第103話
翌朝、雨は上がっていた。
王宮へ向かう馬車の窓から見える空にはまだ薄い雲が残っていたが、東の端から差し込む朝日が濡れた街路を淡く照らしている。店先では昨夜の雨水を掃き出す者がいて、通りを走る荷車の車輪が小さな水たまりを踏むたび、乾き始めた石畳へ細かな水滴が散った。
アマリリアは膝の上に置いた鞄へ一度だけ視線を落とした。
中には共有帳面が入っている。
昨夜、ライルが書いた言葉へ返事を書いた。
『私も、一緒に朝食を食べたいです。』
『毎日でなくてもよいです。忙しい日も、別々に出かける日もあるでしょうから。』
『だからこそ、一緒に食べられる朝を大切にできればよいと思います。』
そして最後に。
『帰りたいと思える家は、私も作りたいです。二人で。』
書いた時には、それでよいと思った。
夜だった。
一人だった。
ライルの「帰ってきたいと思える家にしたい」という言葉を読んだ直後でもあった。
だが朝になって改めて思い出すと、かなり恥ずかしい。
「……」
消そうか。
一瞬だけ考えた。
しかし、既にインクは乾いている。
線を引いて消した方が余計に目立つ。
「お嬢様」
向かいに座るゼインが声をかけてきた。
「何でしょう」
「先ほどから鞄を三度ご覧になっておりますが」
「数えていたのですか?」
「正面におりますので」
「何でもありません」
「左様でございますか」
ゼインはそれ以上聞かなかった。
最近、この男まで「今聞く必要のないことは聞かない」を実践している気がする。
便利ではある。
少し腹も立つ。
「ゼイン」
「はい」
「昨日見た王宮の居住区画について、父から何か聞かれました?」
「いいえ」
「本当に?」
「旦那様は、お嬢様から話すまで待つおつもりではないでしょうか」
アマリリアは少し驚いた。
「珍しいですわね」
「旦那様も変わられたのでしょう」
「……そうかもしれません」
昨日、ハロルドは言った。
意見は言う。
ベスター家として必要な話もする。
だが、娘の代わりには決めない。
その言葉を、実際の行動でも守ろうとしているのかもしれない。
アマリリアは窓の外へ視線を戻した。
父も変わる。
自分も変わる。
ライルも変わった。
だから、これからの暮らしも最初から完成した形を求めなくてよいのだろう。
◇◇◇
執務室へ入ると、ライルはまだ来ていなかった。
珍しい。
アマリリアが時計を見る。
遅刻ではない。
自分が少し早いだけだ。
「……」
机へ向かう。
鞄を置く。
共有帳面を取り出す。
机の端へ置く。
そして。
「……やはり少し」
恥ずかしい。
帳面を鞄へ戻そうとした瞬間、扉が開いた。
「おはよう、アマリリア」
「おはようございます!」
反射的に帳面から手を離した。
ライルが止まる。
「どうしたの?」
「何もありません」
「声大きかったけど」
「朝ですので」
「朝だと大きいの?」
「本日はそうなのです!」
「……分かった」
絶対に分かっていない顔だった。
ライルは自分の席へ向かいかけ、机の上の共有帳面に気づく。
「あ」
「……」
「書いた?」
「書きました」
「読んでいい?」
来た。
当然来る。
自分から机へ置いたのだから。
「どうぞ」
平静を装う。
ライルが帳面を受け取る。
アマリリアは自分の書類を整え始めた。
見ない。
絶対に見ない。
昨日ライルへ「見られていると読みにくい」と言ったのは自分だ。
だから見ない。
紙を揃える。
筆記具を置く。
インクを確認する。
「……」
静かだ。
なぜ何も言わない。
アマリリアは我慢した。
「……」
まだ静か。
耐えられなくなった。
「殿下」
「うん?」
「読みました?」
「読んでる」
「そうですか」
まだだった。
恥ずかしい。
再び書類を見る。
やがて、頁をめくる小さな音がした。
それから。
「アマリリア」
「何でしょう」
「ありがとう」
予想していた反応と違った。
もっと大げさに喜ぶと思っていた。
帳面を持ったライルは、ただ嬉しそうに笑っている。
「何がです?」
「書いてくれて」
「殿下が先に書いたのでしょう」
「うん」
「ですから、返事を」
「それが嬉しい」
アマリリアは視線を逸らした。
「……そうですか」
「帰りたいと思える家、二人で作ろうね」
「はい」
「食卓も」
「まだあの区画に決めたわけではありません」
「分かってる」
「別の場所の食卓かもしれません」
「うん」
「そもそも家具は替えられるのでしょう?」
「たぶん」
「でしたら、昨日の食卓そのものにこだわる必要は」
「アマリリア」
「何です?」
「今日も気になってる?」
アマリリアは口を閉じた。
王妃セレーネが昨日言った。
明日の朝になっても食卓が気になるなら、それも一つの情報。
「……はい」
認める。
「殿下は?」
「気になってる」
「そうですか」
「朝ごはん食べながら思い出した」
「私もです」
二人で顔を見合わせた。
それだけで少し可笑しくなった。
「じゃあ」
ライルが言う。
「母上の言った通りだった」
「認めるのは少し悔しいですが」
「何で?」
「何となくです!」
ライルが笑う。
アマリリアも笑った。
候補の一つを見ただけ。
決めてはいない。
それでも翌朝になって残っているものがある。
それを急いで結論へ変えなくてもよい。
ただ、覚えておけばよいのだろう。
◇◇◇
午前の執務が始まる前、ディーンとレオンが入ってきた。
明日はいよいよミナ・オルドへの聞き取りだ。
ただし、今日は最終確認のために長い会議をする予定ではない。
「明日の件について、二点のみ確認いたします」
ディーンが手元の紙を見る。
「まず時間です。ミナ氏からは昼過ぎとの希望がありましたので、午後一刻を目安に店へ伺います。ただし、来客が続いている場合は外で待ちます」
「店の前で?」
ライルが尋ねる。
「人目が集まるようなら、少し離れます。店内で王宮の者が待ち続ける方が負担になる可能性がありますので」
「そうですわね」
アマリリアが頷く。
「本人が『待って』と言える形にしてください」
「はい」
「こちらが時間通り来たから、店を閉めてでも話さなければと思わせない」
「承知しております」
ディーンが続ける。
「二点目は記録です。レオンから本人へ、開始前に説明します」
レオンが少し緊張しながら口を開いた。
「すべての言葉を書き取るわけではなく、主な内容と後で確認が必要になりそうな点を記録します。必要のない人名や店名は、こちらから求めません。私が何を書いているか気になった場合は、その場で聞いていただいて構わない、と説明する予定です」
「よいと思います」
アマリリアが答える。
ライルも頷いた。
「トーマさんの時みたいに、ずっと書き続けない?」
「はい。前回は、沈黙の間まで筆を動かしてしまった場面がありました」
「それでトーマさんが、何でも記録されてるみたいに感じた」
「はい」
レオンは少し苦笑した。
「明日は、書かない時間も意識します」
「意識しすぎて、必要なことまで書かないようにはしてくださいね」
「はい」
「難しいですわね」
「正直、難しいです」
レオンが認めた。
その答えに、アマリリアは少し安心した。
完璧にできると言われるよりよい。
「質問は昨日のまま?」
ライルがディーンを見る。
「はい。最初は『最近の仕入れや荷物の運び方で、以前と変わったと感じることはありますか』を予定しております」
「その後は?」
「本人の話次第です」
「質問表は?」
「作成しておりません」
「うん」
ライルは満足そうに頷いた。
アマリリアも異論はない。
トーマの時に分かったことを、全部「改善点」として詰め込まない。
前回と同じ人間が聞く。
同じ人間が記録する。
だからこそ、自分たちが前回何をしてしまったかを知っている。
「それから」
ディーンが付け加える。
「ミナ氏の店について、事前に追加情報は集めておりません」
「共同便を使っているかも?」
「確認しておりません」
「そのままで」
アマリリアが答えた。
「はい」
「明日、使っていないと分かっても?」
ライルが尋ねる。
「それなら、それを聞けばよいのでは?」
アマリリアが答える。
「使っていない人が、荷物をどう運んでいるかも、今の問いには関係します」
「そうだね」
「ただし、『なぜ使わないのですか』から始めるのは避けた方がよいでしょう」
「使わないのが変みたいに聞こえる?」
「はい」
ディーンが頷いた。
「承知しております」
確認はそれだけだった。
十分だった。
ディーンとレオンが退室する。
「明日か」
ライルが呟く。
「はい」
「気になる」
「私もです」
「でも行かない」
「はい」
第一回のトーマ聞き取りと同じ。
アマリリアもライルも同行しない。
王族や高位貴族が直接座れば、それだけで答え方が変わる可能性がある。
「待つ」
ライルが言う。
「そうしましょう」
もう、それ以上確認しなかった。
◇◇◇
午前の仕事は、少し忙しかった。
重大事件ではない。
ただ、細かな確認が重なった。
昨日の雨で王都南側の排水溝二か所に落ち葉が詰まり、一時的に水が溢れたという報告。既に清掃済みで、店舗への浸水はない。
北側の小さな木橋では、濡れた板で荷車の馬が滑りかけたため、表面へ砂を撒き、乾くまで歩行速度を落とすよう案内が出された。
西側では、露店の天幕が雨水の重みで一部破損したが、怪我人はなく、所有者自身が撤去している。
一件ずつ見れば小さい。
だが紙は増える。
「雨って、後から来るね」
ライルが言った。
「昨日降っている最中より、今日になって分かることもありますから」
「全部調べる?」
「何をです?」
「昨日雨が降った場所全部」
アマリリアはライルを見る。
ライルも見る。
数秒。
「……調べない」
「はい」
「今のは冗談半分」
「半分は本気だったのですね」
「ちょっとだけ」
「危ないですわね」
二人で笑う。
現場が処理している。
大きな被害もない。
通常の報告経路も機能している。
なら、王宮が「雨後の問題一覧」を新たに作る必要はない。
午前の最後に、一件だけ少し判断が必要な報告が来た。
王都東端の共同市場で、昨日の雨により屋外荷捌き場が使えず、一部の荷が屋内通路へ移された。その結果、通行幅が狭くなり、朝の搬入時に二度ほど荷車同士が譲り合う場面があったという。
「事故は?」
「ございません」
ディーンが答える。
「現在は?」
「雨が止んだため、屋外荷捌き場を点検後、順次戻しております」
「じゃあ戻れば終わり?」
ライルが尋ねる。
「現場からは、雨天時の仮置き場所をもう少し明確にした方がよいのではないか、という意見が一件出ております」
アマリリアは少し考えた。
「王宮で決めます?」
「いや」
ライルが先に答えた。
「現場で考えてもらう」
「私もそう思います」
「ただ、次の雨でも同じ通路が狭くなるなら?」
「その時は、現場側が何を試したかも見られます」
「うん」
ディーンが記録する。
「では、現場内で雨天時の仮置き方法を確認。王宮側から具体方式は指定せず、次回通常報告へ結果を記載、でよろしいでしょうか」
「はい」
「お願いします」
それで終わった。
昨日見た居住区画のことを考える時間はなかった。
食卓も。
窓も。
居間も。
仕事をしている間は仕事をする。
それでよい。
◇◇◇
昼食時。
アマリリアとライルは、今日は庭園へ出なかった。
雨は上がっているが、まだ地面が濡れている。
代わりに王宮内の小さな食事室を使った。
長方形の卓。
向かい合う二人。
侍従が料理を置き、少し離れる。
アマリリアは席へ座った瞬間、昨日の食卓を思い出した。
ライルも同じだったらしい。
「似てる」
「何がです?」
「昨日の」
「食卓?」
「うん」
「こちらの方が少し大きいです」
「でも、こういう感じ?」
「何が?」
「一緒に食べるの」
アマリリアは周囲を見る。
ここは王宮の食事室。
仕事の合間。
この後も執務がある。
昨日見た場所とは違う。
けれど、確かに。
「そうかもしれません」
「毎日絶対じゃなくていいって、昨日書いてくれたでしょう」
「はい」
「それ、いいなと思った」
「毎日ではない方が?」
「違う」
ライルは首を振った。
「絶対にしないこと」
「……」
「毎日一緒に食べなきゃ駄目って決めたら、できなかった日に嫌な感じになりそう」
アマリリアは少し驚いた。
「殿下がそのようなことを考えるとは」
「失礼だな」
「いえ、以前なら『毎日一緒がいい』とおっしゃるかと」
「今もできるなら毎日がいいよ」
「やはり」
「でも、アマリリアにも予定あるし」
「殿下にもあります」
「うん」
ライルは匙を置いた。
「一緒に食べられなかった日があっても、次の日食べればいい」
アマリリアは微笑んだ。
「それなら私も賛成です」
「次があるから?」
「はい」
劇場。
文具店。
茶店。
何度でも出かける。
食事も同じだ。
一回できなかったから、失われるわけではない。
「でも」
ライルが続ける。
「三日くらい一緒に食べられなかったら寂しいと思う」
「三日で?」
「アマリリアは?」
「……」
考える。
一週間。
いや。
三日。
今でさえ、毎日のように顔を合わせている。
結婚して同じ場所へ帰るようになれば、もっと当たり前になるのだろう。
「私も、少しは」
「少し?」
「……かなり、かもしれません」
ライルが嬉しそうにする。
「そこ喜ぶところです?」
「うん」
「では、殿下が三日不在の時は、私は一人で豪華な朝食をいただきます」
「何で!?」
「寂しさを紛らわせるために」
「俺の分も残して」
「三日後に?」
「駄目か」
「駄目です」
二人で笑った。
その時。
食事室の扉が開いた。
「失礼する」
聞き慣れた声。
アマリリアが振り返る。
「お父様?」
ハロルドが立っていた。
「何で?」
ライルも驚く。
「王宮へ用事があった」
「こちらへ?」
「別件だ。終わったから帰るところだった」
ハロルドは二人の食卓を見る。
「邪魔したか?」
「いいえ」
アマリリアが答える。
「もう食事も終わるところです」
「そうか」
「お父様は?」
「食った」
「なら、何か?」
ハロルドは少しだけ間を置いた。
「昨日、居住区画を見たらしいな」
「もうご存じなのですか!」
「王宮の使用人から聞いたわけじゃない。セレーネ陛下からだ」
「王妃陛下!」
「俺も今日王宮へ来る予定があったからな。『一つ見てもらった』と」
アマリリアは額へ手を当てたくなった。
隠すつもりはない。
ないのだが、周囲が早い。
「どうだった」
ハロルドが尋ねる。
「まだ決めておりません」
「聞いてない」
「……」
「どうだった」
昨日と同じだ。
決めたかではない。
どう思ったか。
「よい場所でした」
アマリリアは答えた。
「食堂が気に入りました」
「食堂?」
「はい」
「部屋でも庭でもなく?」
「食堂です」
ハロルドは少し意外そうにし、それからライルを見る。
「殿下は?」
「俺も食卓です」
「二人揃って?」
「はい」
ハロルドは何とも言えない顔になった。
「……そうか」
「何です、その顔は」
「いや」
「何でしょう」
「本当に暮らすこと考えてるんだなと思ってな」
アマリリアは黙った。
ハロルドも、昨日までとは少し違う実感を持ったのかもしれない。
「お父様」
「何だ」
「寂しいです?」
今度はハロルドが黙った。
「……少しはな」
「少し?」
「かなり聞きたいのか?」
「いえ」
「なら少しだ」
父娘だ。
似ている。
ライルが横で笑いを堪えている。
「殿下」
「何?」
「笑わないでください」
「ごめん」
ハロルドはライルを見る。
「殿下」
「はい」
「娘に毎朝仕事をさせながら飯を食うなよ」
「しません!」
「本当に?」
「父上みたいなこと言わないでください」
「誰の父だ」
「アマリリアの」
「なら合ってるだろ」
「そうだけど!」
アマリリアは二人を見て、ため息をついた。
「お父様」
「何だ」
「私も仕事を持ち込みそうなので、殿下だけ注意しないでください」
「お前はもっとやりそうだ」
「どういう意味です!」
「自覚しろ」
「しております!」
「ならいい」
ハロルドは少し笑った。
「住む場所は、自分たちで決めろ」
「はい」
「ただ、ベスター家から王宮へ持っていきたいものがあるなら、早めに言え」
アマリリアは目を瞬く。
「まだ何も決まっておりませんよ」
「分かってる。決まってから全部一日で運べと言われても困る」
「そのようなことは」
言いかけて。
自分ならやりかねないと思った。
「……早めに相談します」
「そうしろ」
ハロルドはそれだけ言って帰ろうとする。
「お父様」
「何だ」
「ありがとうございます」
「まだ何もしてない」
「それでもです」
ハロルドは一瞬だけ娘を見た。
「……そうか」
短く答え、食事室を出ていった。
扉が閉じる。
「アマリリア」
「何でしょう」
「お父さん、寂しいんだね」
「殿下」
「はい」
「今度本人の前で言ってください」
「嫌だよ!」
「なぜです?」
「怖いから!」
アマリリアは笑った。
◇◇◇
午後。
執務室へ戻ってしばらくした頃、王妃付きの侍女が再び訪れた。
「王妃陛下からでございます」
アマリリアとライルが同時に見る。
「今日は部屋見学ではございません」
先に言われた。
「何も言っておりません」
「お二人とも、そのようなお顔をされましたので」
侍女は小さな紙を差し出した。
「昨日ご覧いただいた第二小宮について、今すぐ返答は不要とのことです。また、他二候補についても、お二人から希望があるまで案内日を設定しないとのことでした」
「母上が?」
「はい」
ライルが紙を見る。
「次を見たくなったら言う?」
「そのように」
「分かりました」
アマリリアも頷いた。
侍女が退出する。
「どうする?」
ライルが尋ねた。
「何がです?」
「次の部屋」
「まだよいのでは?」
「俺もそう思う」
意見が一致した。
意外なほど簡単に。
「昨日の場所について、もう少し考えたいです」
「うん」
「比較する前に」
「うん」
「それに明日はミナさんです」
「そうだった」
「住居の話と聞き取りを一緒に考える必要はありません」
「じゃあ次の部屋は、明日でも明後日でもない」
「はい」
「いつ?」
「見たくなった時でよいでしょう」
ライルは笑った。
「分かった」
それで終わった。
日付を決めない。
期限も決めない。
けれど、なくなったわけではない。
必要になった時に次を見る。
◇◇◇
その日の夕方。
仕事を終えたアマリリアは共有帳面をライルへ渡した。
「今日は殿下がお持ちください」
「いいの?」
「はい」
「書いていい?」
「もちろん」
ライルは帳面を受け取る。
「アマリリアは今日書かない?」
「書きたいことがあれば、明日」
「分かった」
それだけで別れた。
夜。
王宮の私室へ戻ったライルは、一日の終わりに帳面を開いた。
昼に読んだアマリリアの文章がある。
『帰りたいと思える家は、私も作りたいです。二人で。』
もう一度読む。
それから新しい行へ筆を置いた。
『今日の朝も、昨日見た食卓のことを覚えていた。』
少し考える。
『でも、次の候補をすぐ見なくてもいいと思った。』
さらに続ける。
『あの場所に決めるかはまだ分からない。』
ここまでは簡単だった。
その次で筆が止まる。
今日の昼。
アマリリアと向かい合って食事をした。
毎日絶対に一緒に食べる、と決めない。
食べられない日があっても、次の日がある。
でも、三日会えなければ寂しい。
アマリリアも「かなり」寂しいかもしれないと言った。
思い出して笑う。
『毎日全部一緒じゃなくても、帰る場所が同じならいいと思う。』
ライルは書いた。
読み返す。
少し違う気がした。
もう一行。
『別々に仕事をして、別々に出かけて、それでも帰ったらアマリリアがいる暮らしがいい。』
書いた瞬間、恥ずかしくなった。
「……」
消そうか。
アマリリアも今朝、こんな気持ちだったのだろうか。
そう考えると、少し可笑しい。
消さない。
最後に。
『明日はミナさんの聞き取りの日。俺たちは行かない。帰ってくる話を待つ。』
そこまで書き、ライルは筆を置いた。
仕事と生活。
同じ頁に書かれている。
だが、不思議と混ざっているようには見えなかった。
どちらも今の自分たちにとって大切なものだからだ。
◇◇◇
同じ頃。
東市場の乾物店では、ミナ・オルドが翌日の仕入れ予定を書いた紙を確認していた。
店は既に閉まっている。
夫が棚の奥で在庫を数えている。
「明日、昼過ぎだったな」
夫が言う。
「何が?」
「王宮の人」
「ああ」
ミナは紙から顔を上げる。
「忘れてたのか?」
「忘れてないわよ。朝の仕入れが先だから、そっち見てただけ」
「店閉める?」
「閉めない」
「話してる間は?」
「あんたがいるでしょ」
「俺か」
「夫でしょうが」
夫は肩をすくめた。
「何聞かれるんだろうな」
「知らない」
「怖くないのか?」
「怖くないって言ったら嘘になるわよ」
ミナは率直に答えた。
王宮から手紙が来た。
断ってもよいと書いてあった。
だから一度は、本当に断ろうかと思った。
自分は役人でも、大商人でも、運送組合の人間でもない。
乾物を売っているだけだ。
仕入れに行く。
荷車を出す。
時には隣の店の荷も一緒に持って帰る。
それだけ。
「でも」
ミナは在庫表を畳んだ。
「何か正解を言えって話じゃないんでしょう?」
「手紙にはそう書いてたな」
「だったら、知らないことは知らないって言うわ」
「共同便の話?」
「それだけじゃないって書いてあった」
「使ってるだろ、お前」
「使う時もある」
「使わない時も?」
「ある」
夫は少し考えた。
「どっちがいいんだ?」
「何が?」
「共同便と、自分で運ぶの」
ミナは夫を見る。
「荷物によるでしょう」
「まあ、そうか」
「日にもよるし」
「うん」
「仕入れ先にもよるし」
「うん」
「急ぐかどうかにもよる」
「……王宮の人、困るんじゃないか?」
「何で?」
「どっちがいいか聞きたいんじゃないのか?」
ミナは少し笑った。
「それなら、困ればいいんじゃない?」
「お前な」
「だって本当にそうなんだから」
店の外を、遅い時間の荷車が一台通り過ぎていく。
車輪の音が遠ざかる。
ミナは入口の鍵を確認した。
「明日は、仕事の邪魔にならないなら話す。それだけ」
「客が来たら?」
「待ってもらう」
「王宮の人を?」
「手紙にそうしていいって書いてあったでしょう」
「本当にやるのか」
「書いたなら守ってもらうわよ」
ミナは灯りを一つ消した。
明日、何を聞かれるかは知らない。
だから、答えも用意しない。
普段どうしているか。
聞かれたことについて、自分が知っている範囲で話す。
それ以上でも、それ以下でもない。
王宮ではライルとアマリリアが、聞き取りの結果を待つと決めている。
東市場ではミナが、仕事を止めずに話すと決めている。
どちらも、明日の答えを先に決めてはいなかった。
そして翌日の昼過ぎ。
二人目の聞き取りが、ようやく始まることになっていた。




