第104話
翌朝、王都には久しぶりに青空が戻っていた。
数日続いた雨に洗われた屋根瓦は朝日を受けて鈍く光り、王宮の中庭では使用人たちが濡れた落ち葉を集めている。窓を少し開けると冷たい空気と土の匂いが入り込み、執務室の中にも昨日までとは違う明るさが広がっていた。
アマリリアが部屋へ入った時、ライルは既に自分の席にいた。
「おはようございます」
「おはよう、アマリリア」
挨拶を交わした後、ライルが机の端に置いてあった共有帳面を持ち上げる。
「これ」
「書きました?」
「うん」
「では、後で読みます」
「今じゃなくて?」
「今から仕事でしょう」
「まだ始まってないよ」
「始めれば始まります」
「強い」
ライルは笑いながら帳面を差し出した。
アマリリアは受け取り、鞄へ入れる。
「気にならない?」
「気になります」
「じゃあ読めばいいのに」
「気になるものを全部すぐ確認する必要はありません」
「ああ」
ライルが納得したように頷く。
「それ、仕事で覚えたやつ?」
「生活でも使えるようです」
「でも、今日の聞き取り結果は気になる」
「それは私もです」
二人で顔を見合わせる。
今日はミナ・オルドへの聞き取りの日だ。
昼過ぎ。
東市場にある乾物店。
行くのはディーンとレオン。
アマリリアもライルも行かない。
結果が戻るまで待つ。
決めたことは単純だった。
「殿下」
「何?」
「今日は何時から『まだでしょうか』と言い始める予定です?」
「言わないよ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん」
「努力する」
「それなら結構です」
以前なら、自分も同じだっただろう。
むしろライルより先に、予定時刻を過ぎた瞬間から時計を気にしていたかもしれない。
今でも気にならないわけではない。
ただ、ミナにはミナの仕事がある。
店へ客が来れば、聞き取りを中断することもある。
開始が遅れるかもしれない。
話が短く終わるかもしれない。
そもそも当日になって断る可能性だって、まだ残っている。
こちらが予定を決めたからといって、相手の時間まで所有したわけではない。
「では」
アマリリアは机上の書類を開いた。
「始めましょう」
「はい」
ライルも自分の席へ戻った。
◇◇◇
午前の執務は、驚くほど普通だった。
王都北西部の共同井戸で、汲み上げ用の縄が一本切れた。
予備の縄へ交換済み。
井戸そのものに異常はない。
南側の小市場では、雨で濡れた掲示板の紙が一部読めなくなり、担当者が貼り直している。
東の街道では、ぬかるみが残っている区間について荷車へ迂回案内が出されたが、半日ほどで通常経路へ戻せる見込みだという。
一件ずつ確認する。
必要なら返事をする。
不要なら現場へ任せる。
昼前になった頃、第二共同倉庫から定期報告も届いた。
アマリリアは紙へ目を通す。
「表示板の前、問題なし」
「うん」
ライルも隣から見る。
「新しく入った人が一人?」
「はい。二点の説明を受けていますね」
荷札と置き場所を確認する。
分からなければ、勝手に判断せず止めて尋ねる。
それだけだ。
今回は、その新人が迷う場面そのものがなかったらしい。
「何も起きてない」
ライルが言う。
「はい」
「じゃあ、何も分からない?」
「少なくとも、その方が迷った時にどうするかは分かりませんね」
「でも説明はした」
「はい」
「それで今はいい?」
「よいのでは?」
アマリリアは報告書を置いた。
「迷う場面を作るために、わざと分かりにくい荷物を渡す必要はありませんもの」
「実験じゃないから」
「そういうことです」
現場は仕事をしている。
王宮の知りたいことを調べるために存在しているわけではない。
報告書には、熟練者から一つだけ補足があった。
『尋ねること自体が目的にならないよう、まず荷札と置き場所を見てから判断するよう引き続き説明。』
「また書いてる」
ライルが言った。
「大事なのでしょうね」
「『分からなければ聞け』だけ覚えると、何でも聞くようになる?」
「可能性はあります」
「だから先に見る」
「はい」
それ以上は広げない。
現場から来た報告を受け取り、現在の運用を続けてもらう。
新しい質問も出さなかった。
「これで終わり?」
「はい」
「早いね」
「終わるものは終わります」
「じゃあ昼にしようか」
「まだ少し早いです」
「駄目?」
「あと一件あります」
「……はい」
ライルは素直に次の書類を取った。
◇◇◇
昼食を終えた頃、ディーンとレオンは既に王宮を出ていた。
アマリリアたちは知らない。
正確には、出発予定時刻は知っている。
だが、今どこを歩いているのかまでは確認していない。
東市場へ向かう道は、雨上がりのせいで普段より少し混雑していた。
晴れを待っていた荷が一斉に動き始めている。
荷車。
手押し車。
籠を背負う者。
商人。
買い物客。
通りの端には、濡れた天幕を干している露店もある。
「思ったより混んでおりますね」
レオンが周囲を見る。
「昨日動かなかった分でしょう」
ディーンは立ち止まらずに答えた。
「店へ着いて忙しそうなら、どうします?」
「本人に聞きます」
「こちらで判断しない?」
「見るからに話せない状況なら、そもそも声をかける時機を待ちます。ただ、忙しいから今日は無理だろうとこちらだけで決める必要もありません」
「分かりました」
レオンは頷く。
その手には、小さな記録板と紙がある。
前回より紙の枚数は少ない。
意図的だった。
何枚も紙を広げれば、それだけで「大量に記録される」という印象を与えるかもしれない。
だからといって、紙を一枚に制限したわけではない。
足りなくなれば増やす。
必要なものを必要なだけ使う。
東市場へ入る。
乾物、布、日用品、金物。
様々な店が並ぶ中で、目的の店はすぐに見つかった。
入口には豆や乾燥果実の袋が積まれている。
軒下には香草の束。
店の奥には木箱がいくつも並び、乾いた穀物と香辛料の匂いが混じって漂っていた。
店先には客が二人いる。
ミナ・オルドはその相手をしていた。
髪を後ろでまとめ、袖を肘近くまで上げている。
昨日と同じく、いかにも仕事の途中という姿だ。
ディーンは店内へ入らず、少し離れた場所で止まった。
「待ちましょう」
「はい」
客の一人が豆を選ぶ。
もう一人は乾燥した果物について尋ねている。
ミナは二人を交互に相手しながら、時々奥にいる夫へ声をかけた。
数分。
一人目が帰る。
さらに少しして、二人目も品物を抱えて店を出た。
ミナが顔を上げる。
二人へ気づいた。
「ああ」
手を軽く上げる。
「王宮の人?」
「はい。ディーンと申します」
「レオン・ハースです」
「ミナ・オルド。まあ、名前は知ってるでしょうけど」
「はい」
「今なら大丈夫よ」
ミナはそう言った後、店の外を見る。
「たぶん」
「途中でお客様が来た場合は、中断していただいて構いません」
ディーンが答える。
「本当に?」
「はい」
「王宮の人を待たせても?」
「そのために店でお願いしておりますので」
ミナは少しだけ眉を上げた。
「じゃあ、そうさせてもらうわ」
奥へ向かって声をかける。
「あんた、ちょっと奥使うよ」
「はいよ」
夫の返事が返ってきた。
「こっち」
案内されたのは、店の奥にある小さな作業場所だった。
木箱が壁際へ積まれ、中央には帳簿を広げるためらしい古い卓がある。
椅子は三脚。
「狭いけど」
「十分です」
ディーンが答える。
「では、始める前にいくつか確認させてください」
「どうぞ」
ミナが椅子へ座る。
ディーンとレオンも向かい側へ座った。
「まず、今日お話しいただくかどうかは、今からでもお断りいただけます。途中でやめることもできます」
「そこまで何度も言われると、逆に何を聞かれるのか怖いわね」
ミナが笑う。
「申し訳ありません」
「冗談よ。続けて」
「はい。お話しいただいた内容は、最近の仕入れや荷物の運び方を考えるための記録として使用します。ただし、必要のないお名前や店名をこちらから求めることはいたしません」
「私の名前は残る?」
「聞き取りをした相手としては残ります。ただ、後に内容を整理する際、すべての記録へお名前を付けて広く共有することは予定しておりません」
「絶対に誰にも見せない、とは言わないのね」
「言えません」
ディーンは即答した。
「必要に応じて、王子殿下やアマリリア様、担当する官吏が確認する可能性があります」
「なるほど」
ミナは頷く。
「その方が分かりやすいわ」
レオンが続ける。
「私は主な内容を記録します。すべてのお言葉を書き取るわけではありません。何を書いているのか気になった場合は、その場で聞いてください」
「見せてって言ってもいい?」
「はい」
「分かった」
ミナは卓の上で両手を組んだ。
「じゃあ、何を話せばいいの?」
ディーンは用意していた紙へ視線を落とさなかった。
「最近の仕入れや荷物の運び方について、以前と変わったと感じることはありますか」
ミナが黙る。
レオンは筆を動かさない。
店の表から、木箱を動かす音が聞こえる。
「以前って、いつ?」
やがてミナが尋ねた。
「ミナさんが、変化を感じる前と後を比べられる範囲で構いません」
「それも難しいわね」
「はい」
「何年前って決めてないの?」
「決めておりません」
ミナは少し考えた。
「じゃあ、三年くらいかな」
レオンがそこで初めて筆を動かす。
「三年くらい前と比べると、仕入れに行く回数は減ったわ」
「回数が?」
「共同便を使うようになったから」
ディーンは頷くだけに留めた。
「以前は?」
「うちの荷車で行くか、知ってる運び屋に頼むか。量が多ければ商人の荷に乗せてもらうこともあった」
「今は共同便を使う?」
「使う時はね」
ミナはすぐに付け足した。
「全部じゃないわよ」
レオンの筆が動く。
「どんな時に使いますか」
「日持ちするもの。急がないもの。ある程度まとめて頼めるもの」
「例えば?」
「豆とか、乾燥した果物とか。香辛料も急がない分なら使うわね。ただ、仕入れ先と便の日が合えばだけど」
「合わない場合は?」
「自分で行くこともあるし、他の荷に混ぜてもらうこともある。知ってる人に頼むこともある」
ディーンは少し間を置いた。
「共同便ができてから、自分で行く回数が減ったと」
「そうね」
「それは、ミナさんにとって?」
そこまで言って、ディーンが止まる。
ミナが見る。
「何?」
「申し訳ありません。『良かったですか』と続けそうになりました」
「ああ」
ミナが笑った。
「それ聞かれたら、良かったって答えるわよ」
「そうですか」
「だって楽だもの」
レオンが記録する。
「朝から荷車出して仕入れに行けば、半日潰れる時もあるでしょう。その間、店はあの人に任せることになる。共同便で来るなら私は店にいられる」
店の表から、夫の声がした。
「聞こえてるぞ」
「悪口じゃないでしょう!」
「ならいい!」
レオンが思わず笑いそうになり、慌てて表情を整えた。
ミナは気にしない。
「だから便利よ。安いし」
「では」
ディーンは慎重に続ける。
「今は共同便を使うことが多い?」
「物によるって言ったでしょう」
「はい」
「便利だから使う。でも、便の日まで待てないものは待たない」
「例えば?」
「店で急に足りなくなったもの。注文が入ったもの。あとは仕入れ先で『今日なら安く出せる』って言われた時」
「そういう場合は?」
「量による」
また条件が増えた。
「少ないなら自分で行くこともある。知ってる運び屋が空いてたら頼む。別の商人が行くなら、ついでに載せてもらえないか聞くこともある」
「一つの方法ではない?」
「一つにする必要ある?」
ディーンは首を横に振った。
「いいえ」
「だったら、その時使えるので運ぶわよ」
レオンが記録する。
ミナはその手元を一度見る。
「今、何書いた?」
「『急ぎ・量・仕入れ先の条件によって運び方を変える』と」
「それならいい」
「違いますか?」
「だいたい合ってる」
レオンは頷いた。
前回とは違う。
書いた内容を尋ねられた。
そして、その場で確認できた。
「共同便ができたことで、以前使っていた運び屋へ頼む回数は変わりましたか」
ディーンが尋ねる。
「減った人はいる」
「何人くらい?」
「数えてない」
「分かりました」
ディーンは追わない。
ミナが少し考える。
「でも、頼まなくなったわけじゃないわよ」
「今も?」
「急ぎの時とか。あと、壊れやすいものを頼む時。慣れてる人の方が安心な荷もある」
「運賃は?」
「共同便より高い」
「それでも使う?」
「必要なら」
ミナは当たり前のように言った。
「安い方がいいに決まってるけど、安いだけで決めるわけじゃないもの」
ディーンは頷いた。
トーマの言葉を思い出しても、口にはしない。
似ているからといって、同じ話へ寄せない。
「以前使っていた運び屋で、今は頼めなくなった方はいますか」
「いるわ」
「理由は分かりますか」
「一人は年でやめた。一人は共同便の仕事に入ったって聞いた。もう一人は知らない」
「共同便の影響で仕事をやめた方は?」
「知らない」
「分かりました」
そこで終える。
推測させない。
「ミナさんご自身が、近くの店の荷を運ぶこともあると伺いました」
「誰から?」
ミナの声が少し変わった。
ディーンはすぐに答える。
「商人組合へ連絡方法を確認した際、登録上の業務として、自店の仕入れに加えて近隣店の荷を有償で運ぶ場合があることだけ確認しております。それ以上の内容は聞いておりません」
「ああ」
ミナの肩から力が抜けた。
「それならいいわ」
「この話を続けても?」
「どうぞ」
「共同便ができてから、その仕事は変わりましたか」
「減ったわよ」
即答だった。
レオンが筆を動かす。
「かなり?」
「かなりって、どのくらい?」
「……申し訳ありません」
「別に謝らなくてもいいけど」
ミナは笑う。
「数えてないから分からない。前は仕入れに行くついでに、『うちのも持ってきて』って頼まれることが多かったの。今は共同便に頼む店も増えたから、その分は減った」
「収入も?」
「その仕事だけ見れば減った」
ディーンは少し間を置く。
「困りましたか」
今度は止めなかった。
ミナが首を傾げる。
「困ったって、どのくらいなら困ったになるの?」
問い返された。
「ミナさんがそう感じたかどうかで構いません」
「じゃあ、少しは」
「少し?」
「お金は減るからね。でも、私が仕入れに行く回数も減ってるでしょう」
「はい」
「荷車を出す回数も減った。馬を使う回数も減った。半日店を空けることも減った」
「では、全体では?」
「知らない」
ミナはあっさり言った。
レオンの筆が止まる。
「計算してないもの」
「分からない?」
「うん。近所の荷を運んでもらうお金は減った。でも共同便で自分の時間は空いた。馬の餌も前より少し減ってるかもしれない。荷車の修理もあるでしょう。店にいる時間が増えたから、その間に売れた分もあるかもしれない」
ミナは肩をすくめた。
「全部足したらどうかなんて、分からないわ」
ディーンは頷いた。
「分からないままで構いません」
「王宮って、そういうの全部分かると思ってた」
「私たちも、分からないことはあります」
「たくさん?」
「たくさんあります」
ミナが笑った。
「それなら安心した」
「安心?」
「全部分かってる人に『あなたはこうですよね』って言われる方が怖いもの」
レオンはその言葉を書こうとして、一度止まった。
「今の言葉は記録しても?」
「いいわよ」
「ありがとうございます」
筆が動く。
◇◇◇
話が始まってから二十分ほど経った頃だった。
店の表から声がする。
「ミナ、ちょっといいか」
「客?」
「うん」
「今行く」
ミナは立ち上がる。
「ごめん、待ってて」
「もちろんです」
ディーンが答える。
ミナは表へ出ていった。
レオンは反射的に紙へ視線を落とし、それから筆を置いた。
「書かないのですか?」
ディーンが小声で尋ねる。
「今は話していませんから」
「はい」
「前回なら書いていたかもしれません」
「何を?」
「『客対応で中断』とか」
ディーンは少し考えた。
「それ自体が必要になる場合もあります」
「はい。でも今回は、何分中断したかを測る目的ではありません」
「そうですね」
二人は待つ。
店先からミナの声が聞こえる。
干し豆の量。
値段。
今週の入荷。
ごく普通の商売の会話。
数分後、ミナが戻ってきた。
「ごめんなさいね」
「いえ」
「どこまで話したっけ」
ディーンはすぐに答えなかった。
「共同便ができた後、近隣店の荷を運ぶ仕事は減った一方、ご自身の仕入れに行く回数も減り、全体として得か損かは計算していない、というところまでです」
「ああ、そうだった」
ミナが座る。
「続けられますか?」
「大丈夫」
「ありがとうございます」
ディーンは一呼吸置いた。
「共同便の予定と、ご自身の必要な時期が合わない場合について、もう少し伺ってもよいですか」
「いいわよ」
「その時、別の運び方へ必ず切り替えられますか」
ミナがすぐには答えなかった。
レオンも待つ。
「必ずは無理ね」
「無理な時もある?」
「ある」
「どんな時ですか」
「自分が店を離れられない。夫も離れられない。知ってる運び屋が捕まらない。別の商人も行かない。そういうのが重なったら」
「その場合は?」
「待つ」
「共同便を?」
「次の便だったり、誰かが行く日だったり」
「待てない場合は?」
「買わないこともある」
ディーンの表情は変わらない。
「実際にありましたか」
「あるわよ」
「最近?」
「今年の夏に一回」
レオンの筆が動く。
「何を?」
「香辛料。店で切れそうだったけど、いつもの仕入れ先へ行く手段が合わなくてね」
「共同便は?」
「次が二日後だった」
「二日待てなかった?」
「待てなくはなかった」
ミナが答える。
「でも、その間に切れるかもしれなかった」
「結果は?」
「別の店から少し分けてもらった」
ディーンは一瞬だけ視線を上げた。
「では、荷物そのものは運ばなかった?」
「うちが仕入れ先から運ぶのはやめた。その代わり近所から買った」
「価格は?」
「少し高かった」
「困りましたか」
「その日はね」
「その後は?」
「二日後の共同便で普通に仕入れた」
「その一回のために、共同便の仕組みを変えてほしいと思いましたか」
ミナが眉を上げた。
ディーンも自分の問いを振り返る。
「……今のは少し大きすぎました」
「そうね」
ミナは笑った。
「一回香辛料が足りなかっただけで国の仕組み変えられたら、そっちの方が怖いわ」
「おっしゃる通りです」
「でも」
ミナは少し考えた。
「近所から分けてもらえなかったら、二日くらい品切れだったかもしれない」
「それは?」
「困るわよ」
「店として?」
「店としても、お客さんも」
「ただし、今回は代わりがあった」
「そう」
「それは共同便ではなかった」
「近所の店」
「はい」
レオンが記録する。
ここでも、一つの運送手段だけでは話が終わらない。
「逆に」
ディーンが尋ねる。
「共同便があることで、以前なら仕入れなかったものを仕入れるようになったことはありますか」
ミナは目を細めた。
「それ、考えたことなかった」
「分からなければ構いません」
「待って」
ミナは卓を指先で軽く叩く。
「……あるかも」
「何ですか」
「北の方から来る乾燥果実」
「以前は?」
「自分で取りに行くほどじゃなかった。運び屋にそれだけ頼むと高い。商人の荷に空きがあればって感じ」
「今は?」
「共同便の予定が合えば少量でも頼みやすい」
「では、品揃えが増えた?」
「その品についてはね」
ミナはすぐに限定した。
「全部じゃないわよ」
「はい」
レオンもそのまま記録する。
「それ、書いた?」
「『北方面の乾燥果実は、共同便により以前より少量仕入れしやすくなった』と書きました」
「いいわ」
ミナが頷く。
「『品揃えが増えた』だけにしないでね」
「はい」
レオンはその言葉も頭に残した。
まとめれば短くなる。
短くすれば意味が変わることもある。
◇◇◇
さらに少し話した後、ディーンは質問を変えた。
「ミナさんは、荷物を運ぶ側にもなると伺いました」
「近所だけね」
「その時、共同便と競争している感覚はありますか」
「ない」
即答だった。
「全く?」
「少なくとも私はね」
「なぜでしょう」
「だって、私が運ぶのは自分が仕入れに行くついでが多いもの。共同便みたいに決まった日に何十件も運ぶわけじゃない」
「では別のもの?」
「同じ荷物を運ぶことはあるけど、同じ仕事だと思ってない」
ディーンがわずかに姿勢を変えた。
「同じ荷物でも?」
「豆は豆でしょう」
「はい」
「でも、来週までに届けばいい豆と、明日の朝までに欲しい豆じゃ話が違うじゃない」
「……はい」
「量が一袋か十袋かでも違うし」
「はい」
「私がたまたま明日仕入れに行くなら、一袋くらい近所の店の分も持って帰れる。でも十袋なら嫌よ」
ミナが笑う。
「荷車が豆だらけになる」
レオンも笑った。
「では、運ぶ物だけ見ても分からない?」
「何が?」
「どの運び方が合うか」
「そりゃそうでしょう」
ミナは当然のように言う。
「いつ欲しいか、どれくらいか、どこからか。あと誰が空いてるか」
「価格は?」
「もちろん大事」
「でも価格だけではない」
「安くても間に合わなきゃ困るでしょう」
その言葉に、ディーンは何も付け加えなかった。
今の王宮が考えている問いへ近い。
必要な時に、現実に使える運送手段へ届いているか。
だが、それをミナへ教える必要はない。
彼女自身の言葉を、そのまま受け取ればよい。
「今後、共同便がもっと増えたら嬉しいですか」
ディーンが尋ねる。
ミナは困った顔をした。
「どこに?」
「……確かに」
「日にち? 行き先? 荷物の種類?」
「質問が広すぎました」
「そうね」
ミナは笑う。
「便利になるなら嬉しいけど、何でも増やせばいいって言われても分からないわ」
「では、今の時点で『ここを増やしてほしい』という希望は?」
「すぐにはない」
「不便は?」
「ある」
「どちらも?」
「便利なところも不便なところもあるわよ」
トーマと似た言葉。
けれど、ディーンは比較しない。
「今の話の中で、王宮へ特に伝えておきたいことはありますか」
ミナは少し考えた。
「私?」
「はい」
「王宮に?」
「はい」
「……大げさね」
「特になければ、それでも構いません」
沈黙。
表の店で袋が擦れる音がする。
「じゃあ」
ミナがゆっくり言った。
「便利だから使ってる人が、困る時もあるってことかしら」
レオンが筆を取る。
ミナは続けた。
「逆もあるわよ。普段は自分で運んでる人が、共同便に助けられる時もあるでしょうし」
「どちらかではない?」
「私はね」
「分かりました」
「あと」
ミナがレオンを見る。
「今の、そのまま書いた?」
「ほぼそのままです。確認しますか」
「見せて」
レオンは紙を卓の中央へ向けた。
ミナが読む。
『便利だから共同便を使っている人でも、必要な時に合わず困る場合がある。普段は自力・別手段で運ぶ人でも、共同便が役立つ場合がある。本人としては一方だけではない。』
「最後の『本人としては一方だけではない』って何?」
「私が整理のために付けました」
「なくてもよくない?」
レオンは少し考えた。
「はい」
線を引く。
「消します」
「私が言ったみたいに見えるから」
「ありがとうございます」
レオンは修正した。
ミナが紙を戻す。
「こういうの、聞いていいのね」
「はい」
「だったら最初にもっと大きく言えば?」
レオンが止まる。
「大きく?」
「『記録が気になったら聞いてください』じゃなくて、『違うと思ったらその場で言ってください』って」
ディーンとレオンが顔を見合わせた。
「なるほど」
レオンが答える。
「その方が言いやすいですか」
「私はね。他の人は知らない」
「はい」
「また『みんなそうだ』にしないでよ」
「いたしません」
ミナは満足そうに頷いた。
◇◇◇
聞き取りは、開始から四十分ほどで終わった。
最後にディーンが確認する。
「今日お話しいただいたことで、後から『これは記録に残してほしくない』と思うものがあった場合、商人組合を通じて連絡いただいて構いません」
「いつまで?」
「今回については期限を設けておりません。ただ、既に検討へ使用した後ですと、完全に使われなかった状態へ戻すことはできない場合があります」
「そこも正直なのね」
「はい」
「分かった」
「本日はありがとうございました」
「こっちも、思ったより普通だったわ」
ミナが立ち上がる。
「普通?」
「もっと『共同便についてどう思う』『王宮の政策は正しいと思うか』みたいなのを聞かれるかと思ってた」
「それを伺うために来たわけではありませんので」
「じゃあ何を知りたかったの?」
ディーンは少し考えた。
隠す必要はない。
ただし、答えを誘導しないよう、聞き取りが終わった今だからこそ説明できる。
「必要な時に、人が実際に使える運送手段へ届いているのか。そのことを考えるために、まず普段どのように荷物を動かしているのかを知りたかったのです」
ミナは数秒、黙った。
「それなら」
「はい」
「共同便だけ聞いても分からないわね」
「そう考えております」
「自分で運ぶのも、近所から分けてもらうのも入る?」
「実際に必要な物が届くという意味では、検討する必要があると考えています」
「ふうん」
ミナは少しだけ笑った。
「じゃあ、今日の話が役に立つなら使って」
「ありがとうございます」
「でも、私一人の話で決めないでね」
ディーンもレオンも、ほぼ同時に頷いた。
「そのつもりです」
「ならいいわ」
表から夫が顔を出す。
「終わった?」
「終わった」
「王宮の人、怖かった?」
「思ったより普通」
「さっきも言われました」
レオンが苦笑する。
「褒めてるのよ」
ミナは笑いながら店先へ戻っていった。
その背中は、聞き取りを受けた特別な人物ではなく、すぐにいつもの店主へ戻っていた。
◇◇◇
王宮へ戻る道。
レオンは記録板を抱えながら歩いていた。
「どうでした?」
ディーンが尋ねる。
「前回より、書かない時間を作れたと思います」
「内容ではなく?」
「まずそこが気になりました」
「なるほど」
「でも、一度整理を入れすぎました」
「『本人としては一方だけではない』?」
「はい」
「ミナさんが止めてくれました」
「止めてもらえたから分かりました」
レオンは紙を見る。
「もし確認されなかったら、そのまま残していました」
「そうですね」
「間違いではないと思ったんです」
「私も、意味としては大きく違わないと思いました」
「でも本人の言葉じゃない」
「はい」
二人は少し黙って歩く。
「次から、開始前の説明に入れますか?」
レオンが尋ねる。
「『違うと思ったら言ってください』を?」
「はい」
「すぐ標準文にしますか?」
聞き返され、レオンが止まる。
「あ」
「良い案かもしれません」
「でも、一人が言いやすいと言っただけ」
「はい」
「次に使ってみるのは?」
「それは可能でしょう。ただし、『これが正しい説明だ』と決めるのとは違います」
「分かりました」
レオンは頷いた。
前回の聞き取りで学んだこと。
今回の聞き取りで気づいたこと。
積み上がっている。
だが、それをすぐ規則へ変える必要はない。
「今日、戻ったらすぐ全部まとめますか?」
「まず王子殿下とアマリリア様へ、聞き取りが終わったことだけ報告します」
「内容は?」
「急ぎません」
「明日?」
「今日中に整理できる範囲は整理します。ただ、夜まで残る必要はありません」
レオンが笑った。
「前回と同じですね」
「同じです」
◇◇◇
午後も半ばを過ぎた頃。
執務室の扉が叩かれた。
ライルが顔を上げる。
アマリリアも同時だった。
「どうぞ」
入ってきたのはディーンとレオン。
「戻りました」
ライルの表情が明るくなる。
「どうだった?」
「殿下」
アマリリアが横から呼ぶ。
「……はい」
ライルは座り直した。
「まず、お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
ディーンが少し笑う。
「聞き取りは無事終了しております。途中で一度、ミナ氏が接客のため席を外しましたが、その後再開しております」
「時間は?」
「約四十分です」
「無理に延ばしてない?」
「本人へ継続確認をしております」
「ならよかった」
アマリリアが尋ねる。
「今日、何か判断しなければならない内容はありました?」
「ございません」
ディーンは答えた。
「では、詳しい整理は明日で」
ライルが一瞬だけ驚いた顔をした。
「聞かないの?」
「気になります?」
「すごく」
「私もです」
「じゃあ」
「ですが」
アマリリアは時計を見る。
「あと一刻ほどで本日の執務終了です」
「うん」
「今から四十分の聞き取りを急いで説明してもらい、こちらが急いで理解する必要があります?」
ライルは考える。
「……ない」
「私もそう思います」
ディーンが頷いた。
「私も、明日整理した記録を見ていただく方がよいと考えております」
「分かった」
ライルは少し残念そうだ。
だが、そのまま受け入れた。
「一つだけ」
レオンが言う。
「今日、ミナさんから記録方法について意見をいただきました」
「記録?」
アマリリアが見る。
「はい。内容については明日整理しますが、私が整理のために足した言葉を、ミナさんが『自分が言ったように見える』と指摘してくださいました」
「直した?」
「その場で」
「なら、それも明日聞きます」
「はい」
「他には?」
ディーンが少し考えた。
「今日中にお伝えすべきものはありません」
「では明日」
「承知いたしました」
二人は退出した。
扉が閉まる。
ライルが机へ肘をつきそうになり、途中で姿勢を直した。
「気になる」
「私もです」
「聞きたい」
「私もです」
「でも明日?」
「はい」
「……分かった」
アマリリアは少し笑った。
「殿下」
「何?」
「今、かなり成長しておりますよ」
「そう?」
「以前なら追いかけて聞いていたでしょう」
「アマリリアも」
「……そうですわね」
二人で笑う。
明日になれば分かる。
なら今日は、今日の仕事を終えればよい。
◇◇◇
執務を終えた後。
アマリリアは鞄の中の共有帳面を思い出した。
「あ」
「どうしたの?」
「朝、読まなかったので」
「今読む?」
「はい」
帳面を開く。
昨夜のライルの文字。
『今日の朝も、昨日見た食卓のことを覚えていた。』
『でも、次の候補をすぐ見なくてもいいと思った。』
『あの場所に決めるかはまだ分からない。』
そこまでは、昼間に話した内容と近い。
その下。
『毎日全部一緒じゃなくても、帰る場所が同じならいいと思う。』
アマリリアの視線が止まる。
さらに。
『別々に仕事をして、別々に出かけて、それでも帰ったらアマリリアがいる暮らしがいい。』
「……殿下」
「はい」
ライルが少し緊張している。
「これは」
「うん」
「……ずるいです」
「何が!?」
「こんなものを朝読んでいたら、仕事にならなかったかもしれません」
「そこまで!?」
「少しは」
「少し?」
「かなり」
ライルが笑う。
「じゃあ、朝読まなくて正解だった?」
「……結果的には」
「よかった」
「よくありません」
「どっち?」
「嬉しいですが、恥ずかしいのです!」
アマリリアは帳面へ視線を戻す。
最後の一文。
『明日はミナさんの聞き取りの日。俺たちは行かない。帰ってくる話を待つ。』
もう、その聞き取りは終わった。
話は王宮へ帰ってきている。
ただし、まだ二人は詳しく知らない。
「殿下」
「何?」
「ここへ一行、足してよいです?」
「もちろん」
アマリリアは席へ戻った。
筆を取り、ライルの文章の下へ書く。
『聞き取りは終わりました。ですが、詳しく読むのは明日です。』
少し考え。
『帰ってきたものを、すぐ開かなくてもよくなりました。』
ライルが横から読む。
「本当だね」
「はい」
「前なら?」
「すぐ開いていました」
「俺も」
「そして夜まで話していたかもしれません」
「うん」
「今日は帰りましょう」
「うん」
帳面を閉じる。
明日。
ミナの話を読む。
便利だったこと。
困ったこと。
自分で運んだこと。
誰かへ頼んだこと。
近所から分けてもらったこと。
まだ二人は知らない。
それでよかった。
知るべき話がなくなったわけではない。
ただ、知る時間を明日に置いただけだ。
◇◇◇
翌朝。
レオンは前日より少し早く執務室へ来ていた。
机の上には、整理された聞き取り記録がある。
だが、以前のものとは少し形が違っていた。
上段には、ミナが実際に話した内容。
その下には、事実として確認できた行動。
さらに別欄には、聞き手側が後から考えたこと。
そして欄外。
『本人確認により削除した整理表現あり。「本人としては一方だけではない」は本人発言ではないため削除。』
レオンはそこを残した。
失敗を消さないためだった。
やがてディーンが来る。
「できました?」
「はい」
「昨日より整理できた?」
「できたと思います。ただ」
「ただ?」
「読むと、運び方が多すぎます」
ディーンは紙を見る。
共同便。
自家荷車。
個人の運び屋。
他商人の荷への混載。
近隣店との融通。
待つ。
仕入れそのものを見送る。
「そうですね」
「表にしにくいです」
「表にする必要がありますか?」
レオンが黙る。
そして笑った。
「またやるところでした」
「何を?」
「整理しやすい形に、現実を合わせることです」
ディーンも小さく笑った。
「では、そのまま持っていきましょう」
「はい」
二人は記録を持ち、ライルとアマリリアの執務室へ向かった。
昨日まで、王宮が見ていた運送の話には、共同便と個人運送という大きな線があった。
だが、ミナの暮らしの中では、その線だけでは足りなかった。
同じ豆でも。
同じ店でも。
同じ人でも。
いつ必要なのか。
どれほど必要なのか。
誰が空いているのか。
何を諦められるのか。
その時々で、使われる道は変わる。
便利か、不便か。
共同便か、個人運送か。
その二つだけでは収まらない話が、二人目の聞き取りから王宮へ持ち帰られていた。
そして、その記録を読むのは。
これからだった。




