第94話 最初に話を聞く方は決まりましたが、王宮へお呼びするのはやめました
翌朝の王宮には、夜のうちに降った雨の名残が残っていた。
中庭の石畳はまだ薄く濡れ、雲の切れ間から差し込む朝日を鈍く反射している。植え込みの葉には細かな水滴が連なり、窓を少し開けると、乾き始めた土と冷たい石の匂いが執務室まで流れ込んできた。
アマリリアが部屋へ入った時、ライルは既に席についていた。
机の上には今日の書類が数枚。
その横に、共有帳面。
青いインク瓶。
そして、昨日までにはなかった小さな紙片が一枚置かれている。
「おはようございます」
「おはよう、アマリリア」
ライルは顔を上げた。
何となく機嫌がいい。
それだけなら珍しくない。
だが、共有帳面の近くに右手を置いたまま、こちらを待っているような顔をしている。
「……何ですの?」
「何が?」
「その顔です」
「普通だけど」
「普通の顔で、私が帳面に気づくのを待っております」
「気づいたね」
「殿下」
「はい」
アマリリアは椅子へ座りながら、帳面を見る。
「書きましたの?」
「書いた」
「昨日の夜?」
「うん」
「何を?」
「読めば分かるよ」
「でしたら最初からそう言ってくださいませ」
「自分で開いてほしかった」
「なぜです?」
「その方が楽しいから」
「殿下だけがでしょう?」
「たぶん」
素直だった。
アマリリアは呆れながらも帳面を引き寄せる。
仕事を始める前に開いてよいものか一瞬迷ったが、まだディーンもゼインも来ていない。今日の急ぎが何かも確認していないので、今ならほんの少しだけ見てもよいだろう。
頁をめくる。
昨日、自分が書いた文章がある。
『一度だけでなくてよいと言われた時、私もそれが当然だと思えました。劇場でも、外での食事でも、それ以外でも、これから何度でも一緒に出かけたいです。』
改めて読むと、やはり少し恥ずかしい。
その下に、ライルの文字が増えていた。
『今日、聞く側の練習をした。アマリリアが、仕事ではない時間を何もしていない時間だと思わなくなったと言っていた。嬉しかった。』
そこまでは昨日、本人から直接聞いた。
その下。
『俺も、仕事をしていない時にアマリリアと何をするか考える時間が増えた。次のデートだけじゃなく、その次も、その次の次も。全部今決めるつもりはないけど、考えるのは楽しい。』
アマリリアの指が止まった。
「……」
「読んだ?」
「読んでおります」
「そこまで?」
「読んでおります!」
最後に、もう一行。
『何度でも出かけたいって書いてくれたから、俺も何度でも誘います。』
アマリリアは静かに帳面を閉じた。
「どうだった?」
「……」
「アマリリア?」
「朝から読むものではありませんわ」
「なんで?」
「これから仕事なのですよ!」
「知ってるよ」
「顔が熱くなったらどうするのです!」
「なってる?」
「見ないでくださいませ!」
ライルが笑った。
腹立たしい。
けれど、その笑いを止めてほしいとは思わない。
「でも」
ライルは少しだけ声を落とした。
「嫌じゃなかった?」
アマリリアは閉じた帳面へ手を置いた。
先ほどまでの軽い調子とは違う。
彼は本当に確認している。
「嫌なら」
アマリリアはゆっくり顔を上げた。
「私は最初から、何度でも一緒に出かけたいなどと書きません」
「そっか」
「はい」
「よかった」
その返事と同時に、扉が開いた。
「おはようございます」
ディーンだった。
後ろにはゼインもいる。
アマリリアは反射的に帳面を自分の鞄へしまった。
ディーンが一瞬だけその動きを見る。
「……お邪魔いたしましたか」
「しておりません!」
「そうですか」
「本当です!」
「何も申し上げておりませんが」
「顔が言っております!」
昨日までならゼインあたりが口を挟んだところだが、今日は彼も何も言わなかった。
ただし、ほんの少しだけ口元が緩んでいる。
「ゼイン」
「はい」
「笑っております?」
「いいえ」
「本当に?」
「本日の仕事を始めてもよろしいでしょうか」
「逃げましたわね!?」
「お嬢様もよくなさいますので」
「……もういいです」
ライルが隣で肩を揺らしている。
アマリリアは一度深く息を吐き、仕事用の書類へ手を伸ばした。
「本日の急ぎは?」
「一件です」
ディーンの声で、室内の空気が少し変わる。
「地方南部の公営製粉所で、水車の軸受けに異音が出ております。完全停止ではございませんが、点検のため明日半日ほど稼働を止めたいとの申請です」
「代替は?」
ライルがすぐ尋ねる。
「近隣二か所へ一部を振り分けます。緊急の製粉分は本日中に先行処理するとのことです」
仕事が始まる。
共有帳面は鞄の中。
次のデートも、その次も、今はそこへ置いておく。
アマリリアは自然に書類へ集中した。
◇◇◇
製粉所の件は、半刻もかからず確認を終えた。
点検を延期して故障を大きくする理由はない。近隣への振り分けについても、受け入れ側の処理量に無理がないことまで確認済みだった。
必要な承認を終えると、ディーンは一度書類を脇へ寄せる。
「では、昨日の続きへ移りますか」
「お願いします」
ライルが答え、アマリリアも頷く。
昨日までに考えたことは多い。
だが、今日はその続きを延々と増やす日ではない。
慎重になること自体を目的にしない。
必要があると判断したなら、どこかで実際に話を聞く。
昨日の帰り際、二人でそこまで確認した。
「候補について」
ディーンが三枚の紙を並べた。
「現時点で、通常業務の接点から無理なく声をかけられそうな方を三名だけ確認しました」
「三名だけ?」
ライルが聞く。
「候補者一覧を作ること自体が新しい調査にならない範囲です」
「なるほど」
アマリリアは紙を見る。
「北東荷物預かり所の三名ですの?」
「一名だけ重なっております」
以前聞いた三人。
共同輸送へ一部参加している者。
個別依頼中心の者。
冬季に運送仕事を増やす農家兼業者。
あの時は、あまりにきれいに違う三人だったため、比較用に選びたくなる危険を感じて止めた。
今回は、その三人をそのまま並べたわけではないらしい。
「一人目」
ディーンが最初の紙を示す。
「北東荷物預かり所へ週に数度出入りしている個人運送人です。名はトーマ・レイン。四十代前半。荷車一台と馬一頭を所有し、主に王都北東部と近郊二村の間で小口荷を運んでおります」
「共同輸送は?」
「一部利用しております」
「一部?」
「長距離荷を自分で最後まで運ぶのではなく、共同便の集荷所まで持ち込み、そこから先を預けることがあるそうです。一方、近郊への直接配送は現在も自身で行っております」
ライルが紙を見る。
「共同輸送の利用者でもあって、自分でも運ぶ」
「はい」
「どっち側とも言えない」
「そもそも、どちらか一方へ分ける必要がない方なのでしょう」
アマリリアはその点を気に入った。
いや。
気に入った、という表現は危ない。
自分たちの考えに都合がよいから選ぶのではない。
「なぜ候補になりましたの?」
「荷物預かり所の責任者から、『普段から待ち時間に職員と雑談することがあり、王宮側の任意聞き取りであることを説明しても、断るなら断れると思う』との意見がありました」
「話してくれそうだから?」
ライルが少し眉を寄せる。
「そこは注意が必要です」
「はい。ただ、責任者が『王宮へ呼ばれれば断れないと感じる者は避けたい』というこちらの条件を見て、本人との普段の関係から候補に挙げたものです」
「断れそうな人」
「それも選定理由になりますのね」
アマリリアは少し考え込む。
話を聞きたいのだから、話してくれる人を選びたくなる。
だが、「話してくれそう」と「断る自由がある」は同じではない。
「二人目は?」
「南側公営倉庫へ出入りする女性です。ミナ・オルド。三十代後半。夫と小さな乾物店を営み、店の荷車で自店の仕入れを運ぶほか、近隣商店から頼まれた荷を一緒に運ぶことがあるそうです」
「専業ではない」
「はい」
「共同輸送の利用は?」
「倉庫側では把握しておりません」
アマリリアは頷いた。
「把握していないなら、そのままで」
「はい」
「調べない?」
ライルが確認する。
「候補にするためだけに先に調べれば、聞く前からその方を共同輸送との関係で分類することになります」
「うん」
三人目。
「王都東側市場へ農閑期を中心に出入りする農家兼業者、バルド・ネイ。五十代。自家の荷を運ぶ際、同村や近隣農家の荷も有償で引き受けることがあるとのことです」
「以前の北東荷物預かり所の農家兼業者とは別人?」
「別です」
「共同輸送は?」
「市場管理所では不明です」
ライルは三枚を見比べた。
アマリリアも同じように見る。
三人。
仕事の形は違う。
接点も違う。
年齢も違う。
だが、だから三人を比較しようという話ではない。
「最初は一人か二人」
ライルが言った。
「昨日そう考えた」
「はい」
「誰にする?」
アマリリアはすぐには答えなかった。
三枚の紙を順番に見る。
どの人が一番「正しい話」をしてくれるか。
そんな基準はない。
誰が一番共同輸送の影響を受けているか。
それも分からない。
むしろ、それを知るために話を聞こうとしている。
「最初の目的を確認しましょう」
アマリリアが言った。
「話の内容だけではなく、聞き方や場所、時間、負担にも問題がないか確かめる」
「うん」
「なら」
三枚のうち、一枚へ指を置く。
「トーマさんがよいと思います」
「理由は?」
「荷物預かり所との普段の接点があり、責任者が『断れる方だと思う』と見ていること。それから」
少し間を置く。
「共同輸送を使っていること自体は、選定理由にしません」
「じゃあ何?」
「王宮へ呼ばずに話せる可能性が高そうです」
ライルの目が動く。
「預かり所で?」
「はい」
ディーンが確認する。
「通常の待ち時間を利用する形でしょうか」
「それが本人にとって本当に都合がよければ」
「でも待ち時間って」
ライルが言う。
「その日によって違わない?」
「そうですわね」
「荷物がすぐ出たら、話してる時間ない」
「では、預かり所から本人へ、次に来た時に都合を聞いていただく」
「その場で話さなくていい?」
「はい。『別の日でもよい』『断ってもよい』と」
「それなら」
ライルがトーマの紙を見る。
「王宮に呼ばなくてもいいか」
「私は、その方がよいと思います」
「俺たちが行く?」
その問いに、アマリリアはすぐ答えなかった。
昨日も出た問題だ。
第一王子と公爵令嬢が現場へ行けば、それだけで人が集まる。
護衛も必要。
通常業務へ影響する。
「最初の聞き取りを、私たち自身がする必要はあります?」
アマリリアは逆に尋ねた。
ライルが考える。
「……ないかも」
「ですよね」
「でも、聞き方を確かめたい」
「はい」
「じゃあ誰が聞く?」
四人の視線が、自然にディーンへ向かった。
「……私ですか」
「嫌ですの?」
「嫌ではございませんが」
ディーンは珍しく少し困った顔をした。
「なぜ全員、同時に私を見るのでしょう」
「一番自然だから」
ライルが言う。
「殿下よりは自然ですわね」
「君よりも」
「私もそう思います」
「ゼインは?」
全員が今度はゼインを見る。
「私は、お嬢様の私兵側の人間として見られる可能性がございます」
「黒装束を連れて行くわけではありませんわよ!」
「承知しております」
「それでも、ベスター家の人間だと分かれば?」
ライルが聞く。
「王宮からの聞き取りなのか、ベスター家からの聞き取りなのか、相手が迷う可能性はございます」
「じゃあディーン」
「戻りましたね」
ディーンが小さく息を吐く。
アマリリアは少し笑った。
「ただし、ディーン一人に任せきりにもしたくありません」
「記録係?」
「はい」
「誰にする?」
また視線が動きそうになり、アマリリアは手を上げた。
「待ってくださいませ。ここで人を増やしすぎない」
「二人くらい?」
「聞き手と記録役で二人。それ以上は、最初の一回には必要ないと思います」
「記録する人も役人?」
「その方がよいでしょう」
ディーンが頷く。
「文書局ではなく、通常の行政補佐から一名出せます。ただし、相手が二人を多いと感じる可能性はあります」
「一人で聞いて一人で書くのは?」
ライルが尋ねる。
「可能ですが、話しながら詳細に記録すると会話が止まりやすくなります」
「全部書かなくていい?」
「それも決める必要があります」
アマリリアは机へ指を置いた。
「昨日の練習で、聞き手の表情や間も大事だと分かりました。ずっと下を向いて書いていては、話しにくいかもしれません」
「じゃあ二人?」
「候補としては」
「また決めない?」
「決めます」
ライルが目を瞬く。
アマリリア自身も、言った後に少し驚いた。
けれど昨日、自分で言ったのだ。
慎重になること自体を目的にしない。
「聞き手一名、記録役一名でいきましょう」
「うん」
「ただし、記録役は会話へむやみに入らない。全文を書き取ろうとせず、本人が話した主な内容と、後で確認が必要な点だけを残す」
「名前は?」
「必要ですか?」
ライルが考える。
「本人にまた確認したい時は必要?」
「聞き取り対象者が一人なら、内部では分かります」
「じゃあ記録に毎回名前を書く必要ない?」
「少なくとも、広く共有する資料には不要かもしれません」
「本人の商売先とかも?」
「話に必要な範囲だけ」
「細かい荷主名は?」
「問題を見るために必要でなければ残さない」
ディーンが二人の会話を聞きながら、短く書き留めていく。
「記録の扱いについては、聞き取り前に本人へ説明いたします」
「お願いします」
「それから」
アマリリアは続ける。
「本人の言葉を勝手に『共同輸送に賛成』『反対』と分類しない」
「うん」
「それ、大事」
ライルの表情が真剣になる。
「便利になったところと困ったところ、両方あるかもしれない」
「どちらでもない話もあるでしょう」
「関係ない話も?」
「あります」
「その時は?」
「話を切ります?」
口にしてから、アマリリアは迷う。
相手の時間を無制限にもらうわけにはいかない。
だが、一見関係ない話の中に、こちらが想定していなかったものがある可能性もある。
「時間を先に決める?」
ライルが言った。
「四半刻とか」
「短すぎません?」
「半刻?」
「長い?」
二人がディーンを見る。
「本人へ確認するのがよいかと」
「……そうですわね」
「また俺たちで決めそうになった」
「危なかったです」
アマリリアは笑う。
「『最大半刻程度を想定しているが、短くてもよい』くらいを伝え、本人が取れる時間を聞いてください」
「承知しました」
「途中で荷の仕事が入ったら?」
ライルが聞く。
「そちらを優先です」
アマリリアが即答する。
「王宮の聞き取りのために荷物を待たせるのは違います」
「うん」
「聞き取りを途中で終えてもよいことも、先に伝えましょう」
「後日続きを絶対聞く?」
「必要ならお願いする。ただし、それも本人の都合次第です」
少しずつ形ができていく。
完璧ではない。
抜けもあるだろう。
だから最初の一人で、聞き取り方法そのものも見る。
「トーマさんへ声をかける」
ライルが確認する。
「はい」
「これで決定?」
「決定です」
「おお」
「なぜ驚きますの?」
「最近、『まだ決めません』が多かったから」
「必要な時は決めます!」
「分かってる」
ライルは笑ってから、少し真面目な顔へ戻った。
「じゃあ、王宮には呼ばない」
「はい」
「俺たちも最初は行かない」
「はい」
「ディーンと記録役一人」
「そうします」
「預かり所から本人に声をかけてもらって、断ってもいい、理由はいらない」
「はい」
「場所と時間は本人の都合を聞く」
「ええ」
「最初から共同輸送で困ってるかは聞かない」
「その通りです」
ライルはそこで止まった。
「……今、まとめたけど」
「はい」
「数えなかったよ」
アマリリアは一瞬黙り、それから吹き出した。
「そこを褒めてほしいのですか?」
「ちょっと」
「では、偉いです」
「軽い!」
「十分でしょう!」
ディーンも小さく笑いながら、紙をまとめた。
「北東荷物預かり所へ、本日中に連絡いたします」
「急ぎではありません」
「もちろんです」
「今日トーマさんが来ても、その場ですぐ捕まえないでくださいませ」
「承知しております」
「捕まえるって」
ライルが笑う。
「言い方」
「分かっております!」
◇◇◇
昼を少し過ぎた頃、北東荷物預かり所へ連絡を出した。
返答は急がない。
トーマが次に預かり所へ来た時、職員から話を伝えてもらう。
それで終わり。
少なくとも、そのはずだった。
「……気になりますわね」
昼食後、アマリリアは思わず呟いた。
今日は執務室に隣接した小食堂で昼食を取っている。
外は朝より明るくなったものの、石畳はまだところどころ湿っていた。昨日のように庭で食べるには少し空気が冷たく、窓越しに濡れた木々を眺めながら温かな煮込み料理を食べていた。
「何が?」
向かいのライルが尋ねる。
「トーマさんが断るかどうか」
「気になるね」
「断ったら」
「別の人?」
「そうなると思います」
「理由は聞かない」
「はい」
「でも気になる」
「気になります」
二人とも同じだった。
アマリリアはパンを小さくちぎる。
「『断ってもよい』と言っておきながら、断られたら理由を知りたくなるのは勝手ですわね」
「聞かなければいいんじゃない?」
「そうですけれど」
「知りたいって思うのまで止められないよ」
アマリリアは顔を上げた。
ライルは煮込みの中から人参をすくいながら、何でもないことのように続ける。
「君、劇場の日にも言ってたでしょう。気づかない人になる必要はないって」
「……ええ」
「断った理由が気になっても、聞かないって選べばいい」
「そうですわね」
「俺も気になると思う」
「殿下は特に聞きそうです」
「ひどい」
「『どうして?』とすぐ言いますもの」
「君にだけだよ」
「それはそれで問題です」
「なんで?」
「私が断った時も、理由を聞かないでくださいませ」
ライルの手が止まった。
「何を?」
「例えば」
「うん」
「デートのお誘いを」
「聞く」
「殿下!」
「それは聞くよ!」
「今の話を何だと思っておりましたの!?」
「だって違うでしょう!」
「何がです!」
「王宮の聞き取りと婚約者のデートは違う!」
「任意であることは同じです!」
「でも、君が急にデート断ったら理由気になる!」
「仕事かもしれません!」
「だったら『仕事』って言ってくれればいい!」
「体調かもしれません!」
「それならもっと聞くよ!」
声が少し大きくなった。
小食堂の端で給仕をしていた侍女二人が、揃ってこちらを見る。
アマリリアはそこで我に返った。
「……声を落としましょう」
「うん」
ライルも周囲に気づいたらしい。
侍女たちはすぐに視線を戻したが、一人の口元がわずかに緩んでいた。
「では」
アマリリアは声を抑える。
「私が『今日は行きたくありません』と言ったら?」
「理由聞く」
「殿下」
「でも、答えたくないって言われたら無理には聞かない」
ライルの声も小さくなる。
「ただ、心配はする」
「……」
「俺が何かしたのかな、とか。体調悪いのかな、とか」
「それは」
アマリリアは少し言葉を止めた。
先ほどまでの軽い口論が、少しだけ別の色になる。
「そうですわね」
「だから、王宮の聞き取りと同じにはできないと思う」
「はい」
「婚約者だから何でも理由を言え、とは思わないけど」
ライルは一度視線を落とす。
「関係ないとも思えない」
劇場で見たノエルとミラの話が、ふと蘇った。
『君には関係ないだろ』
あの台詞に、ライルは強く反応していた。
自分で決めることと、近しい相手を関係ないと切り離すことは違う。
「分かりました」
アマリリアは穏やかに言った。
「では、デートを断る時は、話せる範囲で理由を言います」
「本当?」
「はい。ただし、殿下も同じです」
「もちろん」
「『王子だから忙しい』だけでは駄目です」
「それ理由じゃないの?」
「広すぎます」
「今日の聞き取り練習みたいになってる!」
「本当ですわね」
二人で笑う。
仕事の話から始まったのに、いつの間にかデートを断る時の話になっていた。
だが、無理に元へ戻す必要はなかった。
今は昼食中だ。
「ところで」
ライルが煮込みを食べながら言う。
「次のデート、断る予定ある?」
「まだ日程すら決まっておりません!」
「じゃあない?」
「知りません!」
「行きたい?」
「帳面に書きました!」
「直接も聞きたい」
「昨日も聞いたでしょう!」
「今日も」
「一日一回確認するつもりですの!?」
「それは多いか」
「多いです!」
また侍女が笑いを堪えている。
アマリリアは今度は気づいても何も言わなかった。
◇◇◇
午後は共同輸送の話をいったん離れ、第二共同倉庫から届いていた定期報告へ目を通した。
こちらも急ぎではない。
ただ、表示板前の空間を確保する運用を始めてから数日が経ち、現場側から短い記録が届いていた。
「大きな問題なし」
ライルが最初の行を読む。
「はい」
アマリリアは隣の記載を見る。
表示板前へ一時的に荷を置かないようにしたことで、正面から見る位置は以前より確保されている。
一方、繁忙時間帯には荷を避けた結果、通路端へ空箱が寄りやすくなった時間が一度あった。
現場責任者がその日のうちに置き場所を変更し、翌日以降は同じ状況が確認されていない。
「改善したら別のところへ寄った」
ライルが言う。
「でも、現場で直しております」
「王宮に聞かずに」
「はい」
「いいね」
「ええ」
以前なら、現場から「こう変えました」と報告が来れば、その方法が正しいか細かく確認したくなったかもしれない。
今は、重大な安全問題がなく、現場の権限内で修正でき、経過も記録されているなら、それでよいと思える。
「もう一つあります」
ディーンが報告書の下段を指した。
新人・臨時作業者への共通教育。
以前から続けている「迷ったら置く前に止まる」「一人で判断を変えず、別の作業者か責任者へ確認する」という二点について、新たに入った臨時作業者四名へ説明を行った記録だった。
「四名全員、説明直後は内容を言い直せた」
ライルが読む。
「でも実際に迷う場面があったのは一名だけ」
「その一名は、置く前に止まって確認しております」
「残り三人は?」
「迷う状況なし」
「じゃあ、使わなかったから分かってないとは言えない」
「はい」
「分かってるともまだ言い切れない?」
「そうですわね」
ライルが頷く。
もう一枚。
教育を担当した古参作業者からの備考。
『二つだけなら教えやすい。ただし、新人が「迷ったら聞けばよい」とだけ覚え、荷札を自分で見なくなるのは困るため、最初に自分で荷札と置き場を確認することは従来通り教えている。』
「……出ましたわね」
「何が?」
「一つ改善すると、次の心配が出るものです」
「聞けばいい、だけになったら駄目」
「はい」
「でも、だからって手順全部を統一する?」
「しません」
「早い」
「現場の教育担当者が既に気づいておりますもの」
アマリリアは備考を読み直す。
「この方は、『自分で確認することをやめろ』とは受け取っていない。二つの共通事項を、従来の教育へ足しているだけです」
「他の教育担当者は?」
「そこを確認する必要があります?」
ライルが止まる。
「……今すぐはないか」
「はい」
「もし『聞けばいい』だけが広がって問題になったら?」
「その時は見ましょう」
「分かった」
現場側が気づき、考え、調整する。
王宮が先回りしてすべての可能性を潰そうとしなくてもよい。
「今回の報告への返事は?」
ディーンが尋ねる。
「受領したことと、現行の記録を続けていただくことだけでよいと思います」
アマリリアが答える。
「追加の確認項目はなし?」
ライルが尋ねる。
「私は不要だと思います」
「俺も」
「では、そのように」
ディーンが書き留める。
第二共同倉庫の試験も、まだ「勝者」を決めていない。
表示、教育、作業環境。
複数のものが絡み合っている。
今日の短い報告も、その途中の一枚だった。
◇◇◇
夕方が近づいた頃、北東荷物預かり所から使いの者が来た。
想定より早い。
「トーマ・レイン氏が、本日午後に預かり所へ来たそうです」
ディーンから聞いた瞬間、ライルが顔を上げた。
アマリリアも同じだった。
「もう伝えた?」
「はい」
「返事は?」
ライルが尋ねてから、自分で口を閉じる。
「……いや、聞いていいよね?」
「そこはよいでしょう」
アマリリアも少し笑う。
ディーンが使いから受け取った紙を見る。
「協力してもよいとのことです」
「……!」
アマリリアは反射的に身を乗り出しかけ、途中で姿勢を戻した。
「条件は?」
「本人から二つ希望がございます」
「聞きましょう」
「一つ目。王宮へ行くための服を持っていないので、預かり所か、その近くで話したい」
アマリリアとライルの視線が合った。
「やっぱり」
ライルが小さく言う。
「王宮へ呼ばなくて正解でしたわね」
「うん」
服。
時間や移動だけではない。
王宮へ来るというだけで、相手に「何を着ればよいのか」という負担まで生じる。
想像はしていた。
だが、実際に本人の希望として出てくると重みが違った。
「二つ目は?」
「荷物預かり所の繁忙時間を避けたいので、明後日の午後、荷を預けた後なら半刻ほど取れる。ただし、その日の荷の到着が遅れれば時間をずらしたいとのことです」
「それで」
ライルがすぐ答える。
「はい」
アマリリアも同意する。
「遅れたら?」
「待ちます」
「王宮側が?」
「当然です」
「中止でも?」
「構いません」
ディーンが頷く。
「その旨を返答いたします」
「場所は預かり所?」
「本人は、預かり所の奥にある休憩室ならよいとのことです。ただし、職員が出入りする可能性があります」
「本人がそれでよいなら」
アマリリアは言いかけて、止まる。
「……待ってください」
「何?」
「話の内容によっては、他の職員がいると話しにくい可能性があります」
「でも完全な個室に連れていかれるのも嫌かもしれない」
ライルが続ける。
「そうですわね」
「本人に選んでもらう?」
「それがよいと思います」
ディーンが頷く。
「預かり所には、小さな打ち合わせ室も一室ございます。扉を閉めるか、開けたままにするかも含め、当日本人の希望を確認できます」
「そうしてください」
「記録役は?」
「行政補佐から一名、候補を決めております。普段は倉庫関係の集計を担当している者です」
「名前は?」
「レオン・ハース。二十代後半。現場聞き取りの経験は少ないですが、記録を短くまとめることには慣れております」
「経験が少ないのは問題?」
ライルが尋ねる。
「今回、最初の聞き取り自体が方法確認も兼ねております。経験豊富な者だけで始めると、その人の技量でうまくいった可能性を見落とすかもしれません」
アマリリアはディーンを見る。
「それは、ディーンの判断ですの?」
「はい。ただし、経験が少ないから選んだわけではありません。通常業務へ大きな影響を出さず同行でき、記録役として必要な技能がある者の中から選びました」
「それなら」
「俺もいいと思う」
ライルが頷いた。
「ディーン」
「はい」
「明後日、質問票を読み上げるだけにはしない?」
「その予定です」
「昨日の練習でやったこと、全部覚えてる?」
「殿下」
アマリリアが横を見る。
「全部覚えろと言うと、手引きが長くなると言ったのは私たちです」
「あ」
「ディーンを緊張させてどうしますの」
「ごめん」
「いえ」
ディーンは少し笑った。
「最低限、最初の広い問いで相手が考えている間は急いで例を出さないこと。こちらの欲しい結論へ寄せる補足をしないこと。話の途中で『つまりこうですね』と早くまとめないこと。この三点は意識します」
アマリリアが口を開きかける。
ライルが先にこちらを見る。
「三つ」
「……」
「ディーンが三つにした」
「ディーン自身が必要だと思って三つならよいのです!」
「俺が言うと怒るのに!」
「殿下は何でも三つにしたがるでしょう!」
「最近してないよ!」
「昨日指を折っておりました!」
「あれは数えただけ!」
ディーンが笑いを堪えながら続ける。
「必要であれば増減いたしますので、ご安心ください」
「ほら!」
ライルが得意げになる。
「なぜ殿下が勝った顔をしておりますの?」
「なんとなく」
「腹立たしいです!」
緊張していた空気が少し緩んだ。
だが、明後日。
初めて、フォード商会の資料の外側にいる一人へ、実際に話を聞く。
その事実は変わらない。
「私たちは行かない」
ライルが改めて言う。
「はい」
「終わったらすぐ全部聞く?」
アマリリアは少し考えた。
「ディーンたちが戻った時間によります」
「遅かったら翌日?」
「はい」
「……気になるだろうな」
「気になりますわね」
「でも待つ?」
「待ちます」
「俺も」
二人で頷く。
アマリリアはそこで、ふと別のことに気づいた。
「それからディーン」
「はい」
「聞き取りが終わった直後に、こちらへ『結論』を作って持ってこないでください」
「承知しました」
「トーマさんが話したことと、ディーンがどう感じたかは分けてください」
「はい」
「レオンさんの記録も同じです」
「そのようにいたします」
「あと」
ライルが続ける。
「『共同輸送は良かった』『悪かった』って見出しはつけないで」
「もちろんです」
「本人がそう言ったとしても?」
アマリリアがライルを見る。
「その言葉自体は残してよいのでは?」
「そっか」
「ただし、こちらが分類名にしない」
「うん」
少しずつ、準備が終わっていく。
完全ではない。
実際に聞けば、想定していなかった問題が出るかもしれない。
それでいい。
最初の一人に、完璧な調査を背負わせるつもりはない。
「では」
ディーンが紙をまとめた。
「明後日、行ってまいります」
「お願いします」
アマリリアは答えた。
「よろしく」
ライルも続ける。
それだけだった。
大げさな開始宣言もない。
王宮からの命令書もない。
制度も変わらない。
一人の運送人へ、都合がよければ話を聞かせてほしいと頼んだ。
今は、それで十分だった。
◇◇◇
その日の仕事を終え、王宮の正面玄関へ向かう頃には、朝の雨の痕跡はほとんど消えていた。
窓の外には薄い夕焼けが広がり、濡れていた石畳も端の方を除けば乾いている。
アマリリアとライルは並んで階段を下りた。
今日は共有帳面をどちらが持つか決めていない。
朝、アマリリアの鞄へ入れたままだ。
「帳面」
ライルが言う。
「今日は私です」
「持って帰る?」
「はい」
「何か書く?」
「分かりません」
「そっか」
「殿下は?」
「今日は書かなくていいかな」
「珍しいですわね」
「朝書いたの読んでもらったから」
「……そうですか」
また少し頬が熱くなる。
「思い出させないでくださいませ」
「何度でも誘うってやつ?」
「殿下!」
近くを通っていた文官二人がこちらを見て、慌てて前へ向き直った。
アマリリアは声を落とす。
「王宮です!」
「分かってる」
「でしたら」
「でも君、朝は嫌じゃないって言った」
「嫌ではありません!」
「うん」
「そういうところです!」
「どういうところ?」
「……もう知りません」
アマリリアは少し早足になる。
ライルが笑いながら追いついた。
「待って」
「待ちません」
「明後日の聞き取りは待つのに?」
「それとこれとは別です!」
「じゃあ俺は?」
「何です?」
「待たなくていい?」
意味が分からず、アマリリアは足を少し緩める。
「何をです?」
「次のデート」
「……」
「今すぐ日程決めなくていいのは分かってるけど」
ライルも歩調を合わせる。
「誘うのまで待った方がいい?」
アマリリアは彼を見る。
朝、帳面に書かれていた。
『俺も何度でも誘います。』
まだ日程を決めなくてもいい。
けれど、誘いたいと思った時まで我慢する必要はない。
「待たなくて結構です」
「本当?」
「はい」
「じゃあ誘っていい?」
「今ですの?」
「今」
アマリリアは思わず笑ってしまった。
「どうぞ」
「次の休みが合う日に、どこかへ一緒に行きませんか?」
あまりにも普通だった。
劇場へ行った時のように、既に場所を決めているわけでもない。
特別な催しがあるわけでもない。
ただ、次に休みが合う日に一緒に出かけたい。
「はい」
アマリリアは答えた。
「喜んで」
ライルの顔が一気に明るくなる。
「やった」
「ただし」
「何?」
「今日、日程表を取りに戻るのは禁止です」
「まだ何も言ってない!」
「顔が言っております!」
「ちょっと思っただけ!」
「駄目です」
「じゃあ明日?」
「それは、明日考えましょう」
「分かった」
ライルは素直に頷いた。
明後日には、初めての聞き取りがある。
明日はまた通常の仕事がある。
第二共同倉庫も、通知試行も、共同輸送も、まだ途中だ。
それでも、次のデートを約束してはいけない理由にはならない。
「場所は?」
ライルが尋ねる。
「それもまだ」
「外で食べるのは候補?」
「候補です」
「劇場も?」
「また行く約束はしております」
「じゃあ別の日」
「一度に全部行こうとしないでくださいませ」
「してないよ」
「本当です?」
「何度でも行けばいいんでしょう?」
自分が書いた言葉を返される。
アマリリアは一瞬黙り、それから笑った。
「……そうでしたわね」
階段を下りきる。
玄関の先には二人の馬車が待っていた。
護衛や使用人たちがそれぞれの位置につき、夕方の王宮には一日の終わりの気配が満ちている。
明後日、トーマ・レインという一人の運送人へ話を聞く。
王宮へは呼ばない。
第一王子も公爵令嬢も行かない。
本人が普段使う荷物預かり所で、本人が取れる時間だけ。
そこで何が聞けるかは、まだ分からない。
何も大きな問題は出ないかもしれない。
共同輸送とはほとんど関係のない話になるかもしれない。
聞き方そのものを直すことになるかもしれない。
それでも、ようやく資料の外へ一歩進むことは決まった。
そして同じ日の帰り道に、次のデートも決まった。
こちらは場所も日付も決まっていない。
決まっているのは、一緒に出かけることだけ。
アマリリアは自分の馬車の前で振り返った。
「では、また明日」
「うん。また明日」
「殿下」
「何?」
「明日、朝一番に日程表を持って待っていたら怒りますからね」
「……」
「今の沈黙は何ですの?」
「持ってこようと思ってた」
「やっぱり!」
「でも今やめた!」
「本当でしょうね!?」
「本当!」
玄関近くにいた護衛が視線を逸らし、使用人の一人が小さく肩を揺らす。
アマリリアは呆れながら馬車へ乗り込んだ。
扉が閉まる直前まで、ライルは笑っていた。
明日になれば、また仕事をする。
明後日には、知らない誰かの話を聞かせてもらう。
そして、その先のどこかには次のデートがある。
どれもまだ完成していない。
けれど、完成していないからこそ、これから選べるものが残っていた。




