第109話
第二小宮を結婚後の住居にすると決めた翌朝、アマリリアは自室の机に置かれた木製の腕飾りを見つめていた。
窓から差し込む朝の光が、葉と小花をかたどった細かな彫り目を柔らかく浮かび上がらせている。ライルから贈られたそれは、華美な宝飾品とは違うけれど、アマリリアにとってはすっかり特別な品になっていた。
今日は王宮へ着けていくつもりだった。
理由はない。
いや、正確には、理由を説明するのが少し恥ずかしいだけだ。
(結婚式の日について、お話をするのでしたね)
昨日、セレーネはそう言った。
住む場所が決まったから、次は結婚式の日取りについて話せる、と。
第二小宮を選んだ時は、そこへ暮らす自分を想像した。けれど結婚式となれば、想像の仕方がまるで違う。
いつかではない。
その日を境に、ライルは婚約者ではなく夫になる。
自分も第一王子の婚約者ではなく、その妻になる。
「……」
アマリリアは腕飾りを手に取った。
その瞬間、扉が軽く叩かれる。
「お嬢様、そろそろお時間です」
「分かりました」
ザネの声だ。
アマリリアは腕飾りを着け、立ち上がった。
鏡の前を通ったところで、一度だけ足を止める。
淡い青灰色のドレス。
仕事へ行く時と大きく変わらない装い。
腕には木製の飾り。
「……結婚式の話をする格好には見えませんわね」
小さく呟いてから、自分で首を振る。
まだ式そのものではない。
話をするだけだ。
そう思って扉を開けると、廊下に立っていたザネがアマリリアの腕へ一瞬だけ視線を落とした。
「何です?」
「何も」
「今、見ましたね」
「見ておりません」
「見ました」
「では、見ました」
「認めるのが早いです!」
ザネは平然としている。
「殿下からいただいたものを着けて、結婚式の日取りについて話しに行かれるのですね」
「どうして今日その話をすると知っているのです!?」
「旦那様が朝から落ち着きませんので」
「お父様が?」
「食堂で同じ新聞を三度開き直しておりました」
アマリリアは廊下の先を見る。
「……緊張しているのでしょうか」
「さあ」
「ザネ」
「私から旦那様の心情を断定するのは控えます」
「今さら殊勝なことを言わないでください」
ザネは僅かに口元を上げた。
「ただ、昨日、お嬢様と殿下がお帰りになった後、しばらく応接室に残っておられました」
「一人で?」
「はい」
アマリリアは少し黙った。
父も、変わっていくものを受け止めようとしている。
娘が結婚する。
ベスター家からいなくなるわけではない。
それでも、毎日ここへ帰ってくる生活は終わる。
(私だけが新しい暮らしを始めるわけではないのですね)
ハロルドにも、新しい日常が始まる。
そのことを胸に留めながら、アマリリアは玄関へ向かった。
◇◇◇
王宮の執務室へ入った途端、ライルがこちらを見た。
「おはよう、アマリリア」
「おはようございます、殿下」
返事をしたところで、ライルの視線が腕へ落ちる。
「あ」
「何です?」
「着けてくれたんだ」
「はい」
「今日?」
「今日です」
「どうして?」
そこまで聞かれるとは思っていなかった。
アマリリアは腕飾りを隠すように、反対の手を重ねた。
「……着けたかったからです」
「そっか」
ライルが嬉しそうに笑う。
それ以上追及しないところが、かえって恥ずかしい。
「殿下こそ」
「俺?」
「何かありませんの?」
「何が?」
「いえ……」
自分から聞いておいて、何を期待したのだろう。
ライルが首を傾げる。
「アマリリア?」
「何でもありません。仕事を始めましょう」
「うん」
机の上には、今日処理する書類が置かれている。
共同便について大きな追加報告はない。
ミナの聞き取りを受けた後の整理も、必要なところまで終えている。今すぐ次の誰かを呼び出す予定もなく、追加の大規模な調査を始める必要もない。
分からないことは残っている。
けれど、分からないものが残っているからといって、すべてを止める必要はない。
二人は通常の仕事へ手を戻した。
午前中に届いたのは、王都北側の共同井戸の石縁に小さな欠けが見つかったという報告だった。水の利用には問題がなく、現地の管理者が補修を手配している。
別の報告は、南街道沿いの休憩所で冬前の薪置き場を移すというものだった。昨年より風当たりの少ない位置へ変えるだけで、王宮へ判断を求める内容ではない。
ライルが読み終えた紙を置く。
「これ、報告だけだね」
「ええ」
「返事はいらない?」
「受領したことだけ伝えれば十分でしょう。現地で決められることです」
「分かった」
以前なら、何か一言でも指示を加えるべきではないかと迷ったかもしれない。
今は、必要がなければ任せる。
アマリリアも同じだった。
知らないことを全部調べない。
気になることを全部仕事にしない。
その判断が少しずつ自然になっている。
昼前、最後の書類を閉じたライルが大きく息を吐いた。
「終わった」
「午前分は、です」
「分かってるよ」
「でしたら結構です」
「午後は母上のところだよね」
その一言で、部屋の空気が少し変わった。
「……はい」
「緊張する?」
「少し」
「俺も」
「殿下もですか」
「するよ」
ライルは椅子の背にもたれず、机の上で指を組んだ。
「家を決めた時より緊張する」
「なぜでしょうね」
「日付が決まったら、本当にその日に結婚するからじゃない?」
「家も本当に住む場所でしょう」
「そうなんだけど」
ライルは少し考える。
「家は、結婚した後のことだったから」
「はい」
「結婚式の日は、その『後』が始まる日だから」
アマリリアは腕飾りへ視線を落とした。
確かにそうだ。
第二小宮を選んだ時は、結婚後の生活を考えた。
けれど今日決めようとしているのは、その生活が始まる境目そのものだった。
「アマリリア」
「何でしょう」
「嫌じゃない?」
声が少しだけ慎重になった。
アマリリアは顔を上げる。
ライルは冗談を言っていない。
日取りの話が具体的になる前に、もう一度確かめているのだ。
「嫌ではありません」
「本当に?」
「はい」
「……よかった」
その返事に、アマリリアは僅かに眉を寄せた。
「今さら逃げると思っていたのですか?」
「思ってない。でも」
「でも?」
「最初のことがあるから」
それだけで分かった。
最初の婚約。
押し付けられた婚約話から逃れるため、アマリリアは第一王子であるライルを脅した。
自分の婚約者になれ、と。
ライルは脅されて承諾した。
そこから始まった。
「殿下」
「うん」
「今は、脅しておりませんよ」
「知ってる」
「正式な婚約もしました」
「うん」
「相思相愛です」
ライルの顔が一気に明るくなった。
「もう一回言って」
「言いません」
「今言ったじゃん!」
「一度で十分です!」
「でも好き」
「知りません!」
「俺はアマリリアが好き」
「仕事場で何をおっしゃっているのですか!」
頬が熱くなる。
けれど、以前のように否定する気にはならなかった。
アマリリアは少しだけ視線を逸らしてから、小さく続ける。
「……私もです」
ライルが黙った。
「何です?」
「もう一回」
「絶対に言いません!」
昼前の執務室へ、ライルの笑い声が広がった。
◇◇◇
午後。
セレーネの私室には、いつもより大きな卓が用意されていた。
しかし、その上に大量の書類が積まれているわけではない。
薄い予定表。
王家の主要行事をまとめた暦。
数枚の紙。
それだけだ。
「座って」
セレーネに促され、アマリリアとライルは並んで腰を下ろした。
「最初に言っておくけれど」
セレーネが二人を見る。
「今日、式の全部を決めるつもりはないわ」
アマリリアは少し肩の力を抜いた。
「日取りだけですか?」
「まずはね。日が決まらないと、会場も招待も衣装も正式には動かせないでしょう」
「はい」
「逆に言えば、今日はそこまででいい」
ライルも頷いた。
「候補は?」
「三つあるわ」
セレーネが一枚の紙を二人の前へ置く。
そこには、現在からおよそ一月半後から二月ほど先までの間に、三つの日付が記されていた。
「思っていたより近いですわね」
アマリリアが思わず言う。
「遠くする理由がある?」
「いえ」
「正式な婚約は既に整っている。両家の合意もある。住居も決まった。王家として必要な準備期間を考えても、この辺りなら無理はないわ」
「もっと半年くらい先かと」
ライルが言った。
「半年待ちたい?」
「いや!」
即答だった。
セレーネが笑う。
「なら問題ないわね」
「殿下」
「だって待ちたくない」
「それを私へ言われましても」
「アマリリアは?」
「……半年でなければならない理由はありません」
「じゃあ早い方?」
「そういう聞き方をしないでください!」
セレーネは二人のやり取りを眺めてから、三つの日付を指した。
「一つ目は準備期間が最も短い。可能ではあるけれど、少し忙しくなるわ」
「仕事を止めるほど?」
アマリリアが尋ねる。
「そこまではしない。ただ、衣装や招待客の確認が続くでしょうね」
「では、少し慌ただしいですね」
「そうね」
「二つ目は?」
「最も余裕がある。王家の大きな行事とも重ならない。天候も比較的安定しやすい時期」
「三つ目は?」
「準備には十分余裕があるけれど、その直後に王家の定例行事が一つ入る可能性があるわ。結婚してすぐ公務が続く形になるかもしれない」
ライルが眉を寄せる。
「それは嫌だな」
「なぜ?」
「結婚した次の日から忙しいのは嫌」
「次の日ではないわよ」
「でも近いんでしょう?」
「ええ」
ライルはアマリリアを見る。
「俺、二つ目がいい」
「早いですね」
「アマリリアは?」
アマリリアは三つの日付を眺める。
一つ目。
準備期間は短い。
三つ目。
結婚直後に公務が詰まる可能性がある。
二つ目。
間に余裕がある。
そして。
「この日は」
アマリリアは二つ目の日付を指した。
「何か王家にとって特別な日なのですか?」
「いいえ」
「ベスター家に関係する日でも?」
「ハロルドにも確認済み。特にないそうよ」
「……そうですか」
何もない日。
それが、なぜか気に入った。
誰かの記念日でもない。
過去の大事件があった日でもない。
王家の伝統に縛られた日でもない。
ただ、暦の中にある一日。
「私も、二つ目がよいです」
ライルが笑う。
「同じ」
「ええ」
「理由は?」
「殿下と同じです。準備を急ぎすぎず、結婚直後に公務を詰めすぎなくて済みます」
「それだけ?」
セレーネに聞かれ、アマリリアは少し考えた。
「……何もない日だから、でしょうか」
「何もない?」
「はい」
アマリリアは暦へ視線を落とした。
「最初から意味のある日ではなくてもよいと思いました」
ライルが黙って聞いている。
「私たちが結婚すれば、その日が私たちにとって意味のある日になりますから」
口にした途端、少し恥ずかしくなった。
「……今のは忘れてください」
「無理」
隣から即答される。
「殿下!」
「絶対忘れない」
「昨日も同じことをおっしゃいましたね!」
「だって忘れたくないことばっかり言うから」
セレーネが楽しそうに笑った。
「では、二つ目で進めましょうか」
アマリリアとライルが同時に静かになる。
セレーネの指が、暦の上の一日を示している。
「正式な最終確認は国王陛下とベスター家にも取るけれど、事前調整は済んでいるから、特別な事情がなければ変わらないわ」
そこで一度言葉を切る。
「この日を、あなたたちの結婚式の日として準備に入ります」
アマリリアは日付を見つめた。
数字としては、ただの一日だ。
なのに、今の言葉を聞いた途端、まるで違って見えた。
その日の朝。
その日の空。
その日に着るもの。
その日に会う人々。
そして。
ライルと結婚する。
(本当に、決まったのですね)
指先が僅かに震えた。
怖いわけではない。
逃げたいわけでもない。
胸の奥に、今までとは違う緊張が広がっている。
隣で何かが動いた。
ライルの手だった。
卓の下で、そっと差し出される。
アマリリアは一瞬だけセレーネを見た。
王妃は暦を見ている。
見ていないふりをしているのかもしれない。
アマリリアはライルの手へ自分の手を重ねた。
指が絡む。
強く握られる。
「楽しみ?」
ライルが小声で尋ねた。
「……はい」
「俺も」
アマリリアはその手を握り返した。
◇◇◇
「さて」
日取りが決まったところで、セレーネは予定表を閉じた。
「今日はここまででもいいのだけれど、一つだけ確認しておきたいことがあるわ」
「何でしょう」
「式そのものについて」
アマリリアの背筋が少し伸びる。
「細部ではなく、大きさよ」
「大きさ?」
「第一王子の結婚式だから、完全な私的行事にはできない。当然、王家として必要な儀礼はあるし、国内外へ示す意味もある」
「はい」
「でも、どこまで広げるかには余地がある」
セレーネは二人を見る。
「大規模にしたい? それとも必要な儀礼はきちんと行ったうえで、できるだけ二人や近しい人たちの時間を残したい?」
ライルはすぐには答えなかった。
アマリリアも考える。
豪華な結婚式。
多くの貴族。
国外からの賓客。
長い祝宴。
第一王子の婚姻なら、それらを求める声もあるだろう。
けれど。
「私は」
アマリリアが口を開く。
「必要なものを削りたいわけではありません」
「ええ」
「第一王子殿下との婚姻ですから、王家として行うべき儀礼があることも理解しております」
「その上で?」
「……結婚式を、仕事だけにはしたくありません」
セレーネが僅かに笑った。
「そう」
「殿下は?」
アマリリアが隣を見る。
「俺も」
ライルは迷わず答えた。
「ちゃんとやることはやる。でも、全部終わった時に『疲れた』しか残らないのは嫌だ」
「では、その方向で考えましょう」
「できます?」
「そのために今から決めるのよ」
セレーネは軽く肩をすくめた。
「王家の結婚式は、派手にしようと思えば際限なく派手にできる。でも、必要なものと、ただ増やせるものは別でしょう」
その言葉に、アマリリアは少し笑った。
「何?」
「いえ。仕事と似ていると思いまして」
「でしょう?」
「知れることを全部知る必要はない。できることを全部する必要もない」
「そういうこと」
ライルが二人を見比べる。
「母上とアマリリア、こういう時すごく似てる」
「そう?」
「そうですか?」
二人の声が重なった。
「ほら」
「殿下」
「はい」
「余計なことを言わない」
「母上まで!?」
部屋に笑い声が広がった。
式の細部は後日。
衣装も。
招待客も。
会場の使い方も。
今日決まったのは、日と方向だけ。
それで十分だった。
◇◇◇
王宮を出る前、ライルはアマリリアを呼び止めた。
「少し待って」
「何でしょう」
「渡したいものがある」
執務室へ戻ったライルは、自分の机の引き出しを開けた。
そこから取り出したのは、一通の封筒だった。
「……手紙?」
「うん」
封は閉じられている。
そして、その封蝋には見覚えのある印が押されていた。
葉の意匠。
あの日、街の文具店でライルが買った個人用の印章だ。
アマリリアは封筒とライルを交互に見る。
「使ったのですね」
「うん」
「いつ書いたのです?」
「昨日の夜」
「昨日?」
「家が決まったから」
ライルは少し照れたように頬を掻く。
「いつ使おうかなってずっと思ってたんだけど、昨日ならいいかなって」
アマリリアは手紙を受け取った。
まだ開かない。
「今、読んでも?」
「できれば帰ってから」
「なぜです?」
「恥ずかしいから」
「書いた本人が?」
「そう」
「では、帰ってから読みます」
「うん」
アマリリアは手紙を大切に鞄へ入れた。
「返事は?」
「書かなければ駄目?」
「駄目じゃないけど、欲しい」
「正直ですね」
「欲しいものは言った方がいいかなって」
「では、考えておきます」
「考えるの?」
「すぐ書くとは言っておりません」
「アマリリア!」
ライルが不満そうな顔をする。
アマリリアは笑った。
「冗談です」
「本当に?」
「さあ」
「絶対返事ちょうだい」
「しつこいですよ」
「だって初めてこの印使った手紙なんだよ」
その言葉に、アマリリアは鞄へ触れた。
「……分かりました」
「本当?」
「はい」
「よかった」
ライルがほっとしたように笑う。
アマリリアはその顔を見てから、一歩近づいた。
「殿下」
「何?」
「結婚式の日」
「うん」
「決まりましたね」
「うん」
ライルの表情が柔らかくなる。
「アマリリア」
「はい」
「結婚してくれる?」
あまりにも真っ直ぐな言葉だった。
アマリリアは一瞬、返事を忘れた。
既に婚約している。
日取りまで決まった。
今さら確認する必要などない。
けれど。
最初は、こんなふうに聞かれなかった。
アマリリアが脅したのだ。
婚約者になれと。
選択肢など与えなかった。
だから今、ライルが自分の意思で聞いてくれている。
アマリリアも、自分の意思で答えられる。
「はい」
微笑む。
「喜んで」
ライルの目が大きくなる。
やがて、ゆっくり笑った。
「よかった」
「何を今さら」
「でも聞きたかった」
「でしたら、これで満足ですか?」
「うん」
「本当に?」
「……もう一回聞いていい?」
「駄目です」
「なんで!?」
「一度で十分です!」
アマリリアは笑いながら歩き出した。
後ろからライルが追いかけてくる。
その足音を聞きながら、胸の奥にあった小さな引っかかりが、静かにほどけていくのを感じていた。
◇◇◇
その夜。
自室へ戻ったアマリリアは、机の前に座っていた。
鞄から一通の封筒を取り出す。
葉の印。
ライルが自分で選んだ印章。
あの日、いつか大切な手紙に使いたいと言っていたもの。
アマリリアは封を壊さないよう慎重に開いた。
中には一枚の便箋が入っている。
ライルの文字だった。
『アマリリアへ。
今日、俺たちが住む家が決まりました。
第二小宮です。
最初に見た時から、あそこでアマリリアと朝ごはんを食べるところを何度も考えていました。
仕事は別々の部屋でして、終わったら同じ居間に戻って、出かける日は一緒に出かけて、別々に出かけた日は同じ家に帰りたいです。
アマリリアがベスター家へ帰る日があってもいいし、俺が公務でいない日があってもいいと思います。
毎日全部同じじゃなくても、また一緒にいられる日があるなら、それでいいです。
最初は、脅されて婚約者になりました。
あの時は、本当にどうなるんだろうと思っていました。
でも今は、アマリリアと婚約してよかったと思っています。
婚約者になれてよかったです。
これから夫になれることも、嬉しいです。
第二小宮を、二人が帰りたいと思える家にしたいです。
結婚した後も、また街へ行こう。
甘いものを三つ買うかは、その時に決めよう。
何度でも出かけよう。
ライル』
読み終えた後も、アマリリアはしばらく便箋から目を離せなかった。
途中から視界が少しだけ滲んでいる。
「……本当に」
困った人だ。
こんな手紙を渡しておいて、返事が欲しいなどと言う。
返さないという選択肢があるわけがない。
アマリリアは目元を指でそっと拭い、机の引き出しを開けた。
街の文具店で買った、濃い茶色の筆記具を取り出す。
白い便箋を一枚。
少し考えてから、書き始めた。
『ライル殿下へ。
お手紙、確かに受け取りました。
最初に申し上げておきますが、甘いものを毎回三つ買う必要はありません。
その日の気分で決めましょう。
第二小宮については、私も同じ気持ちです。
毎日すべてを一緒にする必要はないと思います。
別々に仕事をして、別々に出かけて、それぞれのやるべきことをして、それでも帰る場所が同じなら、それはきっと素敵なことなのでしょう。
私も、殿下と婚約してよかったと思っています。
最初に脅したことについては、改めて申し訳なく思っております。
ですが、今はもう脅しません。
お願いすることにします。
私と結婚してください。
そして結婚した後も、何度でも一緒に出かけてください。
第二小宮を、二人で帰りたいと思える家にしましょう。
アマリリア・ベスター』
最後まで書いて、筆を置く。
自分で書いた文章を読み返した瞬間、顔が一気に熱くなった。
「……これは」
かなり恥ずかしい。
特に途中。
『私と結婚してください』
消したい。
アマリリアの手が紙へ伸びる。
しかし途中で止まった。
(いいえ)
ライルは今日、自分へ聞いた。
結婚してくれるか、と。
なら、自分からお願いしてもいい。
最初は脅した。
次は、お願いする。
それでいい。
アマリリアは便箋を折り、封筒へ入れた。
明日、ライルへ渡す。
共有帳面ではなく。
仕事の報告でもなく。
一通の手紙として。
机の上には、ライルからの手紙がある。
窓の外では、秋の夜風が木々を揺らしていた。
結婚式の日が決まった。
その日が来れば、長く続いた婚約期間は終わる。
けれど、それは何かを失う終わりではない。
次の暮らしを始めるための終わりだ。
アマリリアは腕から木製の飾りを外し、ライルの手紙の隣へそっと置いた。
「……何度でも、ですわね」
小さく呟く。
最初は、押し付けられた婚約から逃げるためだった。
第一王子を脅し、婚約者になってもらった。
けれど今度は違う。
誰にも押し付けられていない。
脅してもいない。
自分で選んだ。
ライルも、自分を選んだ。
そして二人で、同じ日を選んだ。
その先にあるのは、結婚式だけではない。
第二小宮の食卓で交わす朝の挨拶。
別々の仕事部屋。
仕事を持ち込まないよう二人で頑張る居間。
ベスター家へ帰る日。
公務で離れる日。
再び同じ家へ戻る夜。
そして時々、何でもない日に街へ出かける。
未来はまだ、全部決まってはいない。
だからこそ。
アマリリアは机の上の二通の手紙を見つめながら、静かに笑った。
決めていないことを、これから二人で決めていける。
結婚式まで、あと少し。
そしてその先には、今までよりずっと長い、二人の暮らしが待っていた。




