↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
105/111

第105話

朝の王宮には、昨日までの雨の名残がほとんど残っていなかった。


 中庭の石畳は乾き始め、窓から差し込む光も明るい。遠くでは庭師が濡れて傷んだ枝を落としており、ときおり鋏の乾いた音が、開けた窓から執務室まで届いていた。


 アマリリアが席へ着いた時、机の上にはまだミナ・オルドの聞き取り記録はなかった。


「まだですね」


「うん」


 向かいに座るライルが答える。


 昨日の夕方、二人は詳しい報告を聞かずに帰った。


 聞き取りそのものは終わっている。


 急いで判断する必要のある問題もなかった。


 だから一晩置いた。


 それだけのことなのだが、アマリリアには少し不思議な感覚があった。


「殿下」


「何?」


「昨日、眠れました?」


「普通に」


「聞き取りが気になって?」


「気にはなったけど、寝たよ」


「私もです」


「すごいね、俺たち」


「自分で言います?」


「だって前なら、ディーンを捕まえて聞いてたかもしれない」


「私はレオンの記録を持ち帰っていたかもしれません」


「それは駄目だよ」


「今なら分かります!」


 アマリリアは少し頬を膨らませた。


 ライルが笑う。


 そんな会話をしている間にも、机の上には通常の仕事が積まれている。


 聞き取り結果が届くまで何もしないわけではない。


「先にこちらを片づけましょう」


「はい」


 最初の報告は、王都北側の小さな共同倉庫からだった。


 昨日の午後、荷札の一枚が剥がれかけていることに作業員が気づき、完全に外れる前に貼り直したという。中身と置き場所は確認済みで、誤配送もない。


「終わってるね」


「終わっておりますね」


「何かする?」


「何を?」


「……しない」


「はい」


 次。


 西側の公衆浴場では、湯を運ぶ管の継ぎ目からごく少量の漏れが見つかった。該当区画を止めて交換済みで、営業への影響は一刻にも満たない。


 これも終わっている。


 三件目は、王都外縁部の小さな市場。


 雨で傷んだ天幕を張り替えるため、三つの露店が午前だけ位置を移している。通行路は確保され、昼までには元へ戻る予定。


「これも」


「現場で終わりますわね」


「今日は終わってる報告ばかり」


「よいことでは?」


「うん」


 ライルは書類を閉じた。


「問題が起きない方がいいけど、起きても現場で直せるなら、それもいいんだね」


「王宮が毎回直す必要はありませんもの」


「前は何でも王宮で見なきゃいけないと思ってた」


「私も似たようなものです」


 アマリリアは次の紙へ手を伸ばしかけた。


 その時、扉が叩かれる。


「失礼いたします」


 ディーンとレオンだった。


 レオンの手には、数枚の紙がある。


 ライルの視線がすぐそちらへ向いた。


「来た」


「殿下」


「分かってる。急かさない」


「まだ何も言っておりません」


「顔が言ってた」


「どのような顔ですの?」


「『殿下、落ち着いてください』って」


「それはいつもの顔では?」


「そんなに?」


 ディーンが咳払いを一つした。


「お二人とも、始めてもよろしいでしょうか」


「お願いします」


「はい」


 二人の表情が仕事へ戻る。


          ◇◇◇


 レオンが机へ聞き取り記録を置いた。


 前回、トーマ・レインの記録を見た時とは少し形式が違う。


 最初に聞き取り日時と場所。


 参加者。


 本人へ説明した内容。


 途中で接客による中断があったこと。


 そして、その下から実際の話が整理されている。


「最初に」


 レオンが説明する。


「今回、記録を三つに分けました。ミナさんが実際に話した内容、そこから確認できる行動や状況、それから、私たち聞き手側が後で考えたことです」


「後で考えたこと?」


 ライルが尋ねる。


「はい。前回は、本人の発言と私の整理が近い場所へ入ってしまう部分がありました。今回は明確に分けています」


 アマリリアが紙を見る。


 確かに欄が分かれている。


「これ」


 欄外に小さく書かれた一文へ気づく。


『本人確認により削除した整理表現あり。「本人としては一方だけではない」は本人発言ではないため削除。』


「昨日おっしゃっていたものですわね」


「はい」


「なぜ残したの?」


 ライルが尋ねる。


「消した言葉なのに」


 レオンは少し緊張した顔で答える。


「最初は完全に消そうと思いました。ただ、それでは私が本人の言葉へ整理を足し、それを本人に指摘されたことまで消えてしまいます」


「失敗したことを残した?」


「はい」


「誰かを責めるためではなく?」


「私自身を含め、次に記録を取る者が同じことをしないためです」


 ライルは欄外をもう一度見る。


「俺はいいと思う」


 アマリリアも頷いた。


「私もです。ただし」


「はい」


「この形式を、今日からすべての聞き取り記録へ義務づける必要はありません」


「承知しております」


「今回やってみて、使いやすかった?」


「私は使いやすかったです」


「ディーンは?」


「整理段階で、どこまでが本人の言葉で、どこからがこちらの解釈なのか確認しやすくなりました」


「では、次に聞き取りをする機会があれば、もう一度使ってみてもよいかもしれませんね」


「はい」


 そこで止める。


 良かった。


 だから規則にする。


 その流れにはしない。


「では」


 アマリリアは記録へ視線を戻した。


「ミナさんのお話を読みましょう」


          ◇◇◇


 最初に目へ入ったのは、仕入れに行く回数が減ったという話だった。


 三年ほど前と比べ、自分の荷車を出して遠方へ仕入れに行く回数は減っている。


 理由は共同便。


 日持ちするもの。


 急がないもの。


 ある程度まとめて頼めるもの。


 そして便の日と仕入れ先の都合が合うもの。


「共同便を使ってる」


 ライルが言う。


「はい」


「でも全部ではない」


「はい」


 アマリリアはその下を読む。


 急に足りなくなったもの。


 注文が入ったもの。


 仕入れ先から、その日なら安く出せると言われたもの。


 そうした荷については、自分で取りに行くこともある。


 知っている運び屋へ頼むこともある。


 別の商人の荷へ載せてもらう場合もある。


「多いね」


「方法が?」


「うん」


 ライルが指で行を追う。


「共同便を使うか、使わないか、だけじゃない」


「そうですわね」


「トーマさんの時も、共同便と自分の仕事の両方があったけど」


「ミナさんの場合は、さらに別の商人や近隣店とのやり取りも入っています」


 アマリリアは少し考えた。


「商人だから、でしょうか」


「かもしれない」


 ディーンが口を挟む。


「ただし、現時点で『商人は複数手段を使う』と一般化する材料はございません」


「はい」


 アマリリアはすぐ頷いた。


「ミナさん一人ですものね」


「その通りです」


 続いて、共同便ができたことで、近隣店の荷を運ぶ仕事が減ったという話。


 ミナ自身は専業の運び屋ではない。


 自店の仕入れへ行くついでに、近くの店から頼まれた荷を有償で持ち帰ることがある。


 その依頼が減った。


「収入も減った」


 ライルが読む。


「その仕事だけなら、ですわね」


「うん」


 アマリリアが指先で次の行を示す。


 しかし、自分で仕入れへ行く回数も減った。


 荷車を出す回数。


 馬を使う回数。


 店を空ける時間。


 それらも減っている。


 店にいる時間が増えたことで、売上へ影響した可能性もある。


 だから全体として得をしたのか、損をしたのか。


『計算していないので分からない。』


「分からない」


 ライルが呟いた。


「はい」


「ここ、数字を出せないかな」


 アマリリアも一瞬考えた。


 以前の運送収入。


 馬の飼料代。


 荷車の修繕費。


 店を空けていた時間。


 その間の売上。


 共同便の利用料。


 調べれば、ある程度は出せるかもしれない。


「……出せるかもしれませんね」


「調べる?」


「必要でしょうか」


 二人で黙る。


 レオンもディーンも口を挟まない。


「俺たちが知りたいのは」


 ライルが先に言った。


「ミナさんが共同便で得したか損したか?」


「違いますね」


「必要な時に使える運び方へ届いてるか」


「はい」


「じゃあ、今は要らない?」


「私もそう思います」


 アマリリアは記録をめくった。


「ミナさんご本人も、全体では分からないと答えている。それをこちらが勝手に帳簿まで調べて『あなたは得をしています』などと結論づけても、今の問いから外れます」


「うん」


「必要になった時に、改めて考えればよいでしょう」


「じゃあ調べない」


「はい」


 知らないまま残す。


 それも判断だった。


          ◇◇◇


 読み進める。


 今年の夏。


 店で扱う香辛料が切れそうになった。


 いつもの仕入れ先から共同便が出るのは二日後。


 自分も夫も店を離れにくい。


 知っている運び屋にも頼めない。


 他の商人が仕入れへ行く予定もない。


 結果、ミナはいつもの仕入れ先からその香辛料を運ぶことを一度諦めた。


「ここ」


 ライルの声が少し変わる。


「届かなかった?」


「待ってください」


 アマリリアが次を読む。


 近所の店から、必要な分だけ少し高い価格で分けてもらった。


 二日後には共同便で通常の仕入れを行った。


「届いてる」


「物は」


「うん」


「いつもの仕入れ先からは届かなかった。でも、必要だった香辛料自体は近隣店から手に入った」


 アマリリアは記録を見つめた。


 以前なら、「共同便が間に合わなかった事例」として数えたかもしれない。


 それは間違いではない。


 実際、共同便は二日後だった。


 しかし、それだけではこの出来事を説明できない。


「少し高かった」


 ライルが言う。


「はい」


「だから完全に同じじゃない」


「そうですわね」


「でも品切れにはならなかった」


「はい」


「じゃあ」


 ライルは眉を寄せた。


「これは、届いたの? 届かなかったの?」


 アマリリアも答えられなかった。


 ディーンを見る。


「昨日、私も同じことを考えました」


「答えは?」


「まだ出しておりません」


 アマリリアは少し笑った。


「安心しました」


「なぜでしょう」


「ディーンが即答できないなら、私たちも今すぐ答えなくてよさそうです」


「基準が私なのですか」


「少しだけ」


 ライルが笑う。


 だが、問いそのものは残る。


「必要な時に、現実に使える運送手段へ届いているか」


 アマリリアが、これまで整理してきた言葉を口にする。


「でも今回は」


「運送手段には届かなかった時がある」


 ライルが続けた。


「少なくとも、いつもの仕入れ先から運ぶための手段には」


「はい」


「だけど必要な品物には届いた」


「近隣店を通じて」


「じゃあ俺たちが見たいのは、運送手段なのかな」


 その言葉で、室内が静かになった。


 アマリリアはライルを見る。


「もう一度おっしゃってください」


「え?」


「今のです」


「俺たちが見たいのは、運送手段なのかなって」


「……そうですわね」


 アマリリアは背もたれへ少し身体を預けた。


 共同便の資料から始まった。


 個人運送の減少。


 小規模な運び手。


 緊急時。


 代替手段。


 だからずっと「運ぶ方法」を見ていた。


 それは必要だ。


 だが、ミナが欲しかったのは、荷車ではない。


 運び屋でもない。


 共同便そのものでもない。


「香辛料が必要だった」


「うん」


「それが店へ届けばよかった」


「そうだね」


「運送は、そのための手段です」


「うん」


 アマリリアは考える。


「では、私たちの問いが間違っていた?」


 ライルが聞く。


「いいえ」


 すぐに否定する。


「少なくとも完全に間違ってはいないと思います」


「何で?」


「近隣店からも手に入らなかった場合、次に必要になるのはやはり運送手段でしょう」


「ああ」


「それに、何でも近隣店から融通できるわけではありません」


「量が多かったら?」


「難しいかもしれません」


「特殊な物だったら?」


「近くにないかもしれません」


「じゃあ運送を見るのは必要」


「はい。ただ」


 アマリリアは記録へ目を落とした。


「運送だけを見ても、必要なものが届いているかまでは分からない」


 ライルがゆっくり頷いた。


「逆もある?」


「逆?」


「運送手段はある。でも必要なものが届かない」


「……あり得ますね」


 便はある。


 荷車もある。


 運び屋もいる。


 それでも、仕入れ先に品物がなければ届かない。


 注文が間に合わなければ届かない。


 荷物の条件が合わなければ運べないかもしれない。


「広がりますわね」


「広げる?」


 アマリリアはライルを見る。


 少し前の二人なら。


 ここから仕入れ全体を調べ始めたかもしれない。


 商流。


 在庫。


 市場間の融通。


 価格。


 生産地。


 考えようと思えば、いくらでも広がる。


「広げません」


「うん」


 ライルもすぐ答えた。


「今は運送の話」


「はい。ただ、運送以外の方法で必要な物へ届く場合があることは、忘れない」


「それくらい?」


「それくらいにしましょう」


 ディーンが静かに記録する。


 新しい調査項目は増えなかった。


 ただ、見方が一つ増えた。


          ◇◇◇


 次に出てきたのは、北方面から仕入れている乾燥果実だった。


 以前は、自分で取りに行くほどの量ではない。


 個別の運び屋へそれだけ頼むには高い。


 他商人の荷に空きがあれば載せてもらう程度だった。


 共同便ができてからは、予定さえ合えば少量でも仕入れやすくなった。


「これは逆ですね」


 アマリリアが言う。


「共同便があるから届くようになった」


「うん」


「少なくとも、この乾燥果実については」


「ミナさんも『全部じゃない』って言ってる」


「大事ですわね」


 レオンが頷いた。


「そこは本人が何度も限定されていました」


「何度も?」


「はい。私たちが広くまとめそうになると、『その品については』『全部ではない』と」


「ミナさん、強い」


 ライルが少し笑う。


「助けられました」


 レオンも苦笑した。


 アマリリアは記録を読み返す。


 便利だから使う。


 しかし、何にでも使うわけではない。


 共同便によって仕入れやすくなった品がある。


 一方で、共同便の予定と合わず、別の方法を探した品もある。


「同じ人なのに」


 ライルが言う。


「共同便に助けられた側にも、共同便だけでは足りなかった側にもなる」


「そうですわね」


「じゃあ、『利用者』『非利用者』って分けても」


「足りません」


 アマリリアは即答した。


 既に分かり始めていたことだ。


 トーマも共同便を利用する一方、個人の運び手でもある。


 ミナも共同便を使う一方、自分で荷を運び、近隣店の荷も有償で運ぶ。


「人を一つの箱へ入れようとすると、はみ出しますね」


「箱を増やす?」


「殿下」


「冗談」


「半分くらい本気でしょう」


「……少し」


「駄目です」


 二人で笑う。


 レオンも少しだけ口元を緩めた。


「実は」


 彼が言う。


「昨夜、一度表にしようとしました」


「表?」


「共同便、自家運送、個人運送、商人間の混載、近隣店からの融通、と」


「作った?」


「途中でやめました」


「なぜです?」


「一つの出来事が、複数の欄へ入るからです」


 アマリリアは納得した。


「香辛料ですね」


「はい。共同便が間に合わなかった。自家運送もできなかった。個人運送も使えなかった。しかし近隣店から融通された。その後、共同便で通常仕入れをした」


「一行にできない」


「無理に一行へすると、どこかが消えます」


「だから表をやめた?」


「はい」


 ライルが感心したようにレオンを見る。


「前なら作ってた?」


「作っていたと思います」


「俺たちだけじゃなくて、レオンも変わってる」


「殿下方に付き合っておりますので」


「それ、褒めてる?」


「半分ほど」


「半分!」


 アマリリアが吹き出した。


 張りつめるような話ではない。


 笑える。


 それも今の執務室だった。


          ◇◇◇


 記録の後半へ進む。


 ミナが荷を運ぶ側になった時の話。


『共同便と競争している感覚はない。』


 その言葉の下に、理由が続く。


 同じ荷物を運ぶことはある。


 しかし、同じ仕事だとは思っていない。


 来週までに届けばよい一袋の豆。


 明日の朝までに必要な一袋の豆。


 十袋の豆。


 同じ豆でも条件が違う。


「これ、分かりやすい」


 ライルが言う。


「はい」


「豆は豆」


「でも必要な時期と量で、使える方法が変わる」


「それに出発地も」


「誰が空いているかも」


 二人で言葉を足していく。


 アマリリアは途中で止めた。


「これも、条件表にはしませんよ」


「まだ何も言ってない!」


「殿下の顔が」


「アマリリアまでそれ言うようになった」


「便利ですわね、この言葉」


「ずるい」


 笑いながらも、アマリリアは重要な部分へ線を引く。


 安い方がよい。


 しかし、安いだけでは決めない。


 間に合わなければ困る。


「フォード商会の資料にも、平均運賃が下がった話がありましたわね」


「うん」


「それ自体は利点」


「でも平均が安くなっても、急ぎの荷に使えなかったら?」


「別の方法が必要になる」


「その別の方法が残ってるか」


「それが、最初に気になったところでした」


 話が戻ってきた。


 小規模な個人運送が減っている。


 だが、その減少だけを悪いと決めることはできない。


 共同便へ移った者。


 高齢で辞めた者。


 別の仕事へ移った者。


 理由は様々だ。


 一方で、急ぎや少量、柔軟な対応が必要な荷には、共同便以外の手段が使われることがある。


「残っていればいい?」


 ライルが尋ねる。


「何がです?」


「個人の運び屋」


「それも少し違う気がします」


「どうして?」


「存在していても、必要な時に空いていなければ使えません」


「あ」


「高すぎて利用できなければ?」


「使えない」


「場所が遠すぎれば?」


「届かない」


「ですから、数だけでもないのでしょう」


 ライルが腕を組む。


「難しい」


「はい」


「でも、前より分からなくなったのに、前より何を見ればいいか分かってきた気もする」


 アマリリアは少し考えた。


「私も同じです」


 最初は数字を増やせば分かると思っていた。


 運送業者の数。


 運賃。


 荷量。


 遅延。


 事故。


 それらは必要だ。


 しかし、その数字だけでは見えないものがある。


 誰が。


 何を。


 いつ必要として。


 その時、どの方法を現実に選べたのか。


 そして、選べなかった時にどうしたのか。


「一つの数字で答えが出る話ではないのですね」


「うん」


「だからといって、数字が不要なわけでもない」


「うん」


「面倒ですわね」


「アマリリアがそれ言うんだ」


「面倒なものは面倒です!」


 ライルが笑った。


          ◇◇◇


 最後に、ミナが記録そのものについて言ったことを確認する。


『便利だから共同便を使っている人でも、必要な時に合わず困る場合がある。普段は自力・別手段で運ぶ人でも、共同便が役立つ場合がある。』


 その後にレオンが加えた、


『本人としては一方だけではない。』


 という整理は、本人の指摘によって削除されている。


「意味は近い」


 ライルが言う。


「そうですね」


 レオンが答える。


「でも本人は言ってない」


「はい」


「これ、難しいね」


「はい」


「報告書って、全部本人の言葉のままにはできないでしょう?」


「できません」


 レオンが答える。


「長くなりすぎますし、話した順番のままでは関係する内容が離れていることもあります。整理は必要です」


「でも整理すると、整理した人の考えが入る」


「完全には避けられないと思います」


 アマリリアが口を開く。


「なら、入れないことを目指すのではなく、どこから入ったのか分かるようにする方がよいのかもしれませんね」


「どこから?」


「本人の発言なのか。確認できた事実なのか。記録者の整理なのか」


「ああ」


 ライルが三つの欄を見る。


「今回のこれ」


「はい」


「ただし」


 アマリリアはまた続けた。


「これをすべての記録に必須とはしません」


「言うと思った」


「殿下」


「俺も同じこと考えてたから」


「ならよろしいです」


 レオンが笑う。


「もう一つ、ミナさんから提案がありました」


「何でしょう」


「開始前に『記録が気になったら聞いてください』と説明しましたが、『違うと思ったらその場で言ってください』の方が、自分は言いやすいと」


「なるほど」


 ライルが頷く。


「次から変える?」


「殿下」


「分かってる。決めない」


「よろしい」


「でも、次に誰かへ聞く時があったら試してみる?」


 アマリリアは少し考えた。


「それはよいかもしれません」


「標準にはしない」


「はい」


「一回使ってみる」


「その相手がどう感じるかも見る」


「うん」


 ディーンが記録した。


 小さな改善。


 だが、固定はしない。


          ◇◇◇


 全体を読み終えた頃には、昼が近づいていた。


 ライルが背を伸ばす。


「二人聞いた」


「はい」


 トーマ・レイン。


 ミナ・オルド。


 立場も違う。


 仕事も違う。


 共同便との関わり方も違う。


「次、どうする?」


 その問いに、アマリリアはすぐ答えなかった。


「三人目?」


「うん」


 候補には、バルド・ネイが残っている。


 五十代。


 農閑期に有償で荷を運ぶことがある。


 東市場との関わりもある。


 だが、候補だから必ず聞かなければならないわけではない。


「今すぐ決める必要があります?」


「ない」


「では、今日は決めません」


「うん」


「二人分を一度並べて考えたいです」


「比較表?」


「作りません!」


「まだ言ってない!」


「顔が」


「それ禁止!」


 アマリリアは笑った。


「では、表ではなく」


「うん」


「二人の話から、同じように見えるところと、違うところを言葉で整理しましょう」


「それは比較じゃない?」


「比較はします。人を箱に入れないだけです」


「ああ」


「そして、二人だけでは分からないことが何なのかを見る」


「それで三人目が必要か考える?」


「はい」


 ディーンが確認する。


「では、本日は三人目への連絡は行わない?」


「お願いします」


「承知いたしました」


 候補者がいる。


 だから連絡する。


 そうはしない。


 二人目まで聞いたからこそ、一度止まる。


「バルドさんは逃げない?」


 ライルが尋ねる。


「候補として名前があるだけで、まだ何もお願いしておりません」


「そうだった」


「こちらが勝手に急ぐ理由はありません」


「うん」


 アマリリアは二人分の記録を重ねた。


「明日、少し整理しましょう」


「明日?」


「本日の午後でもよいですが」


「いや」


 ライルが首を振った。


「明日でいい」


「では、そうしましょう」


 決まった。


          ◇◇◇


 昼食は、昨日と同じ小さな食事室だった。


 偶然だった。


 空いていたから使っただけだ。


 それでも二人とも席へ着いた瞬間、同じことを思い出した。


「食卓」


 ライルが先に言う。


「やはり覚えておりましたね」


「アマリリアも?」


「はい」


 昨日見た居住候補。


 六人掛けの食卓。


 まだ誰も暮らしていない部屋。


「次の候補、まだ見たくない?」


 ライルが尋ねる。


「見たくないわけではありません」


「うん」


「ただ、今日ではないです」


「俺も」


 料理が運ばれてくる。


 温かいスープ。


 焼いた魚。


 柔らかいパン。


 仕事の話はしない。


 そう決めたわけではない。


 ただ、自然に別の話になった。


「アマリリア」


「何でしょう」


「家に持っていきたいものってある?」


「ベスター家から?」


「うん」


 昨日、ハロルドが言っていた。


 持っていきたいものがあるなら早めに相談しろ、と。


「本は持っていきたいです」


「全部?」


「……全部は無理でしょうね」


「どれくらいあるの?」


「かなり」


「部屋一つ?」


「そこまではありません!」


「じゃあ半分?」


「何の半分ですの?」


「部屋」


「測り方がおかしいです」


 二人で笑う。


「殿下は?」


「俺?」


「今のお部屋から、新しい場所へ持っていきたいもの」


 ライルが考える。


「本」


「同じですわね」


「あと、アマリリアにもらったもの」


 アマリリアの手が止まる。


「しおりとか」


「はい」


「手紙とか」


「……はい」


「共有帳面も」


「それは当然でしょう」


「あと」


 ライルが少し笑う。


「まだ増えると思う」


「何が?」


「アマリリアからもらうもの」


「当然のように要求しないでください」


「要求じゃないよ。増えたら嬉しいなって」


「同じです!」


「じゃあ俺からも増やす」


「それも置き場所を考えてくださいね」


「そこ?」


「大事です」


 アマリリアはスープを一口飲んだ。


「でも」


「うん?」


「私も、殿下からいただいたものは持っていきます」


「腕輪も?」


「もちろんです」


 市場で買ってもらった木の腕輪。


 昨日の文具店へも着けていった。


 今も袖の内側にある。


「よかった」


「何がです?」


「新しい家にも来るんだなって」


 アマリリアは少しだけ目を伏せた。


「……はい」


 物を運ぶ。


 今日の午前中は、そんな話ばかり考えていた。


 共同便。


 荷車。


 運び屋。


 商人同士の融通。


 けれど、自分たちが新しい家へ持っていくものは、必要だから運ぶだけではない。


 思い出があるから。


 大切だから。


「殿下」


「何?」


「物が届く理由も、いろいろありますわね」


「急に仕事に戻った?」


「少しだけ」


「居間だったら禁止だよ」


「ここは食事室です!」


「じゃあ少しだけなら?」


「……今の一言で終わりです」


「はい」


 ライルは笑った。


 そして二人とも、それ以上仕事の話をしなかった。


          ◇◇◇


 午後。


 新しい大きな問題は起きなかった。


 第二共同倉庫から追加連絡なし。


 フォード商会からもなし。


 ミナへの追加質問も送らない。


 バルドへも連絡しない。


 それでも仕事は進む。


 通常の書類を処理し、地方から届いた冬支度の進捗を確認し、翌週に予定されている会議の議題を絞る。


 夕方が近づいた頃、セレーネが執務室へ顔を出した。


「お疲れさま」


「母上」


「王妃陛下」


「今日は部屋の話じゃないわよ」


「最近、皆様それを先におっしゃいますね」


 アマリリアが言う。


「あなたたちが身構えるからでしょう」


「身構えておりません」


「そう?」


 セレーネは笑い、二人の机を見る。


「聞き取りは終わったの?」


「昨日、二人目が」


 ライルが答える。


「今日は記録を読みました」


「どうだった?」


「分からないことが増えました」


 セレーネが一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。


「いいじゃない」


「いいの?」


「何も知らないのに分かった気になるよりは」


「それはそうだけど」


「それで、どうするの?」


 アマリリアが答える。


「明日、最初の方と二人目の方のお話を一度整理します。その上で、三人目へ伺う必要があるか考える予定です」


「三人目は決まっているの?」


「候補はおりますが、連絡はしておりません」


「ならいいんじゃない」


 セレーネはそれ以上、運送の話を聞かなかった。


「それと」


 今度は少し楽しそうな顔になる。


「昨日見た部屋は?」


「まだ気になっております」


 アマリリアが答える。


「食卓?」


「はい」


「俺も」


「そう」


「ですが、次の候補はまだ見ません」


「分かったわ」


 セレーネはあっさり頷いた。


「それだけ?」


 ライルが聞く。


「何か言ってほしいの?」


「いや、母上なら『いつ見る?』って聞くかと思って」


「見たくなったら言うって決めたでしょう?」


「うん」


「なら待つわよ」


 ライルが少し笑う。


「みんな待つようになったね」


「あなたたちがようやく待てるようになったからじゃない?」


「……」


「……」


 否定できない。


 セレーネは満足そうに二人を見て、部屋を出ていった。


          ◇◇◇


 執務を終えた後。


 アマリリアは机の上を片づけた。


 ミナの記録は王宮に残す。


 トーマの記録も。


 持ち帰らない。


 鞄へ入れるのは共有帳面だけだった。


「今日はアマリリア?」


 ライルが尋ねる。


「はい。昨夜は殿下でしたから」


「書く?」


「たぶん」


「何を?」


「それは読み終わってからのお楽しみです」


「明日まで待つ?」


「待ってください」


「はい」


 素直だ。


 アマリリアは帳面を鞄へ入れた。


「では、また明日」


「うん。また明日」


 それだけの言葉が、以前より好きになっている。


 明日も会う。


 それが自然になっている。


 いつか結婚すれば、「また明日」ではなく「後で家で」になる日もあるのだろう。


 そんなことを考えながら、アマリリアは王宮を出た。


          ◇◇◇


 夜。


 ベスター家の自室。


 アマリリアは入浴を済ませ、髪を乾かしてから机へ向かった。


 仕事の書類はない。


 共有帳面だけを開く。


 ライルが昨夜書いた文章を、もう一度読む。


『別々に仕事をして、別々に出かけて、それでも帰ったらアマリリアがいる暮らしがいい。』


「……」


 やはり、ずるい。


 昼間よりも夜に読む方が効く。


 アマリリアは頬へ手を当て、しばらく頁を見つめた。


 それから筆を取る。


『今日は、ミナさんのお話を読みました。』


 最初の一行を書く。


『共同便を使うことも、自分で運ぶことも、誰かへ頼むことも、近くのお店から分けてもらうこともあるそうです。』


 そこまで書いて、止まる。


 仕事の記録になりすぎている。


「……違いますわね」


 小さく呟く。


 共有帳面は仕事の報告書ではない。


 消さずに、その下へ続ける。


『一つの方法だけで暮らしているわけではないのだと思いました。』


 少し考える。


 今日の昼食。


 持っていきたい本。


 腕輪。


 しおり。


 共有帳面。


 新しい家。


『私たちも、結婚したからといって何もかも一緒にする必要はないのでしょう。』


『別々に仕事をして、別々の時間を過ごして、それでも同じ場所へ帰る。昨日、殿下が書いてくださった暮らしを、私もよいと思います。』


 筆が止まる。


 これで十分だ。


 だが、もう一行だけ。


『追伸。新しい家へ持っていく本の量については、まだ決めておりません。殿下に減らせと言われても聞きません。』


 アマリリアは書き終えて、少し満足した。


 明日ライルがどんな顔をするか想像できる。


「自分だって本を持ってくると言ったでしょう」と反論するかもしれない。


 それも楽しみだった。


          ◇◇◇


 同じ夜。


 王宮の一室では、レオンが自分用の短い覚え書きを読み返していた。


 仕事を持ち帰ったわけではない。


 正式な記録ではなく、翌朝忘れないために勤務終了前に書いた数行だ。


『トーマとミナを、利用者/非利用者で単純比較しない。』


『似た発言があっても、同じ意味と決めない。』


『本人の発言と整理を分ける。』


『三人目を聞くなら、二人で分からなかったことを埋めるためか、それとも人数を増やしたいだけかを先に考える。』


 最後の一行は、ディーンと話して書いた。


 三人目が必要かもしれない。


 必要ではないかもしれない。


 明日、ライルとアマリリアを交えて考える。


 それでよい。


 レオンは紙を机の引き出しへ戻した。


          ◇◇◇


 翌朝。


 アマリリアが王宮の執務室へ入ると、ライルは既に来ていた。


「おはようございます」


「おはよう」


 挨拶を交わす。


 アマリリアは鞄から共有帳面を取り出した。


「どうぞ」


「書いた?」


「はい」


「読んでいい?」


「どうぞ」


 ライルが受け取る。


 アマリリアは自分の席へ座り、今朝届いていた書類を整える。


 今回は見ない。


 だが、少しだけ気になる。


 しばらくして。


「アマリリア」


「何でしょう」


「本、どれくらい?」


「そこですの!?」


「だって減らせって言っても聞かないって」


「当然です」


「俺、まだ減らせって言ってない」


「将来に備えております」


「何冊?」


「数えておりません」


「棚何段?」


「知りません」


「部屋の半分?」


「昨日も言いましたが、その数え方は何なのです!」


 ライルが笑う。


「じゃあ、本棚は多めにいるね」


「……よろしいのです?」


「俺の本も置きたいし」


「別々にしません?」


「何で?」


「殿下の本と私の本が混ざると、探す時に困ります」


「同じ本があったら?」


「二冊置けばよいでしょう」


「一冊でよくない?」


「殿下」


「はい」


「結婚生活最初の重大な意見対立が発生しました」


「本棚で!?」


 アマリリアは真剣な顔を保とうとした。


 無理だった。


 二人で笑う。


「これ、部屋を見る時に考えよう」


 ライルが言う。


「本棚?」


「うん」


「では、次の候補を見る時の確認事項に」


 そこまで言って、アマリリアは止まった。


 一覧。


 比較。


 条件。


 また始まりそうになっている。


「……いえ」


「書かない?」


「覚えていたら見ましょう」


「忘れたら?」


「その程度だったということで」


 以前と同じ答え。


 ライルが笑う。


「分かった」


 共有帳面を閉じる。


 その時、扉が叩かれた。


「失礼いたします」


 ディーンとレオンが入ってくる。


 手元には、トーマとミナ、二人分の記録。


「昨日のお話の続きです」


 ディーンが言う。


「本日は、二人の聞き取りから現在何が分かっていて、何がまだ分からないのかを整理したいと思います」


 アマリリアとライルは顔を見合わせた。


「お願いします」


「はい」


 二人の話を重ねる。


 だが、同じものとしてまとめない。


 違いを消さない。


 人数を増やすこと自体を目的にしない。


 その上で、三人目へ話を聞く意味があるのかを考える。


 共同便について知りたくて始まった話は、いつの間にか、運送だけでは届くかどうかを語れないところまで来ていた。


 けれど、それは道を外れたということではない。


 むしろ、自分たちが最初に見ていた道だけが、唯一の道ではなかったと分かったのだ。


 アマリリアは二人分の記録を机の中央へ置いた。


「では」


 隣でライルも姿勢を正す。


「今度は、分かったことより」


 アマリリアは頷いた。


「まだ分からないことを見てみましょう」


 窓の外では、晴れた王都の通りを朝の荷車が走り始めていた。


 その一台一台が、何を、誰のために、いつまでに運んでいるのか。


 王宮から眺めるだけでは分からない。


 だからこそ、急いで一つの答えへ閉じるのではなく。


 必要なところまで、もう少しだけ話を聞く。


 そのための次の判断が、これから始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。