがいい」
「では、最後に伺います」
明日の準備は、そこで終わった。
追加の質問は増やさない。
フォード商会の資料も読み直さない。
トーマについて新しく調べもしない。
明日は、今ある準備で行く。
「終わり?」
ライルが尋ねる。
「終わりです」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ今日はもう、明日のこと考えない?」
「考えてしまうのは仕方ありません」
「そっか」
「ただし、新しい指示は出しません」
「分かった」
ライルが椅子から立ち上がり、軽く伸びをした。
「じゃあ帰ろうか」
「はい」
アマリリアも机の上を片づけ始める。
すると、鞄の中から共有帳面の端が見えた。
今日は開かなかった。
それでよい。
明日の聞き取りも、次のデートも、帳面も。
全部を毎日進める必要はない。
◇◇◇
正面玄関へ向かう途中、ライルが思い出したように言った。
「五日後」
「はい」
「もう王宮の予定には入ったんだよね」
「仮ですが」
「君の家は?」
「帰ったら確認します」
「今日中に分かる?」
「おそらく」
「明日の朝聞いていい?」
「それくらいなら」
「やった」
夕方の廊下には、仕事を終えた者たちの足音が穏やかに響いている。
窓の外は赤みを帯び始め、磨かれた床へ二人分の影が長く伸びていた。
「場所」
ライルが言う。
「まだ決めないんでしょう?」
「はい」
「何かしたいことある?」
「候補を聞くのはよいですよ」
「じゃあ」
彼は少し考える。
「前に閉まってた店へ行く?」
「文具店?」
「うん。帳面はもう買ったけど、あの時は中を見られなかったから」
アマリリアは夜の王都を歩いた日のことを思い出す。
劇場を出て、食事をして、二人で歩いた。
その途中で見つけた店。
閉まった扉の向こうを覗きながら、「今度」と言った。
結局、共有帳面は別の機会に手に入れた。
だからといって、あの店へ行く理由がなくなったわけではない。
「よいですね」
「本当?」
「はい。中を見てみたいです」
「じゃあ文具店」
「候補です」
「まだ候補?」
「その後を決めておりませんもの」
「店に行くだけでもいいよ」
「せっかくですから、どこかでお茶くらいはしたいです」
「……」
ライルが止まりかけた。
「何ですの?」
「今、君から言った」
「何を?」
「お茶したいって」
「言いましたけれど」
「嬉しい」
「それくらいで毎回喜ばないでくださいませ」
「無理」
即答だった。
アマリリアは呆れながらも、少し笑った。
「では、文具店とお茶を候補に」
「うん」
「まだ他も考えてよいです」
「分かった」
「一刻かけて予定を詰めない」
「分かってるって!」
二人は再び歩き出す。
明日は仕事の話を聞く。
五日後は、二人で出かけるかもしれない。
どちらも予定に入っている。
どちらかが本当の生活で、どちらかが余白なのではない。
「アマリリア」
「はい?」
「明日の話、どんなのが出ると思う?」
アマリリアは少し考えた。
「予想しないことにします」
「全然?」
「全然は無理です」
「だよね」
「共同輸送の話は出るでしょうし、小口荷や急ぎ荷についても何かあるかもしれない。けれど」
彼女は一度言葉を切る。
「その予想に合う話を探すのはやめます」
「うん」
「殿下は?」
「俺も」
ライルは前を向いたまま答えた。
「何が出ても、最初の一人で全部決めない」
「はい」
「何も問題が出なくても、『問題なし』って全体に広げない」
「はい」
「大変な話が出ても、すぐ制度を変えない」
「……殿下」
「何?」
「また三つです」
「今のはたまたま!」
「本当です?」
「本当だよ!」
アマリリアは笑った。
ライルも笑う。
玄関の近くにいた使用人たちが、二人の声に一瞬だけ視線を向け、それから穏やかな表情でそれぞれの仕事へ戻っていく。
もう、二人が並んで笑っていること自体は珍しい光景ではなくなっていた。
◇◇◇
その夜。
ベスター家の屋敷へ戻ったアマリリアは、夕食前に自分の予定を確認した。
五日後の午前。
領地から届く月次報告のうち、通常確認が一件。
これは前日までに届けば先に見てもよいし、当日午前に確認しても時間は十分ある。
午後。
予定なし。
夜。
家族との夕食以外に固定予定なし。
翌朝も早朝からの用事はない。
「……空いておりますわね」
小さく呟く。
机の上には共有帳面がある。
今朝は何も書かなかった。
今なら。
アマリリアは椅子へ座り、帳面を開いた。
一昨日、自分が書いた文章。
その下に、昨日ライルが書いた文章。
『何度でも出かけたいって書いてくれたから、俺も何度でも誘います。』
さらに、その下の空白。
アマリリアは青いインクをつけた。
少し考える。
今日あったことは多い。
明日の聞き取りについて、事前に何を伝えるか考えた。
トーマが取引先への影響を心配していることを知った。
話したくないことを話さなくてもよいと確認した。
明日は初めて、資料の外にいる一人の話を聞く。
けれど、それを共有帳面へ書く気にはならなかった。
これは仕事の記録ではない。
アマリリアは、別のことを書く。
『五日後の午後、空いておりました。』
そこで一度筆を止める。
これだけでは、まるで予定確認の伝言だ。
少し迷って、続きを書く。
『文具店へ行くのも、お茶をするのも楽しみです。まだ場所を全部決めていないことも、今は少し楽しみです。』
読み返す。
以前なら、最後の一文は書かなかったかもしれない。
決まっていない。
それは準備不足に近い言葉だった。
今は違う。
決まっていないから、その日まで二人で考えられる。
当日に気が変わってもいい。
店を一軒増やしてもいい。
疲れたら早く帰ってもいい。
楽しむ予定に、完璧な手順書はいらない。
アマリリアはもう一行だけ書き足した。
『明日の仕事は明日考えます。五日後のことも、五日後まで少しずつ考えます。どちらも急いで答えを出さなくてよいと思えるようになりました。』
「……少し仕事っぽいですわね」
書いてから気づく。
セレーネに見られたら、「また帳面を仕事の反省記録にしている」と言われるかもしれない。
アマリリアは少し考え、最後に小さく付け足した。
『追伸。お茶には甘いものが欲しいです。』
これならよいだろう。
たぶん。
帳面を閉じる。
明日、ライルへ見せる。
きっと最後の一行を見て喜ぶ。
どんな菓子がよいか聞いてくる。
そして、アマリリアはまだ決めていないと答えるのだろう。
それでいい。
明日の聞き取りで何が出るかも分からない。
五日後に何を食べるかも分からない。
分からないことが二つある夜なのに、以前のような落ち着かなさはなかった。
答えを持っていないことと、進んでいないことは同じではない。
明日になれば、まず一人の話を聞く。
五日後になれば、二人で出かける。
今夜はその間にある時間を、急いで埋めなくてもよかった。




