第110話
結婚式の朝、アマリリアはいつもより早く目を覚ました。
まだ完全には明るくなっていない空から、淡い朝の光がカーテン越しに差し込んでいる。見慣れたベスター家の自室は静かで、棚には残していくと決めた本が並び、机の上には昨夜まで使っていた筆記具が置かれていた。
今日、この部屋から王宮へ向かう。
そして夜には、ここではない場所へ帰る。
「……今日なのですね」
声にしてみても、不思議な感覚は消えなかった。
結婚式の日取りを決めてから、準備は驚くほど早く進んだ。
王家として必要な儀礼。
招待客。
衣装。
警備。
式後の祝宴。
第二小宮の整備。
持ち込む家具や本、衣類。
使用人の配置。
すべてをアマリリアとライルだけで決めたわけではない。王宮側が判断すべきことは王宮が、ベスター家が担うべきことはベスター家が、それぞれ進めてくれた。
その一方で、二人で決めたこともある。
必要な儀礼は省かない。
けれど、式を際限なく大きくしない。
式の後には二人で落ち着ける時間を残す。
そして、その日の最後には第二小宮へ帰る。
そんな準備の日々を過ごしているうちに、遠く感じていた日が本当に来てしまった。
アマリリアは布団から出ると、窓辺へ歩いた。
カーテンを開く。
秋の朝の空は澄んでいた。
(晴れましたわね)
天候まで思い通りになるとは限らない。
雨なら雨で、それも今日という日になっただろう。
それでも、晴れた空を見ると少し嬉しい。
扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様。起きておられますか」
「起きています」
答えると、扉が開いた。
数人の侍女と一緒にザネが入ってくる。
「おはようございます」
「おはようございます」
「ご気分は?」
「普通です」
「そうですか」
「何です、その顔は」
「いえ」
ザネはいつもの無表情に近い顔をしている。
しかし、ほんの少しだけ口元が動いていた。
「笑いたければ笑えばよろしいでしょう」
「笑っておりません」
「では、なぜこちらを見ているのです?」
「本当に結婚なさるのだと思いまして」
「……しますよ」
「存じております」
ザネが一礼する。
「おめでとうございます、お嬢様」
アマリリアは一瞬、返事を忘れた。
いつもなら何か一言余計なことを付け加える男が、今日はそれだけだった。
「……ありがとうございます」
答えると、ザネはいつもの顔へ戻った。
「では、お支度を。時間は十分ございますが、お嬢様が途中で何か仕事を始める可能性を考慮して早めに始めます」
「今日くらい仕事はしません!」
「昨日もそうおっしゃって、夕方まで書類を確認しておられました」
「あれは昨日でしょう!」
「本日も念のためです」
「もう!」
侍女たちの間から小さな笑いが漏れる。
その音を聞いて、アマリリアの肩から少し力が抜けた。
いつもの朝と違う。
けれど、何もかもが違うわけではない。
それがありがたかった。
◇◇◇
支度には時間がかかった。
衣装は王家の婚礼にふさわしい格式を持ちながら、過度に重くならないものが選ばれていた。
白を基調とした生地へ、ごく淡い青と銀の刺繍が重ねられている。裾へ向かって広がる模様は花と葉を組み合わせたもので、近くで見なければ分からないほど細やかだった。
鏡の前で最後の調整を受けながら、アマリリアは自分の姿を見つめる。
「……私ではないようですわね」
「間違いなくお嬢様です」
侍女の一人が笑う。
「そういう意味ではありません」
首元。
髪。
袖。
どこを見ても普段とは違う。
腕へ視線を落としたところで、アマリリアはふと机の上を見る。
そこには、木製の腕飾りが置かれていた。
ライルから贈られたもの。
「それも着けられますか?」
侍女に尋ねられ、アマリリアは少し迷った。
婚礼衣装には、王家側で用意された装飾品がある。
木製の腕飾りは、それらと比べればあまりにも素朴だ。
けれど。
「……持っていきます」
「お着けにならず?」
「式の間は難しいでしょうから」
アマリリアは腕飾りを手に取った。
「終わったら着けます」
「承知いたしました」
小さな箱へ収められる。
それを見届けたところで、再び扉が叩かれた。
「アマリリア」
父の声だった。
「お父様?」
「入っていいか」
「どうぞ」
扉が開く。
ハロルドが入ってきた。
礼装姿だ。
普段から隙のない男ではあるが、今日は父親というよりベスター家当主としての姿が強い。
しかし。
アマリリアを見た瞬間、その表情が止まった。
「……」
「お父様?」
「……ああ」
「何です?」
「いや」
ハロルドは視線を逸らした。
「似合っている」
あまりにも普通の言葉だった。
だからこそ、アマリリアは返事に困った。
「ありがとうございます」
「ああ」
また沈黙する。
侍女たちが気を利かせ、最後の確認を終えて部屋から出ていく。
ザネも一礼して後に続いた。
父娘だけになった。
「お父様」
「何だ」
「緊張しております?」
「していない」
「本当に?」
「お前こそどうなんだ」
「私は……」
アマリリアは鏡の中の自分を見る。
「少し」
「そうか」
「逃げたいわけではありませんよ」
「分かっている」
「怖いわけでもありません」
「それも分かっている」
ハロルドは窓辺へ視線を向けた。
「家を出ていくわけではない、と言ったな」
「はい」
「その考えは今も変わっていない」
アマリリアは父を見る。
「この家のお前の部屋は、そのままにしてある」
「本も残しました」
「思ったより少なかったがな」
「十分残しました!」
「そうか?」
「はい!」
いつもの調子で言い返したところで、ハロルドが笑った。
ほんの僅かだった。
「なら、帰ってくればいい」
「……はい」
「第二小宮が家になっても、ここがお前の家でなくなるわけじゃない」
「はい」
「ただし」
「何です?」
「帰ってくるたびに仕事を持ち込むな」
「お父様まで!」
「ライル殿下から聞いた」
「殿下は何を話しているのですか!?」
「第二小宮の居間には仕事を持ち込まないそうだな」
「その予定です」
「予定、か」
「努力します!」
「なら、こっちでも努力しろ」
アマリリアは頬を膨らませた。
だが、すぐに力が抜ける。
「……お父様」
「何だ」
「最初の婚約のこと」
ハロルドの表情が変わった。
「今さら責めたいわけではありません」
「分かっている」
「お父様があの婚約話を持ってこなければ、私は殿下を脅さなかったかもしれません」
「それはそうだろうな」
「そうしたら、今の私はなかったかもしれません」
「……だからといって、私の失敗が正しかったことにはならない」
「はい」
アマリリアは素直に頷いた。
そこを美しい思い出へ変えるつもりはない。
押し付けられた婚約は嫌だった。
追い詰められた。
だからライルを脅した。
間違っていたことまで、今が幸せだから正しかったことにはならない。
けれど。
「その後を、私たちで変えました」
「ああ」
「だから、もう大丈夫です」
ハロルドはしばらく娘を見つめた。
「……そうだな」
短い言葉だった。
それで十分だった。
「そろそろ時間だ」
「はい」
ハロルドが手を差し出す。
アマリリアはその手を見る。
幼い頃に何度も握った手。
成長してからは、こんなふうに差し出されることなどほとんどなかった。
「行くぞ」
「……はい」
アマリリアは父の手を取った。
◇◇◇
王宮の式場には、柔らかな光が満ちていた。
第一王子の婚礼である以上、参列者は少なくない。
王族。
ベスター家の関係者。
高位貴族。
王宮で長く仕える者たち。
必要な立場の者は揃っている。
それでも、際限なく人数を増やすことはしなかった。
式場に入る直前。
アマリリアは一度だけ深く息を吸った。
(大丈夫です)
胸の鼓動は速い。
手も少し冷たい。
それでも足は動く。
扉が開いた。
視線が集まる。
空気が変わる。
アマリリアは父と共に歩き出した。
一歩。
また一歩。
正面を見る。
そこにライルがいた。
礼装姿の彼は、いつもより大人びて見えた。
けれど、アマリリアを見た瞬間。
目を大きくした。
そして、ほんの少しだけ口を開いた。
(……何です、その顔は)
笑いそうになった。
式の最中だ。
堪える。
しかしライルは、完全にこちらを見つめたままだ。
近づく。
距離が縮まる。
やがてハロルドが足を止めた。
ライルが一礼する。
「ハロルド卿」
「ああ」
父の声は落ち着いていた。
けれど、アマリリアの手を離すまでにほんの僅かな間があった。
その手が離れる。
代わりに。
ライルの手が差し出された。
アマリリアはそれを見る。
最初は、こんなふうではなかった。
脅した。
選ばせなかった。
婚約者になれと言った。
今は違う。
差し出された手を取るかどうか、自分で決められる。
もちろん。
答えはもう決まっていた。
アマリリアは自分から手を伸ばした。
ライルの手を取る。
温かい。
少しだけ震えている。
「殿下」
小さく呼ぶ。
「何?」
「緊張しております?」
「してる」
「私もです」
「よかった」
「なぜです?」
「俺だけじゃなかったから」
こんな時まで。
アマリリアは笑いそうになる。
けれど、そのおかげで緊張が少し解けた。
二人で正面を向く。
式が始まった。
◇◇◇
儀礼の言葉が続く。
王家の婚姻として必要な宣誓。
両家の確認。
立会人の承認。
祝福。
それらを一つずつ進めていく。
アマリリアは不思議なほど落ち着いていた。
形式は形式だ。
けれど、形式だけではない。
今日ここで、自分たちは公に夫婦になる。
やがて、二人が互いの意思を示す時が来た。
ライルがアマリリアを見る。
先ほどまで少し震えていた手は、今は落ち着いている。
「アマリリア・ベスター」
「はい」
正式な場で名前を呼ばれる。
ライルは一度だけ息を吸った。
「俺は――」
言いかけて、僅かに止まる。
儀礼として用意された言葉がある。
それでも、その前に。
「……最初は、こんな日が来るなんて思ってなかった」
式場が僅かにざわめいた。
セレーネが遠くで笑っている。
国王も止めない。
アマリリアはライルを見つめた。
「殿下?」
「少しだけ言わせて」
「……どうぞ」
ライルは笑う。
「最初は怖かった」
「今それを言います!?」
思わず返してしまった。
式場のあちこちから小さな笑いが起きる。
ハロルドが額へ手を当てているのが見えた。
「だって脅されたから」
「まだ言いますの!?」
今度は笑いがはっきり広がった。
アマリリアの顔が熱くなる。
「殿下、後で覚えておいてくださいませ」
「やっぱりちょっと怖い」
「ライル殿下!」
「でも」
ライルの声が変わった。
笑いが静かに収まる。
「今は、あの日があったからじゃなくて、今のアマリリアだから結婚したい」
アマリリアは息を止めた。
「脅されたからでも、約束したからでも、第一王子だからでもない。俺がアマリリアと一緒にいたいから、結婚したい」
真っ直ぐだった。
何も飾っていない。
だからこそ、胸の奥へ届いた。
「これからも、一緒にいてください」
アマリリアは唇を結んだ。
泣くつもりなどなかった。
けれど、目の奥が熱い。
(困りましたわね)
ここで泣けば、後で絶対に言われる。
それでも、完全には抑えられなかった。
「……はい」
声が少し震えた。
「喜んで」
ライルが笑う。
今度はアマリリアの番だった。
用意された言葉がある。
それを口にする前に。
「ライル・アースハルト殿下」
「はい」
「私も一つ、申し上げても?」
「うん」
「最初に脅したことは、申し訳なく思っております」
「うん」
「そこは否定してくださいませんの?」
「だって本当に脅されたし」
「殿下!」
また笑いが起きる。
アマリリアも、とうとう笑った。
「……もう。では、言い直します」
ライルの手を握る。
「最初は、私が勝手に殿下を選びました」
「うん」
「殿下の意思を聞かずに」
「うん」
「ですが今は、違います」
アマリリアは真っ直ぐライルを見る。
「今度は、私がお願いしました」
昨夜渡した手紙。
『私と結婚してください』
ライルはその意味を分かっている。
「殿下は、それを受けてくださいました」
「もちろん」
「でしたら」
胸の奥にあるものを、きちんと言葉にする。
「これからも、私と一緒にいてください」
「はい」
今度はライルが即答した。
「何度でも答えるよ」
その言葉に、アマリリアは目を細めた。
「では、私も」
街で交わした約束。
結婚してからも出かけよう。
今日のような日を、何度でも。
「何度でも、お願いいたします」
その後、二人は正式な誓いの言葉を交わした。
立会人が認める。
王家が認める。
ベスター家が認める。
そして何より。
二人自身が、互いを選んだ。
祝福の拍手が式場を満たした。
◇◇◇
式の後の祝宴は、華やかだった。
けれど、セレーネが約束した通り、際限なく長いものにはならなかった。
アマリリアとライルは多くの祝福を受けた。
国王から。
セレーネから。
ハロルドから。
王宮の者たちから。
ベスター家の者たちから。
それぞれ言葉は違う。
笑う者もいる。
涙ぐむ者もいる。
からかう者もいる。
その一つ一つへ応じているうちに、時間は思ったより早く過ぎた。
「アマリリア」
人の流れが少し途切れたところで、セレーネが近づいてきた。
「お疲れさま」
「ありがとうございます」
「どう?」
「どう、とは?」
「結婚式」
アマリリアは会場を見回した。
「……思っていたより、楽しいです」
「よかった」
「もっと緊張して、何も覚えていないものかと思っておりました」
「まだ終わってないわよ」
「分かっております」
セレーネが笑う。
「でも、もう少ししたら二人は抜けていいわ」
「よろしいのですか?」
「そのために調整したの」
セレーネは少し離れたところで国王と話しているライルを見る。
「結婚式は一日。でも、結婚はその後も続く」
以前と同じ言葉だった。
アマリリアは静かに頷く。
「はい」
「今日の最後まで人に囲まれている必要はないでしょう」
「ありがとうございます」
「第二小宮へ帰りなさい」
帰る。
その言葉が、今日は特別に響いた。
「……はい」
◇◇◇
日が傾き始めた頃。
アマリリアは控え室で婚礼用の重い装飾品をいくつか外してもらった。
衣装そのものはまだ婚礼のものだが、少し動きやすくなる。
そして。
「これを」
預けていた小箱を受け取る。
蓋を開ける。
木製の腕飾り。
アマリリアはそれを自分の腕へ着けた。
豪華な婚礼衣装には似合わないかもしれない。
けれど、鏡を見たアマリリアは満足した。
「これでよいです」
「とてもお似合いです」
侍女が微笑む。
「ありがとうございます」
控え室を出る。
廊下にはライルが待っていた。
こちらも一部の装飾を外し、少しだけ楽な姿になっている。
「あ」
また腕飾りに気づいた。
「着けた」
「はい」
「嬉しい」
「今日はもう式が終わりましたから」
「終わったから?」
「私の好きなものを着けます」
ライルが笑う。
「じゃあ帰ろう」
差し出された手。
アマリリアは迷わず取った。
「はい」
◇◇◇
第二小宮までの道は、既に何度も歩いている。
それでも今日は違って見えた。
警備の配置は正式に整えられ、使用人も必要な人数が入っている。
けれど、二人を過剰に出迎えることはしないよう頼んであった。
玄関へ着く。
あの日、ハロルドに見てこいと言われた玄関。
ライルが扉の前で立ち止まった。
「アマリリア」
「何でしょう」
「ここ」
「はい」
「俺たちの家だよ」
アマリリアは扉を見る。
もう候補ではない。
見学先でもない。
結婚した後に住むかもしれない場所でもない。
今日から。
ここへ帰る。
「そうですね」
「入ろう」
「はい」
扉が開く。
使用人たちが迎える。
「お帰りなさいませ」
その言葉に、アマリリアは一瞬立ち止まった。
帰ってきた。
本当に。
今日からここが帰る場所なのだ。
「ただいま」
ライルが先に答える。
アマリリアも続いた。
「ただいま戻りました」
玄関を抜ける。
居間の前を通る。
仕事机はない。
本当に置かなかった。
「仕事机ないね」
「当たり前です」
「今のところ」
「殿下」
「置かないよ!」
「本当でしょうね?」
「アマリリアこそ」
「私は置きません!」
「書類持ってこない?」
「……努力します」
「俺も努力する」
顔を見合わせて笑う。
そのまま食堂へ向かった。
扉を開ける。
六人掛けの食卓。
最初にこの家を見た時、二人が最も気にしたもの。
今日は食器が二人分だけ並んでいた。
豪華な祝宴を終えたばかりなので、用意されているのは軽い飲み物と少量の食事だけだ。
「座ろう」
「はい」
二人は向かい合って座った。
あの日と同じ食卓。
けれど今日は違う。
ここで食事をするために座っている。
この家の住人として。
「アマリリア」
「何でしょう」
「朝じゃないけど」
「はい」
「一緒に食べられるね」
「そうですね」
「明日の朝も?」
「予定がなければ」
「ある?」
「私はありません」
「俺もない」
「では、一緒に食べましょう」
「うん」
ライルが嬉しそうに頷く。
「毎日じゃなくても」
「はい」
「食べられる日は一緒に」
「以前決めた通りです」
「三日会えなかったら?」
「殿下」
「寂しい?」
アマリリアは少しだけ目を細めた。
「かなり、かもしれません」
ライルが笑った。
「俺も」
「ですが、三日後には帰ってくるのでしょう?」
「うん」
「でしたら、その日に一緒に食べればよいのです」
「そうだね」
食卓の上で、二人の手が重なる。
特別な言葉は必要なかった。
◇◇◇
食事の後。
二人は居間へ移った。
暖炉には小さな火が入っている。
窓の外は、もう暗くなり始めていた。
アマリリアは長椅子へ腰を下ろす。
ライルも隣に座った。
少しだけ間がある。
婚約者だった時には自然に座れた距離なのに、夫婦になった途端、妙に意識してしまう。
「……」
「……」
「殿下」
「何?」
「なぜ黙っておりますの?」
「アマリリアも」
「私は……」
何を話せばよいのだろう。
結婚式の感想?
明日の予定?
第二小宮の家具?
そんなことを考えていると、ライルが先に口を開いた。
「結婚したね」
「しましたね」
「本当に」
「本当にです」
「アマリリア」
「はい」
「俺、夫?」
「そうですね」
「アマリリア、妻?」
「……そうなりますね」
言葉にすると恥ずかしい。
アマリリアは視線を逸らした。
「何笑ってるの?」
「笑っておりません」
「笑ってるよ」
「殿下もでしょう!」
「だって嬉しいから」
ライルは隠そうともしない。
「アマリリアは?」
「……」
「嬉しい?」
「聞かなければ分かりません?」
「聞きたい」
アマリリアは息を吐いた。
こういうところは変わらない。
「嬉しいです」
「よかった」
「殿下」
「何?」
「私も聞いてよろしいです?」
「何でも」
「本当に、私でよかったのですか?」
ライルが目を瞬いた。
「今さら?」
「今さらです」
「アマリリア」
「はい」
「俺が何回言ったと思ってるの」
「数えておりません」
「俺も数えてないけど」
ライルが少し身体を寄せる。
「アマリリアがいい」
近い。
けれど逃げる理由はない。
「最初は脅されたけど」
「まだ言いますの!?」
「最後まで言う」
「最後とは何ですか!」
「これからも言うかも」
「でしたら最後ではないでしょう!」
ライルが笑う。
アマリリアも笑った。
笑いが落ち着いたところで、ライルが少し真面目な顔になる。
「でも、本当に」
「はい」
「最初がどうだったかより、今ここにいることの方が大事だと思ってる」
アマリリアは黙って聞いた。
「途中で嫌になったら、やめることもできた」
「そうですね」
「正式な婚約をしないこともできた」
「はい」
「結婚しないこともできた」
「……はい」
「でも、俺たちは全部、自分で選んだ」
アマリリアはライルの手へ視線を落とす。
自分の手を重ねる。
「そうですね」
押し付けられた婚約から逃げるために始まった。
けれど、途中からは違った。
信じることを選んだ。
隣にいることを選んだ。
正式に婚約することを選んだ。
街へ出かけることを選んだ。
何度でも出かけようと約束した。
結婚後の暮らしを話した。
三つの家を見た。
第二小宮を選んだ。
結婚式の日を選んだ。
そして今日。
互いを選んだ。
「殿下」
「うん」
「一つだけ訂正してよろしいです?」
「何?」
「もう殿下とお呼びするのも、少し変なのでしょうか」
ライルが固まった。
「……名前」
「はい?」
「呼んで」
「今?」
「うん」
「嫌です」
「なんで!?」
「急すぎます!」
「結婚したよ!」
「結婚したらすぐ呼べるものではありません!」
「前に呼んだことあるでしょう!」
「ありますけれど!」
「じゃあ」
「……」
アマリリアは黙った。
ライルが待っている。
逃げ道はなさそうだ。
「……ライル」
声が小さくなる。
けれど届いた。
ライルの顔が一気に緩む。
「もう一回」
「嫌です!」
「アマリリア」
「何です!」
「俺も呼ぶから」
「普段から呼んでいるでしょう!」
「じゃあ俺だけ得してない」
「知りません!」
「ライルって呼んで」
「しつこいです!」
「妻なのに」
「その言葉を使えば何でも通ると思わないでください!」
居間に笑い声が響いた。
仕事机のない居間。
二人が仕事を持ち込まないために選んだ場所。
その最初の夜にあるのは、書類でも会議でもなく、どうでもいい言い争いだった。
それが。
とても幸せだった。
◇◇◇
しばらくして、アマリリアは窓辺へ歩いた。
夜の王宮が見える。
ここから少し離れた場所には、自分たちの仕事場がある。
明日からも仕事は続く。
共同便について、今後また考えなければならないことが出るかもしれない。
新しい問題も起きるだろう。
知らないこともなくならない。
誰かの話を聞く必要がある日も来る。
判断を間違えることもあるかもしれない。
結婚したからといって、世界がすべて片づくわけではない。
むしろ、何も終わらない。
暮らしが続く。
「アマリリア」
後ろから呼ばれる。
振り返る。
「何でしょう」
「明日、何する?」
「朝食を一緒に食べます」
「その後」
「仕事でしょう」
「やっぱり」
「当たり前です」
「じゃあ、その次の休み」
「何です?」
「出かけない?」
アマリリアは目を瞬いた。
「結婚したばかりですよ」
「だから」
「どこへ?」
「まだ決めてない」
「目的も?」
「ない」
「またですか」
「駄目?」
アマリリアは窓辺から離れ、ライルの前へ戻った。
「甘いものは?」
「食べたい」
「いくつ?」
「三つ?」
「なぜ増やすのです!」
「結婚祝い」
「今日十分いただきました!」
「じゃあ二つ」
「その日に決めましょう」
「うん」
ライルが手を差し出す。
「何度でも?」
アマリリアはその手を見る。
街で初めてその約束をした時と同じ問い。
けれど今は。
婚約者同士ではない。
夫婦として。
アマリリアは手を取った。
「何度でも」
指を絡める。
ライルが笑う。
「じゃあ約束」
「はい」
外では夜風が木々を揺らしている。
第二小宮の中には、二人分の生活が始まったばかりだった。
まだ空いている棚がある。
本も全部は運んでいない。
どの食器を普段使いにするかも決めていない。
使用人の配置も、暮らしてみれば変えるところが出るだろう。
仕事を本当に居間へ持ち込まずにいられるかも怪しい。
朝食を毎日一緒に食べられるわけでもない。
公務で離れる日もある。
ベスター家へ帰る日もある。
喧嘩をする日も、意見が合わない日もきっと来る。
それでいい。
全部を先に決めておく必要はない。
分からないことがあれば、その時に考える。
違うと思えば話す。
困れば頼る。
嬉しいことがあれば伝える。
そして別々の場所へ出かけても。
また帰ってくればいい。
「ライル」
アマリリアが呼んだ。
今度は、さっきより自然に声が出た。
ライルが驚いた顔をする。
「何?」
「……呼んだだけです」
「もう一回」
「嫌です」
「アマリリア!」
「何度でもとは、名前を何度でも呼ぶという意味ではありません!」
「でも何度でも出かけるんでしょう?」
「それはそうです!」
「じゃあ名前も」
「関係ありません!」
また笑う。
アマリリアはその笑い声を聞きながら、ふと思った。
あの日。
押し付けられた婚約から逃げたくて、第一王子を脅した自分に、今の光景を見せたらどう思うだろう。
きっと信じない。
第一王子と本当に恋をして。
正式に婚約して。
自分から結婚してくださいと手紙を書いて。
結婚式で互いを選び。
同じ家へ帰って。
次の休日にどこへ行くかを話している。
あまりにも遠くまで来た。
けれど。
無理に運ばれてきたわけではない。
一つずつ。
二人で選んできた。
「アマリリア」
「はい」
「これからもよろしく」
アマリリアはライルを見る。
夫になった人。
最初は脅して婚約者になってもらった第一王子。
そして今は、自分が何度でも隣にいたいと思う人。
アマリリアは笑った。
「こちらこそ」
少しだけ手に力を込める。
「末永く、よろしくお願いいたします」
ライルも握り返した。
二人の暮らしは、まだ始まったばかりだ。
明日の朝になれば、同じ食卓で朝食を食べる。
その後は仕事へ行く。
いつかまた街へ出かける。
甘いものを二つ買う日もあれば、三つ買う日もあるかもしれない。
帰りが遅くなる日もある。
離れて過ごす日もある。
それでも最後には、同じ場所へ帰る。
そして扉を開ければ。
「ただいま」と言う人と。
「おかえり」と答える人がいる。
押し付けられた婚約から始まった物語は、ここで終わる。
けれど。
アマリリアとライルが自分たちで選んだ人生は、ここから始まるのだった。




