第106話
トーマ・レインとミナ・オルド、二人分の聞き取り記録が机の中央へ並べられていた。
秋の朝日は窓から斜めに差し込み、紙の端へ淡い影を落としている。王宮の執務室にはまだ朝特有のひんやりとした空気が残っていたが、廊下では既に職員たちが行き交い始めており、扉の向こうから靴音や書類を運ぶ台車の音が遠く聞こえていた。
アマリリアは二つの記録を見比べながら、昨日レオンが使った三つの区分を思い返していた。
本人が実際に話したこと。
その場で確認できたこと。
そして、聞き手側が後から整理したこと。
それらを混ぜないようにした結果、記録は以前より少し長くなった。それでも、どこまでが本人の言葉なのか分からなくなるよりはずっとよい。
「では」
ディーンが二人の正面に座り、手元の紙を整えた。
「昨日申し上げた通り、本日は三人目へ連絡するかどうかを先に決めるのではなく、現在何が分かっていて、何が分かっていないのかを整理します」
「はい」
ライルが頷いた。
その隣で、レオンは筆を持っている。ただし、まだ紙へは何も書いていない。
以前なら、話が始まると同時に記録を取り始めていただろう。しかし今日は、何を残す必要があるのかを見極めてから書くつもりらしい。
アマリリアはその変化に気づいたが、あえて口には出さなかった。
「最初に、同じところから?」
ライルが二枚の記録を見ながら尋ねる。
「そうですね。ただし、『二人ともこうだった』と簡単にまとめるのは避けたいと思います」
「同じように見えても、理由まで同じとは限らないから?」
「はい」
アマリリアはトーマの記録を手元へ寄せた。
「例えば、お二人とも共同便を利用しています。ここだけなら同じです」
「でもトーマさんは、自分が運ぶ側でもある」
「ミナさんも運ぶことはありますが、専業ではありません」
「トーマさんは長距離の定期的な荷を共同便に回すことで、自分の時間を近場の仕事に使えるようになった」
「ミナさんは仕入れへ出る回数が減り、お店を空ける時間も減った」
ライルが一度言葉を止め、ミナの記録を読み返す。
「似てるけど、同じじゃない」
「そうですわね」
「じゃあ、同じところって何だろう」
その問いに、アマリリアはすぐ答えなかった。
無理に共通点を作れば、また現実を整理しやすい形へ押し込むことになる。
それでも、二人の話を別々に保存して終わるだけでは、聞いた意味がない。
「共同便だけで生活も仕事も完結していない、ということでしょうか」
しばらく考えた末、アマリリアはそう言った。
ディーンが視線を上げる。
「もう少し詳しくお願いできますか」
「トーマさんは共同便を使いながら、自分でも荷を運んでいる。ミナさんは共同便を使い、自分たちでも取りに行き、知っている運び手へ頼むこともあり、他の商人へ載せてもらうこともある。必要なら近隣のお店から商品そのものを分けてもらうこともある」
「うん」
ライルも頷く。
「二人とも、共同便だけを使ってるわけじゃない」
「だからといって、共同便が不要だともおっしゃっていない」
「むしろ便利だって言ってる」
「はい」
レオンの筆が、そこで初めて動いた。
紙を滑る音が小さく響く。
アマリリアはそれを横目に見ながら続けた。
「共同便があるからできることが増えた。その一方で、共同便だけではできないことも残っている。少なくとも、お二人のお話からはそう見えます」
「それなら」
ライルが少し身を乗り出した。
「俺たちが最初に心配してた、『共同便が増えて個人の運び手が減ったら困るんじゃないか』っていうのは?」
「心配する理由がなくなったわけではありません」
「うん」
「ですが、『個人の運び手が減ったから悪い』とも言えません」
「トーマさん自身、共同便を使ってるもんね」
「ええ。それに若い方が共同便側のお仕事へ移ったという話もありました。個人で運ばなくなったからといって、運送そのものから離れたとは限りません」
ライルはしばらく黙っていた。
窓の外から鳥の声が一度だけ聞こえ、その直後、廊下を通った誰かの足音にかき消される。
「じゃあ」
彼は二つの記録を交互に見た。
「人数を数えるだけじゃ分からない」
「はい」
「個人の運び手が何人いるかだけじゃなくて、必要な時に実際に頼めるかどうか」
「それもあります」
「共同便が何本あるかだけでも分からない」
「ええ」
「でも全部調べ始めたら終わらない」
「その通りです」
アマリリアは少し笑った。
「殿下、随分まとめるのがお上手になりましたね」
「褒められた?」
「褒めました」
「もう一回言って」
「嫌です」
「どうして!?」
「一度で十分です」
ライルが不満そうな顔をする。
ディーンは無言で視線を紙へ落とし、レオンは口元を僅かに緩めながら記録を続けていた。
以前なら、こんな会話を挟む余裕はなかったかもしれない。
答えを出さなければならない。
早く次へ進まなければならない。
そんな焦りが、いつもどこかにあった。
今は違う。
考える時間そのものを、無駄だとは思わなくなった。
◇◇◇
「では、違うところは?」
ディーンが次の問いを置いた。
アマリリアはトーマの記録を開く。
「まず、お仕事の中心が違います」
「トーマさんは運送が仕事」
「ミナさんは乾物店が中心です。運ぶこともありますが、それ自体が主な仕事ではありません」
「だから困り方も違う?」
「そうでしょうね」
トーマは共同便の普及によって、帰り荷を探す機会が減ったと話している。一方で、長距離を共同便へ任せられるため、近場の仕事へ時間を使えるようになったとも言っていた。
ミナの場合は、近隣店の荷を運んで得ていた収入が減った。しかし自分で仕入れへ行く回数も減り、店を空ける時間や馬車を出す負担も減っている。
どちらも「仕事が減った」と言える部分がある。
しかし、その意味は同じではない。
「損得も分からないんだね」
ライルが呟く。
「お二人とも、総合的には分からないと」
「調べれば出せる?」
「昨日もお話ししましたが、ある程度は可能でしょう。ただ、それを今調べる必要はないと判断しました」
「うん」
ライルは頷き、そこから先へは進まなかった。
以前なら、「念のため」と言って調べたくなったかもしれない。
アマリリア自身にも、まだその癖は残っている。
(知ろうと思えば、知る方法はあるのですよね)
だからこそ厄介なのだ。
分からないから諦めるのではない。
調べられるのに、今は調べない。
それは意外なほど難しい。
アマリリアは机の下で指先を一度握り、それからゆっくり開いた。
「次は、二人のお話だけでは分からないことですね」
レオンが確認する。
「はい」
アマリリアは顔を上げた。
「そこが今日一番大切でしょう」
レオンが新しい紙を用意する。
今度は、すぐに筆を置かなかった。
「まず」
ライルが言う。
「共同便がない場所は分からない」
「そうですね」
「二人とも共同便を使える場所にいる」
「はい」
「共同便があっても使ってない人も分からない」
「その通りです」
「あと……」
ライルは眉を寄せる。
「本当に運ぶ方法がなくて困った人?」
アマリリアはミナの香辛料の事例を思い出した。
共同便は二日後。
自分たちは店を離れられない。
知っている運び手にも頼めない。
他の商人の便もない。
それでも近隣店から少し高く分けてもらい、品切れは避けた。
「ミナさんは、途中まではそれに近かったですね」
「でも最後は別の店から手に入った」
「はい」
「トーマさんも、『他に運ぶ者がいなくなれば困る』とは言ったけど、実際にそれで荷物が届かなかった話じゃない」
「そうです」
ライルが息を吐いた。
「じゃあ、本当に困った人を探す?」
その言葉に、アマリリアは僅かに眉を寄せた。
「それは……」
「違う?」
「少し危ない気がします」
「どうして?」
「『困った人を探す』と決めた瞬間、困った話を見つけるための聞き取りになりません?」
ライルが目を瞬いた。
レオンの筆も止まる。
「……なるかも」
「もちろん、本当に困った事例があるなら知る意味はあります。ただ、最初から『困った人』という答えを探しに行くのは違うでしょう」
「じゃあ、逆に便利になった人を探すのも?」
「同じです」
「そっか」
ライルは椅子へ背を預けた。
「難しいなあ」
「難しいですね」
アマリリアも素直に認める。
だが、不思議と嫌ではなかった。
以前なら、難しいということ自体が焦りにつながっていた。今は、難しいものを簡単な形へ押し込めないことの方が大切だと分かっている。
「バルドさんは?」
ディーンが尋ねた。
机の端には、まだ連絡していない三人目候補の簡単な情報が置かれている。
五十代。
農業。
農閑期には有償で荷を運ぶことがある。
東市場との接点。
分かっているのはそれだけだ。
「バルドさんへ聞けば、今分からないことが分かる?」
ライルが尋ねる。
誰もすぐには答えなかった。
「共同便を使っているかも分かりません」
レオンが言う。
「そうでしたわね」
「はい。候補として名前を挙げた段階で、それ以上の事前調査はしていません」
「では、バルドさんが共同便を使っていなければ、新しい話になる可能性はあります」
アマリリアはそこで言葉を止めた。
「ですが、それは結果論ですね」
「うん」
ライルが頷く。
「使ってるかもしれない」
「ええ」
「農閑期だけ運ぶから、トーマさんともミナさんとも違う話が聞けるかもしれない」
「かもしれません」
「でも、『違う人だから聞く』だけなら」
「人数を増やしているだけになりそうです」
沈黙が落ちる。
レオンは紙の上に筆を置いたまま待っている。
アマリリアはバルドの簡単な情報を見つめた。
(聞けば、きっと何かは分かるでしょう)
それは間違いない。
誰か一人へ話を聞けば、その人の生活がある。
事情がある。
今まで知らなかった何かが出てくる。
しかし。
(何かが分かるから聞く、では終わらなくなりますわね)
王国には何万人、何十万人と人がいる。
全員の事情を知ることなどできない。
そして、知る必要もない。
必要なのは、今の判断に足りるかどうかだ。
「私は」
アマリリアがゆっくり口を開く。
「今は、バルドさんへ連絡しなくてよいと思います」
ライルがこちらを見る。
「理由は?」
「バルドさんだからこそ確認したいことが、今の私にはありません」
言葉にしてみると、思っていたより簡単だった。
「農業と運送を兼ねている方だから、何か違うお話は聞けると思います。でも、『違う話が聞けそう』というだけなら、四人目も五人目も必要になります」
「うん」
「もし今後、農閑期の運送について判断しなければならないことが出てきたら、その時に伺えばよいでしょう」
「俺も賛成」
ライルの返事は早かった。
「今、バルドさんに何を聞きたいかって言われたら、俺も『他の二人と何が違うか』くらいしか出てこない」
「それでは少し弱いですね」
「うん」
ディーンが二人を見る。
「では、現時点では三人目への連絡を行わない?」
「はい」
「お願いします」
決まった。
だが、何かを解決したという感覚はなかった。
共同便が正しいとも、間違っているとも決めていない。
個人運送を守るべき数も決めていない。
理想的な運賃も決めていない。
ただ、今ある資料と二人の話から、急いで新しい制度を作る必要はないと判断できるところまでは来ている。
「それでは」
レオンが初めて筆を動かした。
「『三人目不要』と記録しますか?」
「待ってください」
アマリリアとライルの声が重なった。
二人は顔を見合わせる。
「どうぞ」
「アマリリアから」
「いえ、殿下から」
「同じことだと思う」
「たぶん私もです」
ライルが笑ってから、レオンへ向き直った。
「『不要』だと、もう聞く必要がないみたいに見えない?」
「……見えるかもしれません」
「今は聞かない、じゃ駄目?」
アマリリアが頷く。
「私も同じ意見です。状況が変わった時や、確認したいことが具体的に出た時まで否定する必要はありません」
「では」
レオンは紙へ書く。
『現時点では三人目への接触を行わない。追加で確認すべき具体的事項が生じた場合は再検討する。』
書き終えてから、レオンが紙を少し離して見た。
「こちらでいかがでしょう」
「よいと思います」
「俺も」
ディーンも頷いた。
バルド・ネイの名前は消えない。
しかし、予定にもならない。
必要になった時に戻れる場所として残るだけだった。
◇◇◇
その後、四人はフォード商会の資料も含め、現在までに分かったことを短くまとめた。
共同便は、安価で予定を立てやすい運送手段として役立っている。
長距離や急がない荷では、個人が自ら往復する負担を減らす場合がある。
一方で、急ぎ、小口、便の日程に合わない荷、柔軟な対応を求める荷には、共同便以外の手段が必要になる場合がある。
ただし、その「別の手段」は個人運送だけではない。
自家運送。
商人同士の混載。
近隣店舗からの融通。
場合によっては、待つという選択もある。
「ここ」
ライルが指を置いた。
「『代わりの方法がある』だけじゃ駄目なんだよね」
「はい」
アマリリアが答える。
「現実に使える必要があります」
「値段とか、時間とか、距離とか」
「その時に空いているかも」
「じゃあ、これを最後に入れる?」
ライルが提案した。
レオンが紙を見る。
「『代替手段については、存在の有無だけでなく、必要時に現実に利用できるかを考慮する』」
「よいと思います」
アマリリアは頷いた。
その一文で、すべてが解決するわけではない。
むしろ、これから何か問題が起きた時に見る場所を少しだけ増やしただけだ。
それでよい。
「これ、結論?」
ライルが尋ねる。
「最終結論ではありません」
「うん」
「ですが、今回の確認については、一度ここで区切ってよいと思います」
アマリリアは自分で言ってから、少し驚いた。
区切る。
以前なら、その言葉を口にするのが怖かったかもしれない。
まだ分からないことがある。
だから調べ続けなければならない。
そう思っていた。
けれど今は、分からないことが残っているからこそ、必要になった時にまた見ればよいと思える。
「ディーン」
「はい」
「フォード商会へ追加資料を求める必要はありません。トーマさんとミナさんへの追加質問も、今は不要です」
「承知いたしました」
「バルドさんへも連絡しない」
「はい」
「第二共同倉庫は?」
ライルが尋ねる。
「通常の報告へ戻してよいでしょう。何か変化があれば上げてもらう形で」
「俺もそれでいいと思う」
ディーンが一つずつ確認し、最後に書類を閉じた。
「では、この件については通常監視へ戻します」
その言葉を聞いても、アマリリアの胸に大きな達成感は湧かなかった。
代わりに、静かな軽さがあった。
終わったのではない。
置けるところへ置いた。
そんな感覚だった。
◇◇◇
四人での話が終わったのは、昼より少し前だった。
ディーンとレオンが記録を持って退出した後も、アマリリアとライルはすぐには席を立たなかった。
机の中央が空いている。
昨日までそこにあったトーマとミナの記録は、もうない。
「終わったね」
ライルが言った。
「一旦、です」
「うん。一旦」
「……殿下」
「何?」
「今の『一旦』は必要です」
「分かってるよ」
「ならよろしいです」
ライルが笑う。
アマリリアも肩の力を抜いた。
仕事が一つ減ったからといって、午後が空になるわけではない。別の書類もあるし、会議もある。
それでも、数日にわたって机の片隅に置かれていた問いを、今は棚へ戻してよい。
そんな時だった。
扉が叩かれる。
「失礼いたします」
入ってきた侍女が、アマリリアとライルへそれぞれ一枚ずつ封筒を差し出した。
「王妃陛下よりお預かりしております」
「母上から?」
「はい」
封筒は公務用のものではない。
王家の紋章こそ小さく入っているが、厚い公文書用紙ではなく、淡い生成りの紙だった。
アマリリアも受け取る。
「ありがとうございます」
侍女が退出してから、二人は封筒を見た。
「同じ?」
「そのようですね」
「開ける?」
「私信でしょうから、よいのでは?」
二人で封を切る。
中には短い文章しかなかった。
『本日の仕事が終わった後、時間があれば私室へいらっしゃい。急ぎではありません。二人一緒でも、別々でも構いません。』
その下に、もう一行。
『結婚式について、そろそろ本人たちへ聞いておきたいことがあります。』
アマリリアの手が止まった。
隣でも、ライルが同じ姿勢のまま紙を見つめている。
「……来ましたわね」
「うん」
ライルが顔を上げる。
「結婚式」
「はい」
もちろん、結婚すること自体はずっと前から決まっている。
婚約は正式なものになった。
結婚後の住居まで見始めた。
それなのに「結婚式」という三文字を改めて目にすると、急に別の現実味が増した。
(結婚式、ですのね)
頭の中で言葉にした途端、胸の奥が僅かに熱くなる。
アマリリアは無意識に封筒の縁を指でなぞっていた。
「アマリリア」
「はい」
「緊張してる?」
「しておりません」
「俺はちょっとしてる」
「……では、私も少しだけ」
「少し?」
「少しです」
「本当に?」
「殿下」
「はい」
「今そこで追及すると、午後から別行動にしますよ」
「ごめんなさい」
即座に謝った。
アマリリアは思わず笑う。
「一緒に行きます?」
ライルが尋ねた。
「王妃陛下は、どちらでもよいと」
「俺は一緒がいい」
迷いのない返事だった。
アマリリアは手紙へもう一度視線を落とす。
「私もです」
「じゃあ仕事が終わったら」
「はい」
約束はそれだけだった。
式場。
衣装。
招待客。
日程。
何を聞かれるのかは書かれていない。
今ここで予想して一覧にする必要もない。
アマリリアは手紙を封筒へ戻した。
「殿下」
「何?」
「今、何を聞かれるのか考えました?」
「考えた」
「私もです」
「書き出す?」
「やめましょう」
「うん」
答えが早かった。
「王妃陛下に聞けば分かります」
「そうだね」
「それまでは仕事です」
「はい」
アマリリアは封筒を机の脇へ置いた。
それでも視界の端には残る。
淡い生成りの紙。
たった二行の私信。
午後の仕事へ戻ってからも、ときどきそこへ視線が向かってしまうのを、完全には止められなかった。
◇◇◇
夕刻。
秋の日は少しずつ短くなっており、王宮の長い廊下には既に橙色の光が差し込んでいた。
仕事を終えたアマリリアとライルは、並んでセレーネの私室へ向かっている。
今日は護衛が少し離れて後ろを歩いているだけで、二人の間に他の者はいない。
「アマリリア」
「はい」
「まだ緊張してる?」
「殿下こそ」
「してる」
「素直ですね」
「だって結婚式の話だよ」
「そうですが」
「アマリリアは?」
アマリリアは少し考えた。
緊張。
それもある。
楽しみ。
それもある。
けれど、もっと近い言葉が別にある気がした。
「不思議です」
「不思議?」
「はい」
歩みは止めずに、窓の外へ目を向ける。
夕日を受けた庭の木々が、長い影を芝生へ伸ばしていた。
「以前は、婚約という言葉を聞くだけで腹が立っておりましたから」
「ああ……」
「誰と結婚するかを、私以外の人間が決めようとしていたでしょう」
「うん」
「ですから、婚約も結婚も、私にとっては押し付けられるものだったのです」
ライルは黙って聞いている。
「それが今は、自分から結婚後の家を見て、持っていく本の話をして、食卓のことまで考えております」
「本棚でも揉めた」
「揉めておりません。意見交換です」
「重大な意見対立って言ったのアマリリアだよ」
「あれは冗談です!」
思わず声が少し大きくなる。
前を歩いていた侍従が僅かに肩を揺らしたが、振り返りはしなかった。
アマリリアは少しだけ声を落とす。
「……ともかく」
「うん」
「自分で決めているから、不思議なのだと思います」
ライルの歩みが僅かに遅くなる。
アマリリアも自然と速度を合わせた。
「俺も」
「殿下も?」
「最初は脅されて婚約者になったから」
「そこを今持ち出します!?」
「最後まで聞いて!」
ライルが慌てて両手を少し上げる。
「最初はそうだったけど、今は違うって言いたかったんだよ」
「先にそちらをおっしゃってください!」
「ごめん」
「まったく……」
アマリリアは顔を背けた。
だが、怒ってはいない。
むしろ最初の頃を思い出し、笑いそうになるのを堪えていた。
(本当に、とんでもない始まり方でしたわね)
第一王子を脅して婚約者にする。
冷静に考えれば、今でも十分にとんでもない。
けれど、その選択の先で。
隣を歩いている人と、本当に結婚しようとしている。
「アマリリア」
「何でしょう」
「今は、俺と結婚するの嫌じゃない?」
問い方は軽かった。
しかし、ライルの視線だけは少し真剣だった。
アマリリアは足を止めた。
廊下を進んでいたライルも一歩先で気づき、振り返る。
「殿下」
「はい」
「今さら何を確認しておりますの?」
「いや、分かってるけど」
「分かっているなら聞かないでください」
「でも聞きたい時もある」
アマリリアはため息をついた。
それから一歩近づく。
周囲には侍従も護衛もいる。
それでも構わず、ライルの手を取った。
「嫌なら、結婚後の食卓で悩んだり、本棚で意見交換したり、何度でも出かけようなどと約束したりいたしません」
「うん」
「それに」
一度だけ言葉を止める。
頬が熱くなるのが分かった。
だが、ここで逃げる理由はない。
「私は、殿下と結婚したいです」
ライルの目が少し大きくなる。
何度も好きだと言っている。
正式な婚約にも同意した。
結婚後の話もしている。
それでも、「結婚したい」と真正面から言うのは、また少し違った。
「……俺も」
ライルの指が、アマリリアの手を握り返す。
「アマリリアと結婚したい」
「はい」
「すごく」
「そこまで強調しなくても聞こえております」
「でも言いたい」
「でしたら、一度だけ許します」
「すごく結婚したい」
「一度だけと言いましたよね!?」
ライルが笑う。
アマリリアも結局、笑ってしまった。
少し離れて控えていた護衛たちは、聞こえていないふりをしている。だが、一人だけ視線を天井へ向けているので、おそらく全部聞こえていた。
「行きましょう」
「うん」
二人は再び歩き出す。
今度は手を離さなかった。
◇◇◇
セレーネの私室へ入ると、想像していたような大量の婚礼資料はなかった。
大きな机もない。
低い卓と長椅子。
茶器。
焼き菓子。
そして、セレーネ本人。
「いらっしゃい」
「母上」
「王妃陛下、お時間をいただきありがとうございます」
「座って。今日は公務じゃないから、そんなに固くならなくていいわ」
二人が並んで腰を下ろすと、侍女が茶を注ぐ。
香りの柔らかな茶だった。
アマリリアは部屋の中をさりげなく確認する。
婚礼衣装の見本はない。
招待客名簿もない。
式場の図面もない。
それに気づいたセレーネが笑った。
「探しているでしょう」
「何をでしょう」
「婚礼の資料」
「……少しだけ」
「俺も探した」
「殿下!」
「いいじゃない、正直で」
セレーネは楽しそうに笑った。
「今日は何も決めないわよ」
「何も?」
ライルが尋ねる。
「ええ。日取りも、衣装も、招待客も、式の形も」
アマリリアは少し拍子抜けした。
「では、何を?」
「あなたたちが、どういう結婚式にしたいか」
「……それを決めるのでは?」
「違うわ」
セレーネは自分の茶を一口飲んだ。
「決める前に、本人たちが何を嫌がっていて、何を大事にしたいのかくらい知っておきたいの」
アマリリアは黙る。
「王家の結婚式だから、何でも好きにとはいかないわ。当然、必要な儀礼もあるし、呼ばなければならない人もいる。でも、だからといって本人たちを置いて進めるつもりもない」
その言葉に、アマリリアの指が茶器の取っ手の上で僅かに止まった。
本人たちを置いて進めない。
それは、今のアマリリアにとって、とても大きな意味を持つ言葉だった。
「アマリリア?」
セレーネが穏やかに呼ぶ。
「はい」
「何か嫌なことがある?」
「嫌なこと……」
「式についてよ。今すぐ全部出さなくていいわ。思いつくものだけ」
アマリリアは考える。
豪華な式が嫌なのか。
人が多いのが嫌なのか。
長い儀礼が嫌なのか。
どれも、絶対に嫌というほどではない。
「勝手に決められること、でしょうか」
気づけば、そう答えていた。
セレーネは驚かなかった。
「そうね」
「もちろん、王家の儀礼が必要なのは理解しております。私の希望だけで決められないことも」
「ええ」
「ですが、気づいた時にはすべて決まっていて、『あなたはこの通りにしてください』と言われるのは……嫌です」
言葉にすると、胸の奥が少しだけ詰まった。
婚約を押し付けられそうになった頃の記憶が、遠くから戻ってくる。
誰と。
なぜ。
どうして。
自分の人生なのに、自分以外の人間が話を進めていた。
あの感覚だけは、もう味わいたくない。
すると、隣からライルの手が近づいた。
卓の下。
誰にも見せる必要のない場所で、指先がそっと触れる。
アマリリアはその手を握った。
「分かったわ」
セレーネは静かに頷いた。
「決めなければならないものは、決める前に二人へ伝える。選べるものは選んでもらう。選べないものも、なぜ選べないのか説明する」
「……はい」
「それなら?」
「大丈夫です」
アマリリアの肩から、知らないうちに入っていた力が抜けた。
「ライルは?」
「俺?」
「嫌なこと」
ライルはしばらく考えた。
「アマリリアが疲れすぎるのは嫌」
「殿下」
「だって本当に」
「ご自分は?」
「俺も疲れすぎるのは嫌」
「ならよろしいです」
「いいの?」
「殿下だけ私を心配するのは不公平です」
セレーネが笑う。
「他には?」
ライルはもう一度考えた。
「式が終わった時に、何も覚えてないくらい忙しいのは嫌かな」
アマリリアが横を見る。
「覚えていたい?」
「うん」
ライルは少し照れたように笑った。
「アマリリアが何着てたとか、何話したとか、ちゃんと覚えてたい」
胸の奥がまた熱くなる。
「……私もです」
「じゃあ、それも大事にしましょう」
セレーネが頷いた。
「全部を叶えられるとは約束しない。でも、式をこなすだけの一日にしないようには考えられる」
「ありがとうございます」
アマリリアは素直に頭を下げた。
「では、今日はそれだけ?」
ライルが尋ねる。
「もう一つだけ」
セレーネは二人を交互に見た。
「式の日を決める前に、住む場所はある程度決めておきたいわ」
二人が同時に顔を上げた。
「やはり関係します?」
アマリリアが尋ねる。
「当然でしょう。結婚式の翌日からどこへ帰るのか、何も決まっていないのは困るもの」
「……そうですわね」
「第二小宮以外も見る?」
セレーネは急かさない。
ただ尋ねただけだった。
アマリリアはライルを見る。
ライルもこちらを見ていた。
昨日までは、まだ見なくてよいと思っていた。
第二小宮の食卓が頭に残っていたから。
それが消えてから次を見るのではなく、残ったまま他も見ればよいのかもしれない。
「殿下」
「うん」
「次も、見てみます?」
ライルは少し考えてから頷いた。
「見たい」
「私もです」
セレーネは笑った。
「分かったわ。日程は明日以降に調整させる。ただし、急ぎではないから仕事を押しのける必要はないわよ」
「はい」
「それから、次を見たからって第二小宮を選べなくなるわけでもない」
「分かっております」
「食卓が気になってるんでしょう?」
「なぜご存じなのです!?」
「顔」
「また顔ですか!?」
ライルが隣で吹き出した。
「アマリリア、最近顔に出るね」
「殿下にだけは言われたくありません!」
セレーネの私室に笑い声が広がった。
婚礼の具体的な日取りは、まだ決まっていない。
衣装も。
式場も。
招待客も。
今日決まったのは、たった二つだけだった。
勝手に決めないこと。
そして、結婚式の翌日に二人が帰る場所を考えるため、もう一つの住居候補を見に行くこと。
それで十分だった。
◇◇◇
セレーネの私室を出た時には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
廊下の壁灯が等間隔に灯り、磨かれた床へ柔らかな光を落としている。
「アマリリア」
「はい」
「今日、いっぱい決まった気がする」
「実際には、それほど決まっておりませんよ」
「三人目に今は聞かない」
「はい」
「運送の確認は一回区切る」
「はい」
「結婚式は勝手に決めない」
「はい」
「次の家を見る」
「はい」
ライルが指を折りながら数える。
「四つ」
「十分多いですね」
「でしょ?」
アマリリアは笑った。
朝には、運送の記録が机に並んでいた。
誰へ何を聞くべきかを考えていた。
夕方には、結婚式の話をしている。
まるで違うことのようでいて、どこか似ている。
本人を置いて決めない。
必要なことを聞く。
知らなくてよいことまで無理に知ろうとしない。
選べるものと、選べないものを分ける。
(……仕事で覚えたことが、全部仕事だけのものではないのかもしれませんわね)
そんな考えが浮かんだが、アマリリアは口には出さなかった。
代わりに、隣を歩くライルへ尋ねる。
「次のお家、どのようなところでしょうね」
「分からない」
「楽しみです?」
「うん。でも」
「でも?」
「第二小宮の食卓、まだ好き」
アマリリアは少し笑った。
「私もです」
「次がもっと良かったら?」
「その時に悩みましょう」
「両方良かったら?」
「もっと悩みましょう」
「三つとも良かったら?」
「殿下」
「はい」
「今から悩みを増やさないでください」
「ごめんなさい」
また素直に謝る。
その横顔を見ながら、アマリリアは思う。
(でも、悪くありませんわね)
選べるから悩む。
自分たちで決められるから迷う。
誰かに押し付けられるのではなく、二人で一つずつ選んでいく。
その面倒さなら、いくらでも引き受けてよいと思えた。
「殿下」
「何?」
「手」
「うん?」
「出してください」
ライルが少し驚きながら右手を差し出す。
アマリリアはその手を取った。
「帰りましょう」
「今日は別々の家だけど」
「分かっております!」
「いつか同じになるね」
その言葉には、からかいがなかった。
アマリリアは握った手へ少し力を込める。
「はい」
王宮の長い廊下を、二人で歩いていく。
今日はまだ、同じ場所へは帰らない。
けれど、その日が来ることを、もう二人とも疑っていなかった。
どこへ帰るのか。
どんな食卓を置くのか。
本棚を一緒にするのか、分けるのか。
結婚式に何を着て、誰を招き、どんな一日を過ごすのか。
決まっていないことは、まだたくさんある。
それでも、決まっていないから不安なのではなく、これから二人で決められることが残っている。
アマリリアには今、そのことの方がずっと嬉しかった。




