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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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90/111

第90話 資料を最後まで読んでも、そこに書かれていない人のことまでは分かりませんでした

 翌朝の王宮は、昨日までの雨を忘れたような青空に包まれていた。


 高い窓から差し込む秋の日差しは明るく、執務室の長机には窓枠の影がくっきりと落ちている。朝一番の空気にはまだ冷たさが残っていたものの、暖炉へ火を入れるほどではなく、廊下を行き交う文官たちも外套を脱いで普段通りの仕事へ戻っていた。


「おはようございます」


 アマリリアが執務室へ入ると、ライルは既に席についていた。


「おはよう、アマリリア」


 挨拶を交わした直後、ライルの視線が彼女の鞄へ向く。


 ほとんど同時に、アマリリアも彼の机を見る。


 そこには布に包まれた小さなインク瓶が置かれていた。


「無事でしたのね」


「何が?」


「インクです」


「ああ」


 ライルは少し得意そうに布包みを持ち上げる。


「一滴もこぼしてない」


「当然です」


「昨日あんなに脅したのに?」


「脅しておりません。大事にしてくださいと申し上げただけです」


「ハロルドに怒られるって」


「それは事実です」


「やっぱり脅してる気がする」


 アマリリアは鞄から生成り色の帳面を取り出し、彼へ見せた。


「こちらも無事です」


「開いた?」


「開いておりません」


「俺もインク使ってない」


「一人で何に使うつもりですの?」


「それもそうだね」


 ライルが笑う。


 二人の間に、ほんの短い沈黙が落ちた。


 昨日は帳面とインクを一つずつ持ち帰った。


 どちらも一人で使おうと思えば使える。それでも二人とも、そうしなかった。


「では、これは後で」


 アマリリアは帳面を鞄へ戻す。


「うん」


 ライルもインク瓶を机の端から書類入れへ移した。


 それを見届けたところで、ディーンが朝の書類を抱えて入ってくる。


「おはようございます。本日は最初に四件ございます」


「四件」


 アマリリアが反応する。


「三件ではありません」


「分かっております!」


「まだ何も申し上げておりませんが」


「最近そればかりではありません!?」


 ライルが笑い出し、ディーンも穏やかに口元を緩めた。


「では、一件目からよろしいでしょうか」


「お願いします」


 昨日までの続きはある。


 フォード商会の資料も残っている。


 第二共同倉庫の現場判断も待っている。


 通知試行についても、まだ制度化するかどうかは決まっていない。


 それでも朝は、目の前にある四件から始まった。


          ◇◇◇


 四件のうち三件は、午前中の早い時間に処理できた。


 地方役所の暖房用薪の追加購入。


 王都南側の排水溝補修。


 冬季に向けた公営厩舎の飼料備蓄量確認。


 どれも多少の確認は必要だったが、過去記録を何年も掘り返したり、現場へ追加照会を出したりするほどではなかった。


 最後の一件だけは、少し時間がかかった。


 王都北東部にある小規模な荷物預かり所から、冬季の臨時人員を二名増やしたいという申請だった。


「前年は一名」


 ライルが資料を見比べる。


「今年は二名?」


「はい」


 ディーンが答える。


「理由は、共同輸送便の増加に伴い、夕刻の荷受けが特定日に集中する傾向が出ているためとのことです」


 共同輸送。


 その言葉だけで、アマリリアの意識がフォード商会の資料へ引かれる。


 しかし、これは別の施設だ。


「フォード商会の便ですか?」


 聞いてから、アマリリアは少しだけ眉を寄せた。


 必要な質問か。


「複数商会です」


 ディーンが答える。


「フォード商会系統も含まれますが、それだけではありません」


「では、そこを分ける必要はありませんわね」


「うん」


 ライルも頷く。


「今見たいのは、人を二人増やす必要があるか」


「はい」


 荷受け件数の月平均は前年より増えている。


 ただし毎日均等に増えたわけではなく、共同便が重なる曜日の夕方だけ負担が大きい。


「二人を毎日?」


「申請では、冬季三か月のうち週三日です」


「それなら」


 アマリリアは勤務表を見る。


「増員というより、集中する日に合わせた配置ですわね」


「一人増やす案は試した?」


 ライルが尋ねる。


「先月、二週間だけ臨時で一名追加しております」


「結果は?」


「荷受け終了は平均で少し早まったものの、二便以上がほぼ同時到着した日は窓口待ちが残った、と」


「だから二人」


「そのようです」


 アマリリアは申請をもう一度読む。


 ここで気になったのは、待ち時間の正確な数字だった。


 どの程度待ったのか。


 荷主か、運送人か。


 何人だったのか。


 しかし、今回の目的は厳密な待ち時間分析ではない。


「二名を三か月固定で承認するのではなく、まず一か月?」


 ライルが提案する。


 アマリリアは少し考えた。


「理由は?」


「冬の最初と後半で荷量が同じか分からないから」


「なるほど」


「でも一か月ごとに申請し直させたら面倒?」


「そこですわね」


 二人で資料を見る。


 人員が必要なのは現場。


 王宮が慎重になるためだけに、毎月申請書を作らせるのは負担になる。


「三か月の上限二名を認めて、実際の配置は荷量に応じて預かり所側へ任せる?」


 ライルが言う。


「それがよいと思います」


「毎日二人使え、じゃなくて」


「はい。予算上限と対象期間だけ決めましょう」


 ディーンが処理案を書き留める。


「実績報告は通常の月次人員記録で足りますか」


「足ります」


 アマリリアが即答する。


「追加報告はいりません」


 ライルが横を見る。


「何です?」


「いや、自然だったなって」


「殿下もでしょう」


「うん」


「では、お互い様です」


 四件目も片づいた。


 時計を見る。


 昼食までにはまだ時間がある。


「どうする?」


 ライルが尋ねた。


 聞かなくても、候補は分かっている。


 アマリリアは机の端に置かれた厚い資料束を見る。


 フォード商会。


 共同輸送について、これまで何度も途中で閉じてきた資料だ。


「読みましょうか」


「うん」


「ただし」


「全部終わらせるって決めない?」


「先に言わないでくださいませ」


「合ってた?」


「合っております!」


 ディーンが資料を中央へ移す。


 残りは、最初に受け取った時よりずっと薄くなっていた。


 けれど、薄くなったからといって、答えに近づいたとは限らない。


 むしろ読むほど、分からないものの形がはっきりしてきている。


          ◇◇◇


 最初に、昨日フォード商会から届いた返答をもう一度確認した。


 積み替え時の作業停止記録。


 停止件数の多寡だけで倉庫や作業員を評価しない。


 主目的は、同じ停止理由が繰り返されていないかを見つけ、表示や荷札、積載手順などの改善候補を探すこと。


 一方で、提携倉庫が独自に停止記録を査定へ使っているかまでは本部で把握していない。


「ここから先だね」


 ライルが頁をめくる。


 次のまとまりには、共同輸送を利用した荷物の「受け取り時確認」に関する記録があった。


 表題は長い。


『共同輸送利用荷における到着時確認・受取保留・後日申告の記録範囲』


「また、記録範囲」


 ライルが言う。


「重要なのでしょうね」


 冒頭の注意書きを読む。


 フォード商会または提携倉庫で到着時に確認された破損・数量違い・荷札違いについては、一定の記録がある。


 しかし、荷物を受け取った後に荷主や受取人が気づいた問題については、商会へ申告されたものしか残らない。


 さらに、少額で補償を求めなかったもの、自分で直した梱包、品質への軽微な不満などは記録されない可能性がある。


「昨日までの話とつながる」


 ライルが呟く。


「はい」


 アマリリアは注意書きを指で追う。


「商会が見つけたものと、商会へ伝えられたものしか基本的には残らない」


「受け取った人が何も言わなかったら?」


「資料には現れない可能性があります」


「問題がなかったとは限らない」


「ええ」


 その下に件数が並ぶ。


 到着時の破損確認。


 数量不足。


 荷札相違。


 受取保留。


 後日申告。


 補償処理。


 ただし、ここでも単純比較はできない。


 地域によって受け取り方法が違う。


 都市部では倉庫で受取人がその場で荷を確認する例が多い。


 一方、小さな町や村では代理人や荷運び人が一度受け取り、最終受取人へ届けることもある。


「その場で開けない荷物もある?」


「当然あるでしょうね」


 アマリリアは品目欄を見る。


 穀物袋。


 木材。


 陶器。


 染料。


 乾燥食品。


 工具。


 薬材。


 品物によって確認しやすさが違う。


「箱を開けないと分からないものもある」


「はい」


「でも、途中で勝手に開けられない?」


「それもあります」


 資料には、封印付きの荷や荷主指定で開封不可の荷は、外装確認のみと記載されていた。


「じゃあ到着時に『破損なし』でも」


「中身まで無事とは限りません」


「難しいな」


「難しいですわね」


 以前なら、アマリリアはその言葉を口にすることに少し抵抗があったかもしれない。


 今は違う。


 難しいものは難しい。


 分からないものは分からない。


 その上で、どこまでなら分かるのかを探せばよい。


 次の表を見る。


「後日申告が多いのは……陶器?」


「件数だけなら」


 ライルが答える。


「でも取扱量は?」


「別表です」


 品目別取扱量で割ると、見え方は少し変わった。


 陶器は確かに後日申告率が比較的高い。


 しかし、加工食品の一部も同程度。


 染料は件数が少ないが、一件あたりの補償額が大きい。


「高い、安い、多い、少ない」


 ライルが表を見ながら言う。


「どれを見るかで変わるね」


「そうですわね」


「補償額だけなら染料が目立つ」


「件数なら陶器」


「割合ならまた違う」


「そして、申告されていないものは入らない」


「……数字、嫌いになりそう」


 アマリリアが思わず笑う。


「昨日、何のために見るか忘れたくないと書いたばかりでしょう」


「だから余計に怖いんだよ」


 ライルは苦笑した。


「見たい答えに合う数字を選べそう」


 その言葉に、アマリリアの笑みが少し薄くなる。


「できますわね」


「やっぱり?」


「例えば『共同輸送で破損が増えた』と言いたい方なら、再梱包件数や陶器の後日申告を強調できるでしょう」


「逆に良くなったって言いたいなら?」


「補償対象となった破損が同じ割合で増えていないことや、予定到着時刻の安定を示せます」


「どっちも嘘じゃない?」


「資料上の数字だけなら、必ずしも」


 だから厄介だ。


 嘘ではない数字を使って、全体より狭い話を大きく見せることができる。


「王宮の報告も同じだね」


 ライルが言う。


「そうでしょうね」


「俺たちが見たいものだけ選ばないようにしないと」


「はい」


「……これ、帳面に書きたい」


「仕事です!」


「思ったことだからいいって昨日言ったでしょう!」


「便利に使わないでくださいませ!」


 室内に小さな笑いが戻る。


 けれど、ライルはすぐ資料へ目を戻した。


「次は?」


 頁をめくる。


 今度は表ではなく、短い事例が並んでいた。


 後日申告のうち、補償に至らなかったもの。


 一つ目。


 小さな町の陶器商。


 共同輸送で届いた皿のうち数枚に細かな欠けがあった。


 外箱に目立つ損傷はなく、受取時には確認できなかった。


 商人は「次回から梱包を厚くする」として補償請求をしなかった。


「商会の破損件数には?」


「後日申告としては残っています。でも補償件数には入らない」


「じゃあ補償だけ見たら消える」


「はい」


 二つ目。


 地方の染色工房。


 染料袋の外側に湿りがあったが、中身への影響は軽微。


 工房側が乾燥させて使用し、金銭補償は求めなかった。


 ただし次回便では濡れ防止の内包を希望。


「これも」


「補償なしです」


 三つ目。


 農具の替え部品。


 到着が予定より半日遅れたが、使用予定は翌日だったため実害なし。


 申告は問い合わせのみ。


「遅れたけど困らなかった」


「はい」


 四つ目。


 薬材。


 到着は予定範囲内。


 しかし荷受け場所から最終利用者までの引き渡しが遅れ、使用予定に間に合わなかった。


「これは共同輸送の遅れ?」


 ライルが尋ねる。


「資料だけでは違いそうです」


 共同輸送便そのものは予定通り。


 問題が起きたのは到着後。


 受取代理人から最終利用者へ連絡が遅れた。


「でも、使う人からしたら届かなかったのと同じ?」


「必要な時に手元になかった、という意味では」


「商会は予定通り運んでる」


「はい」


「誰が悪い?」


 ライルが口にして、すぐに表情を変える。


「……違うか」


「何がです?」


「最初に誰が悪いかを決めるんじゃなくて、どこで止まったか」


 アマリリアは静かに頷いた。


「そうです」


「この場合、商会の便は止まってない」


「ええ」


「荷受け後の連絡で止まった」


「資料上はそう読めます」


 ライルは少し考える。


「でも、この一件だけで仕組みを変えない」


「もちろんです」


「うん」


 また一つ。


 次は少し違った。


『小口修理部品。共同便の次回出発まで二日。荷主、通常便利用を見送り。個人運送人へ依頼を試みるも手配できず。自家用荷車による受け取りを検討後、依頼自体を取り下げ。後日、別商人から同等品を購入。』


 アマリリアの指が止まった。


「……これ」


「七件の取り下げ?」


 ライルも気づいた。


 以前読んだ資料。


 急ぎ・小口荷物の記録。


 共同便を待てない者が、別の小運送人、自家用荷車、臨時便、追加料金便、翌日待ちなどを選ぶ。


 その中に、依頼取り下げが七件あった。


 理由は分からなかった。


「同じ記録ですの?」


「番号が」


 ディーンが資料を照合する。


「一致しております。七件のうち一件です」


 ようやく、一つだけ中身が見えた。


 だが、アマリリアはすぐに何かを決めなかった。


「共同輸送が不便だったから取り下げた?」


 ライルが慎重に言う。


「一部はそう読めます」


「でも最終的には別商人から買えた」


「はい」


「困った?」


「分かりません」


 修理部品が必要だった。


 二日待てなかった可能性がある。


 個人運送人は手配できなかった。


 自分で取りに行くことも検討した。


 最終的には別の商人から同等品を買った。


 それが大きな負担だったのか。


 少し値段が高かっただけなのか。


 むしろ近くで買えて問題なかったのか。


 資料にはない。


「でも」


 アマリリアは静かに言う。


「七件全部を『共同輸送が使えなくて困った人』とは扱えない、ということは変わりません」


「うん」


「この一件も、困った程度は分からない」


「でも、共同便を待たない選択をした理由は少し見えた」


「はい」


「修理部品」


「小口です」


「二日待ち」


「個人運送人は手配できなかった」


「……前に見た話がつながってきた」


 小規模な個人運送人は減っている。


 共同輸送へ参加した者もいる。


 共同輸送は積載効率を上げ、単価を下げ、予定時刻を安定させた。


 その一方で、以前なら「ちょうどそちらへ行くから一箱だけ積む」という柔軟な仕事が減った可能性がある。


 それを、これまでは別々の数字として見ていた。


「でも、まだ一件」


 ライルが自分から言う。


「はい」


「つながったように見えるけど、これだけで全体は決めない」


「その通りです」


 今度こそ、アマリリアは微笑んだ。


「……何?」


「褒めようかと思いました」


「やっぱり!」


「でもやめました」


「何で!?」


「気づかれましたので」


「褒めてよ!」


「今ので十分でしょう!」


「全然!」


 ディーンが資料へ視線を落としながら、わずかに笑う。


「殿下、続きがございます」


「ディーンまで流す!」


「職務中ですので」


「正しいけど!」


 次の事例へ進む。


 残る六件の取り下げすべてに詳細があるわけではなかった。


 二件は短い備考のみ。


 一件は「荷主都合」。


 一件は「代替品確保」。


 もう一件は「発送自体延期」。


 残り二件は、やはり理由不明。


「全部分かるわけじゃなかった」


 ライルが少し残念そうに言う。


「資料ですもの」


「最後まで読めば七件全部分かる気がしてた」


「私も少し期待しておりました」


「君も?」


「はい」


 アマリリアは素直に認めた。


「でも、二件は最後まで不明です」


「問い合わせれば?」


 ライルが言う。


 そして、二人とも黙る。


「……必要?」


 今度はライルが自分で問い直した。


 アマリリアは少し時間を置いた。


「現時点では、そこまでではないと思います」


「どうして?」


「七件の理由を完全に埋めること自体が目的ではありません」


「共同輸送で何が変わったかを見る」


「はい」


「じゃあ、分からない二件を無理に追うより」


「別の立場から見た方がよいかもしれません」


 アマリリアは残りの資料を見る。


「少なくとも、フォード商会の記録だけでは限界が見えてきました」


 ライルが少し姿勢を正す。


「商会に来た依頼しか分からない?」


「それもあります」


「そもそも頼まなかった人」


「はい」


「共同便が合わないと思って最初から別の方法にした人」


「記録に出ない可能性があります」


「個人運送人に直接頼んだ人」


「フォード商会の記録には出ないでしょう」


「別商会」


「同じです」


「……いっぱい外にいる」


 アマリリアは頷いた。


 資料は詳しい。


 かなり丁寧に作られている。


 だからこそ、そこに書かれているものを市場全体だと思い込みそうになる。


「フォード商会の資料は、フォード商会から見える範囲です」


「ミハイルが悪いわけじゃなく?」


「もちろんです」


「見えないものまで書けない」


「はい」


 誰も全体を見ていない。


 市場の話を始めた頃から、何度も出てきたことだった。


 商人には商人の見えるものがある。


 農民には農民の。


 運送人には運送人の。


 役所には役所の。


 そして王宮にも、王宮から見えるものしかない。


「じゃあ次」


 ライルが言いかける。


 アマリリアは止めなかった。


「誰を見る?」


 問いの形が変わったからだ。


 何を調べる、ではない。


 誰から見れば、今見えていないところが少し見えるのか。


「候補はあります」


「小さい運送人?」


「はい」


「共同輸送に入った人と、入らなかった人?」


「それも」


「倉庫」


「必要かもしれません」


「荷物を出す商人」


「はい」


「受け取る人」


「そこもです」


 ライルが指を折りそうになり、途中で止める。


「……多い」


「でしょう?」


「全部聞く?」


「聞きません」


「だよね」


 アマリリアは紙を一枚取り出した。


 だが、すぐに質問項目を書き始めない。


「まず、今までの資料で何が分かっていて、何が分からないかを整理しましょう」


「三つに?」


「殿下」


「冗談です!」


「最近、その冗談がお好きですわね!」


「君が毎回反応するから」


「今度から無視します」


「それは寂しい」


「知りません!」


 それでも紙は中央へ置いた。


 見出しは二つだけ。


『資料から確認できたこと』


『資料だけでは確認できないこと』


「二つ」


 ライルが言う。


「増やしません」


「分かった」


 最初の欄。


 共同輸送主要路線では、平均的な一単位あたり運賃が下がっている。


 積載量は増えている。


 空荷帰還の割合は下がっている。


 主要路線全体では予定到着時刻の安定が見られる。


 ただし、小規模集荷を複数挟む一部路線では、小さな遅れが増えている。


 小規模な個人・家族運送人の直接仕事は減少。


 その一部は共同輸送へ参加。


 小口・急ぎ荷物では、次の共同便を待つ例と、別手段を探す例の双方がある。


 積み替え回数の多い荷は再梱包記録が多いが、品目・距離・梱包・確認手順の違いが混ざる。


 提携倉庫の一部では積み替え確認を増やしている。


 作業停止記録は、少なくともフォード商会本部では倉庫や作業員の単純な順位評価に使っていない。


 七件の取り下げのうち、一部は理由が少し分かった。


「長い」


 ライルが紙を見る。


「ここまで読んできましたもの」


「うん」


「でも、次です」


 資料だけでは確認できないこと。


 アマリリアはペンを止める。


「何から?」


 ライルが聞く。


「共同輸送を使わなかった人」


「うん」


「最初からフォード商会へ依頼しなかった人」


「うん」


「個人運送人が仕事の変化をどう受け止めているか」


「参加した人の資料は少しあったよね」


「安定した収入、荷主探しの負担減少、一方で順番の自由が減ったという記録はあります」


「でも全員じゃない」


「はい」


「参加しなかった人はもっと少ない?」


「ほとんど見えておりません」


 次。


 受取人。


 到着時や後日申告の記録はある。


 しかし、申告しなかった小さな不満は分からない。


 逆に、共同輸送になって便利になったが何も申告する必要がなかった人も、個別には見えない。


「良かった人も記録に出ない?」


 ライルが気づく。


「そうですわね」


「問題がなかった人だけじゃなくて、前より便利になった人も」


「わざわざ『便利でした』と商会へ報告するとは限りません」


「じゃあ見えないの、悪いことだけじゃない」


「はい」


 そこは大切だった。


 記録にないものを、すべて隠れた問題だと思わない。


 見えていない利益もある。


 見えていない不便もある。


「……ますます分からない」


 ライルが椅子へ深く座る。


「だから別の人へ聞くのです」


「全員じゃなくて?」


「もちろん」


「何人くらい?」


「それを今決める前に」


 アマリリアは紙へ最後の一行を書く。


『何を判断するために、誰の見え方が必要なのか』


 ライルが読む。


「また目的」


「はい」


「数字も、質問も?」


「何のために集めるのか分からないまま増やせば、いくらでも増えます」


「じゃあ、俺たちは何を判断したい?」


 そこが一番難しい。


 共同輸送を王宮が禁止するわけではない。


 フォード商会を評価するためでもない。


 市場全体を王宮が設計し直すわけでもない。


「共同輸送が広がったことで」


 アマリリアはゆっくり言葉を選ぶ。


「王宮が放置すべきではないほど、誰かが制度上利用できない状態になっているのか」


 ライルが聞く。


「例えば?」


「急ぎの薬材や修理部品など、代替手段が減りすぎているなら、公的な仕組みとの接続を考える必要が出るかもしれません」


「でも、商人のちょっとした不便まで王宮が直すわけじゃない」


「はい」


「個人運送人の仕事が減ったからって、共同輸送を止めるわけでもない」


「ええ」


「でも、安くなった代わりに必要な時に何も運べない地域が出てるなら?」


「それは見る価値があります」


 ライルは紙を見る。


「じゃあ、知りたいのは『共同輸送が良いか悪いか』じゃない」


「私はそう思います」


「便利になった部分はもうある」


「はい」


「その便利さの外に、どんな人がいるか」


「そして、それが王宮の見るべき問題なのか」


「……難しい」


「難しいですわね」


 二人とも少し笑った。


 答えはまだない。


 でも、最初より問いはずっと具体的になった。


          ◇◇◇


 気づけば、昼食の時間を少し過ぎていた。


 ディーンが何度か時計を見ていたらしい。


「殿下、アマリリア様」


「はい?」


「そろそろ」


 アマリリアが時計を見る。


「あ」


「過ぎてる」


 ライルも気づく。


「どちらが先に気づくか、少し待っておりました」


「ディーン!」


「今日は言ってくださいませ!」


「お二人とも大変集中しておられましたので」


「だからこそです!」


 アマリリアは立ち上がる。


「昼食です」


「うん」


「資料は閉じます」


「うん」


「残りは?」


「午後?」


 アマリリアは資料束を見る。


 残りはもう数頁。


 以前なら「あと少しだから」と続けたくなっただろう。


「食べてから決めましょう」


「うん」


 資料を閉じる。


 昼食は隣室で取った。


 温かな野菜のスープ。


 薄く切った肉を挟んだパン。


 季節の果実。


 仕事の話を完全に禁止したわけではない。


 ただ、食べながら資料を広げない。


 それだけでも十分に区切りになる。


「今日、帳面書く?」


 パンを食べ終えたライルが尋ねる。


「まだ分かりません」


「何書くかは浮かんでる?」


「少し」


「俺も」


「聞きません」


「何で?」


「後で書くなら、その時に見ます」


「じゃあ秘密?」


「半刻も経たず分かるかもしれない秘密です」


「それでもちょっと楽しい」


「……そうですわね」


 食事を終え、二人は執務室へ戻った。


          ◇◇◇


 午後は、フォード資料の最後の数頁を読むことにした。


 ただし「今日で終わらせるため」ではない。


 残っている内容が今の整理とつながっていたからだ。


 最後の部分は、共同輸送利用者から商会へ寄せられた自由記述の抜粋だった。


 全利用者への調査ではない。


 問い合わせ、苦情、礼、継続契約時の会話などから、記録に残ったものだけ。


 冒頭にそれが明記されている。


「最初から偏ってるって書いてある」


 ライルが言う。


「はい。意見調査ではありません」


 最初の記述。


『以前より運賃が読めるので仕入れ計算がしやすい。』


 地方の小商人。


 次。


『便日が決まっているため急な追加注文には使いづらいが、通常仕入れには安い。』


 別の商人。


『自分で運送人を探す回数が減った。』


『荷が少ない時は便日まで待つことが増えた。』


『到着日が以前より読めるので店を空けずに済む。』


『以前頼んでいた運送人が共同便へ入ったため、急ぎだけ頼みにくくなった。』


『まとめて出すようになり、梱包の仕方を変えた。』


『中継が増えたので不安だったが、今のところ大きな破損はない。』


『一度箱が潰れたが、中身は無事だった。』


『薬材だけは別便を使うことにした。』


 一つずつ。


 短い。


 それぞれ別の人の見え方だ。


「同じ人でも」


 ライルが言う。


「便利なところと不便なところが一緒にある」


「ええ」


「通常仕入れは共同便、薬材は別便とか」


「一つの方法ですべてを運ぶ必要はありませんもの」


「共同輸送があるから個人運送が全部いらなくなる、でもない?」


「そうでしょうね」


 アマリリアは最後の方にある一文で止まった。


『共同便を使うようになってから、以前の運送人へ頼む回数は減った。ただ、雪の朝に急ぎの部品を持ってきてくれたのは、その人だった。安い便と、顔を知っている運送人は、同じものではない。』


 しばらく誰も口を開かなかった。


「これ」


 ライルがゆっくり言う。


「誰?」


「王都北方の鍛冶工房主、とだけ」


「共同便も使ってるんだ」


「はい」


「でも個人運送人も」


「必要な時には」


 アマリリアはその一文をもう一度読む。


 安い便。


 顔を知っている運送人。


 どちらか一方が正しく、もう一方が古いわけではない。


「共同輸送が広がったら、小さい運送人は全部なくなる?」


 ライルが尋ねる。


「分かりません」


「残る仕事が変わる?」


「その可能性はあります」


「急ぎとか、小口とか、決まった人との関係とか」


「はい。ただし、この一件だけで決めない」


「分かってる」


 ライルは少し笑った。


「先に言われると思った」


「では言いません」


「それはそれで寂しい」


「面倒ですわね!」


 最後の頁。


 そこには集計者の短い注記があった。


『上記は利用者意見の代表抽出ではない。問い合わせ等で記録された発言のみであり、共同輸送利用者全体の評価を示すものではない。また、共同輸送を利用していない者の意見は原則として含まれない。』


「最後まで書いてある」


 ライルが言う。


「ええ」


「利用してない人は入ってない」


「はい」


 アマリリアは静かに資料を閉じた。


 今度は「途中でやめた」のではない。


 渡された資料の最後まで読んだ。


 それでも、答えは完成しなかった。


「終わった」


 ライルが資料束を見る。


「資料は」


 アマリリアが訂正する。


「うん。資料は」


「調査は終わっておりません」


「でも」


 ライルが少し考える。


「次に何を見るかは、前より分かった?」


「はい」


 フォード商会へ、すぐ二度目の面会を申し込む必要はない。


 むしろ今必要なのは、商会資料の外側だ。


「小規模運送人」


 ライルが言う。


「候補です」


「共同輸送を使ってる商人」


「候補です」


「使ってない商人」


「それも」


「受取人」


「必要かもしれません」


「また多い」


「ですから、全部一度には聞きません」


「最初は?」


 アマリリアは午前中に作った整理紙を見る。


 誰の見え方が必要なのか。


「まず、個人または家族単位の小規模運送人について、既に王宮側で接点を持っている方がいるか確認しましょう」


「いきなり呼ばない?」


「はい」


「市場管理所とか?」


「それもあります。公営倉庫、荷物預かり所、商人組合側にも接点があるかもしれません」


「フォードに紹介してもらわない?」


「最初からフォード商会経由だけにすると、同商会と関係の深い方へ偏る可能性があります」


「そっか」


「だから複数の窓口から、誰がいるかだけ確認しましょう」


「何人?」


「まだ決めません」


「三人?」


「殿下!」


「冗談!」


「分かっております!」


 それでも、アマリリアは笑っていた。


「ディーン」


「はい」


「今日、照会文を全部作る必要はありません」


「承知しました」


「まず、王宮側で既に通常業務上接点のある窓口を整理してください」


「対象は小規模運送人との接点、でよろしいですか」


「はい。ただし共同輸送へ参加している者だけ、あるいは参加していない者だけに絞らないでください」


「承知しました」


「期限は?」


 ライルが尋ねる。


 アマリリアは彼を見る。


 ライルも見る。


 二人とも少し笑う。


「急ぎません」


 今度は同時だった。


          ◇◇◇


 夕方までに、フォード資料は元の保管箱へ戻された。


 机の上から厚い束がなくなる。


 何日もそこにあったものが消えると、少しだけ空間が広く感じられた。


「なくなると寂しい?」


 ライルが尋ねる。


「資料にですか?」


「うん」


「全く」


「即答」


「また必要なら見られますもの」


「そうだね」


「それに」


 アマリリアは鞄を見る。


「今日は別に開きたいものがあります」


 ライルの顔が明るくなる。


「帳面?」


「はい」


「やった」


「殿下、昨日より分かりやすいです」


「もう隠さないことにした」


「開き直りましたわね」


 本日中に必要な執務は終わっている。


 帰宅予定まで少し余裕がある。


 二人は窓際の小卓へ移った。


 アマリリアが帳面。


 ライルがインク。


 昨日とは逆に持ち帰った二つが、また同じ机の上へ戻ってくる。


「無事に再会しましたわね」


 アマリリアが冗談めかして言う。


「帳面とインク?」


「はい」


「俺たちも」


「朝から会っております」


「そうだけど」


「毎日言うつもりですの?」


「嫌?」


 アマリリアは一瞬答えに迷う。


「……嫌ではありません」


 ライルが笑う。


「書いていい?」


「今のは駄目です!」


「何で!」


「何でもです!」


 帳面を開く。


 まだ最初の数頁しか使っていない。


 劇場。


 焼き林檎。


 止まること。


 数を見る目的。


 空箱の結果を二人で待っていること。


 仕事と暮らしの境界は、最初に思っていたより曖昧だった。


 それでも、正式な執務記録とは全く違う。


 結論を書く必要がない。


 誰かへ提出する必要もない。


 正確な件数を残す必要もない。


「今日、何書く?」


 ライルが聞く。


 アマリリアは少し考えた。


「資料を最後まで読みました」


「仕事」


「でも」


 ペンを取る。


『今日は、長く読んでいた資料を最後まで読み終えました。』


 ライルが覗く。


「やっぱり仕事」


「最後までお聞きなさい」


 その下へ続ける。


『全部読んでも、全部は分かりませんでした。』


 ライルの表情が少し変わった。


「それ、いいね」


「でしょう?」


「俺も書く」


 ペンを渡す。


 ライルは少し考えた後、その下へ文字を置いた。


『分からないことが残ったので、次に誰の話を聞けばいいかを二人で考えました。』


「仕事ですわね」


「君もでしょう!」


「私は感想です」


「俺も感想!」


「では、同じです」


「急に認めた」


 アマリリアは笑う。


 ライルがもう一行書こうとする。


「まだ?」


「うん」


 今度は少し時間がかかった。


『全部分からなくても、一緒に考える相手がいると前より怖くない気がします。』


 アマリリアは、その文字を読んだまま動かなかった。


「……殿下」


「何?」


「それは」


「仕事じゃないよ」


「そういう意味ではありません」


 何と返すか迷う。


 嬉しい。


 そう言えば簡単だ。


 でも、その一言だけでは少し足りない気がした。


「私もです」


 結局、そう答えた。


 ライルがこちらを見る。


「本当?」


「はい」


「書く?」


「……書きます」


 ペンを受け取る。


『私も、一人で全部分からなくてもよいと思えるようになりました。』


 そこまで書いて、少し迷う。


 もう一言。


『ライル様が一緒なら、なおさらです。』


 書いた直後、急に恥ずかしくなった。


 アマリリアは帳面を閉じようとする。


「待って!」


「もう終わりです!」


「今、何書いた!?」


「見たでしょう!」


「見たけどもう一回!」


「嫌です!」


「閉じないで!」


 ライルが帳面の端を押さえる。


「殿下!」


「消さない?」


「消しません!」


「じゃあいい」


「何がです!?」


「残るから」


 その言葉で、アマリリアの力が少し抜けた。


 帳面の上に置いた手を離す。


「……ずるいですわね」


「何が?」


「そういう言い方です」


「本当に嬉しいだけだよ」


「分かっております」


 ライルはもう一度、最後の一行を見る。


 今度は読み上げなかった。


 ただ、嬉しそうに眺めている。


「殿下」


「うん?」


「そろそろ閉じます」


「分かった」


「今日はどちらが持ち帰ります?」


「どうしよう」


「交互なら私ですけれど」


「交互って決めてないよね」


「決めておりません」


「じゃあ」


 ライルは少し考える。


「今日は君」


「よろしいのですか?」


「うん」


「インクは?」


「俺」


「昨日と同じではありませんか」


「そうだね」


「何か理由が?」


「ない」


「ないのですか」


「今日はそうしたいだけ」


 アマリリアは少し笑った。


「では、そうしましょう」


 規則にする必要はない。


 交互でなくてもいい。


 毎日書かなくてもいい。


 持つ人を決める理由がなくてもいい。


 二人のものなのだから、その日ごとに決めればよかった。


          ◇◇◇


 帰りの廊下を歩きながら、アマリリアは今日一日のことを思い返していた。


 フォード商会の資料を最後まで読んだ。


 それは一つの区切りだった。


 けれど、共同輸送についての調査が終わったわけではない。


 むしろ、資料の外にいる人を見る段階へ移った。


「アマリリア」


「はい?」


「今日で九十話……じゃなくて」


「何のお話です?」


「……何でもない」


「殿下?」


「本当に何でもない」


 ライルは不思議なことを言ったあと、少し咳払いをした。


「資料、全部読み終わってどう?」


「すっきりしたような、していないような」


「俺も」


「でも、最初よりは見えるものが増えました」


「うん」


「見えないものも増えましたけれど」


「それも悪くない?」


 アマリリアは少し考える。


「以前よりは、そう思えます」


「前は?」


「分からないところがあると、埋めたくなりました」


「全部?」


「できるだけ」


「今は?」


「必要なところから」


「変わったね」


 今度はライルが言う番だった。


 アマリリアは少しだけ照れながらも、否定しなかった。


「殿下もです」


「俺も?」


「はい」


「どこが?」


「今日は、ご自分から『この一件だけで全体を決めない』と仰ったでしょう」


「褒めてる?」


「褒めております」


「やった」


「子供ですの?」


「君に褒められるの好き」


「……そうですか」


「うん」


 あまりに真っ直ぐ言われると困る。


 アマリリアは前を向く。


 廊下の先では、夕方の勤務交代に向かう騎士たちが歩いていた。壁際の窓から差す橙色の光が石床へ長く伸び、その上を人の影がゆっくり横切っていく。


「殿下」


「何?」


「明日から、少し違う人の話を聞くことになりそうですわね」


「小さい運送人?」


「まずは接点を探すところからです」


「すぐ呼ばない」


「はい」


「誰に聞くかを決める前に、どこなら偏りにくいか見る」


「ええ」


「楽しみ?」


 仕事に対して使う言葉としては、少し妙かもしれない。


 けれどアマリリアは否定しなかった。


「楽しみです」


「俺も」


「ただし」


「急がない」


「先に言わないでくださいませ!」


「当たってた」


「もう!」


 二人で笑いながら玄関へ向かう。


 外は晴れている。


 夜空には雲が少なく、王都の灯りの向こうにいくつか星が見え始めていた。


 馬車の前で、ライルが手を差し出す。


 アマリリアは迷わず重ねる。


「また明日」


「はい。また明日」


「明日、何が分かるかな」


「何も新しく分からないかもしれません」


「それでも?」


「その時は、その時です」


 ライルが笑う。


「うん」


 アマリリアの鞄には帳面。


 ライルの手元にはインク。


 仕事では、フォード商会の資料を最後まで読んだ。


 暮らしでは、帳面のほんの少しだけが埋まった。


 どちらも、全部が完成したわけではない。


 それでよかった。


 資料を読み終えた先には、そこへ書かれていなかった人たちがいる。


 帳面の書かれた頁の先には、まだ何を書くか決まっていない白い頁がある。


 王宮から見えるものだけで世界はできていない。


 フォード商会から見えるものだけでもない。


 アマリリアから見えるものだけでも、ライルから見えるものだけでもない。


 だから、次は違う場所から見る。


 必要なら立ち止まり、誰かへ聞く。


 答えが一つにならなくても、その違いを残す。


 そうやって少しずつ見える範囲を広げていけばいい。


「アマリリア」


 手を離す直前、ライルが呼ぶ。


「はい?」


「今日の帳面の最後」


「読み上げたら怒ります」


「読まないよ」


「では?」


「俺も同じだから」


 アマリリアは少しだけ目を見開いた。


 何が、とは聞かなかった。


 聞かなくても分かったからだ。


「……はい」


 握っていた手へ、最後に少しだけ力を込める。


「では、本当にまた明日」


「うん。また明日」


 手を離し、それぞれの馬車へ向かう。


 まだ知らないことは多い。


 むしろ知れば知るほど、知らなかったものが見えてくる。


 それでも、以前ほど不安ではなかった。


 全部を一人で分かる必要はない。


 次に誰へ聞くかを、一緒に考えられる人がいる。


 そして明日も、その人は隣にいる。


 それだけは、もう資料を読まなくても分かっていた。

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