第101話
翌朝、アマリリアが王宮へ着いた時、昨日より空気が少し冷たくなっていた。
馬車を降りた瞬間、石造りの回廊を抜けてきた風が頬へ触れる。庭園では庭師たちが落ち葉を集めており、乾いた葉が箒に押される音が、朝の静かな王宮に規則正しく響いていた。
昨日の午後は、この場所から街へ出た。
ライルと文具店へ行き、店内を好きなだけ見て回った。茶店を探して歩き、結局三種類の菓子を頼み、帰る前には手を繋いで何の目的もなく街を歩いた。
仕事ではなかった。
調査でもなかった。
何かを解決するための外出でもなかった。
ただ楽しかった。
その事実を思い出すだけで、胸の奥に昨日の柔らかな温度が戻ってくる。
「……」
アマリリアは自分の口元がわずかに緩んでいることへ気づき、周囲を確認した。
近くにいるのはゼインだけだった。
「何でしょう」
「何も申し上げておりません」
「今、こちらを見ましたでしょう」
「お嬢様が朝から大変機嫌よく歩いておられましたので」
「普通です」
「左様でございますか」
「普通です!」
「承知いたしました」
声はいつも通りだった。
だからこそ腹が立つ。
「ゼイン」
「はい」
「昨日のことを父へ余計に報告しておりませんわよね?」
「護衛上の問題がなかったことは報告しております」
「それだけ?」
「文具店へ無事入店できたことも」
「それは必要です?」
「旦那様から聞かれましたので」
アマリリアは眉を寄せた。
「父は何を気にしているのです」
「前回閉まっていた店だったので、今回は入れたのか、と」
「……そこでしたの」
「また、お茶を召し上がったことも」
「それも聞かれたのです?」
「甘いものはいくつ食べたのか、と」
「なぜ!?」
思わず足を止めた。
近くを歩いていた使用人が驚いて振り返り、アマリリアは小さく咳払いして再び歩き出す。
「三つと答えました」
「答えなくて結構です!」
「事実ですので」
「父は何と?」
「『増えてるじゃないか』と」
「……」
言い返せない。
前回は二つだった。
今回は三つ。
しかも増やしたのは、最終的にはアマリリア自身である。
「次は四つにならないよう気をつけます」
「私は菓子の個数を管理されるために出かけているのではありません!」
「承知しております」
「絶対面白がっておりますでしょう!」
「少々」
「認めましたわね!?」
ゼインの口元がわずかに動いた。
アマリリアは深く息を吐く。
だが、不思議と本気では腹が立たなかった。
昨日が楽しかったからだろう。
父に知られても、ゼインに面白がられても、それを隠したいとは思わない。
そんなことを考えながら執務室へ向かい、扉を開ける。
「おはようございます」
「おはよう、アマリリア」
ライルは既に来ていた。
そして昨日までと違うことが一つある。
彼の机の端に、共有帳面が置かれていた。
アマリリアの視線がそこへ向いたことに、ライルもすぐ気づいた。
「読む?」
「……何か書きましたの?」
「書いた」
「昨日?」
「うん」
ライルは帳面を手に取り、アマリリアへ差し出した。
「返す」
「ありがとうございます」
受け取る。
表紙はいつもと変わらない。
けれど昨日は自分の手元になかったものが戻ってきただけで、少し嬉しい。
「今、読んでいいよ」
「殿下」
「何?」
「見られていると読みにくいです」
「じゃあ見ない」
ライルは本当に顔を横へ向けた。
「そこまで露骨に向こうを見なくてもよいです!」
「どっち!?」
「普通に仕事をしていてください!」
「はい……」
ライルが朝の書類へ視線を落とす。
アマリリアは自分の席へ座り、帳面を開いた。
昨日の前日。
『明日はデートです。』
その下に。
『追伸。甘いものが小さかった場合の交渉は、まだ諦めていません。』
「……」
アマリリアは顔を上げた。
ライルは書類を見ている。
「殿下」
「何?」
「昨日の三つは、やはり最初から狙っておりましたの?」
「違うよ!」
「この追伸は何です!」
「交渉する可能性を残しただけ!」
「同じではありませんか!」
「でも最終的に三つって言ったのアマリリアでしょう?」
「……それは」
否定できない。
アマリリアは悔しくなり、帳面へ視線を戻した。
その下。
昨日の夜に加えられた二行がある。
『今日、アマリリアが「何度でも」と言ってくれた。』
『俺も何度でも行きたい。結婚した後も、その後も。』
先ほどまでの反論が、喉の奥で止まった。
文字はいつものライルの字だった。
特別飾っているわけでもない。
大げさな愛の言葉でもない。
ただ昨日、二人で話したことが書かれている。
結婚した後も。
その後も。
昨日の茶店で聞いた時とは、また少し違って見えた。
その場の雰囲気だけで出た言葉ではない。
王宮へ戻り、一人になった後でも、ライルは同じ未来を考えていたのだ。
「……」
「読んだ?」
ライルが恐る恐る聞く。
アマリリアは帳面から顔を上げた。
「見ていたのでは?」
「見てない。でも静かになったから」
「……読みました」
「うん」
ライルの手が書類の上で少し動く。
「嫌だった?」
「どうしてそうなるのです」
「じゃあ」
「嬉しいです」
アマリリアは帳面を閉じなかった。
開いたまま、その頁へ指先を置く。
「昨日も申しましたでしょう」
「うん」
「何度でも出かけましょう」
「結婚した後も?」
「はい」
「その後も?」
「その後とは、いつまでを想定しておりますの?」
「できるだけ長く」
ライルは少し照れたように笑った。
「年を取っても」
胸の奥が、静かに締まった。
昨日より少し先。
結婚式よりも先。
第一王子とベスター公爵令嬢という立場すら、その一言の中では少し遠くなる。
「……では」
アマリリアは視線を落とし、昨日買ったばかりの暗い茶色の筆記具を鞄から取り出した。
ライルが目を丸くする。
「それ、昨日の?」
「はい」
「もう使うの?」
「使うために買いましたので」
青いインクを用意する。
新しい筆記具の先へ少量を含ませ、ライルの二行の下へ書いた。
『私もです。』
それだけで一度止める。
もう少し書こうかと思ったが、必要ない気がした。
昨日、直接言った。
今朝も言った。
帳面にすべてを説明する必要はない。
ただ、最後に一言だけ加えた。
『ただし、甘いものは毎回三つとは限りません。』
「アマリリア!」
ライルが声を上げる。
「何でしょう」
「そこ書く!?」
「重要です」
「最初の一行だけでよかった!」
「帳面は私も書くものです」
「そうだけど!」
アマリリアは満足して筆記具を置いた。
朝の執務室に笑い声が残る。
昨日の時間が終わったのではなく、今日へ少しだけ続いている。
そんな気がした。
◇◇◇
その日の午前は、珍しく大きな案件がなかった。
ディーンから渡されたのは、既に担当部署で処理方針が決まっている確認書類が中心だった。昨日点検に入った公営製粉所の取水口も、予想通り落ち葉と枝の詰まりが原因で、清掃後は通常の水量へ戻っている。
共同井戸の縄についても、近隣三井戸を確認した結果、一本に軽い毛羽立ちが見つかったものの、切れた縄ほどの摩耗ではなかった。滑車側の状態も含めて通常点検を続け、現時点で一斉交換はしないという現場判断が添えられている。
「昨日のままでよさそうだね」
ライルが報告書を閉じる。
「はい。一本切れたからといって、すべて交換しなくて正解でしたわね」
「でも次の点検は見る」
「それで十分でしょう」
確認印を付け、次へ送る。
以前なら、この程度の報告からでも「他の地域はどうなのか」「同じ納入元は何本あるのか」と調べ始めていたかもしれない。
今は必要がない。
異常が広がっている兆候はない。
点検経路もある。
なら、そこで終えられる。
最後の書類をディーンへ戻したところで、彼が別の封筒を一通持ち上げた。
「それから、こちらを」
封筒を見ただけでは内容は分からない。
だが、表にある差出経路を見て、アマリリアは気づいた。
「東市場の小売商組合?」
「はい」
ライルも姿勢を正した。
「ミナさん?」
「本人からの返答です」
昨日なら読まなかった。
二人でそう決めていた。
だが今日はもう、翌日だ。
「お願いします」
ライルが言う。
ディーンが封を開け、短い返書を取り出した。
「本人直筆ではなく、組合の書記が本人の言葉を聞き取って記したものです。本人は内容を確認済みとの付記があります」
「読めないという意味ですの?」
「そこまでは確認しておりません。単に正式な返書の書式へ慣れていないため、組合書記へ頼んだ可能性もございます」
「なら、勝手に理由を付けない方がよいですわね」
「はい」
ディーンが本文へ目を落とす。
「内容は――」
そこで一度、確認するように紙を持ち直した。
「『話すこと自体は構わない。ただし、店を長く空けることはできない。王宮へ行くのは困る。店の奥でよければ、仕入れのない日の昼過ぎなら話せる』とのことです」
アマリリアとライルが顔を見合わせる。
「受けてくださるのですね」
「はい」
「場所は店の奥」
「本人の希望です」
「時間は仕入れのない日の昼過ぎ」
「はい」
ライルが尋ねる。
「いつ?」
「次の仕入れがない日は三日後とのことです。ただし、本人は『客が多ければ待ってほしい』とも」
「それでいい」
「はい」
アマリリアも頷いた。
「仕事が優先です」
「所要時間については?」
「こちらから半刻以内を目安とする旨は封書へ記載しておりました。それに対し、『そんなに話すことがあるか分からないが、それくらいなら』と」
少しだけ、空気が和らぐ。
トーマの時もそうだった。
王宮側は聞きたいことがいくつもある。
しかし本人にとっては、自分の日常を話すだけなのだ。
「誰が行く?」
ライルが聞く。
「前回と同じディーンとレオンでよいのでは?」
アマリリアが答えかけ、そこで止まった。
「……いえ」
「何?」
「前回と同じだから、というだけで決めるのも違いますわね」
ディーンが頷く。
「私が続ける利点はございます。トーマ氏との聞き取りで、自分がどのように質問を狭めてしまったか把握しておりますので」
「一方で」
ライルが考える。
「同じ人が聞くと、前の人の話を頭に置いたまま聞くかもしれない」
「ございます」
「ディーンさん自身はどう思います?」
ライルが本人へ尋ねた。
ディーンはすぐには答えなかった。
「正直に申し上げますと、トーマ氏の話を聞いた後ですので、『代わりの運び方があるか』という点を意識してしまうと思います」
「それは今回聞きたいことでもありますわよね」
「はい。ただし、意識しすぎれば、ミナ氏が本来話したかったことより、こちらの問いを優先させる恐れもあります」
アマリリアは腕を組まなかった。
答えを出す前の癖として、自分がそれをしがちなことを最近知ったからだ。
「だからといって、別の人なら偏りがないわけでもありません」
「その通りです」
ライルが言う。
「誰が聞いても、何かは持ってる」
「はい」
「では、前回の経験を自覚しているディーンさんが続ける方が、少なくとも自分の偏りを分かっている分よいかもしれない」
ディーンが少し考えてから頷いた。
「私も、その条件であれば担当可能です」
「レオンさんは?」
「本人に確認いたします。ただ、前回の記録方法を修正する機会としては意味があると思います」
「修正するための実験にミナさんを使わないでくださいね」
アマリリアが言う。
「もちろんです」
「前回より上手に記録することが目的ではありません」
「はい。ミナ氏の話を必要な範囲で残すことが目的です」
そこで話は決まった。
ディーンとレオン。
ただし、前回の反省から変えるのは一つだけではない。
「記録について、最初に説明する」
ライルが言う。
「はい」
「全部の言葉を書き取るわけじゃない。主な内容と、後で確認が必要なところを書く」
「不要な店名や人名は記録しない」
「はい」
「書いていることが気になれば、その場で聞いていい」
「それも伝えましょう」
アマリリアが続ける。
「ただし、記録を毎回すべて本人へ読ませる、という決まりにはしません」
「前回トーマさんが見たからって?」
「はい。ミナさんが望めば確認していただいて構いませんが、全員へ同じことを義務にすると、今度は確認する時間を本人へ負わせます」
「分かった」
ライルが頷く。
トーマから学んだ。
だが、トーマの時に起きたことをそのまま規則にするわけではない。
経験を残すことと、経験を型へ固定することは違う。
「質問は?」
ディーンが尋ねた。
アマリリアは少し考えた。
「トーマさんの時より、ほんの少し範囲を示した方がよいかもしれません」
「『最近の仕入れや荷物の運び方で、以前と変わったと感じることはありますか』くらい?」
ライルが言う。
「その程度なら」
「共同輸送って最初から言わない」
「はい」
「困ったこと、とも言わない」
「はい」
「便利になったこと、とも」
「言わない」
ディーンが短く記録する。
「それ以上は、実際の話に応じて」
「お願いします」
決まったのは、それだけだった。
質問表を十項目作ることも。
トーマとの比較欄を作ることも。
ミナが共同便を使っているか先に調べることもしなかった。
三日後。
東市場の乾物店。
客が多ければ待つ。
それで十分だった。
◇◇◇
昼を少し過ぎた頃。
執務室の扉が開き、セレーネが入ってきた。
「ごきげんよう」
「母上?」
「王妃陛下」
アマリリアが立とうとすると、セレーネが手で制した。
「そのままでいいわ。今日は公式の話ではないから」
後ろに侍女が一人。
書類の束はない。
それだけで、いつもの実務相談とは少し違うと分かる。
「お茶をいただいても?」
「もちろんです」
ライルが答える。
侍女が慣れた様子で準備を始める。
セレーネは二人の机を見回した。
「昨日は楽しかった?」
アマリリアの動きが止まった。
「……なぜ皆様ご存じなのです」
「王宮の予定から第一王子の午後が空いていたら、私は知っているわよ」
「そうでした」
「それに、あなたたちが出かけること自体は秘密ではないでしょう?」
「はい」
「楽しかった?」
もう一度聞かれる。
ライルはすぐ答えた。
「楽しかったです」
「そう」
セレーネの視線がアマリリアへ移る。
「アマリリアは?」
「……私も、楽しかったです」
「よかった」
それだけだった。
からかわれると思っていたアマリリアは、少し拍子抜けする。
「何をしたの?」
「文具店へ行って」
「お茶して」
「甘いものを三つ食べました」
「アマリリア!」
「事実でしょう!」
セレーネが笑った。
「三つ?」
「小さかったので!」
「誰も責めていないわ」
「……」
どうして今日は菓子の数ばかり話題になるのだ。
アマリリアが納得できないまま座り直すと、セレーネは運ばれてきた茶へ口をつけた。
それから、少しだけ声の調子を変えた。
「二人に、そろそろ話しておきたいことがあるの」
ライルの表情が変わる。
アマリリアも自然に背筋を伸ばした。
「公務ですか?」
「半分は」
「半分?」
「もう半分は、あなたたち自身のこと」
セレーネは茶器を受け皿へ戻した。
「正式に婚約してから、もう十分に時間も経ったでしょう」
アマリリアは瞬きをする。
ライルも黙った。
「新月の森の件も落ち着いた。婚約そのものに反対する政治的な問題も、今のところ大きなものはない。二人が互いにどう思っているかについて、私たちが心配する必要もなさそうね」
「……はい」
ライルが少し照れながら答える。
「だから」
セレーネは二人を順に見た。
「結婚後のことを、そろそろ具体的に考え始めてもいい頃だと思っているわ」
昨日。
茶店でライルが言った。
結婚しても、こういうのをしたい。
アマリリアは答えた。
わざわざ出かける日を作りましょう。
何度でも。
あの時の「結婚後」は、二人だけの柔らかな未来だった。
今、王妃の口から出た同じ言葉には、別の重さがある。
「結婚式の日取りを決める、ということでしょうか」
アマリリアが尋ねる。
「それもいずれ必要。でも、いきなり式の日だけ決めるつもりはないわ」
セレーネは首を横へ振った。
「結婚式は一日。でも、結婚はその後も続くでしょう?」
ライルがゆっくり頷く。
「昨日、似たような話をした」
「あら」
セレーネの眉がわずかに上がる。
アマリリアは嫌な予感がした。
「どんな?」
「結婚した後も、一緒に出かけたいって」
「殿下!」
「何で!? 言っちゃ駄目だった!?」
「駄目ではありませんが!」
「素敵じゃない」
セレーネが笑う。
「なら、ちょうどいいわね」
「何がです?」
「式の前に、生活の方を考えましょう」
アマリリアは少し意外に思った。
王族の結婚。
婚礼の日程。
式典。
衣装。
招待客。
外交。
警備。
そうした話から始まるものだと思っていた。
「生活、と申しますと」
「どこで暮らすのか」
セレーネが一つ目を挙げる。
「二人の私室はどうするのか。執務場所をどうするのか。アマリリアが結婚後、どの立場で何を担うのか。ベスター家の仕事と王家側の仕事をどう分けるのか」
一つずつ聞くたび、昨日までぼんやりしていた未来へ輪郭が付いていく。
「使用人や護衛の体制。食事をどこで取るのか。公式行事で二人が一緒に出る範囲。逆に、別々に動く範囲」
「そんなところまで?」
ライルが尋ねる。
「暮らすのだから当然でしょう」
「確かに」
「そして」
セレーネは少し笑った。
「休む時間をどう守るか」
アマリリアとライルが同時に黙った。
「そこもですか」
「一番心配しているところの一つよ」
「母上」
「二人とも放っておいたら仕事を増やすでしょう」
「最近は減らしてます」
「最近ようやく、でしょう?」
「……はい」
ライルが素直に認める。
セレーネはアマリリアへ視線を移した。
「あなたも」
「否定はいたしません」
「だから、結婚したら仕事を二人分抱える、なんてことにならないようにしておきたいの」
その言葉に、アマリリアは少し考えた。
「二人分」
「そう。あなたはベスター家で既に役割を持っている。ライルは第一王子。結婚したからといって、互いの仕事を全部共有したら、単純に仕事が倍になるわ」
「……」
思い当たる。
これまで二人は、互いの仕事を一緒に考えることで成長してきた。
だが、それはすべてを二人で処理することとは違う。
「夫婦になっても、全部一緒にやる必要はない?」
ライルが聞く。
「むしろ、やらない方がいいことも多いでしょうね」
「でも、相談は?」
「すればいいわ」
「どこまで?」
「それを二人で決めるのよ」
セレーネは即答しなかった。
「私が『ここからここまで』と決めても、二人の暮らしにはならないでしょう」
アマリリアは少し息を吐いた。
「また、決めることが増えますわね」
「嫌?」
セレーネが尋ねる。
アマリリアはすぐには答えなかった。
決めること。
以前の自分なら、一覧を作っただろう。
住居。
執務。
護衛。
使用人。
公務。
ベスター家。
食事。
休暇。
婚礼。
優先順位を付け、期限を決め、一つずつ潰していく。
だが今は。
「いいえ」
アマリリアは答えた。
「少し楽しみです」
ライルがこちらを見る。
セレーネも柔らかく笑った。
「そう」
「ただし」
「何?」
「本日すべて決めるのは嫌です」
「決めさせないわよ」
「安心しました」
「今日は話を始めるだけ」
その言葉に、肩の力が抜けた。
「日取りも?」
ライルが聞く。
「今日は決めない」
「式場も?」
「決めない」
「招待客も?」
「まだ」
「服は?」
「ライル」
「はい」
「あなた、意外と楽しみにしてる?」
セレーネが面白そうに尋ねる。
ライルは少し考えた後、素直に頷いた。
「してます」
アマリリアの胸が小さく跳ねた。
「結婚式を?」
「うん」
ライルはアマリリアを見る。
「アマリリアと結婚する日だから」
「……」
「式そのものは大変そうだけど」
「殿下」
「何?」
「そういうことを突然言わないでくださいませ」
「昨日も結婚した後の話したでしょう?」
「それとこれとは別です!」
「何が?」
「分かりません!」
セレーネが堪えきれず笑う。
「本当に心配なさそうね」
「王妃陛下!」
「ごめんなさい」
まったく謝っているようには聞こえなかった。
◇◇◇
話は、すぐに婚礼準備へ進まなかった。
セレーネが最初に確認したのは、もっと単純なことだった。
「二人は、結婚したらどこで暮らしたい?」
ライルが少し困った顔になる。
「王宮じゃないんですか?」
「王宮のどこ?」
「……そこまで考えてなかった」
「でしょうね」
第一王子には現在の私室と執務区画がある。
だが結婚すれば、アマリリアの生活空間も必要になる。単純に今のライルの部屋へ荷物を運べば終わる話ではない。
「王宮内には、王族夫婦が使える区画がいくつかあるわ。今は空いている場所もある。でも、どこを使うかはまだ決めていない」
「選べるのですか?」
アマリリアが聞く。
「ある程度は。警備や公務動線の条件はあるけれど」
「ベスター家から通う、という選択は?」
「結婚後も毎日?」
「いえ、可能性として」
「不可能ではないけれど、第一王子妃としての役割を考えれば、王宮に生活拠点があった方が現実的でしょうね。ただし、ベスター家へ戻れないという意味ではないわ」
アマリリアは頷く。
生まれ育った屋敷を出る。
その事実を、今まであまり具体的に考えていなかった。
父がいる。
使用人たちがいる。
自分の部屋がある。
黒衣の者たちの拠点も、ベスター家の仕組みの中にある。
結婚すれば、それらとの距離も変わる。
ライルがアマリリアの表情を見た。
「寂しい?」
「……少しは」
素直に答えた。
「でも、帰れなくなるわけではありません」
「うん」
「それに」
アマリリアはライルを見る。
「新しく暮らす場所を考えるのも、嫌ではありません」
ライルの顔が明るくなる。
「一緒に選べる?」
「王妃陛下がお許しになる範囲で」
「もちろん」
セレーネが答える。
「実際に見てから決めた方がいいわね」
「何か所くらい?」
「今使える候補なら三つ」
「三つ」
ライルがアマリリアを見る。
「見に行く?」
「いずれ」
「全部?」
「条件が合わない場所まで無理に見る必要はないでしょう」
「そうだね」
アマリリアはそこで気づく。
これも、最近ずっと仕事でやってきたことと似ている。
選択肢が三つあるからといって、三つを比較すること自体を目的にしない。
必要な条件を考え、その上で見る。
ただし。
「殿下」
「何?」
「住む場所についてまで、仕事の調査のように比較表を作るのは禁止です」
「まだ作るって言ってない!」
「顔が少し考えておりました」
「アマリリアもでしょう?」
「私は止めました!」
「俺も今止めた!」
セレーネが笑う。
「そこは二人とも似ているわね」
「似ておりません」
「似てないです」
二人の声が重なった。
今度は侍女まで口元を押さえた。
◇◇◇
セレーネが帰った後も、執務室には先ほどまでとは違う空気が残った。
机の上に新しい書類が増えたわけではない。
婚礼日程表もない。
住居候補の図面もない。
それでも、二人の前には確かに新しい話が置かれていた。
「結婚後か」
ライルが小さく言う。
「昨日も話したでしょう」
「昨日はもっとふわっとしてた」
「今日は急に部屋や仕事の話になりましたからね」
「アマリリア」
「はい」
「嫌じゃない?」
アマリリアは問いの意味を考えた。
「何がです?」
「王宮に住むこと」
ライルは少しだけ慎重な声になっていた。
「俺はずっとここに住んでるから、王宮に住むのが普通だと思ってた。でもアマリリアにとっては、家を出ることになる」
アマリリアはすぐには答えなかった。
窓の外では、朝から庭師が集めていた落ち葉が大きな籠へ移されている。風が吹くたび、拾い切れなかった一枚が石畳の上を転がっていった。
「寂しくないとは申しません」
「うん」
「父と毎日顔を合わせなくなるでしょうし、屋敷の者たちとも今まで通りではなくなります」
「うん」
「ベスター家で私が担っている仕事もあります」
「うん」
「ですから、何も変わらないとは思っておりません」
ライルは黙って聞いている。
途中で「でも」と言わない。
すぐに安心できる答えを求めない。
アマリリアはそのことが嬉しかった。
「ですが」
今度はアマリリア自身が続けた。
「殿下と暮らすことは、楽しみです」
ライルの目がわずかに見開かれる。
「王宮だからではありません」
「……うん」
「殿下とです」
言ってから、さすがに恥ずかしくなった。
視線を外そうとしたが、その前にライルの顔が赤くなったのが見えた。
「何ですの、その顔」
「アマリリアがすごいこと言うから」
「何がです!」
「『殿下と暮らすことは楽しみ』って」
「事実を申し上げただけです!」
「もう一回言って」
「嫌です!」
「帳面に」
「書きません!」
「何で!?」
「直接聞いたでしょう!」
「残したい!」
「昨日も同じことを言っておりましたわね!?」
二人とも笑った。
だが、笑いが収まった後も、先ほどの言葉は消えなかった。
王宮へ住む。
ベスター家を出る。
同じ場所へ帰る。
朝になれば、今のように別々の場所から王宮へ来る必要がなくなる日もあるのだろう。
「殿下」
「うん?」
「一つだけ」
「何?」
「結婚したからといって、朝から晩まで一緒に仕事をするのはやめましょう」
「え」
「王妃陛下のおっしゃった通りです」
「嫌って意味じゃなくて?」
「違います」
アマリリアは首を横へ振った。
「一緒にいることと、すべて一緒にやることは同じではありません」
ライルはしばらく考えた。
「俺も、自分の仕事をちゃんと持つ」
「はい」
「アマリリアの仕事を全部知ろうとしない」
「私もです」
「でも困った時は話す」
「はい」
「嬉しかったことも?」
「もちろん」
「デートの予定も?」
「それは早めに相談してください」
「大事だから?」
「仕事に埋められないようにです」
「うん」
ライルは笑った。
「じゃあ、結婚してもデートは予定に入れる」
「そうしましょう」
「私的予定って書く?」
「中身まで公務予定表へ書かなくて結構です」
「『アマリリアと甘いもの』って」
「絶対にやめてください!」
また笑い声が響く。
結婚後の暮らしについて、まだ何も決まっていない。
住む場所も。
仕事の分け方も。
式の日取りも。
それでも昨日より少しだけ、その未来が現実に近づいた。
◇◇◇
夕方になる前、アマリリアは王宮を出た。
今日は昨日と違い、ライルと一緒ではない。
西日が石壁を橙色に染め、馬車の窓から見える街にも仕事を終え始める人々の姿が増えていた。
向かいにはゼインが座っている。
「お嬢様」
「何でしょう」
「本日は何かございましたか」
「なぜです?」
「行きより考え事をしておられるようでしたので」
アマリリアは少し迷った。
だが、隠すことでもない。
「王妃陛下から、結婚後の生活について考え始めるよう言われました」
ゼインの表情はほとんど変わらなかった。
「左様でございましたか」
「驚きませんの?」
「正式に婚約されておりますので、いずれは」
「それはそうですが」
「旦那様は驚かれるかもしれません」
「父が?」
「娘が嫁ぐことを理屈では理解しておられますが」
ゼインは窓の外を見る。
「実際に王宮で暮らす場所を決める話になれば、別かと」
アマリリアも黙った。
父。
今日、王妃と話したことを伝えなければならない。
正式な婚礼日程が決まったわけではない。
だが、生活の話を始めるなら、ベスター家にも関係する。
「今日、話します」
「よろしいかと」
「父は何と申すでしょう」
「私には分かりません」
「珍しく逃げましたわね」
「旦那様とお嬢様の問題ですので」
「そうですわね」
アマリリアは窓の外へ視線を移した。
王宮が少しずつ遠ざかる。
いつか、この道を「家へ帰る道」とは呼ばなくなるのだろうか。
いや。
ベスター家が家でなくなるわけではない。
新しい家が増える。
そう考えた方が、今の自分には近かった。
◇◇◇
夕食後。
アマリリアは父の書斎を訪ねた。
「入れ」
扉を開けると、ハロルドは仕事をしていた。
机には書類がある。
だが娘の顔を見ると、すぐに筆を置いた。
「どうした」
「少しお話が」
「殿下と何かあったか?」
「なぜ最初にそこなのです!」
「昨日デートだったからな」
「楽しく過ごしました!」
「そうか」
ハロルドは少し笑った。
「菓子三つ」
「ゼイン!」
本人はいないのに名前を呼んでしまった。
「何だ」
「何でもありません!」
「で?」
父の表情が少し真面目になる。
アマリリアは向かいの椅子へ座った。
「本日、王妃陛下からお話がありました」
「ほう」
「そろそろ、結婚後の生活について具体的に考え始めてはどうか、と」
ハロルドの顔から笑みが消えた。
怒ったわけではない。
ただ、一瞬で父親ではなくベスター家当主の顔へ変わったように見えた。
「日取りが決まったのか?」
「いいえ。むしろ、いきなり式の日を決めるのではなく、その後の生活から考えようというお話でした」
「……なるほど」
「王宮内のどこで暮らすか。私が結婚後、王家側とベスター家側でどの仕事を担うか。使用人や護衛、公務、休む時間など」
「まともだな」
「そこは疑っておりません」
「王家だから、式典の日取りと客の数から始めるかと思った」
「私も少し」
ハロルドは椅子へ深く座り直した。
「それで、お前はどうしたい」
アマリリアはその問いに、少し驚いた。
「どう、とは?」
「王妃が何を提案したかは分かった。殿下が何を望んでいるかも、いずれ聞くだろう」
父は娘を見る。
「お前はどうしたい」
今日二度目だった。
王妃も、答えを決めて渡さなかった。
ライルも、「王宮に住むのが普通だから」と押し切らなかった。
父もまた、自分の答えを聞いている。
「王宮に生活の拠点を置くこと自体は、受け入れられます」
「うん」
「第一王子殿下と結婚するのですから、公務上もその方が現実的でしょう」
「理屈は聞いてない」
「……」
「お前は?」
ハロルドの声は穏やかだった。
アマリリアは膝の上で手を重ねる。
「寂しいです」
「そうか」
「ここを出ることは」
口にすると、昼より少しだけ実感が増した。
「でも、嫌ではありません」
「うん」
「ライル殿下と暮らすことは、楽しみです」
ハロルドが黙った。
「……お父様?」
「いや」
「何です?」
「お前がそんなことを普通に言うようになるとはな」
「王妃陛下にも殿下にも似たような反応をされました!」
「俺は父親だから許せ」
「何をです!」
ハロルドが少し笑った。
その笑顔には、寂しさも混じっているように見えた。
「なら、いい」
「それだけですか?」
「お前が嫌々王宮へ行くなら話は別だ。だが、自分で行きたいなら、俺が止める理由はない」
「……」
「最初の婚約とは違う」
その一言で、空気が変わった。
アマリリアは父を見る。
物語の始まり。
自分の意思をろくに聞かず、父が持ってきた婚約話。
それから逃れるため、第一王子を脅した。
今思えば、ずいぶんな始まり方だった。
「覚えておられましたのね」
「忘れるわけないだろ」
「お父様が原因です」
「分かってる」
「本当に?」
「そこは何度も反省した」
「初耳です」
「言ってなかったからな」
「言ってください!」
ハロルドは苦笑した。
「だから今度は決めない」
「何を?」
「お前の結婚の日も、暮らす場所も、仕事も。意見は言う。ベスター家として必要な話もする。だが、お前の代わりに決めない」
アマリリアは何も言えなかった。
父が変わった。
自分も。
ライルも。
始まりと同じ場所へ戻ってきたようで、まるで違う。
「ただし」
ハロルドの声が少し低くなる。
「殿下が、お前に王家の仕事とベスター家の仕事を全部やらせるようなら話は別だ」
「殿下はそのようなことをなさいません」
「分かってる。今のところはな」
「まだ警戒しておりますの?」
「娘の父親だからな」
「王子としては?」
「以前よりずっと評価している」
ハロルドは即答した。
「だから警戒する」
「意味が分かりません」
「無能なら、そこまで警戒しない」
以前にも聞いたような理屈だ。
アマリリアは呆れ、しかし笑った。
「お父様」
「何だ」
「ありがとうございます」
ハロルドの目が少しだけ見開かれた。
「……何がだ」
「決めないと言ってくださったことです」
「そうか」
「はい」
短い沈黙が落ちた。
書斎の窓の外では、庭の木々が夜風に揺れている。遠くから使用人たちが片付けをする音が聞こえ、いつもと同じベスター家の夜が続いていた。
ここを出る日は来る。
だが、まだ今日ではない。
だから今夜は、今まで通りここで眠る。
◇◇◇
自室へ戻ったアマリリアは、共有帳面を机へ置いた。
今日はライルへ返していない。
昼に書いたばかりの頁を開く。
『今日、アマリリアが「何度でも」と言ってくれた。』
『俺も何度でも行きたい。結婚した後も、その後も。』
その下。
『私もです。』
『ただし、甘いものは毎回三つとは限りません。』
読み返すと、やはり最後の一文だけ少し余計だったかもしれない。
「……いいですわ」
自分たちらしい。
アマリリアは昨日買った筆記具を手に取った。
今日は書くことが多い。
ミナから返事が来た。
三日後に聞き取りへ行くことになった。
王妃から結婚後の生活について話をされた。
父とも話した。
全部書こうと思えば、何頁にもなる。
だが、帳面は業務記録ではない。
アマリリアは少し考えた末、新しい行へ短く書いた。
『本日、結婚した後にどこで暮らすかという話が出ました。まだ何も決まっておりません。』
そこで一度、筆を止める。
インクが乾くのを待ちながら、昼間のライルの顔を思い出した。
王宮に住むことが嫌ではないか、と聞いた時の顔。
自分が「殿下と暮らすことは楽しみ」と言った時の顔。
アマリリアはもう一行加えた。
『決まっていないのに、少し楽しみです。』
それで終わりにしようと思った。
だが、筆先がもう一度紙へ近づく。
『お父様にも話しました。寂しいですが、家がなくなるのではなく、家が一つ増えるのだと思うことにします。』
書き終えて、アマリリアはしばらくその文章を見ていた。
家が増える。
ベスター家を捨てるのではない。
王宮に奪われるのでもない。
自分で選んで、新しい場所へ行く。
最初の婚約とは違う。
誰かに押し付けられたからではない。
父に言われたからでも。
王妃に言われたからでも。
王国のためだけでもない。
ライルと暮らしたいから。
「……」
そこまで考えて、アマリリアは自分の頬へ手を当てた。
「さすがに、これは書きませんわ」
誰もいない部屋で小さく呟く。
けれど、いつか本人には言ってもよいかもしれない。
今すぐでなくても。
次に帳面を渡す時でもなくても。
結婚式の日でも。
もっと後でも。
時間はある。
何度でも出かけるのだから。
何度でも話せるのだから。
机の端には、昨日買った筆記具がある。
手首には、以前ライルから贈られた木製の腕飾りがまだ残っている。
違う日に選んだ二つの品を見ながら、アマリリアは帳面を静かに閉じた。
三日後には、ミナ・オルドの店で二人目の話を聞く予定がある。
王国の仕事は続く。
分からないことも、まだいくらでも残っている。
それと同時に、今日からはもう一つ。
どこで暮らすのか。
どんなふうに働くのか。
どんな夫婦になるのか。
そんな、二人自身の未来についても考えていくことになった。
けれど、その答えも今日すべて決める必要はない。
婚約を押し付けられた時には、自分の未来を誰かに決められることが何より嫌だった。
だから第一王子を脅した。
ずいぶん乱暴な方法で、自分が選ぶための余地を奪い返した。
そして今。
同じ第一王子との結婚を、自分から楽しみにしている。
その変化を思うと、アマリリアは少しだけ可笑しくなった。
「本当に、変な始まり方でしたわね」
けれど。
始まり方がどうであっても、その先まで同じである必要はない。
これからの暮らしは、二人で選べばよい。
結婚式も。
その後の日々も。
仕事をする日も、何もしない午後も。
甘いものを二つにするか三つにするかさえも。
今度こそ、自分たちで。
アマリリアは灯りを少し落とし、まだ慣れない「結婚後」という言葉を胸の中でもう一度転がした。
昨日よりも、その未来はずっと近く感じられた。




