第91話 小さな運送人の話を聞きたいのですが、最初から『困っている人』だけを探すのは違うようです
フォード商会から受け取った厚い資料束が執務室の机から消えた翌朝、アマリリアは少しだけ妙な感覚を覚えていた。
昨日まで何日も、机の端には生成り色の紐で綴じられた紙束が置かれていた。すべてを一度に読むことはせず、通常の執務や第二共同倉庫、通知試行、そして劇場へ出かける時間まで挟みながら少しずつ読み進めてきたため、いつの間にかその厚み自体が部屋の景色の一部になっていたらしい。
今朝、その場所には何もない。
高い窓から差し込む秋の日差しが、昨日まで資料の影になっていた机の木目をそのまま照らしている。遠くの廊下では文官たちの靴音が規則正しく行き交い、開けた窓の隙間からは、王宮の庭で落ち葉を集めている使用人たちの箒の音がかすかに届いていた。
「見てるね」
向かい側から声が飛んできた。
アマリリアは机から視線を上げる。
「何をです?」
「資料があったところ」
既に席についていたライルが、少し楽しそうにこちらを見ていた。
「見ておりません」
「見てたよ」
「机を見ていただけです」
「資料があった机を?」
「殿下」
「はい」
「朝から細かいです」
「君に言われたくないなあ」
ライルの返事に、ちょうど扉を開けて入ってきたディーンが一瞬だけ足を止めた。その後ろには数枚の書類を持ったゼインもおり、二人ともどうやら最後のやり取りだけは聞こえていたらしい。
「おはようございます」
ディーンは何事もなかったように挨拶し、今日の書類を机へ置く。
「本日の朝一番の急ぎは二件です。その後については、昨日ご依頼いただいた確認結果が一部まとまっております」
「もう?」
ライルが反応する。
アマリリアも同じことを思ったが、昨日の自分たちは期限を設定していない。
「すべてではございません」
ディーンは先回りするように説明した。
「新たに調査を依頼したわけではなく、王宮側の既存記録と、通常業務上どの部署が小規模運送人と接点を持っているかを確認しただけです。すぐ分かった範囲のみとなります」
「それなら」
ライルが頷きかけ、途中でアマリリアを見る。
「先に急ぎ二件?」
「もちろんです」
「だよね」
「なぜ確認しましたの?」
「昨日までだったら、資料の続きを先に見たくなってたかもしれないから」
「殿下が?」
「二人とも」
さらりと巻き込まれ、アマリリアは言い返そうとしてやめた。
否定できない。
「……仕事を始めましょう」
「逃げた」
「始めます!」
ゼインが持っていた紙を机へ置きながら、小さく息を吐いた。
「お嬢様」
「何です?」
「殿下のおっしゃる通りかと」
「ゼインまで!」
「本日はまだ一度も茶化しておりません」
「今しました!」
朝の執務室に、少しだけ笑いが広がった。
資料を読み終えた翌日も、世界が急に次の問題だけを用意して待っているわけではない。
まずは今日必要なことから。
それでよかった。
◇◇◇
二件の急ぎを終えたのは、朝の鐘が鳴ってから半刻ほど経った頃だった。
一件は王都東側の公営診療所で使用する冬季用薪の搬入日変更。もう一件は、地方役所から届いた橋の欄干補修費について、見積書の単位が一箇所だけ本文と合っていないという確認だった。
どちらも大事ではあるが、大きな議論を必要とするものではない。
薪の搬入日は診療所側と納入業者の双方が既に合意しており、王宮側では予算年度をまたがないことだけ確認すればよかった。橋の見積書も、工事全体を止めるような問題ではなく、数字の転記確認を戻せば済む。
「では」
ディーンが二件目の書類を別の箱へ移した。
「昨日の件へ移ってもよろしいでしょうか」
「はい」
「お願いします」
アマリリアとライルがほぼ同時に答える。
ディーンが新しい紙を広げた。
昨日二人が頼んだのは、小規模運送人へすぐ聞き取りを始めることではない。
まず、王宮や公的機関が通常業務の中でどこに接点を持っているのか。
フォード商会だけを入口にしないため、その経路を確認することだった。
「現時点で確認できた窓口は、こちらです」
紙には部署名や施設名が並んでいる。
王都市場管理所。
公営倉庫三か所。
北東荷物預かり所。
南街道側の荷車通行登録窓口。
商人組合の輸送仲介台帳。
地方へ向かう一部街道の通行証発給記録。
そして、王都外縁門の登録運送人名簿。
「多い」
ライルが呟く。
「ええ」
アマリリアも予想以上だと思った。
しかし、ディーンはすぐに首を振る。
「同じ人が複数へ登録されております」
「ですよね」
「また、ここに名前があることと、現在も小規模運送を主な仕事にしていることは同義ではありません」
「古い?」
「更新時期が窓口ごとに違います」
市場管理所の出入り記録は比較的新しい。
一方、街道通行証は有効期間が長く、一年前に発給されたものも残っている。
商人組合の仲介台帳に至っては、依頼を受けた時だけ記載されるため、名前がないから運送をしていないとは言えない。
「ここでも記録の意味が違う」
ライルが紙を見ながら言う。
「はい」
「名前が多い窓口が、一番たくさん運送人を知ってるとも限らない」
「そうですわね」
アマリリアは一枚目をめくった。
「ディーン、重複を全部消した名簿は作りました?」
「作っておりません」
即答だった。
アマリリアは顔を上げる。
「なぜです?」
「必要か判断できなかったためです」
一瞬、言葉が止まる。
それからアマリリアは頷いた。
「正解です」
「ありがとうございます」
「全部まとめてから持ってくると思ってた」
ライルが言う。
「以前であれば、そのようにした可能性はございます」
「今は?」
「お二人が何を知りたいのか、まだ完全には決まっておりませんので」
ディーンは机上の紙へ指を置いた。
「名簿を一つへ統合するには、同姓同名、商号変更、家族共同名義、廃業確認なども必要になります。そこまで行うのであれば、それ自体が新しい作業になります」
「……危なかったですわね」
アマリリアが小さく呟く。
「何が?」
「私、今一瞬『重複を消した一覧があれば見やすいのに』と思いました」
「俺も」
「でしょう?」
「でも、作る人の仕事が増える」
「はい」
見やすい資料は、自然に生まれるわけではない。
誰かが集め、照合し、直す。
王宮にとって便利だからという理由だけで、その仕事を発生させてよいとは限らない。
「では、このままで見ましょう」
アマリリアは紙を戻した。
「全部の運送人を把握する必要はありません」
「誰に話を聞くか探すだけだもんね」
「はい」
ディーンが次の紙を出す。
「その点について、一つ確認が必要です」
「何でしょう」
「市場管理所から、こちらの意図について質問がありました」
アマリリアの眉が少し上がる。
「意図?」
「『共同輸送の拡大によって仕事が減った小規模運送人を探しているのか』と」
室内の空気が、ほんの少し変わった。
ライルもすぐには口を開かない。
「……そう見えたんだ」
やがて彼が言った。
「はい」
ディーンは続ける。
「こちらからは、小規模運送人と通常業務上どの程度接点があるかを尋ねただけです。ただ、共同輸送関連の確認であることは伝えておりますので、管理所側でそのように受け取ったようです」
アマリリアは椅子の背へ軽く身体を預けた。
仕事が減った運送人。
確かに、それは知りたい対象の一つになり得る。
フォード商会の資料では、小規模な個人・家族運送人の直接仕事が減っていた。
共同輸送へ参加した者もいる。
別の商人へ移った者もいる。
閉業した者もいた。
そして、共同輸送を使うようになった鍛冶工房主が、急ぎの部品だけは顔見知りの個人運送人へ頼んだという記録もあった。
だが。
「違いますわね」
アマリリアが言った。
「うん」
ライルもすぐ頷く。
「困ってる人だけ探したら」
「最初から答えを決めることになります」
共同輸送のせいで小規模運送人が困っている。
その証拠を探す。
そんな調査になってしまう。
「でも、実際に困っている人がいる可能性はあるよね」
「もちろんです」
「じゃあ除外もしない」
「はい」
アマリリアは少し考えてから、ディーンを見る。
「市場管理所へは、訂正してください」
「どのようにいたしましょう」
「共同輸送によって仕事が減った方だけを探しているわけではない、と」
「はい」
「仕事が減った方、変わらない方、共同輸送へ参加した方、参加しなかった方、別の仕事が増えた方。こちらで先に結果を限定しません」
そこでアマリリアは言葉を止めた。
「……多すぎますわね」
「うん」
ライルが苦笑する。
「今の全部を条件にしたら、また名簿作りが始まりそう」
「危ないところでした」
ディーンも少し笑う。
「では、『特定の結果に該当する者を抽出する必要はない』程度に留めますか」
「それがよいです」
「あと」
ライルが紙を見ながら口を開く。
「『困っている人を探してるわけじゃない』って強く言いすぎると、本当に困ってる人を出しにくくならない?」
アマリリアは彼を見る。
「……そうですわね」
「別に困っててもいいんでしょう?」
「当然です」
「便利になったって人でもいい」
「はい」
「何も変わらないって人でも」
「ええ」
ライルは少し考え、ゆっくり言った。
「『共同輸送について、特定の評価に合う人を探しているわけではない』とか?」
アマリリアはしばらく黙った。
言葉として少し固い。
だが、方向は合っている。
「いいと思います」
「本当?」
「はい」
ライルの顔がわずかに明るくなる。
「ただし、そのまま現場向けの文面にするかはディーンに任せましょう」
「俺の文章、そのまま使わないの?」
「殿下」
「冗談だよ」
「最近、冗談で逃げるのを覚えましたわね」
「君の影響かな」
「悪いことまで私の影響にしないでくださいませ!」
ディーンが書き留めながら、穏やかに笑った。
「意図は十分伝わりました。こちらで短く整えます」
話はそこで終わらなかった。
「もう一つございます」
ディーンが別の紙を出す。
「北東荷物預かり所からは、三名ほどなら普段から顔を合わせる個人運送人がいるとの返答がありました」
「三名」
ライルが反応する。
「ただし」
アマリリアが先に言う。
「三名に聞くと決めない」
「分かってるよ!」
「今、少し嬉しそうでしたので」
「話せる人が見つかったから」
「私も嬉しいですけれど」
「同じじゃない」
「違います。私は慎重です」
「俺も慎重だよ!」
ディーンが咳払いを一つした。
「続けても?」
「お願いします」
二人同時に姿勢を戻す。
「三名のうち、一名は共同輸送へ一部参加しているそうです。一名は現在も個別依頼中心。もう一名は冬季のみ運送仕事を増やす農家兼業者とのことです」
アマリリアの目がわずかに細くなった。
違う。
三人とも立場が違う。
興味深い。
そう思った瞬間、自分の中で何かが前へ出そうになる。
この三人なら比較できる。
参加者。
非参加者。
兼業者。
きれいに三種類。
「……」
アマリリアは黙った。
ライルも黙った。
二人の視線が合う。
「言わないでくださいませ」
「まだ何も言ってない」
「顔が言っております!」
「君も同じ顔してたよ!」
「私は気づいて止まりました!」
「俺も止まった!」
ディーンが笑いを堪えるように視線を紙へ落とした。
「三人、きれいに違う」
ライルがとうとう言う。
「言いましたわね!」
「でも、だから三人全員に聞くって決めるのは危ないんでしょう?」
「はい」
アマリリアは少し悔しかった。
きれいなのだ。
あまりにも。
共同輸送へ一部参加している者。
個別依頼中心の者。
農家との兼業。
まるで比較のために用意されたように見える。
だからこそ、危ない。
「この三名は、荷物預かり所が普段顔を合わせる方というだけです」
「王都北東側に偏ってる」
「はい」
「扱う荷物も分からない」
「ええ」
「年齢とか経験も」
「まだ必要ありません」
「先に集めない?」
「集めません」
アマリリアは息を整える。
「それに、三人の違いを最初から比較軸にすると、その違いばかり聞いてしまうかもしれません」
「共同輸送に入ったか入ってないか」
「はい」
「でも本人は別のことを気にしてるかもしれない」
「その可能性があります」
例えば街道の状態。
馬の維持費。
季節。
荷主との関係。
家族。
仕事量そのものではなく、時間の自由。
あるいは何も困っていないかもしれない。
「じゃあ最初は」
ライルが言いかけ、少し考える。
「何を聞く?」
アマリリアは答えなかった。
代わりに窓の外を見る。
庭では、使用人が集めた落ち葉を大きな籠へ移していた。風が吹くたび、集め終えたはずの場所へまた数枚の葉が落ちてくる。
「……今、質問を作らない方がよいかもしれません」
「え?」
「まず、その三名に限らず、どんな接点があるかをもう少し見たいです」
「今日話を聞かない?」
「はい」
「呼ばない?」
「呼びません」
ライルは少しだけ残念そうな顔をした。
アマリリアはそれを見て、思わず笑う。
「殿下」
「分かってるよ」
「まだ何も言っておりません」
「最近それ好きだね」
「皆に言われますので!」
それでも、ライルはすぐに気持ちを切り替えた。
「じゃあ今日は、誰に聞くかを決める日じゃない」
「そうです」
「窓口ごとにどういう人と普段会ってるかを見る」
「はい。ただし、それも詳しい名簿を作る必要はありません」
「分かった」
「ディーン、残りの窓口から通常業務の範囲で返答が来たら、そのまま見せてください。人数を揃えたり、分類したりしなくて結構です」
「承知しました」
「急ぎません」
「はい」
そこで一度、話が区切れた。
しかしアマリリアの頭には、北東荷物預かり所の三人が残っている。
きれいに違う三人。
聞いてみたい。
それは否定しない。
ただ、聞きたいからすぐ呼ぶのではない。
興味と必要性を分ける。
劇場の日に、道で見かけた荷車を追わなかった時と少し似ていた。
気づかない人になる必要はない。
気づいた上で、今追うかを選べばいい。
◇◇◇
昼前、思いがけず別の返答が届いた。
王都南側の公営倉庫からだった。
こちらは「個人運送人の名簿」という形ではなく、普段の荷受けで顔を合わせる者について、倉庫責任者が短い備考を書いてきたらしい。
ディーンが内容を確認し、急ぎではないことを確かめた上で、昼食前に見るかどうか尋ねる。
「あとどのくらい?」
ライルが時計を見る。
「昼食まで四半刻ほどです」
「……見たら伸びそう」
「私もそう思います」
アマリリアは封書を見る。
薄い。
紙一枚かもしれない。
だからこそ危ない。
短いからすぐ終わると思って開け、そこから話が広がることは何度もあった。
「昼食後にしましょう」
「うん」
ライルがすぐに同意した。
ディーンは封書を机の端へ置く。
アマリリアはそこから視線を外した。
「今日は外で食べる?」
ライルが突然言った。
「外?」
「庭」
アマリリアは窓を見る。
朝より気温が上がっている。
風はあるが、日差しは暖かそうだ。
「王宮の庭で?」
「うん。東側の小庭なら人も少ないし」
「お仕事は?」
「昼休み」
「……そうでした」
「忘れてた?」
「忘れておりません!」
「今の間は?」
「考えただけです!」
ゼインが書類をまとめながら口を挟む。
「本日は雨の心配もないそうです」
「ゼインまで勧めますの?」
「お嬢様が昼食中にあちらの封書を見つめ続けるよりはよろしいかと」
「見ません!」
「では問題ございませんね」
「……最近、本当に言い返せなくなることが増えましたわ」
「成長でございます」
「嬉しくありません!」
結局、昼食は東側の小庭で取ることになった。
◇◇◇
王宮の東側にある小庭は、正式な来賓を案内する大庭園ほど整然としていない。
低い生垣と季節の花、小さな噴水、それから何本かの古い木があり、王族や宮廷勤めの者が短い休憩に使う場所だった。秋が深まり始めた今は花の数こそ少ないが、木々の葉が黄や赤へ変わり、石造りの腰掛けには木漏れ日が揺れている。
侍従たちが用意してくれた昼食は、温かい茸のスープと薄切り肉、柔らかなパン、それに小さな焼き菓子だった。
少し離れた場所には護衛がいる。
完全に二人きりではない。
それでも執務室の机を挟んで向かい合うのとは空気が違った。
「外で食べるの、久しぶりだね」
ライルがパンをちぎりながら言う。
「そうですわね」
「市場デート以来?」
「王宮の庭でのお食事をデートに含めるつもりですの?」
「まだ言ってないよ!」
「顔が」
「最近それ君も使うよね」
「便利ですので」
アマリリアはスープを一口飲む。
茸の香りが濃く、少し冷たい風の中では室内で食べるより温かさを強く感じた。
木の葉が一枚、風に押されて二人の間の石床へ落ちる。
「ねえ」
ライルがその葉を目で追いながら言った。
「今度のデート、こういうのでもいい?」
「こういうの?」
「外で食べる」
「王宮の庭で?」
「それだと仕事の昼休みになるから、別の場所」
アマリリアは少し考える。
次のデート。
日程は決めていない。
何をするかも決めていない。
劇場へまた行く約束はある。
文具店にも再訪し、共有帳面は既に手に入れた。
「いいですわね」
自然に答えていた。
ライルの手が止まる。
「本当?」
「はい。暖かい時期なら」
「今でもいけそうじゃない?」
「日によります」
「じゃあ天気のいい日に」
「殿下」
「日程を決めようとしてないよ」
「……本当ですの?」
「候補を言っただけ」
疑わしい。
けれど、ライルの表情は以前のように「今すぐ決めたい」というものではなかった。
楽しそうに、いつかを想像しているだけ。
「では、候補にしましょう」
「やった」
「劇場もありますからね」
「両方行けばいい」
「一日に?」
「違うよ!」
「確認です」
「何回もデートすればいいでしょう」
あまりにも当然のように言われ、アマリリアは一瞬返事を失った。
劇場の日より前なら、その言葉を聞いただけでも少し照れたかもしれない。
今も照れる。
けれど、それ以上に嬉しさの方が穏やかだった。
「……そうですわね」
「うん」
「何度でも行けばよいです」
ライルが笑う。
アマリリアも焼き菓子へ手を伸ばしながら、小さく笑った。
日程は決めない。
でも、次が一度だけだとも思っていない。
その違いは大きかった。
「帳面に書く?」
「今日は持ってきておりません」
「君が持ってるでしょう?」
「持っておりますけれど、執務室の鞄です」
「取りに行く?」
「行きません!」
「冗談」
「殿下、最近本当にそれが多いです!」
「だって反応してくれるから」
「……今度こそ無視します」
「それは困る」
少し離れたところで待機している若い護衛騎士が、視線を庭の外へ向けたまま口元を引き締めていた。
笑うのを堪えている。
アマリリアは気づいたが、今回は何も言わなかった。
代わりに焼き菓子を半分に割る。
「殿下」
「何?」
「こちらを」
「半分?」
「はい」
「君のは?」
「残り半分です」
「二人で一つ?」
「嫌なら全部私がいただきます」
「いる!」
ライルが慌てて受け取る。
劇場の休憩時間、二種類の菓子を半分ずつ食べた時のことを思い出した。
二人なら二つ選べる。
今日は一つを二人で分ける。
それも悪くない。
「おいしい」
「ええ」
「これ、何?」
「蜂蜜と木の実でしょうか」
「今度聞いておこう」
「料理人を呼びませんよね?」
「呼ばないよ!」
「よろしいです」
「俺、そんな信用ない?」
「劇場支配人を呼ぼうとした前科がありますので」
「呼んでない!」
「呼びそうでした」
「君だって市場で調べそうになってたでしょう!」
「調べておりません!」
「じゃあ同じ」
「違います!」
昼休みの小庭に、二人の声が少しだけ響く。
噴水の水音。
風に揺れる葉。
遠くの廊下を歩く人々の気配。
執務室に戻れば、南側公営倉庫からの返答が待っている。
けれど今は、焼き菓子を半分ずつ食べる。
その時間を、アマリリアはもう「仕事をしていない時間」とは感じなくなっていた。
ただ、自分の一日の一部だった。
◇◇◇
午後、執務室へ戻ってから南側公営倉庫の封書を開いた。
中身は予想通り一枚だった。
ただし、その一枚に書かれていた内容は、午前中の三人とは少し違った。
『小規模運送人との通常接点について。固定的に当倉庫へ出入りする者は複数いるが、運送のみを職業とする者、商店の荷運びを兼ねる者、農閑期のみ請け負う者、家族の荷車で近隣配送を行う者などが混在しており、当倉庫では一括して「小規模運送人」と呼んでいない。』
「……あ」
ライルが声を漏らす。
アマリリアも同じ箇所で止まった。
「こちらが呼んでいるだけ」
「『小規模運送人』って」
「はい」
王宮側では便利な言葉だった。
大規模商会系列ではない。
個人や家族単位。
小口の仕事を担う。
そうした人々をまとめて考えるための言葉。
だが、現場では必ずしも同じ括りではない。
「運送だけの人と、商店の仕事の一部で運ぶ人」
「農閑期だけの方」
「家族の荷車で近所へ運ぶ人」
「同じ質問をしても」
アマリリアが続ける。
「仕事が減った、増えた、という意味が違うかもしれません」
「農家の人なら、運送の仕事が減っても農業がある?」
「だから困っていない、とは限りません」
「うん。冬の収入にしてるかもしれない」
「逆に、農作業が忙しい時期に運送依頼が減ったなら、困らないかもしれません」
「商店の人なら?」
「自分の店の荷を運ぶついでに他人の荷を請け負っているのかもしれません」
「専業の人とは違う」
「はい」
また、きれいな分類が崩れた。
午前中に見つかった三人。
共同輸送参加。
個別依頼中心。
農家兼業。
その三つだけでも十分違うと思っていた。
だが「小規模運送人」という言葉自体の中に、さらに違う仕事の形がある。
「この返事、助かるね」
ライルが言う。
「はい」
「人数を出してくるんじゃなくて、『うちはそう呼んでない』って」
「こちらの括り方を、そのまま現場へ持ち込まずに済みました」
続きには、倉庫責任者からの短い補足がある。
『話を聞く必要がある場合、通常の荷受け時間に突然質問すると作業を止めるため、事前に時間を決めるか、荷待ちの長い日に本人の都合を確認した方がよいと思われる。』
「そこも」
ライルが指す。
「聞き方以前に、いつ聞くか」
「ええ」
「呼び出したら仕事できない?」
「王宮へ来ていただくなら、その時間は少なくとも運送できません」
「じゃあ王宮に呼ぶの、負担か」
「場合によります」
王宮へ呼べば、格式もある。
時間も取る。
服装を気にする者もいるだろう。
第一王子と公爵令嬢が正面に座れば、思ったことをそのまま言えるとは限らない。
「俺たちが行く?」
ライルが言った。
アマリリアはすぐには答えない。
現場へ行く。
魅力的な案だ。
しかし第一王子が荷物預かり所や倉庫へ現れれば、それはそれで通常の仕事を乱す。
「それも負担になる可能性があります」
「そっか」
「警備も必要です」
「人が集まるかも」
「はい」
「じゃあどうする?」
「まだ決めません」
アマリリアは書面を机へ置く。
「ただ、聞き取りそのものにも負担があることは忘れないようにしましょう」
「聞けば無料じゃない」
「時間をいただきますから」
「王宮に来てもらうなら移動も」
「ええ」
ゼインがそこで口を開いた。
「謝礼を出すのであれば、その扱いも決める必要がございます」
二人が同時に見る。
「謝礼」
ライルが繰り返す。
「通常の公的な聞き取りとして招く場合、相手の時間を拘束する形になります。交通費や日当相当をどう扱うかは、対象と形式次第でしょう」
「……また増えましたわね」
アマリリアが額へ指を当てる。
「質問を考える前に」
「誰に、どこで、いつ、どれくらい時間をもらうか」
ライルが続ける。
「それから、負担をどう扱うか」
「はい」
「簡単じゃないね」
「だから面白いのです」
思わず言ってから、アマリリアは自分で少し笑った。
「今の、すごく君らしい」
「何です?」
「難しいって言った後に、面白いって言うところ」
「殿下も楽しそうでしょう」
「うん」
「では同じです」
ライルは素直に頷いた。
◇◇◇
午後の残り時間には、聞き取り方法を決めなかった。
代わりに、既に返答のあった窓口が「普段どのような場面で小規模な荷運びをする人々と接しているのか」だけを確認した。
市場管理所は荷の搬入時。
公営倉庫は荷受け・引き渡し。
荷物預かり所は小口荷の預け入れと受け取り。
外縁門は登録運送人の夜間通行や通行証。
それぞれ接点が違う。
「同じ人でも、場所によって見えるところが違いそう」
ライルが言う。
「市場管理所なら荷を持ち込んだ時、公営倉庫なら保管を使った時」
「外縁門なら通過した時」
「でも、その人が一日どんな仕事をしてるか全部は分からない」
「はい」
また同じところへ戻る。
誰も全体を見ていない。
だから一か所の記録で全体を作らない。
「今日のところは」
アマリリアが紙を閉じる。
「ここまでにしましょう」
「質問、一個も作らなかったね」
「そうですわね」
「進んだ?」
「進みました」
「俺もそう思う」
質問を作らなかった。
誰も呼ばなかった。
人数も決めなかった。
それでも、何もしていないわけではない。
最初から「困っている小規模運送人」を探す危険に気づいた。
「小規模運送人」という王宮側の括り自体が、現場の仕事の形を十分に表していないことも分かった。
聞き取りには時間と負担が生じる。
王宮へ呼ぶことも、こちらから行くことも、どちらも完全に中立ではない。
「明日、残りの返事が来るかな」
ライルが尋ねる。
「来ないかもしれません」
「うん」
「急いでおりませんから」
「じゃあ来なかったら別の仕事」
「もちろんです」
「来ても別の仕事あるけど」
「当然です!」
そこでディーンが、午後最後の通常書類を一枚差し出した。
「お話がまとまったところで申し訳ございませんが、こちらだけ本日中に確認を」
「はい」
「何?」
「王宮西棟の窓枠修理です」
ライルが少しだけ拍子抜けした顔になる。
アマリリアは笑ってしまった。
「共同輸送の次が窓枠ですのね」
「王宮は共同輸送だけで動いておりませんので」
ディーンの返答はもっともだった。
「見よう」
ライルも笑う。
「はい」
市場の大きな変化を考えた直後でも、壊れた窓枠は直さなければならない。
それもまた仕事だった。
◇◇◇
西棟の窓枠修理を確認し終えた頃には、夕方の光が執務室の奥まで伸びていた。
今日は共有帳面を開かなかった。
鞄の中には入っている。
インクもライルが持ってきている。
それでも、毎日必ず書くと決めたものではない。
アマリリアは鞄を閉じたまま立ち上がった。
「今日は書かない?」
ライルが気づく。
「はい」
「何か書きたいことなかった?」
「あります」
「あるんだ」
「でも、帰ってから少し考えたいです」
「そっか」
ライルは残念がらなかった。
それが少し嬉しかった。
「殿下は?」
「俺もあるよ」
「何です?」
「帳面に書くまで秘密」
「昨日まで何でもすぐ見せていたでしょう!」
「今日はそうしたい」
アマリリアは言い返しかけ、やめる。
昨日、自分たちは帳面をどちらが持ち帰るかについて「今日はそうしたいだけ」で決めた。
ならば、書きたいことを今言わない日があってもいい。
「分かりました」
「聞かない?」
「帳面に書いたら読みます」
「うん」
「ただし」
「何?」
「変なことを書いたら抗議します」
「変なことって?」
「私が昼食中に焼き菓子を二つ食べた、とか」
「一個を半分ずつだったでしょう!」
「例です!」
「そんな嘘書かないよ!」
帰り支度をしていたディーンが、静かに書類棚を閉める。
ゼインは既に扉の近くで待っていた。
「お嬢様」
「何です?」
「馬車の準備はできております」
「分かりました」
「なお、本日は帳面について何も申し上げません」
「わざわざ言う必要があります!?」
「最近、触れないと逆に不自然かと思いまして」
「完全に遊ばれておりますわね、私!」
「お気づきになりましたか」
「ゼイン!」
ライルが声を上げて笑う。
アマリリアは腹立たしいはずなのに、結局自分も笑ってしまった。
◇◇◇
その夜。
ベスター邸へ戻ったアマリリアは、夕食と入浴を終えたあと、自室の机へ向かっていた。
窓の外には王都の夜景が広がり、遠くの街灯が小さく揺れている。室内には卓上灯の柔らかな光が落ち、昼間の王宮とは違う静けさがあった。
鞄から共有帳面を取り出す。
今日は自分が持ち帰ったままだ。
インクはライル。
「……」
開いてから気づく。
「書けませんわね」
思わず独り言が漏れた。
自分の机には当然、別のインクがある。
それを使えば書ける。
共有帳面に、共有のインクしか使ってはいけないという決まりなどない。
それでも手が止まる。
アマリリアは少し考え、結局ペンを取らなかった。
頁だけをめくる。
劇場。
焼き林檎。
仕事のこと。
二人で待ったこと。
全部分からなくても、一緒に考える相手がいると怖くないというライルの文字。
その下に、自分が書いた言葉。
『ライル様が一緒なら、なおさらです。』
「……これは、やはり少し恥ずかしいですわね」
誰もいないのに、声が小さくなる。
けれど頁を閉じようとは思わなかった。
今日書こうと思っていたことがある。
小規模運送人の話ではない。
正確には、それだけではない。
昼の庭。
半分に割った焼き菓子。
何度でもデートすればいい、とライルが言ったこと。
そして自分も、何度でも行けばよいと答えたこと。
それを書きたい。
仕事の合間にあった時間ではなく、今日の大切な出来事として。
「明日でよいですわね」
帳面を閉じる。
書きたいと思った時に、すぐ書けない。
それも悪くなかった。
明日、ライルからインクを受け取って書けばいい。
あるいは、彼が先に何かを書くかもしれない。
今日秘密にした言葉もあるらしい。
それを読む楽しみも残っている。
アマリリアは帳面を机の端へ置いた。
仕事では、最初から困っている人だけを探さないことにした。
暮らしでは、今日中に書きたいことを全部書かないことにした。
似ているようで、別の話だ。
無理に一つの教訓へまとめる必要もない。
ただ、どちらにも明日がある。
窓の外で、遠くの鐘が夜の時刻を告げた。
アマリリアは立ち上がり、灯りを少し落とす。
明日、王宮へ行けばライルがいる。
残りの窓口から返事が届いているかもしれないし、届いていないかもしれない。
急ぎの別案件が入る可能性もある。
第二共同倉庫の報告が来るかもしれない。
何も大きく動かない一日になるかもしれない。
そして、どんな一日になったとしても、昼の庭で話した次のデートは消えない。
劇場でもいい。
外で食べてもいい。
別の場所でもいい。
一度でなくていい。
そのことを思うと、アマリリアの口元が自然に緩んだ。
「……何度でも、ですか」
小さく呟き、今度こそ帳面を引き出しへしまう。
まだ書かれていない今日のことは、忘れたのではない。
明日、二人で続きを書けるように残してあるだけだった。




