第107話
翌朝、アマリリアがベスター家の食堂へ入ると、父ハロルドは既に朝食を半分ほど終えていた。
窓の外には薄い雲が広がっていたものの雨の気配はなく、庭木の葉が朝の風に小さく揺れている。焼いたパンと温かなスープの匂いが残る室内で、アマリリアがいつもの席へ腰を下ろすと、向かいにいたハロルドが新聞から視線を上げた。
「昨日、王妃陛下と話したそうだな」
「早いですね」
「王宮から今朝、連絡が来た」
「何の連絡です?」
「次の居住候補を見せるから、ベスター家側で同行させたい者がいるなら知らせてほしい、と」
アマリリアはパンへ伸ばしかけていた手を止めた。
「もう日程が?」
「明日の午後が第一候補らしい。お前たちの予定に問題がなければ、だそうだ」
「随分早いですわね」
「急いで決めろという意味ではないとも書いてあった」
「王妃陛下らしいですね」
昨夜、セレーネは仕事を押しのける必要はないと言っていた。その言葉通り、王宮側は一方的に予定を決めてはいないらしい。
アマリリアはパンを一口食べ、それから父を見る。
「それで、お父様は同行なさいます?」
「なぜ私が行く」
「ベスター家側で同行させたい者がいるなら、と聞かれたのでしょう?」
「お前が暮らす家だぞ」
「はい」
「私が先に口を出したら、面倒だろう」
「ご自覚があったのですね」
「どういう意味だ」
「そのままの意味です」
ハロルドが新聞を畳んだ。
「私は実務面で必要になれば見る。警備や使用人の動線、ベスター家から連れていく者がいるなら、その時にな」
「では今回は?」
「行かん」
「分かりました」
「ただし」
「はい」
「玄関は見てこい」
唐突な言葉に、アマリリアは瞬いた。
「玄関?」
「ああ」
「なぜです?」
「住むなら毎日通る場所だからだ」
「……なるほど」
「部屋の広さや調度品ばかり見て、出入りしづらい家を選ぶなよ」
「私を何だと思っておりますの?」
「仕事机より食卓を先に見た娘だ」
「王妃陛下からどこまで聞いているのです!?」
「食卓が気に入ったことくらいだ」
「十分です!」
アマリリアが抗議すると、ハロルドは何でもない顔で茶を飲んだ。
「別に悪いとは言っていない」
「でしたら、笑わないでください」
「笑っていない」
「口元が笑っております!」
「気のせいだ」
絶対に違う。
アマリリアは睨んだが、父は平然としている。
少し前なら、結婚後の住居の話を父とこんな調子でできるとは思わなかった。
寂しさがないわけではない。
ハロルドにもある。
自分にもある。
それでも、その寂しさを理由に未来を止める必要はないのだと、今は互いに分かっている。
「お父様」
「何だ」
「持っていく物ですが」
「ああ」
「まだ具体的には決めておりません。ただ、本はかなり持っていくと思います」
「知っている」
「なぜです?」
「お前だからだ」
「どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
先ほど自分が使った言葉を返され、アマリリアは口を閉じた。
ハロルドの口元が今度こそ明確に上がる。
「ただし、全部持っていくな」
「なぜです?」
「この家にも帰ってくるんだろう」
今度は、アマリリアが何も言えなくなった。
父は新聞を開き直しながら、何でもないことのように続ける。
「本が一冊もなくなった部屋では、帰ってきた気がしないかもしれんぞ」
「……私の部屋を残してくださるのですか?」
「結婚した瞬間に叩き出してほしいのか?」
「そういう意味ではありません!」
「なら残しておく。使い道を考えるのは、もっと後でいい」
新聞の向こうに隠れて、父の表情は見えなくなった。
アマリリアはしばらく何も言わず、湯気の立つスープへ視線を落とした。
(家が一つ増える)
共有帳面にそう書いた時、自分でも完全には分かっていなかったのかもしれない。
新しい家を作ることは、古い家を消すことではない。
ベスター家から離れて暮らしても、ここへ戻ってくる日がある。
「……では、何冊か残します」
新聞の向こうから、すぐ返事が来た。
「何冊か、か」
「何です?」
「いや。お前にしては譲歩したと思ってな」
「お父様!」
朝の食堂へ、アマリリアの声が響いた。
◇◇◇
王宮へ到着すると、ライルは既に執務室にいた。
机の上には今日処理する書類がいくつか並んでいるが、トーマとミナの聞き取り記録はない。
昨日までそこにあったものが消えただけで、机が少し広く見える。
「おはよう、アマリリア」
「おはようございます、殿下」
「父上から聞いた?」
「何をでしょう」
「明日、次の住むところ見られるって」
「今朝、お父様から聞きました」
「俺も朝食の時に父上から聞いた」
「陛下から?」
「うん。母上が昨日のうちに話してたみたい」
ライルが少し嬉しそうに笑う。
「予定、大丈夫?」
「午後なら問題ありません。殿下は?」
「俺も大丈夫。午前の予定を動かさなくて済むって」
「では明日ですね」
「うん」
ライルは一度頷いた後、何かを思い出したように言った。
「父上に変なこと言われた」
「何を?」
「『次は食卓以外も見てこい』って」
「……」
「アマリリア?」
「どうして王家にも広まっているのですか!?」
思わず額を押さえた。
セレーネだけならまだ分かる。
見学を手配した本人なのだから。
しかし国王まで知っているとは思わなかった。
「父上、笑ってた」
「でしょうね!」
「でも、『食卓を見るのは悪くない』とも言ってたよ」
「……陛下が?」
「うん。住む場所なら、会議室より食卓の方が使うかもしれないって」
アマリリアは少しだけ目を瞬いた。
「それは……そうかもしれませんね」
「それから玄関も見ろって」
「殿下もですか!?」
「も?」
「お父様にも同じことを言われました」
二人は顔を見合わせた。
「なんで?」
「知りませんよ」
「親って玄関が気になるのかな」
「そのような共通習性があるとは思いたくありません」
ライルが吹き出す。
アマリリアも笑いを堪えきれなかった。
「では明日は玄関を見なければなりませんね」
「食卓も見る?」
「もちろんです」
「本棚は?」
「それも重要です」
「仕事部屋は?」
「必要です」
「寝室は?」
「……必要ではあります」
「今、間があった」
「殿下!」
ライルが楽しそうに笑う。
アマリリアは頬が熱くなるのを感じながら、自分の席へ向かった。
「仕事を始めます!」
「はい」
「午前中に終わらせるものがありますからね」
「分かってます」
明日の住居見学は楽しみだ。
だからこそ、今日の仕事を雑に終わらせる理由にはならない。
二人はそれぞれ書類を開いた。
共同便についての追加資料は来ていない。
第二共同倉庫からも、特別な報告はない。
昨日まで大きく開いていた問いは、必要になればまた取り出せる場所へ収められている。
午前は別の通常業務に使われた。
王都南側の街路補修予定。
冬前に確認する王宮倉庫の薪の備蓄。
地方役所から届いた定例報告。
どれも重要ではあるが、今すぐ大きな判断を迫るものではない。
ライルが一つの報告書へ署名し、次へ手を伸ばしたところで、ふと止まった。
「アマリリア」
「何でしょう」
「明日、何も書かずに見ない?」
「何をです?」
「家」
アマリリアは手元の筆を止めた。
「前も一覧を作らなかったでしょう」
「うん。でも今度は二つ目だから、比べたくなるかなって」
「……なりますね」
「俺も」
第二小宮。
食堂。
私室。
仕事部屋。
窓。
使用人の動線。
いくらでも比較項目を作れる。
しかも二つ目を見れば、「第二小宮より広い」「狭い」「明るい」「遠い」といった比較が自然に始まるだろう。
「でも、比較してはいけないわけではありませんよ」
「うん」
「選ぶためには必要でしょう」
「じゃあどうする?」
アマリリアは少し考えた。
「見ている最中には、比べることを目的にしない。それでどうでしょう」
「終わってから?」
「ええ。まずその家をその家として見ます。その後で、覚えていることを話す」
「いいと思う」
「ただし」
「はい」
「玄関は忘れずに見ます」
ライルが笑った。
「父親二人から言われたから?」
「そうです!」
今度こそ、二人とも声を上げて笑った。
◇◇◇
翌日の午後。
二人が案内されたのは、王宮の東側にある居住区画だった。
第二小宮より本宮から少し離れているものの、長い渡り廊下でつながっている。外へ出る必要はなく、途中には小さな中庭が二つあり、秋の草花が風に揺れていた。
「こちらは東離宮の南棟になります」
案内役の侍女が説明する。
今日はセレーネ本人はいない。
代わりに、王宮内の居住区画を管理する年配の侍女と、警備担当の騎士が同行していた。
「離宮と申しましても、現在は独立した宮として使用しておりません。北棟は来客用区画、中央棟の一部は王族の控え室として使用しておりますが、南棟は長く常住者がおりません」
「他の人も近くを使うんだね」
「はい。ただし、南棟への出入りは分けることができます」
ライルが頷く。
アマリリアは廊下の先を見る。
第二小宮とは雰囲気が違う。
あちらは一つの家としてまとまっている印象が強かった。
こちらは王宮の一部という感覚が少し強い。
やがて案内役が扉の前で止まった。
「こちらが主な出入口です」
アマリリアとライルは同時に足を止めた。
「……玄関」
ライルが小声で言う。
「玄関ですね」
二人の反応に、案内役の侍女が少し不思議そうな顔をする。
「何か?」
「いえ。父から見るように言われまして」
「俺も」
「お二人とも?」
「はい」
年配の侍女は一瞬だけ目を瞬いた後、穏やかに笑った。
「では、ゆっくりご覧ください」
玄関は第二小宮より広かった。
外から直接入る正式な出入口と、王宮内部の渡り廊下から入る日常用の出入口が近い位置にあり、その間に小さな前室が設けられている。
壁際には外套や雨具を預けるための場所があり、警備担当者が待機できる小部屋も隣接していた。
「外から帰ってきた時は?」
アマリリアが尋ねる。
「馬車の場合はこちらの外側の出入口を使用できます。王宮内部から戻る場合は、今通ってきた渡り廊下側です」
「つまり、帰る方向で入口が変わる?」
「はい」
ライルが二つの扉を見比べる。
「アマリリアがベスター家から帰ってきたら外側?」
「馬車ならそうでしょうね」
「俺が仕事から戻る時は内側」
「おそらく」
「同じ家なのに、別の扉から帰ってくることがあるんだ」
ライルは面白そうに言った。
アマリリアも想像する。
自分がベスター家から馬車で戻る。
外側の扉から入る。
その少し前に、ライルは王宮の執務から渡り廊下を通って帰っているかもしれない。
逆の日もある。
(帰る場所が同じなら、入口まで同じでなくてもよいのですね)
昨日まで話していたことが、急に形を持った気がした。
別々に仕事をする。
別々の場所へ出かける。
それでも最後は同じ家へ帰る。
「玄関、面白いね」
「お父様たちが見るように言った理由とは違う気がしますけれど」
「でも見てよかった」
「はい」
アマリリアは素直に頷いた。
まだ一部屋目にも入っていない。
それなのに、既に一つ覚えておきたいことができてしまった。
◇◇◇
玄関から進むと、最初に小さな応接室があり、その先に居間があった。
第二小宮の居間より少し広い。
大きな窓から中庭が見え、壁際には暖炉がある。
しかし二人が最初に見たのは、窓でも暖炉でもなかった。
「机を置けそう」
ライルが部屋の一角を見て言う。
「駄目です」
「まだ置くって言ってない!」
「顔に出ております」
「アマリリアも見たでしょ」
「見ましたけれど、ここは居間です」
「じゃあ仕事机は禁止?」
「少なくとも、大きなものは」
「小さいのなら?」
「殿下」
「はい」
「第二小宮で何を話しました?」
「仕事を持ち込まない部屋を作りたい」
「覚えているではありませんか」
「でも手紙一枚くらいなら」
「そうやって増えるのです!」
案内役の侍女が口元を押さえている。
警備担当の騎士は完全に視線を逸らしていた。
「アマリリアだって絶対持ち込むよ」
「……否定はしません」
「ほら」
「だからこそ最初から置かないのです」
「なるほど」
ライルが妙に納得した顔をする。
「じゃあここも仕事机なし候補」
「そうですね」
「二つ目の家でも同じこと言ってる」
「でしたら、私たちにとって重要なのでしょう」
アマリリアはそう言ってから、自分でも少し驚いた。
第二小宮だけで思いついたことではない。
別の住居へ来ても、同じように考えた。
ならばそれは、建物の特徴ではなく、自分たちが暮らしへ求めているものなのかもしれない。
「覚えておこう」
ライルが言う。
「書かずに?」
「うん」
「忘れたら?」
「その程度だったってことで」
「……殿下も随分言うようになりましたね」
「アマリリアの真似」
「責任を押し付けないでください」
笑いながら、二人は次の部屋へ進んだ。
食堂は居間の隣にあった。
扉を開けた瞬間、二人とも無言になる。
第二小宮の食堂より明るかった。
三方向から光が入り、窓の向こうには小さな中庭が見える。中央には八人掛けほどの長い食卓が置かれていた。
「……広い」
ライルが最初に言った。
「そうですね」
アマリリアも食卓を見る。
立派だ。
明るい。
来客を招くにも便利だろう。
それなのに。
なぜか、第二小宮の六人掛けの食卓ほど胸へ残らなかった。
「どう?」
ライルが小声で尋ねる。
「まだ比較しない約束です」
「あ」
「その家として見ます」
「はい」
二人は食堂へ入った。
窓際まで歩き、外を見る。
中庭はよく手入れされている。
朝ならかなり明るいだろう。
「朝食には良さそうですね」
「うん。晴れてたら気持ちよさそう」
「八人掛けですから、誰かを招く時にも使えそうです」
「父上と母上とか?」
「お父様も?」
「来るかな」
「呼べば来ると思いますよ」
「緊張しそう」
「誰がです?」
「俺」
「なぜ殿下が?」
「ハロルド卿と同じ食卓で、結婚後の俺を見られるんだよ?」
想像してしまった。
新居の食卓。
自分。
ライル。
ハロルド。
おそらく父は、娘がどんな扱いを受けているか静かに観察する。
「……殿下」
「何?」
「頑張ってください」
「助けてよ!」
「私は中立です」
「妻になるのに!?」
「だからこそです」
ライルが情けない顔をする。
アマリリアは笑いながら、もう一度食卓へ目を向けた。
立派な食卓だ。
嫌いではない。
むしろ、よい。
それでも胸のどこかに、第二小宮の食卓が残っている。
まだ結論を出す必要はない。
アマリリアはその感覚だけを覚えておくことにした。
◇◇◇
食堂の後は、私室へ案内された。
こちらも二部屋が隣り合っており、第二小宮より少し広い。片方には大きな窓、もう片方には小さな暖炉がある。
「寝室としても使用できます」
案内役の侍女が説明する。
「家具配置は変更可能です。二室をそれぞれの私室として使用しても、一室を主寝室、もう一室を個人用の居室としても構いません」
「はい」
アマリリアは平静を装って答えた。
隣を見る。
ライルも妙に姿勢がよい。
「殿下」
「何?」
「緊張しております?」
「してない」
「声が少し高いですよ」
「アマリリアだって耳赤いよ」
「これは室温です!」
「涼しいけど」
「殿下!」
案内役の侍女が今度こそ小さく咳払いした。
「家具については、後日お決めいただけますので」
「はい!」
二人の返事が揃う。
アマリリアは窓へ逃げるように歩いた。
外には王宮の東庭が見える。
第二小宮で気に入った内庭側の窓とは違い、視界が広い。
「景色、いいね」
ライルが隣へ来る。
「そうですね」
「アマリリア、こっち好き?」
「嫌いではありません」
「俺も」
少しずつ緊張が抜ける。
寝室という言葉だけで毎回こんな反応をしていては、結婚後どうするのだろう。
(……考えるのはやめましょう)
アマリリアはすぐに思考を止めた。
「今、何か考えた?」
「何も」
「本当?」
「殿下」
「はい」
「次へ行きましょう」
「はい」
追及される前に歩き出した。
◇◇◇
次に案内されたのは仕事部屋だった。
ここで、第二小宮との大きな違いが出た。
「一室?」
アマリリアが尋ねる。
「はい。現在は一つの広い執務室として整えられております」
長方形の部屋には、机を二つ置いても十分な余裕がある。
本棚も多い。
書類棚も置ける。
機能だけ見れば申し分ない。
「仕切ることは?」
ライルが尋ねた。
「可能です。ただ、壁を新設する場合は工事が必要になります。簡易の間仕切りであれば、より早く対応できます」
二人は部屋の中央へ立った。
「広いですね」
「うん」
「一緒に仕事できる」
「できるね」
ライルがアマリリアを見る。
アマリリアもライルを見る。
「……どう思います?」
「アマリリアは?」
「先に聞いたのは私です」
「ずるい」
「何がです?」
少しだけ沈黙が続く。
先に口を開いたのはライルだった。
「俺、別の部屋の方がいいかも」
アマリリアは目を瞬いた。
「なぜです?」
「一緒にいたくないわけじゃないよ」
「分かっております」
「仕事してる時って、アマリリアすごく集中するでしょう」
「殿下もでしょう」
「俺、絶対話しかけると思う」
「……でしょうね」
「それで怒られる」
「怒りませんよ」
「本当に?」
「内容によります」
「やっぱり怒る!」
ライルが笑った。
それから広い部屋を見渡す。
「別々の仕事をして、聞きたい時に行く方がいい」
「私も、その方がよいと思います」
「一緒の部屋が嫌だからじゃない?」
「違います」
アマリリアはすぐ答えた。
「一緒にいる時間を、仕事だけにしたくありません」
口にした後、自分で少し照れた。
ライルも目を丸くする。
「それ、すごくいい」
「大げさです」
「だって」
ライルが嬉しそうに笑う。
「仕事は別々で、居間では一緒ってことでしょ」
「毎回一緒とは限りませんけれど」
「うん。でもそういう日がある」
「はい」
「俺、それがいい」
アマリリアも頷いた。
この部屋が悪いわけではない。
むしろ立派で、便利だ。
しかし、二人が望む暮らしには少し違う。
必要なら改装できる。
それも含めて考えればよい。
「覚えておきましょう」
「うん」
今度も紙には書かなかった。
◇◇◇
見学の最後に、裏方の区画も確認した。
使用人用の通路。
警備室。
荷物を搬入するための出入口。
洗濯物や食材を扱う場所。
第二小宮より規模が大きく、既存の王宮使用人との連携はしやすいという。
「ベスター家から使用人を連れてくる場合は?」
アマリリアが尋ねる。
「身元確認と警備上の手続きを経れば可能です。ただ、こちらは王宮内部との接続が多いため、第二小宮より配置上の制限が少し増える可能性がございます」
「なるほど」
これは覚えておく必要がある。
誰を連れてくるかは、まだ決めていない。
ザネをどうするかも含め、ベスター家側との相談が必要になるだろう。
黒装束の部下たちについては――。
(……あの方々を正式な使用人として申請する光景は、少々想像しづらいですわね)
思わず考え込んだところで、ライルが横から覗き込んだ。
「また黒い人たち?」
「なぜ分かるのです!?」
「前も同じ顔してた」
「どのような顔ですか!」
「説明しにくい」
「なら言わないでください!」
案内役の侍女は意味が分からず首を傾げている。
アマリリアは咳払いして話を戻した。
「その点は、必要になった時に改めて確認いたします」
「承知いたしました」
見学はそこで終了した。
◇◇◇
帰りの渡り廊下。
行きとは違い、二人はほとんど話さなかった。
気まずいわけではない。
それぞれが、今見たものを頭の中でゆっくり思い返していた。
中庭。
玄関。
明るい食堂。
広い私室。
一つの大きな仕事部屋。
使用人の動線。
王宮本体との距離。
そして、第二小宮。
渡り廊下の途中にある中庭まで戻ったところで、ライルが足を止めた。
「少しだけいい?」
「はい」
そこには石造りの小さな腰掛けがあった。
二人は並んで座る。
秋の風が廊下を抜け、中庭の葉を揺らしている。
「比較していい?」
「もう見学は終わりましたから」
「うん」
ライルは膝の上で両手を組んだ。
「今日のところ、良かった」
「私もそう思います」
「明るいし、広いし、王宮の中から行きやすい」
「使用人の動線も整っております」
「玄関も二つある」
「そこをそんなに強調します?」
「だって面白かった」
アマリリアも笑った。
「でも」
ライルが続ける。
「俺、第二小宮の方が家っぽく感じた」
アマリリアは黙った。
自分も同じだった。
「どうしてでしょう」
「分からない」
「食卓?」
「それもある」
「部屋の広さ?」
「今日の方が広かったよね」
「はい」
「広い方がいいと思ってたけど」
ライルが中庭を見る。
「住むって考えると、広ければいいわけじゃないんだね」
「そうかもしれません」
アマリリアも風に揺れる葉を眺めた。
東離宮南棟は悪くない。
むしろ条件だけを並べれば、第二小宮より優れている部分もある。
明るい。
広い。
王宮内との行き来がしやすい。
来客にも対応しやすい。
それでも。
「私も、第二小宮の方が帰る場所として想像しやすかったです」
「本当?」
「はい」
「じゃあ第二小宮にする?」
ライルの声には、決定を迫る響きはなかった。
だからこそ、アマリリアも素直に考えられた。
「まだ、もう一つありますよね」
「うん」
「見たいです?」
「……見たい」
「私もです」
答えは自然に揃った。
第二小宮が気に入っているからこそ、最後の一つも見たい。
全部見なければ決められないからではない。
ただ、今なら自分たちが何を大事にしたいのかを、少しずつ言葉にできる気がする。
「でも」
ライルが言った。
「今日ので分かったことある」
「何でしょう」
「俺、豪華な家に住みたいわけじゃないみたい」
「第一王子殿下がそれをおっしゃいます?」
「だって本当だもん」
「では、何が欲しいのです?」
ライルは少し考えた。
「アマリリアが帰ってきた時に、俺が『おかえり』って言えるところ」
アマリリアの呼吸が一瞬止まった。
ライルは照れたように視線を逸らす。
「……変?」
「いいえ」
アマリリアは自分の手元を見る。
指先が少し熱い。
(それなら私は、何が欲しいのでしょう)
立派な部屋。
広い庭。
豪華な調度品。
どれも嫌ではない。
だが、それより先に浮かんだものがある。
「私は」
「うん」
「殿下が帰ってきた時に、『おかえりなさい』と言えるところがよいです」
今度はライルが黙った。
「殿下?」
「……それ、ずるい」
「なぜです?」
「嬉しいから」
「殿下が先におっしゃったのでしょう!」
「そうだけど!」
二人の声が中庭へ落ちる。
少し離れたところで待っている護衛たちは、今回も聞こえないふりをしていた。
「じゃあ」
ライルが手を差し出した。
「最後の一つも見よう」
「はい」
「それで、どこが一番『おかえり』って言いやすいか考える」
「その基準でよろしいのですか?」
「駄目?」
アマリリアは少し考えてから、その手を取った。
「いいえ」
指を重ねる。
「とても分かりやすいと思います」
◇◇◇
その日の夕方、ベスター家へ戻ったアマリリアを、ハロルドが玄関近くの廊下で捕まえた。
「どうだった」
第一声がそれだった。
「何がです?」
「玄関だ」
「そこからですか!?」
「見るように言っただろう」
アマリリアは呆れながら外套を使用人へ預ける。
「見ました。二つありました」
「二つ?」
「王宮内部から帰る時と、外から馬車で帰る時で使い分けられます」
「なるほど」
ハロルドは本気で興味を持ったらしく、少し考え込んだ。
「警備は?」
「内部側と外側で分けられます。待機室もありました」
「使用人の搬入口は?」
「別です」
「悪くないな」
「お父様」
「何だ」
「本当に玄関を気にしていたのですね」
「だから言っただろう」
「私はてっきり、何か父親らしい比喩なのかと」
「家の玄関に比喩など要るか」
「……そうですわね」
妙に納得してしまった。
「それで」
ハロルドが娘を見る。
「気に入ったのか」
「よいところでした」
「第二小宮より?」
アマリリアはすぐには答えなかった。
ハロルドも急かさない。
「条件だけなら、今日の方がよい部分もあります」
「そうか」
「ですが」
アマリリアは玄関の奥を振り返った。
毎日見てきたベスター家の玄関。
外から帰ってくれば、使用人が迎える。
父がいる日もある。
ザネに捕まって仕事の報告をされることもある。
自分にとっては、ここが帰る場所だった。
「第二小宮の方が、暮らしている自分を想像しやすかったです」
ハロルドはしばらく娘の顔を見た。
「なら、それを覚えておけ」
「それだけですか?」
「何を言ってほしい」
「もっと、こう……条件を比べろとか」
「必要ならお前が勝手にやるだろう」
「否定できません」
「だったら、私が言う必要はない」
ハロルドは歩き出す。
数歩進んだところで、振り返らずに言った。
「最後の一つも見るのか」
「はい」
「そうか」
短い返事だった。
けれど、その声は少しだけ柔らかかった。
「お父様」
「何だ」
「今日のお家も、悪くありませんでしたよ」
「分かっている」
「でも、私はたぶん」
言いかけて止まる。
まだ決めていない。
だから、今はこれでいい。
「……いえ。何でもありません」
「そうか」
ハロルドはそれ以上聞かなかった。
アマリリアも自室へ向かう。
廊下を歩きながら、今日見た立派な東離宮南棟を思い出した。
明るい食堂。
広い部屋。
二つの玄関。
どれもよかった。
それでも、記憶の中へ最初に浮かんだのは別の光景だった。
第二小宮の六人掛けの食卓。
向かいに座るライル。
一緒に食べられる朝は一緒に食べようと話した時の声。
そして今日、中庭で交わした言葉。
『おかえり』
『おかえりなさい』
結婚後の家を選ぶのに、そんなものを基準にしてよいのか。
少し前の自分なら、もっと合理的な条件を並べようとしたかもしれない。
けれど今は思う。
(暮らす場所を選ぶのですもの)
仕事場を選んでいるのではない。
王宮の機能を決めているのでもない。
自分とライルが、仕事を終えて帰る場所を選んでいる。
ならば。
(「帰りたい」と思えることは、十分に大切な条件ですわね)
自室の扉を開く。
見慣れた机。
読みかけの本。
棚に並んだ何冊もの本。
小物入れには、ライルから贈られたものもある。
この部屋からすべてを持ち出す必要はない。
ここへ帰ってくる日もある。
そして、もう一つ。
これから二人で作る、新しい帰る場所が増える。
アマリリアは机の前へ座ったが、共有帳面には手を伸ばさなかった。
今日のことを、今すぐ文章にして残さなくてもよい気がした。
次にライルへ会った時、直接話せばいい。
同じ家へ帰るようになれば、帳面を介さなくても伝えられる夜が増えていくのだろう。
その未来を想像した途端、アマリリアの口元が自然と緩んだ。
「……おかえりなさい、ですか」
誰もいない部屋で、小さく口にしてみる。
まだ少し照れくさい。
けれど、嫌ではなかった。
むしろ、その言葉を本当にライルへ言う日が来ることを。
アマリリアは、思っていた以上に楽しみにしていた。




