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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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100/111

「第100話 仕事を置いて出かけた午後、結婚した後の約束が一つ増えました」


 デートの日だからといって、朝から仕事がなくなるわけではなかった。


 アマリリアが王宮の執務室へ入った時、ライルは既に机へ向かっていた。窓の外には秋晴れの空が広がり、数日前まで残っていた薄雲もなく、朝の光が磨かれた床へ長く差し込んでいる。


「おはようございます」


「おはよう、アマリリア」


 ライルが顔を上げる。


 そして、止まった。


「……何ですの?」


「いや」


「何でしょう」


「その腕」


 アマリリアは自分の左手首へ視線を落とした。


 葉と小さな花を模した木製の腕飾り。


 以前、二人で市場へ出かけた日にライルが贈ったものだ。


「これが何か?」


「つけてきてくれたんだ」


「持っておりますから」


「うん」


「今日の服にも合うと思いましたので」


「うん」


「……何です、その顔は」


「嬉しい」


 あまりにも真っ直ぐ言われ、アマリリアは一瞬だけ返事に困った。


「以前も着けましたでしょう」


「劇場の時もね」


「でしたら、そこまで驚くことでは」


「でも今日も選んでくれた」


「……」


「嬉しい」


「二度言わなくて結構です!」


 ライルが笑う。


 アマリリアは自分の席へ向かった。


 今日の服は淡い灰青色のドレスに濃い青の上着。街を歩くため、裾は普段の社交用より少し短く、装飾も控えめにしている。


 ライルも午後の外出を考え、王族の正装ではない。


 濃紺の上着。


 白いシャツ。


 装飾は最小限。


 それでも第一王子であることを完全に隠せるわけではないが、少なくとも公式視察には見えなかった。


「殿下も」


「何?」


「今日は少し地味ですわね」


「アマリリアが前に、街で俺だけ光ってるって言ったから」


「光っているとは言っておりません!」


「似たようなこと言った」


「目立つとは申しました」


「だから目立たないようにした」


 ライルが両腕を少し広げる。


「どう?」


 アマリリアは改めて見る。


「……よろしいのでは?」


「それだけ?」


「何を求めておりますの?」


「似合ってるとか」


「似合っております」


「本当?」


「嘘を言ってどうするのです!」


 また嬉しそうにする。


 以前なら、こんな会話だけで朝の調子を崩されたと思ったかもしれない。


 今は違う。


 デートの朝なのだから、このくらい浮かれていてもよい。


 ただし。


「午後までは仕事です」


「分かってる」


「時計を何度も見ない」


「……はい」


「今、少し間がありましたわね?」


「努力します」


「努力ではなく守ってください!」


 アマリリアが言ったところで、扉が開いた。


「失礼いたします」


 ディーンが数通の書類を持って入ってくる。


 彼は二人の服装を一度だけ見た。


「本日の午前案件をお持ちしました」


「何も言いませんのね」


 アマリリアが聞く。


「何についてでしょう」


「いえ」


「午後のお出かけでしたら存じております」


「やはり!」


「王宮側の予定調整をしておりますので」


「そうでした」


 ディーンは淡々と机へ書類を置いた。


「本日、午前中に確認いただきたいものは二件です。その他は明日以降で問題ございません」


「二件」


 ライルが少し安心した顔をする。


 ディーンがすぐに続けた。


「少ないからといって、午後へ別件を追加する予定はございません」


「まだ何も言ってないよ」


「念のためです」


 アマリリアが笑いを堪える。


「殿下、信用されておりませんわね」


「アマリリアもでしょう」


「私は何も言っておりません」


「昨日までだったら、空いてるなら何か入れようって」


「今日は言いません!」


「では、お二人とも成長されたということで」


 ディーンが平然とまとめた。


「何だか腹が立ちますわ」


「なぜ?」


「分かりません!」


 それでも、午前の仕事は始まった。


          ◇◇◇


 一件目は、王都北側にある公営製粉所の水車についてだった。


 昨夜から水量が少し落ち、今朝の稼働量が通常より一割ほど低下している。


 水路そのものに破損はない。


 上流側に秋の落ち葉と細い枝が溜まり、取水口の一部を塞いでいる可能性が高いという。


「清掃は?」


 ライルが尋ねる。


「既に開始しております」


 ディーンが答える。


「止める時間は?」


「片側ずつ作業するため、完全停止はいたしません。午前中には通常量へ戻る見込みです」


「製粉待ちは?」


「現在のところ、翌日へ持ち越すほどではありません」


「では、現場対応で」


「私も異論ありません」


 アマリリアが頷いた。


 二件目は、王都から西へ向かう街道沿いの小さな宿場で、共同井戸の縄が切れたという報告だった。


 井戸そのものに異常はない。


 予備の縄へ交換済み。


 ただし、切れた縄が予定交換時期より早く摩耗していたため、同じ納入元の縄を使っている近隣三井戸も次回点検時に確認するという。


「今すぐ三つ全部交換する?」


 ライルが聞く。


「まだ摩耗状態を確認しておりません」


「じゃあ確認してから」


「はい」


 アマリリアも書類を見る。


「一本が早く切れたから、同じ縄が全部危険とは限りませんものね」


「使用回数も違うし」


「湿り方も」


「滑車の状態も」


「では、予定通り確認だけ」


「うん」


 二件目も終わった。


 ライルが書類を閉じる。


 そして。


 時計を見なかった。


 アマリリアは気づいた。


「殿下」


「何?」


「今、見ませんでしたわね」


「何を?」


「時計」


「見ないって言われたから」


「……守ったのですね」


「子供みたいに褒めないでよ」


「褒めておりません」


「今の絶対褒めてた」


「では、よくできました」


「やっぱり子供扱いしてる!」


 ライルが抗議したところで、ディーンが一枚の紙を持ち上げた。


「それから、急ぎではございませんが、ご報告だけ」


 二人の表情が仕事へ戻る。


「ミナ・オルド氏への封書は、昨日夕刻に本人へ渡っております」


「返事は?」


 ライルが聞き、すぐに「あ」と声を漏らした。


「聞かないんだった」


「はい」


 ディーンが答える。


「本人へ渡ったことのみ、組合から通常連絡として届いております。返答の有無について、こちらから問い合わせてはおりません」


「それで結構です」


 アマリリアは言った。


「今日は?」


「何もいたしません」


「うん」


「仮に今日返事が届いても」


「明日」


「はい」


 ライルが頷く。


「じゃあ終わり」


「本日の午前中に必要な確認は以上です」


 ディーンが書類をまとめる。


 まだ昼には早い。


 机の上には通常業務の書類がある。


 明日でもよいもの。


 明後日でもよいもの。


 アマリリアは一度だけそれらを見た。


「午前中ですし」


「うん」


「一通くらいは進めても」


 言いかけた。


 ライルが見る。


 ディーンも見る。


「……何ですの?」


「いや」


「何でしょう」


「アマリリアが言うなら」


「殿下も考えましたわね?」


「ちょっとだけ」


「私もです」


 二人で書類を見る。


 まだ時間はある。


 午後の予定を削るわけではない。


 午前中なのだから、通常の仕事をすること自体は何も悪くない。


「一通だけ?」


 ライルが聞く。


「一通だけにしましょう」


「本当に?」


「はい」


「終わったらもう一通って言わない?」


「殿下こそ」


「言わない」


「では」


 ディーンが横から口を挟む。


「こちらを」


 渡されたのは、地方行政から届いた月次の簡易報告だった。


 内容は冬前の道路補修進捗。


 大きな問題なし。


 予定区間の八割が終了。


 残る二割も降雪期前に完了見込み。


 確認に時間はかからなかった。


「終わった」


 ライルが言う。


「終わりましたわね」


「もう一通」


「言わない約束です!」


「言ってないよ! 今、アマリリアが言った!」


「……」


「俺の勝ち」


「何の勝負ですの!?」


 そこで午前の執務は終わりになった。


          ◇◇◇


 昼食は王宮で軽く済ませた。


 いつものように長く席へ留まることはなく、食後にそれぞれ一度着替えと身支度を確認する。


 約束した時間より少し前。


 王宮西側の小門へ向かったアマリリアは、既に待っているライルを見つけた。


「早いですわね」


「アマリリアも」


「私は約束の少し前です」


「俺も」


「殿下の『少し』は?」


「四半刻より短い」


「どのくらい?」


「……半分くらい」


「早いではありませんか!」


「待ってるのも楽しいからいいんだよ」


 ライルは笑っている。


 小門の外にはベスター家の馬車が待っていた。


 ゼインもいる。


 護衛は予定通り二名。


 王宮側の護衛と簡単な確認を終え、目立たない距離で同行することになっている。


「お嬢様、殿下」


 ゼインが一礼する。


「予定通り、まず文具店へ向かいます。道中の混雑は通常程度です」


「ありがとうございます」


「なお」


「何でしょう」


「本日は私は必要がない限り、お二人の会話へ入りません」


 ライルが少し驚く。


「いつもより離れる?」


「店内では、です。護衛上必要な距離は保ちます」


「分かった」


 アマリリアも頷いた。


「お願いします」


「承知いたしました」


 馬車へ乗り込む。


 向かい合って座る。


 扉が閉じる。


 車輪がゆっくり動き始めた。


「……」


「……」


 なぜか二人とも黙った。


 仕事では、沈黙を急いで埋めないことを学んだばかりだ。


 しかし今は聞き取りではない。


「何ですの?」


 アマリリアが先に聞いた。


「いや」


「何でしょう」


「本当にデートだなって」


「今さらです?」


「だって、この数日ずっと予定の話してたから」


「はい」


「実際に始まったら、ちょっと変な感じ」


 アマリリアも窓の外を見る。


 王宮の壁が後ろへ流れていく。


 街路へ出る。


 商店。


 行き交う人。


 荷車。


 仕事で見れば、すぐに別のことが気になる。


 道路の混雑。


 荷物の流れ。


 店先の表示。


 けれど今日は。


「殿下」


「うん?」


「本日は、街を見て何か気になっても」


「調べない」


「はい」


「よほど危ないことじゃなければ」


「はい」


「仕事の話を思いついても?」


「覚えていられるなら、明日」


「忘れたら?」


「その程度だったということで」


「アマリリアがそれ言うようになったんだ」


「何です、その反応は」


「感動してる」


「大げさです!」


 アマリリアは笑った。


 馬車は街の中心へ進んでいく。


 今日は視察ではない。


 調査でもない。


 ただ、二人で出かける日だった。


          ◇◇◇


 文具店は開いていた。


「開いてる」


 馬車を降りたライルの第一声がそれだった。


「見れば分かります」


「よかった」


「閉まっていても次があると昨日話したでしょう」


「分かってる。でも開いてた方が嬉しい」


「それは私もです」


 劇場の日の夜。


 二人で歩いた街で見つけた店。


 その時は既に閉店しており、窓越しに中を見ることしかできなかった。


 昼間に改めて見ると、思っていたより小さな店だった。


 木製の看板には、羽根ペンと紙を模した絵が彫られている。


 大きな硝子窓の向こうには、帳面や便箋、封筒、筆記具、インク瓶などが並んでいた。


「入ろう」


「はい」


 ライルが扉を開ける。


 小さな鈴が鳴った。


「いらっしゃいませ」


 店の奥から、年配の女性が顔を出す。


 一瞬だけ二人を見る。


 そして、ほんの少し目を見開いた。


 気づいたらしい。


 ライルもアマリリアも、街では既に顔を知られている。


 正式婚約の発表以降はなおさらだ。


 だが店主はすぐに姿勢を整えただけで、大声を上げることはなかった。


「ごゆっくりご覧くださいませ」


「ありがとう」


 ライルが答える。


 アマリリアも軽く会釈した。


 店内には紙の匂いがした。


 新しい帳面。


 乾いた木。


 インク。


 革表紙。


 蝋。


 壁沿いの棚には大きさの違う帳面が並び、中央の台には便箋や封筒が種類ごとに置かれている。


「……思ったよりあるね」


「何がです?」


「全部」


「文具店ですから」


「分かってるけど」


 ライルはすぐに棚へ近づいた。


 アマリリアも隣へ行く。


「これ」


 ライルが小さな帳面を手に取る。


 手のひらより少し大きい。


 濃い緑の布張り。


「持ち歩き用?」


「そうでしょうね」


「共有帳面より小さい」


「比べなくてよいです」


「こっちは?」


 今度は革張り。


「殿下」


「何?」


「全部私へ聞かず、ご自分でも見てください」


「一緒に見たいんだよ」


「……」


 そう言われると弱い。


「では、見せてください」


「はい」


 二人で棚を見る。


 買う必要はない。


 だから急がない。


「アマリリア、これ好きそう」


 ライルが指したのは、青灰色の便箋だった。


 縁に細い銀色の線が入っている。


「綺麗ですわね」


「でしょう?」


「ですが、私が好きそうだと思った理由は?」


「色」


「私、そんなに青系ばかりです?」


 ライルはアマリリアの今日の服を見る。


 灰青色。


 濃い青。


 視線が手首へ行く。


「……今日はそうだね」


「今日だけで決めないでください!」


「でも似合う」


「それで誤魔化さないでください!」


 店主が奥で小さく笑った気がした。


 アマリリアはそちらを見ないことにした。


 別の棚には封蝋が並んでいる。


 赤。


 青。


 深緑。


 茶。


 白。


 黒。


「黒」


 ライルが言う。


「何です?」


「アマリリア」


「どういう意味ですの?」


「黒い人たち」


「店内でその話をしないでください!」


 アマリリアが小声で止める。


 ライルは慌てて口を閉じた。


「ごめん」


「まったく……」


 その隣には小さな印章が並んでいた。


 花。


 鳥。


 星。


 月。


 葉。


 既製品なので家紋として使うようなものではない。


 私信の封を飾るための簡単なものだ。


「これ、いいね」


 ライルが葉の印章を持つ。


 アマリリアは手首の腕飾りを見る。


「葉ですか」


「うん」


「また?」


「嫌?」


「嫌ではありません」


 ライルは印章を台へ戻す。


「買わないのです?」


「今日は見るだけでもいいんでしょう?」


 アマリリアは少し驚いた。


「はい」


「気に入ったけど、今すぐ何に使うか思いつかない」


「それなら、置いておけばよいですわね」


「次に来た時、まだ欲しかったら買う」


「……」


「何?」


「いえ」


 アマリリアは笑った。


「殿下も、待てるようになりましたね」


「それ、仕事だけじゃないんだ」


「よいことでは?」


「うん」


 二人は次の棚へ移る。


 そこには小さな木製の筆記具が並んでいた。


 アマリリアは一本を手に取る。


 暗い茶色。


 装飾はほとんどない。


 握る部分だけ少し細く削られている。


「気になる?」


「少し」


「買う?」


「まだ見ます」


「はい」


 ライルは急かさなかった。


 それから半刻近く。


 二人は本当に、ただ店内を見て回った。


 帳面。


 便箋。


 インク。


 封蝋。


 筆記具。


 紙を束ねる紐。


 小さな書類箱。


 仕事でも使えるものはたくさんあった。


 けれど今日は、「王宮で使えるか」ではなく、「自分たちが好きか」で見た。


 最後に買ったのは、意外にも帳面ではなかった。


 ライルは先ほどの葉の印章。


 アマリリアは暗い茶色の筆記具。


「結局買いましたわね」


 店を出たところでアマリリアが言う。


「アマリリアも」


「私は実際に使います」


「俺も使うよ」


「何に?」


「手紙」


「誰へ?」


 ライルが少し考えた。


「アマリリア」


「……」


「何?」


「王宮で毎日のように会っておりますでしょう」


「手紙送っちゃ駄目?」


「駄目とは言っておりません!」


「じゃあ送る」


「……好きにしてくださいませ」


 アマリリアは顔を前へ向けた。


 耳が少し熱い。


「その印章を使うためだけに、どうでもよい内容の手紙を送らないでくださいね」


「じゃあ大事なこと書く」


「何です?」


「まだ決めてない」


「そこは決めていないのですね」


「次に書きたくなった時」


 ライルが笑う。


「それでいいでしょう?」


 アマリリアも笑った。


「はい。それでよいです」


          ◇◇◇


 文具店を出た後、二人は歩いて茶店を探した。


 事前に一軒へ決めてはいない。


 大通りから少し入った場所には、菓子を出す店がいくつもある。


「ここ?」


 ライルが一軒を見る。


 窓際が混んでいる。


「少し賑やかですわね」


「次見る?」


「はい」


 もう少し歩く。


 次の店は空いているが、焼き菓子がほとんど売り切れている。


 ライルが店先の札を見る。


「甘いもの一種類」


「殿下には耐えられませんわね」


「俺を何だと思ってるの?」


「三つを交渉しようとしている方」


「今日はまだしてない!」


「『まだ』なのですね」


「……次行こう」


 二人は笑いながら歩く。


 三軒目。


 小さな茶店。


 窓際に空席がある。


 店頭の札には、林檎と木の実の焼き菓子、蜂蜜を使った小さな乳酪菓子、栗の焼き菓子と書かれていた。


 ライルが止まる。


「三つある」


「嫌な予感がします」


「全部小さそう」


「まだ見てもおりません!」


「絵が小さい」


「絵の大きさで判断しないでください!」


「入ろう?」


「はい」


 結局入った。


 窓際の二人席へ案内される。


 茶を一つずつ。


 菓子の札を見る。


「アマリリア」


「何でしょう」


「約束覚えてる?」


「二つまで」


「小さかった場合は?」


「考える、としか言っておりません」


 店員が説明する。


「本日の乳酪菓子は、こちらほどの大きさでございます」


 手で示された大きさは、確かに小さい。


 ライルがアマリリアを見る。


 何も言わない。


 ただ見る。


「……」


「……」


「その顔をやめてください」


「何も言ってない」


「言っております」


「顔で?」


「はい!」


 アマリリアは札を見る。


 林檎と木の実。


 乳酪と蜂蜜。


 栗。


 どれも気になる。


「……三つ頼みましょう」


「本当!?」


「声が大きいです!」


「ごめん!」


「ただし、三つとも分けます」


「うん!」


「食べきれなければ無理をしない」


「うん!」


「次回から三つが標準になったわけではありません」


「はい!」


 ライルの返事があまりにも素直で、アマリリアは笑ってしまった。


「そんなに嬉しいです?」


「だって三つ選べる」


「子供ですの?」


「アマリリアも食べるでしょう」


「食べます」


「じゃあ同じ」


「違います!」


 それでも三つ頼んだ。


          ◇◇◇


 最初に運ばれてきたのは、林檎と木の実の焼き菓子だった。


 薄く切った林檎が重ねられ、その上に砕いた木の実が散らされている。


 半分に切る。


「どう?」


 ライルが聞く。


「まだ食べておりません」


「早く」


「急かさないでください!」


 一口。


 林檎の酸味。


 焼いた木の実の香ばしさ。


 甘さは控えめ。


「美味しいです」


「本当?」


「はい」


 ライルも食べる。


「美味しい」


「でしょう?」


「アマリリアが作ったのとどっちが」


「比べないでください」


「まだ最後まで言ってない!」


「絶対比べようとしました!」


「はい」


「認めるのですか!」


 次は乳酪と蜂蜜。


 こちらは柔らかい。


「これ好き」


 ライルが言う。


「殿下、甘い方がお好きなのでは?」


「そうかも」


「私は最初の方が」


「じゃあ残り少し多く食べる?」


「半分ずつでよいです」


「次の栗もあるしね」


「楽しそうですわね」


「楽しい」


 迷いのない答え。


 アマリリアは茶を一口飲んだ。


「私もです」


 ライルが止まる。


「また普通に言った」


「毎回驚かないでくださいませ」


「だって嬉しい」


「私も、殿下が楽しそうなのは嬉しいです」


「……」


「何です?」


「今日、すごいね」


「何がですの?」


「アマリリアが」


「失礼ですわね!」


「違う。嬉しい方!」


「分かりません!」


 二人で笑った。


 三つ目の栗の焼き菓子が来る。


 これも半分にした。


「三つ頼んで正解だったね」


「今日だけです」


「はい」


「本当に今日だけですよ?」


「次は次に考える」


 ライルが答える。


 アマリリアは少しだけ目を細めた。


「それなら、よろしいです」


          ◇◇◇


 菓子を食べ終えても、すぐには席を立たなかった。


 茶が少し残っている。


 窓の外を人が歩いていく。


 仕事帰りにはまだ早い時間。


 買い物袋を持つ人。


 子供の手を引く親。


 荷車を押す店員。


 誰も、王宮の共同輸送について考えているようには見えない。


 当然だ。


 それぞれ自分の生活がある。


「アマリリア」


「何でしょう」


「俺たち」


 ライルは窓の外を見たまま言った。


「婚約してから、仕事の話ばっかりしてる気がする時あった」


「実際、多いですからね」


「うん。でも」


 少し笑う。


「こういうのも増えたね」


「こういうの?」


「何も決めなくていい時間」


 アマリリアは茶器へ視線を落とした。


「そうですわね」


「最初の頃なら、今日の予定も全部決めてた?」


「文具店で何を見るか。何時に出るか。どの茶店へ行くか。何を頼むか」


「帰る時間」


「馬車の経路」


「次の予定」


「……決めていたかもしれません」


「今日は文具店だけだった」


「はい」


「茶店は歩いて決めた」


「はい」


「菓子は三つになった」


「それは予定外です」


「でもよかったでしょう?」


「……はい」


 ライルは嬉しそうに笑った。


「結婚しても、こういうのしたい」


 あまりにも自然に言われた。


 アマリリアの手が、茶器の取っ手に触れたまま止まる。


 婚約している。


 正式に。


 相思相愛で。


 いずれ結婚する。


 分かっている。


 それでも、「結婚しても」と日常の延長のように言われると、胸の奥が少しだけ違う動きをした。


「文具店へ?」


「それも」


「甘いものを三つ?」


「それも」


「そこは二つです」


「まだ言ってない!」


「殿下なら言います」


「……まあ、言うかも」


 ライルは笑い、それから少し真面目な顔になった。


「仕事じゃなくても、一緒に出かけたい」


「はい」


「王宮じゃなくても話したい」


「はい」


「何か大きなことがある日じゃなくても」


 アマリリアはライルを見る。


「私もです」


「うん」


「結婚したら、毎日顔を合わせることになるかもしれません」


「たぶん」


「それでも、わざわざ出かける日を作りましょう」


「うん」


「今日のように」


「何回も?」


「何度でも」


 今度は、アマリリアが先に言った。


 ライルの表情がゆっくり変わる。


「……それ、帳面に書いて」


「嫌です」


「何で!?」


「今、直接言いましたでしょう!」


「残したい!」


「覚えていてください!」


「覚えるけど!」


「なら十分です!」


 周囲の客が少しだけこちらを見る。


 二人は同時に声を落とした。


「……すみません」


「殿下が大きな声を出すからです」


「アマリリアも」


「私は殿下ほどではありません」


「同じくらいだったよ」


「違います」


 小声で言い合う。


 それすら楽しかった。


          ◇◇◇


 店を出た頃、午後の日差しは少し傾いていた。


 まだ馬車へ戻るには早い。


「少し歩きます?」


 アマリリアから言った。


「いいの?」


「はい」


「どこまで?」


「決めません」


「……いいね」


 二人は大通りを外れ、比較的静かな道を歩いた。


 護衛とゼインは後方。


 人通りはある。


 だから二人きりではない。


 それでも、二人の間には二人だけの空気があった。


 ライルの手が少し動く。


 アマリリアは気づく。


「殿下」


「何?」


「手」


「……駄目?」


 アマリリアは答えず、自分から手を差し出した。


 ライルが目を見開く。


「何ですの?」


「いや」


「繋がないなら戻します」


「繋ぐ!」


 すぐに握られる。


 指が重なる。


 もう、人前で手を繋ぐことを特別な決断とは感じなくなっていた。


「嬉しそうですわね」


「嬉しい」


「知っております」


「アマリリアは?」


「嬉しいです」


「……」


「だから毎回止まらないでください!」


「無理だって!」


 また笑う。


 そのまま歩いた。


 途中、小さな花屋の前で立ち止まった。


 買わなかった。


 古本を並べた露店も見た。


 そこでも何も買わなかった。


 焼き栗の香りがしたが、さすがに菓子を三つ食べた後なので見送った。


「食べる?」


 ライルが聞いた。


「入りません」


「俺も」


「珍しいですわね」


「三つ食べたからね」


「ですから申し上げたでしょう!」


 そんなことを話しながら歩いた。


 何も起きない。


 事件もない。


 王宮から急使も来ない。


 政治的な決断もしない。


 ただ、婚約者と街を歩いている。


 アマリリアはふと、それがとても贅沢なことに思えた。


          ◇◇◇


 帰りの馬車へ乗る頃には、空が少しずつ夕方の色へ近づいていた。


「楽しかった」


 馬車が動き始めてすぐ、ライルが言う。


「私もです」


「今日、一回も仕事の話しなかった?」


 アマリリアは考える。


「馬車の中で、気になることがあっても調べないと話しました」


「それは仕事の話に入る?」


「少し」


「じゃあ完全には無理だった」


「別に完全に避ける必要はありませんでしょう」


「そっか」


「仕事も私たちの生活の一部です」


「うん」


「ですが、全部ではありません」


 ライルが静かに頷く。


「今日、それ分かった気がする」


「今まで分かっていなかったのです?」


「分かってたつもりだった」


「私もかもしれません」


 アマリリアは窓の外を見る。


「明日になれば、ミナさんから返事が来ているかもしれません」


「うん」


「来ていないかもしれません」


「うん」


「第二共同倉庫の記録も続きます」


「うん」


「別の問題も出るでしょう」


「絶対出る」


「ですが」


 アマリリアは手首の木製の腕飾りへ触れた。


「また出かければよいのです」


 ライルが笑った。


「次いつ?」


「早いです!」


「だって何度でもって」


「申しましたけれど!」


「じゃあ予定見よう」


「今日は見ません!」


「明日?」


「明日も仕事があります!」


「じゃあ明後日?」


「まず明日の仕事をしてください!」


 ライルが笑う。


「でも、次はある?」


 その問いだけは、少し違った。


 アマリリアも分かった。


 具体的な日付を求めているのではない。


「あります」


 だから、迷わず答えた。


「何度でも」


 ライルの手が、座席の上で少し動く。


 アマリリアはその手へ自分の手を重ねた。


 今度は街中ではない。


 馬車の中。


 二人の間だけの小さな触れ合い。


「次も楽しみ」


「まだ何も決まっておりませんよ」


「それでも」


「……私もです」


          ◇◇◇


 その夜。


 ベスター家へ戻ったアマリリアは、夕食を終えて自室へ入った。


 仕事の書類はない。


 持ち帰らなかった。


 机の上には、今日買った暗い茶色の筆記具だけがある。


 共有帳面はライルが持ったままだ。


「……そうでしたわね」


 少しだけ残念に思った。


 今日のことを書きたい。


 文具店。


 三つの菓子。


 何度でも出かけるという話。


 だが、帳面はない。


 なら明日でよい。


 忘れない。


 急いで書かなくても。


 アマリリアは買ったばかりの筆記具を手に取った。


 握り心地を確かめる。


「悪くありませんわね」


 明日、共有帳面が戻ってきたら使ってみよう。


 そう考えて、小箱へしまった。


          ◇◇◇


 一方、王宮へ戻ったライルは、私室で共有帳面を開いていた。


 昨日の頁。


『明日はデートです。』


『追伸。甘いものが小さかった場合の交渉は、まだ諦めていません。』


 ライルはその下へ書こうとして、少し迷った。


 今日のことは多い。


 文具店。


 葉の印章。


 アマリリアが選んだ筆記具。


 三つの菓子。


 街歩き。


 手を繋いだこと。


 結婚した後も出かけようと話したこと。


 全部書こうと思えば、何頁も必要になる。


 けれど。


 ライルは一度筆を止めた。


 そして、短く書いた。


『今日、アマリリアが「何度でも」と言ってくれた。』


 その下へ。


『俺も何度でも行きたい。結婚した後も、その後も。』


 さらに書こうとして、やめた。


 今日の全部を帳面へ残す必要はない。


 忘れたくないものは、紙に書かなければ消えるわけでもない。


 ライルは帳面を閉じた。


 机の上には、今日買った葉の印章がある。


 まだ使わない。


 手紙を書きたくなった時に使えばよい。


「次か」


 小さく呟く。


 次のデート。


 次の仕事。


 次の問題。


 次の季節。


 そして、その先にある結婚。


 どれも今日すべて決める必要はない。


 それでも、一つだけ分かっている。


 その先を考えた時、隣にいてほしい人はもう決まっていた。


          ◇◇◇


 翌朝になれば、王宮にはまた書類が届く。


 ミナ・オルドが封書を開いたかどうかも、いずれ分かるだろう。


 共同輸送の問いも終わっていない。


 第二共同倉庫も動き続けている。


 王国には、アマリリアとライルがまだ知らない問題がいくらでもある。


 そして二人は、これからも間違える。


 早く決めすぎることもあるだろう。


 調べすぎることも。


 逆に、待ちすぎることもあるかもしれない。


 それでも、以前とは違う。


 一人で全部の答えを持とうとはしない。


 分からないと言える。


 待つことができる。


 必要なら動くこともできる。


 仕事を途中で置き、婚約者と街へ出ることもできる。


 百話目だからといって、何か特別な答えが出たわけではなかった。


 王国が完成したわけでも。


 二人が完成したわけでもない。


 ただ今日は、以前閉まっていて入れなかった文具店へ二人で行った。


 気に入ったものを一つずつ買った。


 甘いものを三つ頼んで半分ずつ食べた。


 手を繋いで街を歩いた。


 そして、結婚した後も何度でも出かけようと話した。


 今の二人にとっては、それで十分に大切な一日だった。


 婚約を押し付けられることから始まった二人の関係は、もうとっくに、誰かに決められたものではない。


 次にどこへ行くかも。


 何を食べるかも。


 どんな王国を作っていくかも。


 いつ立ち止まり、いつ進むかも。


 二人で見て、考えて、選んでいく。


 そして、その先には。


 まだ少し先ではあるけれど、婚約者ではなく夫婦として隣に立つ日が、確かに待っていた。

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