第92話 話を聞く相手を決める前に、王宮が何を聞かない方がいいのかまで増えてしまいました
翌朝、アマリリアが王宮の執務室へ入ると、机の上には昨日より紙が増えていた。
ただし、かつての彼女なら真っ先に目を向けていたであろう書類の束より先に、別のものが視界へ入る。
小さな硝子瓶だった。
深い青色のインクが入った、見慣れた瓶。
「……殿下」
「おはよう」
窓際に立っていたライルが振り返った。
朝の光が斜めに差し込み、彼の後ろでは薄い雲がゆっくりと流れている。昨日より風が弱いらしく、少し開けられた窓から入ってくる空気も穏やかだった。
「なぜインクが私の机に置かれておりますの?」
「君が帳面を持って帰ったから」
「それは分かっております」
「昨日、書きたかったんでしょう?」
アマリリアは一瞬黙った。
「……なぜ分かりますの?」
「帰る時に言ってたじゃない。書きたいことはあるって」
「覚えておりましたのね」
「覚えてるよ」
あまりにも普通に返され、追及する気が少し失せた。
昨夜、共有帳面を開いたものの、二人で選んだインクがライルの手元にあることへ気づき、結局何も書かなかった。
もちろん、自室には別のインクがあった。
使おうと思えば使えた。
けれど使わなかった。
「それで、殿下は何を書きたかったのです?」
「秘密」
「まだですの?」
「帳面に書くまで」
「でしたら、インクだけ先に渡してしまってよろしいのです?」
「君が先に書いても、次に俺が書けばいいでしょう?」
そう言ってライルは自分の席へ戻る。
アマリリアは机の上の硝子瓶へ視線を落とした。
共有帳面は自分が持っている。
共有インクはライルが持っていた。
だから今日、彼はインクを持ってきた。
ただそれだけのことなのに、妙に嬉しい。
「……ありがとうございます」
「うん」
「でも、今は書きません」
「仕事あるから?」
「はい」
「分かった」
ライルは素直に頷いた。
急かさない。
書かせようともしない。
アマリリアはインク瓶を机の端へ置き、今度こそ書類へ目を向けた。
「それで」
「うん」
「増えておりますわね」
「増えてるね」
昨日、まだ返事のなかった窓口がいくつかあった。
期限は設けていない。
すぐ返答しろとも言っていない。
それでも通常業務の範囲で確認できた場所から、少しずつ返事が届き始めたらしい。
扉が開き、ディーンが追加の書類を抱えて入ってくる。
「おはようございます」
「おはよう、ディーン」
「おはようございます。まさか、それも昨日の件ではありませんわよね?」
「違います」
アマリリアは少し安心した。
「こちらは本日の通常案件です」
「それなら安心……してよいのでしょうか」
「中身によりますね」
「ですよね」
ライルが苦笑する。
ディーンは通常案件の束と、既に机に置かれていた薄い返答書類を分けた。
「昨日の続きについては三か所から返答が来ております。ただし、先に本日中の確認が必要なものが一件ございます」
「では、そちらから」
ライルがすぐ答える。
アマリリアも頷いた。
机の端に青いインク瓶。
鞄の中には共有帳面。
その隣に小規模運送人との接点に関する返答。
そして今は、別の仕事。
それぞれが同じ机の上に存在していることを、アマリリアはもう不自然だと思わなかった。
◇◇◇
本日中に確認が必要だったのは、王都西側の公共井戸の一つで滑車の軸にひびが見つかった件だった。
水そのものに問題はない。
ただ、荷重をかけ続ければ軸が破損する可能性があるため、一時的に使用を止め、近隣二か所の井戸へ案内する必要がある。
修理は明朝から。
夜間利用者への案内板も既に準備中だった。
「代替の二か所、距離は?」
ライルが尋ねる。
「近い方で通常徒歩四分ほど、もう一方で七分ほどです」
ディーンが答える。
「高齢者とか、水を大量に運ぶ店は?」
「近隣の食堂二軒と共同炊事場については、給水担当が別途確認しております。今夜のみ荷車による補助給水を用意する予定です」
「じゃあ止めても、水がなくなるわけじゃない」
「はい」
アマリリアは書類を読み進めた。
「案内板には、修理予定だけではなく代替井戸の場所も書かれております?」
「入っております」
「それなら結構です」
通知の話をしてきたからといって、何でも通知試行へ結びつける必要はない。
必要な案内が既に用意され、現場側が代替手段まで考えている。
ここへ新しい試験を差し込む理由はなかった。
「承認します」
「俺も」
二人が確認を終えると、ディーンは書類を通常処理の箱へ移した。
「では、昨日の続きへ移ります」
「はい」
机の上へ三枚の返答が並べられる。
一枚目は王都外縁門。
二枚目は商人組合。
三枚目は市場管理所からの追加回答だった。
「まず外縁門からです」
ディーンが一枚目を示す。
「登録運送人名簿について、現場側から補足がございます」
アマリリアが読む。
『登録は荷車単位ではなく、主たる運送責任者単位。家族や雇い人が代行する場合あり。登録者本人が毎回通行するとは限らない。』
「……また名簿だけでは分からないものが出ましたわね」
「名前が一人でも、実際に動いてる人は複数かもしれない」
ライルが続ける。
「逆もございます」
ディーンが別の行を指した。
『複数名で一台の荷車を共同使用している例あり。季節によって担当者変更あり。』
「名前の数と荷車の数も違う」
「はい」
昨日の段階でも、一覧を統合する作業を始めなくてよかった。
もし外縁門の登録名をそのまま「小規模運送人の人数」と扱っていたら、最初から数え方を間違えていた。
「続きがあります」
ディーンが読む。
『門側で把握できるのは、主に誰が、いつ、どの方向へ通過したか。積荷の詳細は通行上必要な範囲のみ確認するため、個々の依頼内容、依頼主との関係、運賃、共同輸送利用状況等は通常記録していない。』
「それでいいね」
ライルが言った。
「ええ」
アマリリアも頷く。
「門の仕事に必要ありませんもの」
王宮が知りたいからといって、既存記録に何でも入っているわけではない。
むしろ、入っていないこと自体が自然だった。
「これを見ると」
ライルが紙へ視線を落としたまま言う。
「外縁門の人に『共同輸送で仕事変わりましたか』って聞いても、分からないよね」
「個々の運送人については、そうでしょうね」
「通行量の変化は分かるかもしれないけど」
「それを今回の目的のためだけに過去比較する必要があるかは別です」
「やらない?」
「今は」
「うん」
ライルはすぐ納得した。
アマリリアはその横顔を一瞬見る。
以前なら「取れる数字なら見よう」と言っていたかもしれない。
今は、取れることと必要なことを分けられる。
彼だけではない。
自分もだ。
「次は商人組合です」
ディーンが二枚目を出す。
こちらは少し長かった。
商人組合には、荷主から「この荷を運べる者を紹介してほしい」と依頼された際に使う仲介台帳がある。
ただし、それは全運送人の登録名簿ではない。
『組合仲介を利用しない運送人も多数いる。固定荷主を持つ者、特定市場のみで仕事を受ける者、知人紹介のみで請ける者、他業との兼業者等は台帳に現れにくい。』
「……フォード商会の資料の外へ出ようとして、別の記録の外側が出てきましたわね」
アマリリアが呟く。
「どこへ行っても全部は載ってない」
「当然といえば当然なのですけれど」
「前だったら?」
ライルが聞く。
「何です?」
「全部載ってる名簿がないなら、作りたくなった?」
アマリリアは口を閉じた。
ディーンとゼインがこちらを見る。
「……少し」
「少し?」
「かなり」
「正直」
「今は作りません!」
「うん」
「殿下はどうなのです?」
「俺も、最初に全部の人を把握できたら楽だと思った」
「でしょう?」
「でも、その名簿を作るために全員探すなら、それが一番大きな調査になる」
「そうなのです」
アマリリアは少し強く頷いた。
「私たちは、小規模運送人の完全な名簿を作りたいわけではありません」
「共同輸送の外側に、王宮が見た方がいい問題があるか知りたい」
「はい」
商人組合の返答には、もう一つ興味深い記述があった。
『近年、定期共同便の拡大により仲介依頼が減った地域・品目はあるが、仲介件数のみから個人運送人の仕事量減少を判断することは困難。固定依頼へ移った者、共同便へ参加した者、組合を介さず直接契約する者もいるため。』
「これも」
ライルが指でなぞる。
「仲介が減ったから仕事が減った、じゃない」
「はい」
「でも、仕事が減ってないとも言えない」
「ええ」
「分からない」
「素晴らしいですわね」
「褒められた?」
「褒めました」
ライルが嬉しそうに笑う。
アマリリアは少しだけ頬が熱くなるのを感じたが、そのまま三枚目へ視線を移した。
「最後は市場管理所です」
昨日、こちらの意図を「共同輸送によって仕事が減った運送人を探しているのか」と受け取った場所だ。
ディーンから訂正を返している。
その上で追加の返答が来た。
『特定の評価に該当する者を抽出する必要はない旨、承知した。通常業務上、荷運び人・個人運送人・商店手伝い・農家の荷車等と接する機会は多い。ただし、市場内で荷を運んでいる者が、その仕事を主業としているか副業としているかを管理所が把握していない場合も多い。』
「昨日の南側公営倉庫と似ていますわね」
「現場では、こっちが思うほど職業で分かれてない?」
「そうかもしれません」
さらに続きがある。
『聞き取りを行う場合、管理所から「共同輸送について話を聞きたい者はいないか」と募集することは可能。ただし、自ら申し出る者に偏る可能性あり。管理所が数名を選ぶ場合は、選定理由を先に示してほしい。』
アマリリアの指が止まった。
「……これは」
「どっちも偏るね」
ライルが言った。
「募集すれば、話したい人が来る」
「強い不満がある人とか?」
「可能性はあります」
「すごく便利だと思ってる人も来るかもしれない」
「はい。あるいは、王宮に話をしたいという理由だけの方も」
「管理所が選べば?」
「管理所が『この人なら話しやすい』『この人は事情を知っている』と判断することになります」
「それ自体が悪いわけじゃないけど」
「誰を選んだかには意味が生まれます」
ディーンが静かに頷いた。
「市場管理所もそこを気にしたのでしょう」
「ちゃんと聞いてくれてよかった」
ライルの言葉に、アマリリアも同意した。
「はい」
もし何も確認されず、管理所が善意で「困っていそうな三人」を選んでいたら。
あるいは逆に、「共同輸送をうまく使っている三人」を選んでいたら。
王宮はその三人の話を聞き、知らず知らずのうちに全体像だと思っていたかもしれない。
「誰を選んでも、完全には中立にならない」
ライルが言う。
「そうですわね」
「じゃあ、どうする?」
「……それを考える前に」
アマリリアは一度、三枚の返答を見渡した。
「私たちが何を聞こうとしているのかを、もう少し狭める必要があります」
「昨日は質問を作らなかった」
「今日も、いきなり質問文から始めない方がよいと思います」
「じゃあ何から?」
アマリリアは答えを急がなかった。
窓の外では、薄い雲の切れ間から光が差し込み、庭の木々の影がゆっくり動いている。
「王宮が何を判断するために話を聞くのか」
ようやく口にする。
「そこからです」
◇◇◇
午前の終わりまで、四人は質問文を一つも作らなかった。
代わりに、机の中央へ白紙を一枚置いた。
最初にペンを持ったのはライルだった。
「書いていい?」
「どうぞ」
「変だったら止めて」
「もちろんです」
「即答だね」
ライルは苦笑しながら、一行目を書く。
『共同輸送が良いか悪いかを決めるためではない。』
アマリリアはそれを読み、頷いた。
「残しましょう」
「よかった」
「次は?」
「うーん」
ライルはペン先を紙から離したまま考える。
すぐには書かない。
アマリリアも口を挟まなかった。
「共同輸送が広がったことで」
ライルがゆっくり話し始める。
「今まで使えてた運び方がなくなって、必要なものを必要な時に運べない人がいるか……?」
「それだけですと」
アマリリアは言葉を選ぶ。
「『困った人』だけを探す方向へ戻る可能性があります」
「そっか」
「ですが、近いです」
「じゃあ、便利になったことも見る?」
「それを調べる必要があります?」
今度はライルが止まる。
「……フォード商会の資料で、便利になった例はある程度見えてる」
「はい」
「でも利用してない人の便利は?」
「共同輸送を利用していないのに、共同輸送の拡大によって別の利便が生まれた方がいる可能性はあります」
「例えば?」
「……分かりません」
アマリリアは素直に答えた。
「分からないから、最初から『ない』とはしない方がよいでしょうね」
「うん」
ゼインが壁際から口を挟む。
「共同輸送へ参加したことで、個別依頼を受けなくなった運送人が、以前より安定した収入を得ている例はフォード商会資料にございました」
「ありましたわね」
「その方が以前受けていた個別依頼を、別の運送人が受けるようになっている可能性もございます」
「逆に、新しい仕事が増えた人もいるかもしれない」
ライルが続ける。
「はい。ただし、それも現時点では推測です」
アマリリアは白紙を見る。
何を書けばよいのか。
目的を狭めたいのに、考えるほど可能性が広がる。
「一度、王宮が関わる理由を考えません?」
ライルが言った。
「関わる理由?」
「共同輸送で誰かの仕事が増えたとか減ったとか、それだけなら」
彼は少し迷ってから続ける。
「商売の変化でしょう?」
「はい」
「王宮が、仕事が減った人全員を助けるわけじゃない」
「できませんし、するべきとも限りません」
「商売なら競争もある」
「ええ」
「でも」
ライルの声が少し落ち着く。
「薬とか、壊れた農具の部品とか、どうしても急いで運ばないと困るものがある場所で、運ぶ手段そのものがなくなってたら?」
アマリリアは彼を見る。
昨日まで考えていたことだ。
しかし、ライル自身の言葉で出てきた。
「それは、王宮が見てもよい問題かもしれません」
「だよね」
「少なくとも、単なる一商人の利益減少とは違います」
「じゃあ」
ライルが白紙へ書く。
『特定の商人・運送人の利益を守ること自体を目的にしない。』
少し間を空ける。
『地域や用途によって、必要な輸送手段へ実際にアクセスできなくなっていないかを見る。』
アマリリアは二行目を長く見つめた。
「『アクセス』は文書にするなら別の言葉にした方がよいですわね」
「今は俺たち用だから」
「そうでした」
「意味は?」
「よいと思います」
ディーンも紙を覗く。
「この程度まで目的が絞られるのであれば、聞く相手を選ぶ基準も少し変わりそうです」
「どう変わる?」
「例えば、共同輸送の評価そのものを聞くのであれば、利用者と非利用者を広く集める必要があるでしょう。しかし『必要な輸送手段が失われていないか』を見るのであれば」
「急ぎの荷物を扱う人?」
ライルが言う。
「可能性はあります」
「でも」
アマリリアが止める。
「急ぎの荷物を扱う方だけに聞けば、急ぎの問題ばかり出ます」
「……まただ」
ライルが天井を見る。
「絞ると偏る」
「広げると終わりません」
「難しい」
「面白いでしょう?」
「うん」
「殿下」
「何?」
「即答でしたわね」
「だって本当に面白いから」
その言葉に、アマリリアは少し笑った。
◇◇◇
昼食を挟み、午後。
白紙にはまだ三行しかなかった。
それでも午前より、何のために話を聞くのかは少し見えている。
「質問じゃなくて」
ライルが昼食後の茶を飲みながら言った。
「聞かない方がいいことも考えた方がいい?」
アマリリアはカップを置いた。
「どういう意味です?」
「例えば最初に『共同輸送のせいで仕事が減りましたか』って聞いたら」
「誘導しますわね」
「うん」
「『共同輸送は便利ですか』も同じです」
「便利か不便かで答えさせる」
「両方ある方もおります」
「じゃあ『困ってますか』も?」
「何に困っているのかをこちらが決めてしまう可能性があります」
「『共同輸送をどう思いますか』は?」
アマリリアは少し考える。
「広すぎます」
「だよね」
ライルが笑う。
「何も聞けない」
「そこまでではありません」
「じゃあ何を聞く?」
「ですから、まだ質問文を作らないと」
「分かってるけど、気になる」
「私もです」
二人で顔を見合わせる。
そこへディーンが、別件の確認を終えて戻ってきた。
「何か増えましたか」
「聞かない方がいい質問が増えました」
ライルが答える。
ディーンは一瞬だけ黙る。
「質問ではなく?」
「はい」
「それはまた」
彼は机上の白紙を見る。
「順調なのか分かりにくい進展ですね」
「私もそう思います」
アマリリアは苦笑した。
しかし、聞かない方がよい質問を考えることには意味がある。
最初の問いで答えの形を狭めてしまえば、その後どれほど丁寧に聞いても、最初の枠から抜けにくくなる。
「例えば」
アマリリアはペンを取り、紙の余白へ書いた。
『共同輸送によって困ったことはありますか。』
横に小さく線を引く。
『→「困ったこと」がある前提に寄りやすい。』
次。
『共同輸送は以前より便利ですか。』
『→便利/不便の二択に寄りやすい。』
さらに。
『共同輸送のせいで仕事が減りましたか。』
『→原因を共同輸送に限定している。』
「これは駄目ですわね」
「最後のは特に」
ライルが頷く。
「仕事減ってても、馬が病気だったとか、本人が減らしたとかあるかもしれない」
「フォード商会資料にも、閉業理由は一つではありませんでした」
「じゃあ」
ライルがペンを受け取る。
『最近、仕事は変わりましたか。』
書いてから、首を傾げた。
「広い?」
「広いですけれど」
「駄目?」
「……いえ」
アマリリアは考える。
「最初の入口としては、悪くないかもしれません」
「本当?」
「ただ、『最近』がいつからか分かりません」
「共同輸送が広がってから?」
「そう言うと、また共同輸送との関係を意識させます」
「うわあ」
ライルが机へ額をつけそうになり、途中で止まる。
「質問一個作るのにこんなにかかる?」
「かかるのでしょうね」
「文書局の人たち、大変だ」
「今さらですの?」
「今までより分かる」
その言葉には実感があった。
正式な通知文を作る者。
現場へ伝える者。
聞き取りをする者。
言葉を選ぶ仕事は、短い文章ほど簡単とは限らない。
「ねえ」
ライルが顔を上げる。
「最初から共同輸送の話をしないのは?」
「はい?」
「『最近、運送の仕事で変わったことありますか』って聞いて、本人が共同輸送を出したら聞く」
アマリリアは少し目を見開いた。
「それなら」
「共同輸送だけを原因にしない」
「ええ」
「でも、共同輸送の話が全然出なかったら?」
「それも一つの情報です」
口にしてから、アマリリアは考え直す。
「……いえ、それも慎重に扱うべきです」
「なんで?」
「話に出なかったから、影響がないとは限りません」
「あ」
「聞かれなかったから話さなかっただけかもしれません」
「じゃあ最後に共同輸送のことも聞く?」
「可能性はあります」
「最初は広く。後で少し具体的に?」
「その方が、最初から答えを寄せにくいかもしれません」
ライルの表情が明るくなる。
しかしアマリリアはすぐ手を上げた。
「まだ決定ではありません」
「分かってる」
「今、とても嬉しそうでした」
「一個進んだから」
「私も嬉しいです」
「じゃあいいじゃない」
「そうですわね」
二人で笑う。
ディーンは白紙を見ながら、しばらく考えていた。
「もし実際に聞き取りを行うのであれば」
「はい」
「質問を完全に固定するかどうかも決める必要がございます」
また新しいものが出た。
「固定しない?」
ライルが尋ねる。
「全員に同じ質問をすれば比較はしやすくなります。ただし、相手によって仕事の形が違うのであれば、同じ質問が同じ意味になるとは限りません」
「農家兼業の人と専業の人」
「はい」
「でも全部自由に話してもらったら」
アマリリアが続ける。
「聞く側によって内容が変わります」
「誰が聞くか問題」
「そうなります」
四人が黙った。
窓の外から鳥の声が聞こえる。
少し離れた廊下では、誰かが書類箱を運んでいるらしく、木製の車輪が床を転がる低い音がした。
「……増えますわね」
アマリリアが呟く。
「増えるね」
「聞く相手を決める前に」
「聞き方」
「聞く場所」
「時間」
「負担」
「誰が聞くか」
「質問をどこまで揃えるか」
ライルが指を折り始めた。
アマリリアがその手を見る。
「殿下」
「何?」
「数えないでください」
「まだまとめてないよ!」
「指を折っております!」
「確認してるだけ!」
「そのまま『七つあります』と言いそうでした!」
「言わないって!」
ゼインが壁際で静かに言った。
「八つ目として、記録方法もございます」
二人が止まる。
「ゼイン!」
「申し訳ございません。数を増やしてしまいました」
「わざとですわね!?」
「いえ、必要な確認かと」
「必要なのが腹立たしいです!」
執務室に笑いが広がった。
それでも「記録方法」は確かに必要だった。
聞いた話を誰がどう残すのか。
名前を残すのか。
本人の言葉をどこまでそのまま記録するのか。
王宮内部で誰が読むのか。
後で別の政策へ使われる可能性はあるのか。
作業停止記録の件を読んだばかりだからこそ、記録の用途を曖昧にしたまま集めることには慎重になった。
「これ」
ライルが急に真顔になった。
「聞く前に、相手に何に使うか言った方がいいよね」
アマリリアも表情を改める。
「はい」
「共同輸送がいいか悪いか決めるためじゃない」
「個人の成績をつけるためでもありません」
「商人組合とかフォード商会に、誰が何を言ったって渡すためでもない」
「その予定はありません」
「なら、それも言える」
ディーンが頷く。
「聞き取りを実施する段階になれば、目的と記録の扱いは先に示した方がよいでしょう」
「言ったことで答えが変わる可能性は?」
ライルが聞く。
「ございます」
「でも隠して聞くわけにはいかない」
「はい」
アマリリアが答えた。
「答えを自然にしたいからといって、何のために聞くのか隠す方が問題です」
「そうだよね」
「相手は調査の材料ではありませんもの」
言った瞬間、室内が少し静かになった。
アマリリア自身も、自分の言葉を頭の中でもう一度聞いた。
調査の材料ではない。
数字でもない。
不足している欄を埋めるための存在でもない。
仕事をしている人。
暮らしている人。
王宮が話を聞かせてもらう相手だ。
「それ、残そう」
ライルが言った。
「何をです?」
「今の」
「そのまま?」
「俺たちが忘れないために」
アマリリアは少し迷い、白紙の下の方へ書いた。
『話を聞く相手は、記録の空欄を埋めるための材料ではない。』
文字を書き終えてから、少し照れくさくなる。
「……正式文書には使いませんよ」
「分かってる」
「少し格好をつけすぎました」
「いいじゃない」
「殿下に言われると不安になります」
「なんで!?」
◇◇◇
午後も半ばを過ぎた頃、今日はそこで共同輸送の話を止めることになった。
誰へ聞くかは決まっていない。
質問票もできていない。
聞き取り場所も、人数も、方法も未定。
ただし、昨日よりはっきりしたことがある。
最初から「共同輸送で困った人」を探さない。
王宮側の「小規模運送人」という括りを現場へ押しつけない。
完全名簿を作らない。
既存記録の件数だけで仕事量を判断しない。
話を聞く目的を先に考える。
相手へ目的と記録用途を隠さない。
質問そのものが答えを狭める可能性を意識する。
「今日はここまで」
ライルが白紙から手を離した。
「はい」
アマリリアも同意する。
「明日また考える?」
「明日とは限りません」
「別の仕事があれば?」
「そちらをします」
「返事がまだ来るかもしれないし」
「それも急ぎません」
「うん」
白紙はディーンが保管することになった。
正式な決定文書ではない。
今の二人が考えたことを忘れないための作業紙だ。
「廃棄しないでくださいませ」
「承知しております」
「でも正式記録には?」
「まだ入れません」
「はい」
アマリリアは満足して頷いた。
そこでライルが、机の端に置かれた青いインク瓶を見る。
「仕事、終わった?」
「本日分は?」
アマリリアがディーンを見る。
「急ぎはございません。残りは明日でも問題ありません」
「じゃあ」
ライルがアマリリアを見る。
今度は言葉にしない。
視線だけがインク瓶へ向かう。
「……分かりました」
アマリリアは鞄から共有帳面を取り出した。
「書く?」
「はい。ただし殿下が先です」
「なんで?」
「昨日から秘密にしているのでしょう?」
「あ」
「私は待ちました」
「そうだった」
ライルは少し照れたように笑い、帳面とインクを受け取った。
ディーンとゼインは既に片づけを始めている。
二人の帳面を覗こうとはしない。
窓から差す夕方の光の中で、ライルはペン先へ青いインクを含ませた。
すぐには書かない。
少し考えてから、一行ずつ丁寧に文字を置いていく。
アマリリアは向かい側で待った。
何を書くのか聞きたい。
けれど昨日、自分で「帳面に書いたら読む」と言った。
だから待つ。
「できた」
やがてライルが帳面を回した。
アマリリアは頁を見る。
『庭で食べた焼き菓子を半分ずつにした。次のデートは一回だけじゃなくていいと言ったら、アマリリアも何度でも行けばいいと言ってくれた。嬉しかった。』
「……」
予想以上に、そのままだった。
「殿下」
「何?」
「もう少し隠しませんの?」
「何を?」
「嬉しかった、と」
「嬉しかったから」
「そうですけれど」
「駄目?」
駄目ではない。
むしろ、その一言があるからこそ、昨日ライルが秘密にしたかった理由が分かった。
アマリリアは頁を見つめたまま、指先で紙の端をそっと押さえる。
「駄目ではありません」
「よかった」
「……私も書きます」
帳面を自分側へ引く。
昨日書こうとしていたこと。
同じ出来事だ。
けれど同じ文章にする必要はない。
アマリリアは少し考え、ライルの文字の下へ書いた。
『一度だけでなくてよいと言われた時、私もそれが当然だと思えました。劇場でも、外での食事でも、それ以外でも、これから何度でも一緒に出かけたいです。』
最後の文字を書いた瞬間、急に恥ずかしくなった。
「はい!」
アマリリアは帳面を閉じる。
「待って!」
「読みましたでしょう!」
「途中まで!」
「十分です!」
「俺は全部見せたのに!」
「後で読んでください!」
「今読みたい!」
「駄目です!」
ライルが笑いながら帳面へ手を伸ばす。
アマリリアは反射的に胸元へ抱え込んだ。
執務室を出ようとしていたディーンが一度だけ振り返り、すぐ前を向く。
ゼインは扉を開けたまま、いつもの無表情に近い顔で待っていた。
「お嬢様」
「何です!?」
「帳面を破かないようお願いいたします」
「破きません!」
「俺も破かないよ!」
「殿下は引っ張らないでくださいませ!」
「じゃあ読ませて!」
「後でです!」
「いつ?」
「後で!」
「それ、今日?」
「決めません!」
「そこまで仕事の考え方を使わなくてもよくない!?」
「使っておりません!」
とうとうディーンまで肩を揺らした。
アマリリアは顔が熱くなっているのを自覚しながら、それでも帳面を離さなかった。
仕事では、聞く前に何を聞かない方がよいかまで考えるようになった。
私生活では、書いたものを今すぐ読ませるかどうかで婚約者と揉めている。
どちらも今日の自分だった。
そして今は、後者の方が少しだけ大事だった。
「アマリリア」
「何です?」
「一つだけ」
「読みませんよ」
「違う」
ライルの声が少し柔らかくなった。
アマリリアは警戒しながら彼を見る。
「何度でも行きたいって書いた?」
「……」
「書いたんだ」
「まだ読んでいないでしょう!」
「今の顔で分かった」
「殿下!」
笑うライルを睨みながら、アマリリアは帳面をさらに胸へ抱き込んだ。
それでも否定はしなかった。
明日、共同輸送の話が進むかどうかは分からない。
誰の話を聞くのかも、まだ決まっていない。
けれど、二人で出かける未来については、今日また一つだけ分かった。
一度では足りない。
その答えだけは、わざわざ調査する必要もなかった。




