第93話 聞き取りを始める前に、聞く側の練習をすることになりました
翌朝、アマリリアが王宮の執務室へ入った時、共有帳面は既にライルの手元へ戻っていた。
正確には、昨日の帰り際に取り返された。
廊下へ出たところで「後でって言ったよね」と追いつかれ、アマリリアが「いつとは言っておりません」と抵抗し、最終的には馬車へ乗る直前に「では読み終えたら返してくださいませ!」と押しつけるように渡したのである。
つまり、取り返されたという表現は少々不正確だった。
ただし、アマリリアの感覚としては取り返されたに近い。
「おはよう、アマリリア」
「……おはようございます」
「何?」
「いえ」
先に来ていたライルは、窓際の席で通常書類を一枚読んでいた。その横には共有帳面が閉じた状態で置かれ、例の青いインク瓶もある。
アマリリアは上着を侍女へ預け、いつもの席へ向かった。
帳面を見ない。
ライルも何も言わない。
昨日、自分が書いた文章を思い出さない。
『これから何度でも一緒に出かけたいです。』
思い出した。
「……」
「アマリリア?」
「何でもありません!」
「まだ何も聞いてないよ」
「分かっております!」
声が少し大きくなった。
入口近くで書類箱を整理していた若い文官が驚いてこちらを見る。すぐに視線を戻したものの、肩がわずかに動いていたので、おそらく笑いを堪えたのだろう。
アマリリアは咳払いをして席についた。
「読みましたの?」
「何を?」
「殿下」
「はい」
「朝からそれをやるなら、本日は一切お話しいたしません」
「困る!」
ライルはすぐに降参した。
「読んだよ。昨日、帰ってから」
「そうですか」
「嬉しかった」
「そうですか」
「すごく」
「二度言わなくて結構です!」
「でも」
「殿下!」
アマリリアが睨むと、ライルは口を閉じた。
ただし笑っている。
その表情が腹立たしくて、同時に少し嬉しいのがもっと腹立たしい。
「……それで」
アマリリアは意識して声を整えた。
「帳面に何か追加しましたの?」
「してない」
「なぜです?」
「君が書いたところで終わってる方が、昨日はいいかなと思って」
予想していなかった返事だった。
アマリリアは帳面へ視線を向ける。
「そういうことも考えますのね」
「どういう意味?」
「もっと何でも書き足す方かと」
「俺だって余韻くらい分かるよ」
「本当です?」
「昨日の劇の話をした時も分かってたでしょう!」
「劇はもう数日前です!」
「そうだけど!」
そこへ扉が開いた。
「朝から楽しそうで何よりでございます」
ディーンが入ってくる。
後ろにはゼインもいる。
「違います!」
「何がでしょう」
「……何でもありません」
「承知いたしました」
まったく承知していない顔だった。
アマリリアは反論を諦める。
昨日までに、小規模な荷運びを担う人々へ話を聞く目的は少しずつ整理されてきた。
共同輸送が良いか悪いかを決めるためではない。
特定の商人や運送人の利益を守ること自体が目的でもない。
地域や用途によって、必要な輸送手段へ実際に届かなくなっている場所がないかを見る。
そのために話を聞く。
ただし、誰に、どこで、誰が、どのように聞くのかはまだ決まっていない。
「本日の急ぎは?」
ライルが尋ねる。
「午前中にご確認いただきたいものが二件ございます」
「では、先にそちらですわね」
「はい」
共有帳面は閉じたまま。
昨日作った作業紙も、まだ出さない。
今日もまず、その日に必要な仕事から始まった。
◇◇◇
一件目は地方の公営穀倉から届いた、冬季警備人員の交代に関する確認だった。
人員不足ではない。
長年夜間責任者を務めてきた男が腰を痛め、冬の間だけ日中勤務へ移るため、夜間責任者を副責任者へ交代したいという申請である。
「引き継ぎ期間は?」
ライルが書類から顔を上げた。
「十日間を予定しております」
ディーンが答える。
「夜間の鍵と火気確認、緊急連絡先も?」
「引き継ぎ表に含まれております」
「だったら大丈夫かな」
アマリリアも添付資料を確認する。
交代そのものより、引き継ぎ内容が重要だ。
ただし、それも現場側で既に整理されている。
「問題ありません」
二件目は王都北側の排水路清掃日変更だった。
予定していた日に近隣で大規模な荷下ろしが重なるため、二日後へずらしたいというもの。天候予報と次の降雨時期を確認しても支障はなく、周辺商店への案内も通常の方法で行われる。
「こちらも承認で」
「はい」
二件を終える。
ディーンが処理済みの書類をまとめる間、アマリリアは昨日の作業紙が出てくるのを待った。
しかし。
「では、次に」
ディーンが置いたのは、見覚えのない紙だった。
「何ですの、これ」
「昨日の件に関連します」
「返答?」
「いいえ」
紙には短い文章が書かれている。
質問らしい。
『最近、運送の仕事で変わったことはありますか。』
昨日、ライルが候補として口にした問いに近い。
「誰かに聞いたの?」
ライルが驚く。
「まだ誰にも」
「では?」
「私が試しに答えてみました」
「ディーンが?」
「はい」
二人が同時に彼を見る。
ディーンは普段と変わらない落ち着いた表情をしていた。
「私は運送人ではございません。ただ、質問の形を確認するため、自分が答えられる範囲の仕事へ置き換えて考えてみました」
「どう置き換えましたの?」
「『最近、補佐官の仕事で変わったことはありますか』と」
ライルが少し笑う。
「いっぱいありそう」
「ございますね」
「私のせいですの?」
「お二人の影響はかなり」
「私だけではありませんわね?」
「俺も入ってるよ」
「なら結構です」
「いいんだ」
ディーンが紙の続きを示した。
「この質問を受けた場合、私は何を答えるか迷いました」
「広いから?」
「はい。最近がいつからなのか。仕事内容の変化なのか、量なのか、やり方なのか、人間関係なのか。どこから話せばよいのか分かりません」
アマリリアは紙を見る。
昨日も「広い」と感じていた。
だが、広いからこそ相手の答えを狭めない利点があるとも思っていた。
「迷うこと自体は悪いのでしょうか」
「必ずしも」
ディーンは頷く。
「ただし、聞く側が沈黙を待てずに補足した場合、そこで方向が決まる可能性があります」
アマリリアの目が止まる。
「例えば?」
「相手が考えている途中で、『仕事の量が減ったとか、運賃が変わったとかありませんか』と付け足せば」
「その二つを探し始める」
ライルが先に答えた。
「はい」
「質問文だけ整えても」
アマリリアはゆっくり言う。
「聞く人が途中で誘導する可能性がありますのね」
「ございます」
昨日、誰が聞くのかという問題が出た。
その時は立場の違いを考えていた。
第一王子が聞く。
公爵令嬢が聞く。
役人が聞く。
市場管理所の職員が聞く。
相手の答えやすさは変わるだろう。
だが、問題は立場だけではなかった。
同じ質問票を使っても、聞き方が違えば答えが変わる。
「では」
ライルが少し身を乗り出す。
「質問を作るだけじゃ足りない?」
「そのように思います」
「聞く人のための説明も必要?」
「長い手引きを作れば、それ自体が負担になります」
「また増やしすぎる問題」
「はい」
アマリリアは椅子へ背を預けた。
「……聞き取りを始める前に、聞く側が一度練習した方がよいのでは?」
言ってから、自分でその案を考える。
ライルもすぐには返事をしなかった。
「練習って」
やがて彼が言う。
「俺たちで?」
「誰かを運送人役にして?」
「それは違う気がする」
「ええ」
運送人ではない者が「運送人ならこう答えるだろう」と演じても、想像を確認するだけになりかねない。
「でも」
ライルがディーンの紙を持ち上げる。
「今みたいに、自分の仕事で答えるなら?」
「質問の聞き方を確かめる目的なら使えるかもしれません」
「内容じゃなくて」
「はい。どこで答えに迷うか、聞く側がどこで口を挟みたくなるかを見る」
「それなら運送の答えを作らなくていい」
アマリリアは頷いた。
「やってみます?」
「今?」
「今です」
「誰が?」
「殿下」
「俺!?」
「最初に質問を考えたのは殿下でしょう?」
「そうだけど!」
ライルがディーンを見る。
助けを求めたらしい。
「よろしいのではないでしょうか」
「ディーン!」
「殿下が聞き手、お嬢様が答え手で」
「なぜ私まで!?」
今度はアマリリアが声を上げる。
ゼインが静かに手を挙げた。
「私が記録いたします」
「ゼイン!」
「実際に試すのであれば、外から見る者も必要かと」
正論だった。
腹立たしいほどに。
「……分かりました」
アマリリアは諦めた。
「ただし、運送人を演じません」
「うん。君自身の仕事について」
「それも少し嫌なのですけれど」
「なんで?」
「殿下に『最近仕事で変わったことは』と聞かれたら、原因のかなりの部分に殿下が入っております」
「俺?」
「婚約前と今で、仕事の範囲がどれほど変わったと思っておりますの?」
「あ」
「気づきました?」
「じゃあ質問変える?」
「変えたら練習になりません!」
開始前から先行きが怪しい。
ディーンが小さく笑い、机の上を少し片づけた。
「では、あくまで聞き方を見る試行として」
「試行」
ライルがその言葉に反応する。
「また試行が増えた」
「制度試行ではありません」
アマリリアは即座に釘を刺した。
「二人の練習です」
「分かってる」
「結果を件数にまとめませんよ」
「そこまでしないよ!」
そう言いながら、ライルはなぜか少し楽しそうだった。
◇◇◇
「では」
机を挟んで向かい合う。
普段から何度もしている姿勢だ。
しかし、「今から聞き取りの練習をする」と決めただけで妙に落ち着かない。
ディーンとゼインは少し離れた場所に座っている。
窓から差し込む朝の光は先ほどより高くなり、机の上に置かれた白紙を明るく照らしていた。
ライルが一度息を吸う。
「最近、仕事で変わったことはありますか?」
「……」
アマリリアは黙った。
すぐに答えようと思えば答えられる。
だが、どこから話せばよいのか。
最近。
仕事。
変わったこと。
婚約前からなら、王宮へ来る頻度も、扱う案件も、人間関係も大きく変わっている。
市場を見るようになった。
倉庫を見た。
通知を考えた。
共同輸送資料を読んだ。
けれど、それは仕事内容そのものが変わったというより、自分の関わり方が変わったとも言える。
「……」
沈黙が続く。
ライルが少し動いた。
口が開きかける。
閉じる。
アマリリアはそれを見逃さなかった。
「今、何か言おうとしました?」
「した」
「何を?」
「『王宮に来るようになったこととか』って」
「言われていたら、私はそこから答えたでしょうね」
「だよね」
「まだ終わっておりません!」
「あ、ごめん」
練習なのに途中で会話へ戻ってしまった。
ゼインが紙へ何か書く。
「何を書きましたの?」
「聞き手、十秒程度で補足しかける、と」
「十秒?」
ライルが驚く。
「もっと長く感じた」
「私もです」
実際の聞き取りでも、相手が黙れば不安になるだろう。
質問が分からなかったのか。
答えたくないのか。
考えているのか。
聞く側には区別できない。
「続けます」
アマリリアはもう一度考える。
「……最近ですと、仕事を途中で止められるようになりました」
ライルの目が少し見開かれる。
だが今度は黙っている。
「以前は、気になったことがあればその日のうちに見たくなりました。今も気にはなりますけれど、急ぎでなければ翌日へ回したり、私が全部を確認しないまま他の方へ任せたりすることが増えています」
言葉にしてみると、確かに変わった。
「それから……」
アマリリアは少し考える。
「仕事をしていない時間を、以前ほど『何もしていない時間』だと思わなくなりました」
ライルの表情が変わった。
嬉しそうになったのが分かる。
けれど彼は口を挟まない。
「劇場へ行った日もそうですし、昨日の昼食もそうです。仕事を残して楽しんでも、その仕事が消えるわけではありませんでした。戻れば続きを考えられます」
そこまで言って、アマリリアは止まった。
「以上です」
「……質問していい?」
「練習ですから、どうぞ」
ライルは少し考えた。
「仕事を途中で止めるようになって、困ったことは?」
アマリリアはすぐ答えようとして、止まる。
「その聞き方ですと」
「駄目?」
「駄目ではありません。ただ、困ったことを探す質問になっております」
「あ」
「ですが、今の私の話を受けて聞いているので、最初から『困っているでしょう』と決めているわけでもありません」
「じゃあ?」
「答えてみます」
アマリリアは思い返す。
「今のところ、大きく困ったことはありません。ただ、翌日に回したことで、前日に考えていた細かいことを忘れそうになることはあります」
「どうしてる?」
「短く印を残します」
「それで足りる?」
「今は」
ライルがまた何か聞こうとして、止まった。
「何です?」
「いや」
「言ってくださいませ」
「『じゃあ今後もそうする?』って聞こうとした」
「……それは」
アマリリアは考える。
「少し答えを決めさせる感じがありますね」
「今後も続けるかどうかを聞いてるだけでも?」
「私が『今はうまくいっている』と言った直後ですから、『続けます』と答えやすいです」
「なるほど」
ディーンがそこで口を開いた。
「聞き手は、相手の答えを受けると、次の結論まで確認したくなるようですね」
「確かに」
ライルが頷く。
「俺、今『じゃあそれでいいんだね』って確認したかった」
「実際の聞き取りなら」
アマリリアが続ける。
「『共同輸送を使って便利になった』と聞いた後、『では今後も使いますね』と聞いてしまうようなものかもしれません」
「でも、その人は便利な時だけ使って、急ぎは別かもしれない」
「はい」
「答えを一個聞いて、その人全部の結論にしちゃ駄目」
「そういうことですわね」
練習はまだ一人目。
しかも運送の話ですらない。
それでも、質問票を机の上で考えているだけでは気づきにくかったものが見え始めていた。
「次」
ライルが言う。
「俺が答える?」
「もちろんです」
「聞くのは?」
「私です」
「優しくしてね」
「何を怯えておりますの?」
「君、質問するとき鋭いから」
「聞き取りの練習です!」
「だから怖いんだよ!」
ゼインが記録紙へ何か書いた。
「今度は何です?」
「開始前から答え手に緊張あり、と」
「ゼイン!」
「重要かと」
「……否定できませんわね」
アマリリアは少し姿勢を整えた。
聞き手の立場や雰囲気だけで、相手は身構える。
これは冗談だけでは済まない。
「では」
声を少し柔らかくする。
「最近、お仕事で変わったことはありますか?」
ライルは考えた。
アマリリアは待つ。
十秒。
先ほど自分が答えた時より、長く感じる。
何か補足したくなる。
王子としての仕事。
市場を見ること。
書類。
母セレーネとの話。
どれかを示せば答えやすくなる。
けれど、それを言えばその方向へ寄る。
アマリリアは黙った。
「……考える時間、長いね」
ライルが苦笑した。
「それも答えです?」
「違う」
「では待ちます」
「うん」
さらに少し経つ。
「前より」
ライルがようやく話し始めた。
「分からないって言うことが増えた」
アマリリアは黙って聞く。
「昔は、王子なんだから知ってないといけないと思ってた。何か聞かれたら答えないといけないし、決めないといけないって。でも最近は、知らないなら聞けばいいと思える」
ライルは机の上の自分の手を見る。
「それと、誰かが持ってきた答えをそのまま正解だと思わなくなった。ディーンが持ってきても、君が言っても、母上が言っても」
「私も?」
「うん」
「……よいことです」
「怒らない?」
「なぜ怒るのです」
「君、正しいこと多いから」
「多いだけです」
「自分で言うんだ」
「事実ですので」
思わず普段の会話へ戻りかける。
アマリリアは咳払いした。
「続けてくださいませ」
「はい」
ライルが笑う。
「あと、仕事を全部王宮の中で考えなくなった。市場とか倉庫とか、実際に使う人を見るようになった」
少し間が空く。
「それから……仕事じゃないけど」
「はい」
「仕事じゃない時間を、前より楽しみにするようになった」
今度はアマリリアが反応しそうになった。
劇場。
市場。
昨日の庭。
次のデート。
共有帳面。
全部が頭へ浮かぶ。
質問したい。
何を一番楽しみにしているのか。
次はどこへ行きたいのか。
しかし、これは練習だ。
「……以上?」
「今は」
「では、一つ確認してよろしいですか」
「うん」
「分からないと言えるようになったことで、以前より判断が遅くなったと感じることはありますか?」
ライルが少し考える。
「ある」
即答ではなかった。
「でも、全部じゃない。急ぐ時は急ぐし、分かってることまで毎回止めるわけじゃない」
「なるほど」
「あと、遅くなったというより、前なら早く決めて後で直してたことを、先に少し見るようになった感じもする」
アマリリアは頷きかける。
そこで止めた。
「……今、私、頷きそうになりました」
「駄目なの?」
「駄目とは限りません」
「でも?」
「相手が、聞き手の反応に合わせる可能性があります」
ライルも「あ」と声を漏らした。
「俺、君が頷いたら『これで合ってるんだ』って思うかも」
「そうでしょう?」
「じゃあ無表情で聞く?」
「それも怖いです」
「だよね」
ディーンが口元を緩めた。
「反応を消せば中立になるとも限りませんね」
「無表情な王宮役人がずっと見ていたら、相手は余計に緊張しますわ」
「アマリリアが無表情で俺を見てたら怖い」
「今やってみましょうか?」
「やめて!」
笑いが起きる。
その笑いが収まるまで、少し時間がかかった。
◇◇◇
二人分の練習を終えたところで、すぐに「聞き取り方法はこれ」と決めることはしなかった。
代わりにゼインの記録を見た。
そこには質問への答えより、聞き手と答え手の動きが残されている。
最初の沈黙が十秒程度でも長く感じた。
聞き手は沈黙を埋めたくなった。
答えを一つ得ると、そこから結論まで確認したくなった。
相手の回答に対する頷きや表情も影響し得る。
答え手は、質問者との関係性によって開始前から緊張する場合がある。
広い問いは自由度がある一方、何を答えればよいか迷いやすい。
具体例を示せば答えやすくなるが、その例へ答えが寄る。
「……難しいですわね」
アマリリアが紙を見ながら言う。
「でも」
ライルが隣から覗き込む。
「昨日より、聞く時に気をつけることは分かった」
「はい」
「長い手引きにする?」
「しません」
「即答」
「これを全部覚えてください、と現場へ渡したら、聞くことより手引きを守る方へ意識が向きます」
「じゃあ短くする?」
「まだ決めません」
「はい」
素直な返事だった。
アマリリアは少し笑う。
「ただ」
ディーンが記録を見ながら言った。
「一つ、実際の聞き取り前に共有した方がよさそうなものはあります」
「どれ?」
「沈黙をすぐ埋めないことです」
ライルが頷く。
「俺、すぐ言いそうになった」
「私もです」
「質問を理解できていない場合は補足が必要ですが、考えているだけなら待つ」
「その区別はどうします?」
「分からない」
ライルが言った。
そして一拍遅れて、笑う。
「今、すぐ『分からない』って言えた」
「成長しましたわね」
「でしょう?」
「そこまで得意げになることではありません」
「褒めたのに!」
「褒めましたよ」
アマリリアは記録へ戻る。
「相手が困っているようなら、『質問が分かりにくければ言ってください』と伝える程度でしょうか」
「例をすぐ出さない?」
「はい」
「それなら答えの方向を決めにくいかも」
「ただし、本当に意味が分からない時は言い換える必要があります」
「その言い換えでも変わる」
「ええ」
「完璧に同じ聞き方は無理だね」
「おそらく」
そこでアマリリアは少し考えた。
「でしたら、聞き取り結果を数字のように扱わないことも重要ですわね」
「何人中何人が『困った』って言った、とか?」
「はい。相手も質問の流れも完全には同じになりません」
「でも同じ話が何人からも出たら?」
「気にはします」
「証明にはしない?」
「そうです」
ライルが頷く。
「聞いた話は、答えそのものじゃなくて」
言葉を探す。
「次に見る場所を教えてくれるかもしれない」
アマリリアは彼を見る。
劇場で見た地図のことが、ふと頭をよぎった。
地図にすべてが書かれているわけではない。
そこから先は、現地で人へ聞く。
人から聞いたこともまた、すべてではない。
次にどこを見るべきかを教えてくれる。
「ええ」
アマリリアは静かに頷いた。
「それくらいがよいと思います」
◇◇◇
昼食後、思いがけない人物が執務室を訪れた。
セレーネだった。
「失礼するわね」
「母上?」
「王妃陛下」
全員が立ち上がる。
セレーネは軽く手を振り、堅苦しい挨拶を省かせた。
「近くまで来たから寄っただけよ。例の小規模運送人の件、まだ誰も呼んでいないそうね」
「はい」
ライルが答える。
「遅いと思う?」
「いいえ」
セレーネは即答した。
「むしろ安心したわ」
彼女は空いている椅子へ腰を下ろし、机の上に残っていたゼインの記録を見る。
「これは?」
「聞き取りの練習をしておりました」
アマリリアが答える。
「運送人役を作ったの?」
「いいえ。私たち自身の仕事について、同じ形の質問をしました」
「あら」
セレーネの目が少し楽しそうに細くなる。
「面白いことをしたわね」
「やってみたら、聞く側が思ったより難しかった」
ライルが説明する。
「相手が黙ると助けたくなるし、一個答えが出ると、そのまま結論まで聞きたくなる」
「そうでしょうね」
「王妃陛下は経験がおありですか?」
アマリリアが尋ねる。
「聞き取りそのものなら何度も」
セレーネは紙を指先で軽く押さえた。
「ただ、私が聞けば『王妃が聞きたい答え』を探す人はいるわ」
「やはり」
「特に役人や商人はね。悪意がなくても、相手が何を求めているか考える癖がついている人は多いもの」
「では、私たちが直接聞かない方がよいでしょうか」
ライルが尋ねる。
「それを私に決めさせるの?」
「……違う」
「そう」
セレーネは微笑む。
「私が聞くより、ライルやアマリリアが聞いた方が話しやすい人もいるでしょう。逆もある。役人の方がいい人、市場管理所の顔見知りの方がいい人もいる」
「一つに決めなくてもよい?」
「必要ならね」
ただし、とセレーネは続けた。
「聞く人を増やせば、その分だけ聞き方の違いも増えるわよ」
「……戻ってきましたわ」
アマリリアが小さく息を吐く。
「何が?」
「聞き方の違いです」
「そう簡単に逃げてくれないわね」
セレーネは笑った。
「でも、あなたたちが何をしようとしているのかは分かったわ。答えを集めたいというより、王宮の資料から抜けている見え方を少し拾いたいのでしょう?」
「はい」
「なら、最初から大人数へ聞く必要はないんじゃない?」
アマリリアとライルが同時に黙った。
「大人数に聞かない」
ライルが繰り返す。
「試行と同じで、小さく?」
「同じとは限らないわよ」
セレーネがすぐ訂正する。
「何でも過去のやり方に当てはめないの」
「はい」
「でも、一人の話を聞くことと、百人の話を聞くことの間には、たくさん選択肢があるでしょう?」
その通りだった。
全体を代表する人数を集めようとしていたわけではない。
それでもいつの間にか、「誰を何人選べば偏らないか」を考え始めていた。
「最初の一人か二人に話を聞いて」
アマリリアが考えながら言う。
「その聞き方自体に問題がないかを見る」
「ありかもしれない」
ライルも頷く。
「話の内容だけじゃなくて、質問が分かりにくかったとか、場所が嫌だったとか」
「聞かれること自体が負担だった、とか」
「うん」
セレーネは二人を見ている。
答えは言わない。
「ただし」
アマリリアは続ける。
「最初の一、二人を『代表』とは扱わない」
「そうだね」
「その方の話が全体を示すとも考えない」
「うん」
「聞き取り方法そのものを確かめる意味も含める」
「それなら」
ライルの表情が少し明るくなる。
「北東荷物預かり所の三人から誰か?」
「待ってくださいませ」
「まだ決めてない!」
「今、完全に決めかけました!」
「候補を思い出しただけ!」
「声が嬉しそうでした!」
「君もでしょう!」
「私は慎重に嬉しいのです!」
セレーネが吹き出した。
「何よ、慎重に嬉しいって」
「王妃陛下!」
「ごめんなさい。でもあなたたち、本当に似てきたわね」
「似ておりません!」
「そこまで同時に言わなくても」
二人は顔を見合わせる。
また同時だった。
「……話を戻しましょう」
アマリリアが先に視線を逸らした。
「そうだね」
ライルも咳払いする。
セレーネはまだ笑っていた。
◇◇◇
セレーネが去った後も、すぐに最初の聞き取り相手を決めることはしなかった。
ただ、方向は一つ見えた。
最初から「偏りのない大人数」を集めようとしない。
一人か二人。
その話の内容だけでなく、聞かれ方、時間、場所、負担まで確かめる。
そこに問題があれば、人数を増やす前に直す。
「では、候補を選ぶ条件だけ考えます?」
ライルが尋ねる。
「条件というほど固くしない方がよいと思います」
「じゃあ、避けたいこと?」
「それなら」
アマリリアは昨日の作業紙の裏へ書き始める。
「まず、王宮へ話したいと強く申し出た方だけにしない」
「逆に、管理所が『この人ならいい話してくれる』って選んだ人だけにもしたくない」
「はい」
「仕事を止める負担が大きい時間を避ける」
「本人が断れるようにする」
「断った理由を聞かない?」
アマリリアの手が止まった。
「……大事ですわね」
「断った人に『なんで?』って聞いたら、断りにくい」
「はい」
書き加える。
『断っても不利益なし。理由を求めない。』
「あと」
ライルが続ける。
「王宮に呼ばれるって言ったら、断れないと思う人いるかも」
「『協力命令』ではなく、任意であることを明確にする必要があります」
「でも第一王子から『任意です』って言われても怖くない?」
「怖いかもしれません」
「じゃあ俺が直接誘わない方がいい」
「少なくとも最初は」
ライルは少し残念そうに見えたが、すぐに頷いた。
「分かった」
「話を聞く場には?」
「それはまだ決めない」
「よろしいです」
「今褒めた?」
「少し」
「やった」
アマリリアは笑った。
候補選びの紙は、結局五行ほどで止めた。
増やそうと思えばいくらでも増やせる。
だから増やさない。
残りは、実際に最初の候補へ声をかける窓口と相談すればよい。
「明日?」
ライルが聞く。
「何がです?」
「候補を決めるの」
「返答が全部そろってからでも」
「全部そろう必要ある?」
アマリリアは止まった。
「……ありませんわね」
「でしょう?」
「では、今日ある情報で候補を一度考えてもよい」
「今?」
「殿下」
「はい」
「今日はここまでです」
「分かってるよ!」
ライルが笑う。
止められる。
続きを明日に残せる。
それも、もう珍しいことではなくなっていた。
◇◇◇
夕方。
仕事を終えた二人は、今日は執務室で共有帳面を開かなかった。
ライルが持ち帰ることになったからだ。
「次は殿下です」
「うん」
「何を書いてもよいですけれど」
「うん」
「私の恥ずかしいことを勝手に記録しないでくださいませ」
「昨日の『何度でもデートしたい』は君が自分で書いたんだけど」
「殿下!」
「分かった、分かった」
廊下へ出る。
夕刻の王宮には、仕事を終えた文官や使用人たちが行き交っていた。
窓の外は淡い橙色へ染まり、長い廊下の石床にも夕日が細く伸びている。
「ねえ、アマリリア」
「何でしょう」
「今日の練習で君が言ってたこと」
「どれです?」
「仕事じゃない時間を、何もしてない時間だと思わなくなったって」
「……はい」
「俺、嬉しかった」
歩みは止めなかった。
アマリリアも前を向いたまま聞く。
「殿下のおかげだけではありませんよ」
「分かってる」
「王妃陛下にも言われましたし、父にも」
「うん」
「私自身がそうしたいと思ったからです」
「それが嬉しい」
アマリリアは横を見る。
ライルは穏やかに笑っていた。
自分のおかげだと言ってほしいのではない。
アマリリア自身が選んで変わったことを喜んでいる。
「殿下も」
「何?」
「分からないと言えるようになったと仰っていたでしょう」
「うん」
「私、それをよい変化だと思っております」
「ありがとう」
「ただし」
「何?」
「何でも『分かりません』で逃げるのは駄目です」
「しないよ!」
「王になってから『分からないのでアマリリアに聞きます』ばかりでは困ります」
「それは君に怒られるでしょう!」
「もちろんです」
「じゃあ大丈夫」
「何がですの?」
「君が隣にいるから」
さらりと言われる。
アマリリアは一歩だけ歩調を乱しかけた。
以前にも似たことを言われた。
けれど今の言葉は、少し意味が違うように聞こえた。
分からないことを全部任せるためではない。
分からない時に一緒に考える相手がいる。
間違えた時に指摘してくれる。
止まる時に止めてくれる。
そして、仕事が終わったら一緒に別の時間を過ごす。
「……そうですわね」
アマリリアは小さく笑った。
「おります」
「うん」
「ですから殿下も、私がまた何でも一人でやろうとしたら止めてくださいませ」
「任せて」
「強引に止めるのは駄目です」
「難しい注文だなあ」
「練習してください」
「今日みたいに?」
「そうです」
二人は廊下を歩き続ける。
今日は手をつながなかった。
それでも距離は近い。
肩が触れそうなほどではないが、離れてもいない。
毎日同じ形で親しさを確かめなくても、そこにあるものは変わらない。
やがて正面玄関へ続く階段が見えてくる。
「明日」
ライルが言った。
「最初に話を聞く人、考えようか」
「はい」
「決められなかったら?」
「また考えましょう」
「一人も決まらなかったら?」
「別の日にします」
「分かった」
「ただし、慎重になること自体が目的にならないようにはしましょう」
アマリリアは少し考え、続ける。
「聞く必要があると判断したのに、失敗を怖がっていつまでも誰にも聞かなければ、それも違います」
「うん」
「準備が十分かどうか、どこかで決めなければなりません」
「完璧になるまで待たない」
「はい」
慎重にする。
でも止まり続けない。
急がない。
でも、進まないことを正解にしない。
その境目は、書類のどこにも答えがない。
だから明日、二人でまた考える。
階段の下では、それぞれの馬車が待っていた。
「じゃあ、また明日」
ライルが言う。
「はい。また明日」
アマリリアは答え、数歩進んでから振り返った。
「殿下」
「何?」
「帳面」
「持ってるよ」
「忘れないでくださいませ」
「何を書こうかな」
「変なことは駄目です!」
「分かってる!」
ライルが笑う。
アマリリアもそれ以上は言わず、自分の馬車へ向かった。
明日は、いよいよ誰かへ話を聞くための一歩を選ぶかもしれない。
けれど今夜は、その前にライルが共有帳面へ何を書くのか。
帰りの馬車へ乗り込んだアマリリアは、扉が閉まったあとでそのことを思い出し、誰にも見られないところで少しだけ笑った。




