第108話
アマリリアが三つ目の住居候補を見ることになったのは、東離宮南棟を見学してから二日後のことだった。
その日の王都は朝からよく晴れていた。秋の空は高く、王宮の窓から差し込む光にも夏のような強さはない。開けられた窓から入る風は少し冷たく、執務机の端に置かれた紙を僅かに揺らしていた。
「本当に今日で三つ目ですのね」
午前の仕事を終えたアマリリアが書類を閉じながら呟くと、向かいにいたライルが顔を上げた。
「うん。最後」
「最後、と言うと妙に緊張します」
「今日決めなくてもいいんだよね?」
「もちろんです」
「よかった」
「殿下も緊張していたのですか?」
「してるよ」
ライルは素直に頷いた。
「だって、三つとも見たら次は選ぶ話になるでしょう?」
「そうですね」
「今までは『まだ他もある』って言えたけど、今日が終わったらないから」
アマリリアは少し考え、それから頷いた。
第二小宮。
東離宮南棟。
そして、これから見る最後の候補。
三つを見終えれば、次に考えるのはどこへ住むかになる。
誰かに決められるわけではない。
セレーネもハロルドも、二人に選ばせると言っている。
だからこそ、決めるという行為そのものが少し重く感じられた。
(自分で選びたいと思っていたのですから、選べることに緊張するのは贅沢なのでしょうね)
そう思う一方で、その緊張を嫌だとは感じなかった。
アマリリアは机の脇に置いていた薄い書類を手に取る。
「一応、今日見る場所についてはこれだけです」
「読む?」
「読みます?」
二人で顔を見合わせる。
書類には場所と最低限の構造だけが記されている。
昨日のうちに渡されていたものの、二人ともまだ詳しく読んでいなかった。
「……先に見たい」
ライルが言った。
「私もです」
アマリリアは書類を閉じたまま戻した。
「では、現地で」
「うん」
「それと」
「何?」
「今日は玄関を忘れないようにしましょう」
「もう忘れないよ!」
「二人の父親から言われておりますからね」
「父上、昨日も聞いてきた」
「何をです?」
「『二つ目の玄関はどうだった』って」
「陛下まで!?」
「二つあったって言ったら、ちょっと嬉しそうだった」
「なぜです!?」
「分からない」
アマリリアは額を押さえた。
どうやら父親というものは、娘や息子の新居となると玄関に関心を持つ生き物らしい。
もちろん、二人だけを見て一般化してはいけない。
「……今、何か政策の時みたいなこと考えなかった?」
ライルに指摘され、アマリリアは顔を上げた。
「考えておりません」
「本当?」
「本当です」
「怪しい」
「殿下」
「はい」
「午後の見学へ行きますよ」
「はい」
ライルは笑いながら立ち上がった。
◇◇◇
三つ目の候補は、王宮の北西側にあった。
正式には北西居住区第一別棟と呼ばれている。
第二小宮より王宮本体から離れており、東離宮南棟のような屋内の渡り廊下もない。王宮の主要区画から向かうには、屋根付きの回廊を一度通り、小さな庭を横切る必要があった。
「雨の日は?」
ライルが尋ねる。
「回廊から別棟入口までの間だけ、十数歩ほど屋根がございません」
今日の案内役は、第二小宮を案内した時とは別の中年の侍従だった。
「強い雨の場合は傘をお使いいただくか、こちら側へ馬車を回すことも可能です」
「王宮の中なのに馬車?」
「距離だけで申しますと必要ないのですが、衣装によってはその方がよろしい場合もございます」
「ああ」
ライルが納得する。
アマリリアは周囲を見回した。
王宮から少し離れているため、空が広く見える。
木々も多い。
風が枝を揺らす音が、王宮内部よりはっきり聞こえていた。
「静かですね」
「はい。三候補の中では、最も王宮本体から離れております」
「仕事へ行くには少し遠い?」
「徒歩で数分ほど増える程度です」
「数分」
ライルがアマリリアを見る。
「どう思う?」
「まだ玄関にも着いておりません」
「あ」
「まず見ましょう」
「はい」
少し先に、小ぶりな建物が見えてくる。
第二小宮より横に広く、東離宮南棟ほど大きくない。
外壁は明るい灰白色で、窓枠には濃い木材が使われている。華美な装飾は少なく、王族の居住区画というより、少し大きな貴族の別邸に近い印象だった。
そして。
「こちらが主玄関になります」
侍従が扉の前で立ち止まる。
アマリリアとライルは、今度こそ真面目に玄関を見た。
東離宮南棟ほど広くはない。
外套を預ける場所。
警備担当者の小部屋。
来客を待たせるための小さな前室。
必要なものは一通り揃っている。
「一つですね」
アマリリアが言った。
「うん。一つ」
ライルも頷く。
「裏側には使用人用の出入口がございます。また、王宮へ向かう回廊側にも小さな通用口がありますが、日常的な主出入口はこちらになるかと」
「ということは」
ライルが扉を見る。
「俺もアマリリアも、基本はここから帰る?」
「王宮との往来に通用口をお使いいただく可能性もございますが、私的な外出からお戻りの場合はこちらになります」
「なるほど」
アマリリアも扉を見る。
同じ玄関。
それだけで何かが決まるわけではない。
東離宮南棟で感じた、別々の入口から帰ってきても同じ家へ着くという感覚も悪くなかった。
こちらには、また違う印象がある。
二人が同じ扉から出かける朝。
別々の時間に同じ扉へ帰ってくる夕方。
「どう?」
ライルが小声で尋ねる。
「玄関としては、普通です」
「普通」
「はい」
「それ、悪い?」
「いいえ」
アマリリアは扉へ手を触れることなく、その木目を眺めた。
「毎日使うなら、普通でよいのかもしれません」
「そっか」
ライルが少し笑う。
「俺も好きかも」
「玄関を見ただけですよ」
「アマリリアも第二小宮では食卓を見ただけでかなり気に入ってたでしょう」
「まだその段階では決めておりません!」
「でも気になってた」
「……それは認めます」
侍従が二人の会話を聞きながら、僅かに笑っていた。
◇◇◇
玄関の先には、小さな応接室が二つあった。
一つは正式な来客用。
もう一つは親しい相手を迎えるための、少し柔らかな雰囲気の部屋。
その奥へ進むと、居間がある。
「あ」
ライルが声を漏らした。
第二小宮ほど広くない。
東離宮南棟よりもさらに小さい。
しかし窓が二方向にあり、一方は庭、もう一方は王宮側の木立を望んでいる。
暖炉。
二人掛けの長椅子が二つ。
小さな卓。
壁際の書棚。
そして――仕事机はなかった。
「机がない」
ライルが言う。
「当然では?」
「いや、なんか安心した」
「置こうと思えば置けますよ」
「置かない?」
「置きません」
「即答」
「ここまで二軒見て、二度とも同じ話をしたでしょう」
アマリリアは部屋の中央まで進む。
静かだ。
王宮の執務区画から離れているためか、人の往来の音がほとんど聞こえない。
窓の外では枝が揺れ、葉と葉が擦れる小さな音がしている。
「ここで仕事の話をしたら」
ライルが言う。
「目立ちそう」
「何がです?」
「静かだから」
「ああ」
アマリリアは少し想像した。
夕食後。
ここで茶を飲む。
ライルが仕事の書類を持ってくる。
自分も何かを持ってくる。
気づけば二人で仕事を始めている。
「……禁止札を置きます?」
「何て書くの?」
「『仕事を持ち込まない』」
「俺たち、自分の家で自分たち向けの禁止札を作るの?」
「必要かもしれません」
「嫌だよ!」
ライルが笑い出した。
「じゃあ、書類を持ってきた方が相手に止められるとか」
「殿下が持ってきたら私が止める」
「アマリリアが持ってきたら俺が止める」
「お互いに持ってきたら?」
二人は同時に黙った。
「……誰も止めないね」
「駄目ではありませんか」
「使用人に止めてもらう?」
「主人二人へ『仕事をやめてください』と言わなければならない使用人が可哀想です」
「じゃあ自分たちで頑張ろう」
「そうしましょう」
何とも頼りない結論だった。
それでも、アマリリアはこの居間を気に入った。
仕事をしないための部屋。
その発想が、三つの候補を見ても変わらなかった。
これはもう、二人にとってかなり重要な条件なのだろう。
◇◇◇
次は食堂だった。
扉が開く。
アマリリアは一歩入って――足を止めた。
「……六人」
中央には、六人掛けの食卓があった。
第二小宮と同じ人数だ。
ただし形は少し違う。
第二小宮の食卓は長方形だったが、こちらは角が丸く作られている。窓は一方向だけで、東離宮南棟ほど明るくはない。
それでも、午後の日差しが木製の天板へ柔らかく落ちていた。
「アマリリア」
「はい」
「食卓」
「見れば分かります」
「どう?」
「まだ見ている途中です」
「はい」
ライルが素直に黙る。
アマリリアは食卓へ近づいた。
六脚の椅子。
二人なら向かい合って座ることもできる。
隣に座ることもできる。
誰かを招くなら四人分残る。
ハロルド。
セレーネ。
国王。
友人。
仕事ではなく、食事のために呼ぶ人。
「厨房は?」
アマリリアが尋ねる。
「隣接しております。日常の食事はこちらで十分対応可能です。大人数の晩餐を行う場合は、王宮本体の広間をご利用いただく想定です」
「つまり、ここは普段の食事用?」
「主には、そのようになります」
アマリリアはその答えに少し惹かれた。
大勢を招く正式な晩餐は別の場所。
ここは、日々の食事。
朝食。
夕食。
たまに親しい人を呼ぶ程度。
「殿下」
「うん」
「座ってみます?」
「いいの?」
侍従を見ると、穏やかに頷いた。
「もちろんでございます」
二人は食卓へ座った。
向かい合う。
まだ食器も料理もない。
それなのに、アマリリアは妙な既視感を覚えた。
第二小宮でも、似たことを考えた。
一緒に朝食を食べる生活。
「おはようございます、殿下」
試しに言ってみた。
ライルが目を丸くする。
「……おはよう、アマリリア」
「どうです?」
「何が?」
「朝食の想像です」
「急だよ!」
「試しただけです」
「じゃあ俺も」
ライルが少し姿勢を正す。
「今日、帰り遅くなる」
「なぜ朝食で帰宅予定を伝える想定なのです?」
「夫婦っぽいかなって」
「分からなくはありませんけれど」
「アマリリアは?」
「では……今日はベスター家へ寄ってから戻ります」
「何時くらい?」
「夕食には間に合うと思います」
「分かった。待ってる」
そこまで言って、二人とも黙った。
何をしているのだろう。
まだ結婚していない。
まだ住む家も決まっていない。
空の食卓で、未来の朝食の会話をしている。
「……殿下」
「はい」
「少し恥ずかしくなってきました」
「俺も」
「やめましょう」
「うん」
二人は立ち上がった。
侍従は完全に視線を窓の外へ向けている。
聞かなかったことにしてくれているらしい。
「でも」
食堂を出る直前、ライルが小さく言った。
「悪くなかった」
アマリリアは少しだけ振り返る。
「……はい」
空の食卓へ午後の日差しが落ちている。
「私もです」
◇◇◇
私室は二つ。
第二小宮と似た配置で、間に小さな共用室がある。
一方は庭向き。
もう一方は王宮側。
「どっち?」
ライルがすぐ尋ねる。
「まだ住むと決まっておりません」
「もし住むなら」
「私は庭側でしょうか」
「俺、王宮側」
「第二小宮と同じですね」
「うん」
そこは迷わなかった。
窓の向きが違っても、二人の好みは変わらないらしい。
寝室として使う場合の説明もあったが、二人は以前より少しだけ落ち着いて聞けた。
少しだけ、である。
「一方を主寝室として――」
侍従が説明する。
アマリリアは真剣な顔で頷く。
隣のライルも真剣だ。
「――もう一方を個人用の私室として利用することも可能です」
「分かりました」
「うん」
返事はできた。
そこで終わるはずだった。
「また、両室を寝室としてお使いいただき、状況に応じて――」
「十分です!」
アマリリアが思わず遮った。
侍従が目を瞬く。
「失礼いたしました」
「い、いえ。こちらこそ……」
頬が熱い。
ライルは隣で口を閉じているが、耳が赤い。
「殿下」
「何?」
「笑ったら怒りますよ」
「笑ってない」
「本当ですか?」
「俺も恥ずかしいから笑えない」
「……ならよろしいです」
二人は互いに目を合わせないまま次の部屋へ移った。
◇◇◇
仕事部屋を見た瞬間、二人の足取りは軽くなった。
「二つある」
ライルが嬉しそうに言う。
「ありますね」
小さな仕事部屋が二室。
間には扉がある。
廊下側から別々に入ることもでき、内側の扉を開けば直接行き来できる。
「これ、いい」
ライルが内側の扉を開けたり閉めたりする。
「殿下、遊ばないでください」
「遊んでないよ。確認」
「何を確認しているのです?」
「アマリリアに聞きたいことがある時、ここ開ければいい」
「まず叩いてください」
「家の中でも?」
「仕事中なら」
「じゃあ叩く」
ライルが扉を閉めた。
そして、こちら側から軽く二度叩く。
「アマリリア、入っていい?」
「今は同じ部屋におりますよ!」
「練習」
「何の練習ですか!」
侍従がとうとう吹き出した。
「失礼いたしました」
「いえ……」
アマリリアも笑いを堪えられない。
少しして笑いが収まると、二人はそれぞれ一室ずつ覗いた。
広さは第二小宮の仕事部屋と大きく変わらない。
机。
本棚。
書類棚。
必要十分。
アマリリアは窓際に立つ。
「ここなら」
「うん」
「仕事は仕事で分けられそうです」
「聞きたい時は隣」
「嬉しいことを話したい時も」
「うん」
「ただし、急ぎでないなら扉を叩いてください」
「分かりました」
「私もそうします」
「アマリリア、絶対いきなり開けそう」
「殿下ほどではありません」
「俺は叩くよ」
「先ほど練習しておりましたものね」
二人で笑う。
仕事を別々にする。
けれど、遠く離れるわけではない。
必要なら扉一枚で会える。
その距離が、今の二人には心地よく感じられた。
◇◇◇
最後に庭へ出た。
広くはない。
建物を囲むように細い道があり、奥には二人ほど座れる石の腰掛けが置かれている。
王宮本体から離れているため、ここでも静けさが際立っていた。
「夜は?」
アマリリアが尋ねる。
「外周警備と別棟警備が入ります。必要に応じて人数を調整可能です」
「ベスター家から使用人を連れてくる場合は?」
「第二小宮と同様、身元確認等を経れば可能です。東離宮南棟より王宮内部との接続が少ないため、配置上はこちらの方が調整しやすいかと」
「なるほど」
そこまで聞いたところで、アマリリアは庭を見回した。
三つ目も悪くない。
静か。
生活空間と仕事空間を分けやすい。
二つの仕事部屋。
日常用の食堂。
使用人の配置も比較的自由。
条件だけなら、かなり好みに近い。
ライルも同じことを感じているのか、いつもより静かだった。
「以上が主な区画になります」
侍従が一礼する。
「細部については改装可能ですので、現状の家具配置のみで判断なさらなくて構いません」
「ありがとうございます」
「ありがとう」
見学が終わった。
三つすべてを見た。
それでも、二人はその場で答えを出さなかった。
◇◇◇
王宮へ戻る途中。
例の屋根のない十数歩を歩く。
今日は晴れている。
空は青く、風が少し冷たい。
回廊へ入ったところで、ライルが立ち止まった。
「アマリリア」
「はい」
「どこが一番好き?」
とうとう来た。
アマリリアも立ち止まる。
「殿下は?」
「また先に聞き返した」
「今回はよいでしょう」
「じゃあ」
ライルは少し考える。
第二小宮。
東離宮南棟。
北西居住区第一別棟。
三つの家。
「俺は、第二小宮」
答えは静かだった。
アマリリアは驚かなかった。
「理由は?」
「今日のところも好きだった。仕事部屋は今日の方が好きかもしれない」
「はい」
「玄関も普通でよかった」
「そこも入るのですね」
「大事らしいから」
ライルが笑う。
「でも、第二小宮を見た時が一番、アマリリアと住んでるところを想像できた」
アマリリアは黙って聞く。
「食卓もそうだし、居間も。あそこで朝ごはん食べて、仕事して、帰ってきて……って、最初から考えた」
「そうですね」
「今日の家は、見ながら『第二小宮と比べてどうだろう』って考えてた」
その言葉で、アマリリアは自分の中にあったものの形が見えた。
三つ目が悪かったわけではない。
二つ目も悪くない。
しかし二つ目と三つ目を見ている間、自分は何度も第二小宮を思い出していた。
それは比較しようと決めたからではない。
勝手に浮かんできたのだ。
「私もです」
「第二小宮?」
「はい」
答えると、不思議なくらい胸が軽くなった。
「私も、第二小宮がよいです」
「本当に?」
「なぜ疑うのです?」
「俺に合わせてない?」
「殿下」
「はい」
「私がそのようなことをする人間に見えますか?」
「見えない」
「即答ですね」
「だってアマリリアだもん」
褒められているのかどうか分からない。
けれど、ライルの顔が嬉しそうなので、今は追及しないことにした。
「では」
アマリリアが言う。
「決めます?」
ライルの表情が少し変わった。
「今?」
「今でなくても構いません」
「……アマリリアは?」
「私は」
一度、息を吸う。
第二小宮を思い出す。
最初に気になった食卓。
仕事を持ち込まないと決めた居間。
隣り合った二つの仕事部屋。
内庭側の私室。
使用人を連れてくる余地。
そして、そこでライルと暮らしている自分を想像した時の感覚。
(帰りたいと思える家)
まだ住んでもいない。
それでも、三つの中で最もその言葉に近かった。
「決めてもよいと思っています」
ライルがゆっくり笑った。
「俺も」
「では、第二小宮に?」
「うん」
「本当に?」
「アマリリアこそ」
「私は本当です」
「俺も本当」
どちらからともなく笑った。
もっと大きな決断になると思っていた。
長い比較表を作り、利点と欠点を並べ、何度も相談して決めるものだと思っていた。
実際には。
三つを見た。
話した。
想像した。
そして二人とも、同じ場所へ戻ってきた。
「王妃陛下へお伝えしましょう」
「今から?」
「まだお時間はあるでしょう」
「うん」
ライルが歩き出す。
アマリリアも隣へ並んだ。
数歩進んだところで、ライルが急に言う。
「俺たちの家になるんだ」
アマリリアの足が僅かに遅くなる。
「まだ正式な手続きがありますよ」
「分かってる。でも、決めたでしょう」
「はい」
「第二小宮」
「はい」
「アマリリアと俺の家」
何度も言われると照れる。
「殿下」
「何?」
「少し静かにしてください」
「嫌だった?」
「違います」
「じゃあ」
「嬉しいから困っているのです!」
言ってしまった。
ライルが目を丸くする。
アマリリアは顔を背けた。
「……今のは忘れてください」
「無理」
「殿下!」
「絶対忘れない」
「忘れなさい!」
「嫌です!」
回廊に二人の声が響く。
少し後ろを歩いていた護衛たちは、揃って何も聞いていない顔をしていた。
◇◇◇
セレーネは私室にいた。
二人が訪れると、驚いた様子もなく茶を飲んでいた。
「早かったわね」
「ご存じだったのですか?」
「見学が終わる頃でしょうとは思っていたわ」
「母上」
「何?」
「決めた」
セレーネの手が止まる。
今度は少しだけ驚いたらしい。
「今日?」
「うん」
「無理に決めたのではないでしょうね」
「違います」
アマリリアが答える。
「三つとも見たうえで、二人で話しました」
「そう」
セレーネは茶器を置いた。
「どこ?」
「第二小宮です」
アマリリアとライルの声が重なった。
セレーネが笑う。
「やっぱり」
「やっぱりとは何です!?」
「食卓」
「それだけで決めておりません!」
「分かっているわよ」
セレーネは楽しそうに笑ってから、少しだけ表情を柔らかくした。
「理由を聞いても?」
ライルがアマリリアを見る。
アマリリアもライルを見る。
「住んでいるところを、一番想像できたから」
ライルが先に答えた。
アマリリアも頷く。
「設備だけなら、他の二つにもよい部分がありました。三つ目の仕事部屋は、むしろ第二小宮より使いやすいかもしれません」
「そうね」
「ですが、第二小宮が一番……」
言葉を探す。
「帰る場所だと思えました」
セレーネはしばらく何も言わなかった。
やがて、穏やかに頷く。
「なら、いい選び方だと思うわ」
「よろしいのですか?」
「何が?」
「もっと、警備や公務動線などを確認されるかと」
「それは私たちが既に確認して、候補を三つに絞ったの」
アマリリアは目を瞬いた。
「候補に入っている時点で、王族の住居として必要な最低条件は満たしているわ。その中からあなたたちが暮らしたい場所を選ぶ。それが今回の話でしょう?」
「……なるほど」
「もちろん細かい調整はこれから。警備も、使用人も、改装も必要になる。でも、それは『住むかどうか』とは別の話」
セレーネは二人を見る。
「第二小宮を、結婚後の二人の居住区画として進めていいのね?」
今度は確認だった。
アマリリアはライルを見る。
ライルもこちらを見る。
二人とも、もう迷わなかった。
「はい」
「お願いします」
セレーネが頷いた。
「分かったわ」
たったそれだけで。
結婚後に帰る場所が決まった。
◇◇◇
「では次」
セレーネが何でもない顔で言った。
「次?」
ライルが聞き返す。
「住む場所が決まったでしょう」
「うん」
「結婚式の日を決める話ができるわ」
二人が同時に固まった。
「……今日ですか?」
アマリリアが恐る恐る尋ねる。
「まさか」
セレーネが笑う。
「今日は家を決めたばかりでしょう。そこへ日取りまで詰め込んだら、あなたたちの頭がいっぱいになるわ」
「よかった……」
ライルが本気で息を吐いた。
「ただし」
セレーネは二人へ視線を向ける。
「次は、その話をすることになる」
アマリリアの胸が小さく跳ねた。
結婚式。
これまでも何度も言葉にはしている。
けれど、住む場所が決まったことで、急に近づいた気がした。
「分かりました」
「うん」
「今日は帰っていいわ。ああ、それと」
セレーネがアマリリアを見る。
「ハロルドには自分で言いなさい」
「もちろんです」
「私から先に知らせると怒られそうだから」
「お父様なら怒るでしょうね」
「俺も一緒に行った方がいい?」
ライルが尋ねる。
アマリリアは考えた。
「来ます?」
「行っていいなら」
「では、一緒に」
「今日?」
「今日です」
「今から?」
「何を怖がっているのです?」
「だって、『娘と住む家を決めました』って言いに行くんでしょう?」
「そうですね」
「怖いよ!」
「殿下、第一王子でしょう」
「第一王子でも怖いものは怖い!」
セレーネが声を上げて笑った。
「頑張りなさい、ライル」
「母上、他人事だと思って!」
「他人事ではないわ。とても楽しみよ」
「余計に嫌だ!」
アマリリアも笑った。
家を決めた日の最後が、父への報告になる。
それも悪くないと思った。
◇◇◇
夕方。
ベスター家の応接室で、ハロルドは向かいに座るライルをじっと見ていた。
ライルの背筋は、王宮で国王と話す時より伸びているように見える。
アマリリアは隣で茶を飲みながら、助けるべきか迷っていた。
「それで」
ハロルドが言う。
「決めたのか」
「はい」
ライルが答える。
「第二小宮に」
「そうか」
それだけだった。
ライルが目を瞬く。
「……反対しないんですか?」
「なぜ私が反対する」
「いや、その」
「候補として王家が出した場所なんだろう」
「はい」
「アマリリアも納得しているのか」
「もちろんです」
アマリリアが答える。
「なら、私が口を出す話ではない」
ハロルドは茶器へ手を伸ばす。
「玄関は?」
「お父様!」
結局そこだった。
「第二小宮の玄関は普通です!」
「そうか」
「なぜ満足そうなのです!?」
「毎日使えるならそれでいい」
「……もう」
ライルが隣で笑いを堪えている。
「殿下も何かおっしゃってください!」
「いや、俺の父上も玄関気にしてたから」
「王家とベスター家で妙な共通点を作らないでください!」
ハロルドが僅かに笑った。
その後、表情を戻してライルを見る。
「殿下」
「はい」
「娘をよろしくお願いします、とはまだ言わんぞ」
「え?」
「結婚式の日も決まっていないからな」
「お父様」
「ただ」
ハロルドはアマリリアへ一度視線を向けた。
「こいつが帰りたいと思える家にしてやってください」
部屋が静かになった。
アマリリアは父を見つめる。
ライルも少し驚いた顔をしていたが、やがて真っ直ぐハロルドへ向き直った。
「はい」
その返事には、冗談も迷いもなかった。
「俺も、そうしたいです」
「そうですか」
「俺だけが作るんじゃなくて、アマリリアと二人で」
ハロルドの眉が僅かに動く。
「そういう話をしてました。二人とも帰りたいって思える家にしたいって」
「……なら、いい」
ハロルドは茶を飲んだ。
それ以上は言わない。
アマリリアは胸の奥が温かくなるのを感じながら、父と婚約者を交互に見た。
(本当に決まったのですね)
まだ第二小宮には誰も住んでいない。
食卓も、見学した時のまま。
部屋の使い方も決めていない。
本を何冊持っていくかも決めていない。
本棚を混ぜるかどうかすら決着していない。
それでも。
あそこが、二人の家になる。
「アマリリア」
ハロルドに呼ばれる。
「はい?」
「本は本当に全部持っていくなよ」
「その話、まだ続いていたのですか!?」
「部屋は残すと言っただろう」
「分かっております!」
「俺の本も持っていっていい?」
ライルがなぜか会話へ入ってくる。
「殿下の本は王宮にあるでしょう!」
「一緒の本棚に入れたい」
「まだ本棚を一緒にするとは決めておりません!」
「そこからなのか」
ハロルドが呆れた顔をする。
「重要な問題なのです!」
「食卓より?」
「比較するものではありません!」
ライルが笑う。
ハロルドも小さく息を漏らす。
アマリリアは二人を睨んだが、すぐに自分まで笑ってしまった。
結婚後の家を決めた。
もっと厳粛な日になると思っていた。
けれど実際には、玄関の話をして、本棚で揉めて、父と婚約者に笑われている。
それが妙に嬉しかった。
特別な未来が、少しずつ普通の生活へ近づいている。
そしてその普通の生活を、アマリリアは今、自分から望んでいた。
第二小宮。
あの食卓。
仕事を置いておく居間。
隣り合う仕事部屋。
自分の本。
ライルの本。
帰ってきた時に交わす言葉。
「殿下」
「何?」
アマリリアは少しだけ照れながら、それでも笑って言った。
「今度、第二小宮へ行ったら」
「うん」
「食卓に座ってみましょう」
ライルの顔が明るくなる。
「二人で?」
「二人でです」
「朝食の練習?」
「練習は必要ありません!」
「じゃあ夕食?」
「まだ住んでおりません!」
「じゃあ何するの?」
アマリリアは一瞬考えた。
特別なことなど必要ない。
あの場所が本当に自分たちの家になるのだと、もう一度確かめられればいい。
「ただ、座るだけでよいのでは?」
「そっか」
ライルは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、そうしよう」
「はい」
まだ結婚式の日は決まっていない。
けれど、その日の先に帰る場所は決まった。
誰かに押し付けられた場所ではない。
三つを見て、迷って、話して。
二人で選んだ家だった。




