第102話
翌日、アマリリアが王宮へ到着した時には、朝から細かな雨が降っていた。
大粒ではない。灰色の空から絶え間なく落ちてくる雨が石畳を濡らし、王宮の庭園では葉を落とし始めた木々の枝先から、透明な雫が一定の間隔で地面へ落ちている。回廊の屋根を叩く音も穏やかで、いつもより人々の足音が近く聞こえる朝だった。
昨日、王妃セレーネから結婚後の生活について話をされた。
その夜には父ハロルドとも話した。
そして今朝。
アマリリアの鞄には、共有帳面が入っている。
『本日、結婚した後にどこで暮らすかという話が出ました。まだ何も決まっておりません。』
『決まっていないのに、少し楽しみです。』
『お父様にも話しました。寂しいですが、家がなくなるのではなく、家が一つ増えるのだと思うことにします。』
昨夜、自分で書いた言葉だ。
朝になって読み返した時、最後の一文は少し恥ずかしかった。
消そうとは思わなかったけれど。
「おはようございます」
執務室へ入る。
「おはよう、アマリリア」
ライルは窓辺に立っていた。
雨を見ていたらしい。
「今日は雨だね」
「見れば分かります」
「最近それよく言われる」
「見れば分かることをおっしゃるからです」
「でも話したかったんだよ」
ライルが笑う。
アマリリアは少しだけ口元を緩め、自分の席へ向かった。
「雨の話を?」
「アマリリアと」
「……そうですか」
朝から調子を崩される。
ただ、嫌ではない。
鞄を机の横へ置くと、ライルの視線がそこへ向いた。
「帳面?」
「入っております」
「書いた?」
「少し」
「読みたい」
「仕事が終わってからです」
「朝の?」
「はい」
「分かった」
素直に引き下がる。
昨日までなら、少し粘ったかもしれない。
「珍しいですわね」
「何が?」
「すぐ諦めました」
「だってなくならないでしょう?」
アマリリアは一瞬、言葉を止めた。
「……そうですわね」
「後で読める」
「はい」
それで終わった。
以前なら、「後で」を待つことにも妙な落ち着かなさがあった。
今は違う。
共有帳面は逃げない。
書かれた言葉も。
そして、二人の関係も。
◇◇◇
午前中は、通常の執務を進めた。
ミナ・オルドへの聞き取りは二日後。
昨日、本人から三日後なら店の奥で話せるという返事が来たため、今日は新たに連絡する必要がない。ディーンとレオンには既に予定が共有され、開始前の説明と冒頭の問いだけ確認してある。
第二共同倉庫からも、急ぎの異常報告はない。
通知試行については一区切り。
フォード商会から追加資料も届いていない。
だから今日は、今ある仕事を処理するだけだった。
午前の半ばを過ぎた頃、ディーンが一通の報告を読み上げる。
「南部街道沿いの休憩所について、屋根の一部に雨漏りが確認されました。昨夜からの雨で判明したものです」
「利用できない?」
ライルが尋ねる。
「休憩室三室のうち一室のみ閉鎖しております。宿泊施設ではございませんので、他二室で通常利用可能です」
「修理は?」
「雨が弱まり次第、職人が確認予定です。現時点では桶で受けておりますが、天井板の一部が湿っているため、その部屋は立入禁止としております」
「それなら現場の対応でよさそうですわね」
「はい」
アマリリアは報告書へ目を通す。
以前なら、同じ建築時期の休憩所を全部調べるべきか、と考えたかもしれない。
だが、一件の雨漏り。
原因もまだ不明。
既に部屋は閉鎖され、利用者の代替もある。
「修理後、原因だけ通常報告へ入れてください」
「承知いたしました」
それで終える。
次の案件は地方市場の倉庫扉。
蝶番が一つ歪み、開閉しにくくなったため、その区画だけ荷物の搬入を隣の扉へ回している。
これも修理手配済み。
「今日は壊れる日?」
ライルが呟く。
「雨の日だから、普段見えなかったものが見えているだけかもしれませんわよ」
「ああ」
「雨漏りは特に」
「じゃあ雨が原因とは限らない」
「はい」
「でも雨で分かった」
「そういうことでしょう」
ライルは少し考えた後、それ以上広げなかった。
原因分析を始めない。
必要なら現場から報告が来る。
今はそれでよい。
午前の執務が一段落したところで、扉が叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきたのは王妃付きの侍女だった。
「王妃陛下より、お二人へ伝言をお預かりしております」
「母上から?」
「はい」
侍女は小さな紙を差し出す。
ライルが受け取り、アマリリアと一緒に見る。
『昨日話した居住区画について、午後に一つだけ見てみない? 決めるためではなく、実際に見ないと何を考えればいいかも分からないでしょう。雨なので庭園散策の代わりにどうぞ。』
「……」
「……」
二人で読む。
「一つだけ?」
ライルが言う。
「三つすべてではないのですね」
「今日は一つだけ、みたい」
侍女が説明する。
「王妃陛下からは、候補の中で最も現在の生活動線に近い区画をまず見ていただきたいとのことです。残り二つについては、本日ご覧になる必要はございません」
「今日決めなくてよい、と?」
「はい。『決め始める前に、暮らす場所を見るというのがどういうことか知ってもらうだけ』と」
アマリリアはライルを見る。
「どうします?」
「行きたい」
即答だった。
「早いですわね」
「アマリリアは?」
「……私も、見てみたいです」
「じゃあ行こう」
侍女が微笑む。
「昼食後、私がご案内いたします」
「お願いします」
侍女が退出する。
扉が閉じた後、ライルがもう一度紙を見る。
「住む場所」
「候補の一つです」
「分かってる」
「今日決めませんよ」
「分かってるって」
「比較表も」
「作らない!」
「なら結構です」
「アマリリア」
「何でしょう」
「ちょっと楽しそう」
言われ、アマリリアは口を閉じた。
「殿下もでしょう」
「うん」
隠す気もないらしい。
「楽しみ」
その顔を見ていると、自分だけ否定するのも馬鹿らしくなる。
「……私もです」
昨日から何度言っているのだろう。
結婚後のことを考えるのが、楽しみだと。
言うたびに少しずつ、言葉が自分の中へ馴染んでいく気がした。
◇◇◇
昼食後。
二人は王妃付きの侍女に案内され、王宮の西寄りへ向かった。
外の雨はまだ続いている。
回廊の外側では細かな雨粒が庭木を濡らし、薄暗い空のせいで昼過ぎにもかかわらず壁の燭台へ灯りが入れられていた。普段アマリリアが執務で使う区画から離れるにつれ、行き交う官吏や文官の姿が減り、代わりに王族付きの使用人を見かけることが多くなる。
「この辺、あまり来ない」
ライルが周囲を見る。
「殿下でも?」
「俺の部屋は反対側だから」
「そうなのですね」
「アマリリアは?」
「公式の用事で通ったことが数度ある程度です」
案内役の侍女が前を歩きながら説明する。
「これからご覧いただくのは、西南居住区の第二小宮でございます」
「小宮?」
「名称だけです。独立した建物ではなく、王宮本棟と回廊で繋がっております」
角を曲がる。
その先で、空気が少し変わった。
人の数がさらに減る。
壁には華美すぎない装飾が施され、窓の間隔が広くなった。執務用の廊下より生活空間に近いのだと、説明されなくても分かる。
「現在は使われていないのですか?」
アマリリアが尋ねる。
「はい。以前は王族のご夫妻が使用されておりましたが、十年以上空いております。定期的な手入れはしておりますので、居住可能な状態です」
「十年以上」
ライルが言う。
「古い?」
「建物自体は王宮の中では特別古くございません。内装は必要に応じて変更可能です」
大きな扉の前で侍女が止まった。
「こちらです」
扉が開かれる。
最初に見えたのは、小さな玄関広間だった。
王宮なのだから、一般の屋敷と比べれば十分に広い。
だが公式謁見に使うような大広間ではない。
床には淡い色の石。
壁には装飾用の窪みがあるものの、今は何も飾られていない。窓から入る雨の日の光が室内を青白く照らし、家具の少ない空間には少しだけ冷えた匂いが残っていた。
「……空っぽだね」
ライルの声が小さく響く。
「現在は最低限の家具のみです」
侍女が答える。
「実際にお住まいになる場合は、お二人の希望を伺って整えます」
お二人。
その言葉だけで、アマリリアの視線が自然に室内を巡った。
ここに自分とライルが住む可能性がある。
そう思うだけで、空っぽの部屋の見え方が変わる。
「まず、こちらが来客用の小応接室です」
隣室へ進む。
落ち着いた広さ。
大人数の公式会談には向かないが、家族や近しい客を迎えるには十分だ。
「仕事の打ち合わせもできそう」
ライルが言う。
「殿下」
「何?」
「最初に仕事ですか?」
「あ」
ライルが自分で気づいた。
アマリリアは呆れながら笑う。
「私も同じことを考えましたけれど」
「じゃあ同じじゃないか」
「口に出しておりません」
「考えたなら同じ」
「違います」
侍女が前を向いたまま、わずかに肩を揺らした。
次は居間。
こちらは応接室より少し広い。
暖炉。
窓。
壁際には本棚を置ける窪み。
中央には今、長椅子と小さな卓だけがある。
「ここは?」
「ご夫妻が私的にお過ごしになる居間を想定しております。もちろん用途は変更可能です」
「私的に」
ライルが繰り返す。
アマリリアも室内を見る。
仕事の書類を置かない部屋。
そう思った瞬間、昨日の話が蘇る。
「ここには仕事机を置かない方がよいかもしれませんわね」
「俺も今それ思った」
「本当に?」
「本当」
「後から『少しくらいなら』と言いません?」
「言わない……たぶん」
「たぶん?」
「いや、言わない!」
アマリリアは疑いの目を向けた。
「アマリリアもだよ」
「私は」
「絶対持ってくる」
「……」
「ほら」
「では」
アマリリアは室内をもう一度見た。
「もしここに住むなら、この部屋には仕事を持ち込まないことにします?」
ライルが目を瞬く。
「本当に?」
「殿下が守るなら」
「守る」
「私も守ります」
「じゃあ、ここは仕事禁止」
「まだここに住むと決めておりません!」
「もし住んだら」
「それなら」
二人の会話を聞いていた侍女が、控えめに口を開いた。
「そのように部屋ごと用途を分けられる王族の方もいらっしゃいます」
「やっぱり?」
ライルが振り返る。
「はい。ただし、守れるかどうかはご本人次第かと」
「……」
「……」
二人で黙る。
侍女は何事もなかったように次の扉へ向かった。
「強いですわね」
「母上付きだからかな」
「聞こえております」
前から声が返ってきた。
「申し訳ありません」
二人で同時に謝った。
◇◇◇
次に案内されたのは、食事を取るための部屋だった。
大広間ではない。
十人も座れば窮屈になりそうな長方形の部屋で、今は六人掛けの食卓が一つ置かれている。
窓は二面。
晴れていれば庭の一部が見えるらしい。
「こちらは日常のお食事に使用できます。公式晩餐等は別の区画を使用いたしますので、ご夫妻だけ、あるいは近しい方々との食事を想定しております」
アマリリアは食卓を見た。
なぜか、先ほどの居間よりも強く生活を感じた。
椅子が六つ。
何も置かれていない卓。
今は誰も使っていない。
「ここで朝食?」
ライルが尋ねる。
「ご希望であれば」
「毎日?」
「公務やご予定次第ではございますが」
ライルがアマリリアを見る。
「一緒に食べる?」
「まだ住むと決めておりません」
「もし住んだら」
「……可能な日は」
「毎日じゃなくて?」
「殿下」
アマリリアは少し笑った。
「朝から公務がある日も、私がベスター家へ戻っている日もあるでしょう」
「そっか」
「殿下だけ早い日も」
「アマリリアだけ遅い日も」
「ですから、毎日絶対と決めない方がよいです」
「でも一緒に食べられる日は?」
「一緒に食べましょう」
ライルが嬉しそうに笑った。
アマリリアは食卓へ近づく。
椅子の背へ指先で触れる。
仕事机よりも。
豪華な応接室よりも。
この食卓の方が、結婚後という言葉を現実にした。
「昨日まで」
アマリリアが呟く。
「結婚後に一緒に暮らす、と言われても、あまり具体的には想像できませんでした」
「今は?」
「少し」
「何が見えた?」
アマリリアは食卓を見る。
「朝食です」
ライルが少し驚いた。
「朝食?」
「はい」
「もっと大きなことじゃなくて?」
「大きなこととは?」
「王子夫婦として何かするとか」
「それも必要でしょうけれど」
アマリリアは椅子から手を離した。
「毎日暮らすなら、こういうことの方が多いのでは?」
朝食。
帰宅。
夕食。
同じ部屋で本を読む。
時には別々に仕事へ行く。
休みが合えば出かける。
大きな式典より、その間にある普通の日の方がずっと多い。
「俺も」
ライルが食卓の反対側へ回った。
「ここ、好きかも」
「まだ他をほとんど見ておりません」
「分かってる」
「食卓だけで決めませんよ」
「分かってるって」
「本当に?」
「でも好きって思うくらいはいいでしょう?」
アマリリアは少し考えた。
「はい」
「アマリリアは?」
「……私も、好きです」
雨音が窓へ小さく当たる。
誰も使っていない食卓を挟んで、二人で笑った。
◇◇◇
食堂の奥には、小さな配膳室と使用人用の通路がある。
そこから先は生活の裏側だった。
使用人の待機場所。
収納。
洗濯物を扱うための区画。
護衛が交代する小部屋。
案内を受けるほど、「二人で住む」という言葉だけでは済まないことが見えてくる。
「使用人は何人くらい必要ですの?」
アマリリアが尋ねる。
「実際の運用によります。常時この区画に配置する者、王宮全体の使用人から必要時に入る者、アマリリア様がベスター家から連れてこられる方がいる場合などで変わります」
「連れてきてもよいのです?」
「王宮側の身元確認等は必要ですが、可能です」
アマリリアは少し安心した。
自分が王宮へ移るからといって、これまで身近にいた全員と切れるわけではない。
ただし、誰を連れてくるかは別の話だ。
黒衣の者たちをそのまま王宮の廊下へ立たせるわけにもいかない。
「今、何か考えた?」
ライルが聞く。
「いいえ」
「絶対考えた」
「後で必要になれば話します」
「分かった」
追及しない。
アマリリアは少しだけ驚いた後、笑った。
「何?」
「殿下も上手になりましたね」
「何が?」
「今聞かなくてもよいことを、今聞かないことです」
「褒められた?」
「はい」
「嬉しい」
素直だ。
次に案内されたのは、それぞれが使える私室だった。
左右に一室ずつ。
中央には小さな共有室。
「別々なのですね」
アマリリアが言う。
「はい。寝室を常に同室にするか、別室を基本とするか、あるいは状況に応じて使い分けるかは、ご夫妻によって異なります」
「……」
「……」
今まで比較的気楽に見学していた二人が、同時に黙った。
侍女は平然としている。
「こちらが一方の私室です」
扉を開ける。
アマリリアは入る。
後ろからライルも来る。
寝台。
衣装収納。
小さな机。
椅子。
窓。
何もおかしくない。
王族の居室としてはむしろ控えめだ。
なのに先ほどまでと違い、妙に意識してしまう。
「広いね」
「そうですわね」
「……」
「……」
「次見ます?」
「そうしましょう」
二人とも早かった。
侍女がまた少し笑っている。
「何でしょう」
「何も申し上げておりません」
ゼインと同じことを言われた。
アマリリアは何も返せなかった。
◇◇◇
もう一方の私室も、左右が反転している程度で基本構造は同じだった。
ただし窓の向きが違う。
一方は中庭側。
もう一方は王宮外壁側。
「どっちがいい?」
ライルが聞く。
「まだ決めません」
「窓だけなら?」
アマリリアは両方を思い返す。
「私は中庭側でしょうか」
「俺は外側かな」
「では喧嘩になりませんわね」
「よかった」
「そこまで真剣に安心しなくても」
「毎日見るなら大事でしょう?」
「……確かに」
こういう小さな好みもある。
結婚式の衣装より先に、窓の向きを話している。
それが少し可笑しい。
最後に案内されたのは、二人分の小さな執務室だった。
食堂や居間から少し離れている。
「こちらは私的な執務、書簡、個人管理の文書などに使用できます。公式の王子執務は現在の区画を継続利用することも可能です」
ライルが中を見る。
「二部屋?」
「はい」
「一緒じゃないんだ」
「ご希望なら配置変更は可能ですが」
ライルはアマリリアを見る。
アマリリアも見る。
「別でよいのでは?」
「俺も今そう思った」
「一緒の机では、互いの書類が混ざります」
「話しかける」
「殿下が?」
「アマリリアも」
「……否定できません」
「だから別」
「はい」
昨日話したばかりだ。
一緒にいることと、全部一緒にすることは違う。
別々に仕事をして。
終わったら同じ居間へ戻る。
それくらいがよいのかもしれない。
「でも」
ライルが扉の位置を見る。
「近いね」
「隣ですから」
「困ったらすぐ行ける」
「はい」
「嬉しかったことも?」
昨日と同じ問い。
アマリリアは頷いた。
「それも」
「じゃあいい」
ライルは満足そうだった。
◇◇◇
一通り見終え、二人は最初の居間へ戻った。
侍女が茶を用意してくれる。
今日は見学だけ。
決めない。
そう言われて来たのに、頭の中には既にいくつもの感想がある。
食卓が好き。
居間には仕事を持ち込みたくない。
私室の窓は中庭側がよい。
執務室は別々。
使用人はどうするか。
ベスター家との行き来は。
「書き出したくなってきました?」
侍女に聞かれ、アマリリアはぎくりとした。
「なぜ分かりますの?」
「先ほどから、アマリリア様が指先を動かしておられますので」
自分の手を見る。
確かに、紙もないのに文字を書くように人差し指が動いていた。
「癖になっておりますのね……」
「書いちゃ駄目?」
ライルが聞く。
「駄目ではないでしょうけれど」
アマリリアは少し考える。
「今日すぐ一覧にすると、一覧を埋めることが目的になりそうです」
「じゃあ今日は?」
「覚えていることだけ、後で話しません?」
「忘れたら?」
「その程度だったのかもしれません」
「食卓は忘れない」
「私もです」
ライルが笑う。
「じゃあ、それは大事」
「そうかもしれませんね」
侍女は茶を置くと、少し離れた位置へ下がった。
窓の外では雨が続いている。
誰も住んでいない居間。
まだ二人のものではない。
候補の一つ。
それだけだ。
「アマリリア」
「何でしょう」
「ここに決めたいって意味じゃないけど」
「はい」
「住むところ見るの、楽しいね」
「……はい」
「昨日の文具店とは違うけど」
「違いますね」
「でも、一緒に選ぶのは同じ?」
アマリリアは茶器を両手で包んだ。
「そうかもしれません」
文具店で便箋を見る。
印章を見る。
筆記具を見る。
気に入っても買わないこともある。
別のものを選ぶこともある。
暮らす場所は、それよりずっと大きな選択だ。
けれど、誰かから「ここへ住みなさい」と渡されるのではなく、二人で見て、感じて、考える。
「私」
アマリリアは室内を見回した。
「昨日、お父様と話しました」
「結婚後のこと?」
「はい」
「何て?」
「私の代わりに決めない、と」
ライルは静かになった。
「そっか」
「最初の婚約とは違う、とも」
「……うん」
「殿下」
「何?」
「あの時、脅して申し訳ありませんでした」
ライルの目が大きくなる。
「今!?」
「急に思い出しましたので!」
「いや、いいけど」
「よくはないでしょう!」
「でも、あれがなかったら」
ライルは少し考えた。
「今ここにいないかもしれない」
アマリリアも黙った。
「脅されたのはびっくりしたけど」
「申し訳ありません」
「怖かったけど」
「……申し訳ありません」
「アマリリア、本気だったし」
「何度謝らせますの!?」
ライルが笑う。
「ごめん。でも」
笑みが少し柔らかくなる。
「今は、婚約者になってよかったって思ってるから」
アマリリアの胸が温かくなる。
「私もです」
「脅したこと?」
「違います!」
反射的に声が大きくなった。
離れていた侍女が少しこちらを見る。
アマリリアは声を落とす。
「殿下と婚約してよかった、という意味です」
「うん」
「分かっていて聞きましたわね?」
「ちょっと」
「まったく……」
怒りきれない。
むしろ笑ってしまう。
「今度は」
ライルが言う。
「脅されなくても結婚するよ」
「……」
アマリリアは完全に言葉を失った。
ライル自身も言ってから少し照れたらしい。
頬が赤くなっている。
「当たり前でしょう」
ようやく出たのは、それだけだった。
「うん」
「正式に婚約しておりますし」
「うん」
「相思相愛ですし」
「うん」
「……何です?」
「アマリリアが自分で相思相愛って言った」
「事実でしょう!」
「嬉しい」
「本当に殿下は!」
笑うしかなかった。
空っぽだった居間に、二人の声が残る。
まだここに住むとは決めていない。
けれど、もしここを選ぶなら。
こんなふうに笑う声が日常になるのかもしれない。
◇◇◇
見学を終え、執務区画へ戻る頃には、雨が少し弱くなっていた。
回廊の窓にはまだ細かな水滴が残っている。
「どうだった?」
途中で待っていたセレーネが尋ねた。
「母上」
「見に来たわけじゃないわよ。たまたま通ったの」
「本当です?」
「半分くらい」
「やっぱり!」
セレーネが笑う。
「で?」
アマリリアとライルは顔を見合わせた。
「まだ決めません」
アマリリアが答える。
「もちろん」
「ですが、実際に見てよかったです」
「何が分かった?」
問われ、アマリリアは少し考える。
「仕事机より、食卓が気になりました」
セレーネが目を瞬く。
「食卓?」
「はい」
「俺も」
ライルが続ける。
「一緒に朝食食べられる日があるといいなって」
セレーネの表情がゆっくり柔らかくなる。
「そう」
「それから、居間は仕事禁止にしようかと」
「もう決めたの?」
「もし、あそこに住んだらです」
「守れる?」
「……」
「……」
二人で黙る。
セレーネが笑った。
「そこからね」
「努力します」
アマリリアが答える。
「努力なんだ」
「王妃陛下!」
「冗談よ」
セレーネは楽しそうに二人を見る。
「他の二つは、すぐ見なくていいわ」
「よろしいのです?」
「今日見た場所がどうだったか、少し暮らしの中で考えてからでいいでしょう」
「暮らしの中で?」
「明日の朝になっても食卓が気になるなら、それも一つの情報でしょう?」
アマリリアは少し驚いた。
数字でも条件でもない。
ただ、翌日になっても気になる。
それも選ぶ材料になる。
「分かりました」
「急がなくていいわ。まだ式の日取りすら決めていないのだから」
セレーネはそう言って去っていく。
ライルがその背中を見送った。
「母上、最近『急がなくていい』ってよく言うね」
「私たちが急ぎすぎるからでは?」
「……否定できない」
「私もです」
二人で執務室へ戻った。
◇◇◇
その日の仕事を終える頃には、雨はほとんど止んでいた。
雲の切れ間から淡い夕方の光が差し、濡れた庭園の石畳が白く光っている。
アマリリアは帰る準備をしながら、鞄から共有帳面を取り出した。
「殿下」
「何?」
「読みます?」
「今?」
「昨日の分です」
ライルはすぐ近くまで来た。
「読む」
「近いです」
「ごめん」
一歩下がる。
アマリリアは帳面を渡した。
ライルが開く。
『本日、結婚した後にどこで暮らすかという話が出ました。まだ何も決まっておりません。』
『決まっていないのに、少し楽しみです。』
そこまで読んだライルの口元が緩む。
そして最後。
『お父様にも話しました。寂しいですが、家がなくなるのではなく、家が一つ増えるのだと思うことにします。』
ライルの表情が止まった。
「……」
「何です?」
「家が増える」
「はい」
「王宮も?」
「もし王宮で暮らすなら」
「俺と?」
「誰と結婚する予定だと思っておりますの?」
「俺」
「なら聞かないでください!」
ライルは帳面を胸元へ少し引き寄せた。
「嬉しい」
その声は、いつものように大きくなかった。
アマリリアも、それ以上茶化さなかった。
「今日見た場所が、そうなるかは分かりません」
「うん」
「別の場所かもしれません」
「うん」
「ですが」
アマリリアは窓の外を見る。
「殿下と暮らす場所なら、新しい家にはなるのでしょうね」
ライルがしばらく何も言わなかった。
そして、帳面を閉じる。
「俺もそう思う」
「はい」
「今日、書いていい?」
「どうぞ」
「何書くかは見ないで」
「昨日、私に読ませる時は見ておりましたでしょう」
「今日は恥ずかしい」
「では見ません」
アマリリアはわざと窓の外へ向いた。
背後で椅子が動く音がする。
筆記具。
インク瓶。
紙へ筆先が触れる小さな音。
しばらくして。
「いいよ」
振り返る。
ライルは帳面を閉じていた。
「今日は持って帰る?」
アマリリアが聞く。
「アマリリアが」
「よろしいのです?」
「うん。後で読んで」
「分かりました」
受け取る。
中身はまだ見ない。
今夜、屋敷へ戻ってから。
それでよい。
◇◇◇
夜。
ベスター家の自室で、アマリリアは共有帳面を開いた。
自分の文章の下に、ライルの字が増えている。
『今日、住むかもしれない場所を一つ見た。』
『部屋はいくつもあったけど、俺も食卓が一番気になった。』
そこで一度、文章が切れている。
次の行。
『アマリリアが「家が一つ増える」と書いてくれたので、俺も、アマリリアが帰ってきたいと思える家にしたい。』
アマリリアの指が止まった。
帰ってきたいと思える家。
王宮へ住む。
王子妃になる。
第一王子と結婚する。
どれも正しい。
けれど、ライルが書いたのは役割ではなかった。
帰ってくる場所。
その下には、もう一行。
『あと、一緒に朝食を食べたい。毎日じゃなくてもいいから。』
「……」
アマリリアはしばらく帳面を見つめた。
今日見た食卓を思い出す。
六つの椅子。
空の卓。
雨に濡れた窓。
まだ誰も暮らしていない部屋。
あの場所を選ぶかは分からない。
他の二つを見れば、もっと気に入る場所があるかもしれない。
条件上、別の場所になる可能性もある。
だから、今決める必要はない。
それでも。
アマリリアは昨日買った筆記具を手に取った。
青いインクを含ませる。
『私も、一緒に朝食を食べたいです。』
そこまで書いて、少し考える。
そして続けた。
『毎日でなくてもよいです。忙しい日も、別々に出かける日もあるでしょうから。』
さらに一行。
『だからこそ、一緒に食べられる朝を大切にできればよいと思います。』
書き終えた。
だが、まだ筆を置かなかった。
昼間、二人で話したこと。
仕事を持ち込まない居間。
別々の執務室。
中庭側の窓。
そして。
同じ場所へ帰る。
アマリリアは最後に短く加えた。
『帰りたいと思える家は、私も作りたいです。二人で。』
筆を置く。
少し恥ずかしい。
明日ライルが読めば、また大げさに喜ぶかもしれない。
それでも消さなかった。
結婚式はまだ先。
日取りも決まっていない。
住む場所も決まっていない。
二日後にはミナ・オルドへの聞き取りがあり、明日も王国の仕事は続く。
けれど、その合間に。
二人がこれから暮らす場所について考える時間が入り始めた。
大きなことばかりではない。
どちらの窓が好きか。
仕事机をどこへ置くか。
居間へ書類を持ち込むか。
朝食を一緒に食べるか。
そんな小さなことだった。
けれどアマリリアには、豪華な結婚式の想像よりも、その方がずっと現実的に思えた。
婚約を押し付けられた時、自分の未来は誰かが勝手に決めるものに見えた。
今は違う。
未来は、六人掛けの空っぽの食卓のようだった。
まだ何も置かれていない。
誰がどこへ座るのかも決まっていない。
だからこそ、これから二人で決められる。
アマリリアは帳面を閉じ、机の灯りを少し落とした。
窓の外では、長く降っていた雨が完全に止んでいる。
明日の朝。
今日見た食卓のことをまだ覚えていたら。
王妃の言う通り、それも一つの答えなのかもしれなかった。




